2014/04/29

高円寺の話

 日曜日、高円寺のびっくり大道芸。夕方、高円寺北公園でボードビリアンのBARONさんのステージを観る。
ワンパクな子どもをあしらいながら、歌やタップダンス、帽子芸などを披露し、湯たんぽを改造した自作楽器の演奏していた。

 途中、あちこちで知り合いに会う。

「これから飲みに行くの?」
「いや、日が沈むまでは飲まないよ」

 家に帰って、新聞と雑誌のスクラップ。二ヶ月分くらいたまっている。スクラップが仕事の役に立つことは年に一回あるかどうか。何度かやめようとおもったけど、なんとなく、やめずにきたことは続けたほうがいいのかなと。

『小説すばる』は四月号から、松村雄策の「ハウリングの音が聴こえる」が新連載。第一回は、ポール・マッカートニーの話だった。

《僕の人生の六分の五には、いつだってポールの音楽があったのだ》

 第二回では、いきなり「毎日新聞の荻原魚雷さんのコラムで……」という文章からはじまっている。
 すこし前、わたしは毎日新聞の日曜版にプロレスブームについてのコラムを書いたのだが、松村さんはそのことに触れている。

 話は変わるけど、先月三月三日、“人間風車”ビル・ロビンソンが亡くなった。
 引退後は「高円寺のレスリング・マスター」の異名もある伝説のレスラーだ。昔、高円寺には、「ごっち」(カール・ゴッチ公認)という居酒屋があった。この店には格闘技関係のライターをしている須山浩継さんに連れていってもらった。

 あまり知られていないけど、高円寺は「プロレスの町」でもあるんですね。

 昨日はペリカン時代が四周年。当然のように飲みに行く。
 そのペリカン時代と同じビルの一階に「STEAK HOUSE KYOYA」がオープンした。
 THE WILLARD、ラフィンノーズのドラマーだったKYOYAさんの店。

 ちなみに、わたしが上京後はじめて行ったライブがTHE WILLARDだった。関内のライブハウスだったかな。今おもいだしたのだが、KYOYAさんのファンの同郷(三重)のドラマーに連れていかれたのである。鋲のついた革ジャンを着たファンにもまれて、血だらけになった。二十五年前の話である。

 八〇年代後半から九〇年代はじめにかけてのバンドブームで、人生おかしくなった人はたくさんいる。でもおかしくならない人生が考えられないくらい音楽好きにとってはおもしろい時代だった。

 当時のライター仲間もバンドと掛け持ちしていた人もけっこういたし、今より音楽関係の仕事もあった(わたしがやっていたのは主に対談や座談会の構成やテープおこしだったけど)。

 この十年くらいで高円寺の貸しスタジオもずいぶん減った。
 深夜とか明け方とかに、コンビニにタバコを買いに行くと、スタジオ帰りの知り合いのバンドマンと出くわして、そのまま焼き肉を食いに行ったりした。

 一九八九年ごろの話だと、「ZZ TOP」という音楽ビデオを流す飲み屋にはライター仲間とよく行っていた。焼きうどんがうまかった。
 木造の風呂なしアパートに住んでいたから、夜中に友人が遊びにきて音楽を聴きながら騒いでいると、よく壁をドンドンされた。
 苦情がくると、南口の「ちびくろサンボ」という喫茶店に場所を移す。この店も今はない。サンボ丼という丼が好きだった。漫画もけっこうあった。
 漫画が置いてある高円寺の喫茶店だと「グッディグッディ」も懐かしい。あと庚申通りの「琥珀」もよく行った。二軒とも閉店した。

 昨年、中華料理屋の「大陸」もなくなった。この店も深夜すぎになるとバンドマンのたまり場だった。

 最近、若い人に昔の高円寺の話やバンドブームのころの話をすることが増えた。

 齢をとったなあとちょっとおもう。