2018/05/26

雑記

 渡辺京二著『原発とジャングル』(晶文社)を読みはじめる。「私は何になりたかったか」を読んで唸る。

《私はまず人間でありたかったので、編集者であれ教師であれ、そういう者として自分を専門化、職業人化する気は一切なかった。人間であるというのは、私の場合、一生本を読みものを書くということで、言うなれば書生で一貫したのが私の一生、お笑い草ながら女性に奉仕するという一事をつけ加えれば、それが私の一生のすべてだった》

 渡辺京二さんの本を読みはじめたのは、二〇一一年ごろで、今は高松にいる福田賢治さんと高円寺のコクテイルで飲んでいたとき、すすめてくれた。

 ここ数年、まとまった時間、読書をすることができなくなった。仕事の合間に読む。だから読むのは短いエッセイやコラム、短篇ばかり——それすら満足な量を読めていない。
 自分が必要とする本に出会うためには、読書の時間だけでなく、遊びの時間もいる。読みながら考え、考えながら生活し、生活しながら読む。そして書く。そうありたいとおもいつつ、その余裕がない。

 この本の中に「頼りになるのはただ習慣だ」という一文もあった。やはり、習慣を見直すしかないのか。

 今月末に上原隆著『君たちはどう生きるかの哲学』(幻冬舎新書)が刊行予定。この本も愉しみだ。すこし前に『「普通の人」の哲学 鶴見俊輔・態度の思想からの冒険』(毎日新聞社、一九九〇年)を読み返した。この本でも上原さんは『君たちはどう生きるか』について論じている。

2018/05/20

質と量

 質より量か、量より質か。ビジネス書を読んでいると、量をこなさないと質は高まらない——という意見をよく見かける。

 齢をとると量をこなすのがしんどくなる。諦めも早くなる。五年十年かけて、じっくり何かひとつのことに取り組むのはむずかしい。遅々として上達しないと、すぐ面倒くさくなる。

 面倒くさくならず、飽きずに続けられるものが、ほんとうに好きなものだろう。
 そういう意味では、わたしは料理が好きなのかもしれない。毎日、何かしら作っている。外食しても弁当買っても誰も文句はいわないがつい作ってしまう。

 ふとおもったは自分が料理をするのは冷蔵庫(冷凍庫)の中身を減らしたいからではないか。肉や野菜を買う。小分けにして冷凍する。冷凍庫がぎゅうぎゅう詰めになる。食材を消費するために料理する。とくにストックがあるのにダブって野菜を買ってしまったとき、もっとも料理熱が高まる。

 量に動かされている。カボチャが減らない。

2018/05/19

あかちょうちん

 五月十五日、高円寺駅北口に日高屋がオープンした。以前の店舗はミスタードーナツだった(二月に閉店)。わたしが高円寺に引っ越してきた一九八九年にミスタードーナツはすでにあった。
 部屋にエアコンがなかったころは夏の夕方、よくミスドで原稿を書いていたが、ここ数年は行ってなかった。店内がにぎやかすぎる、というか、若者が多すぎて……。
 北口のドトールもいつの間にかなくなった。西部古書会館で古本を買ったあと、ちょくちょく行っていた。

 高円寺在住の人以外にはどうでもいい話かもしれないが、どんな店がいつまであったか、けっこう忘れてしまうんですね。
 喫茶店でいうと、ちびくろサンボとか琥珀とか、あった場所は覚えているのが、いつ閉店したのか記憶が曖昧になっている。

 新刊のパリッコ著『酒場っ子』(スタンド・ブックス)を読んでいたら、いきなり高円寺の「大将」や「あかちょうちん」の話が出てきて、つい読みふけってしまった。
 大将は高円寺の焼鳥屋で三店舗あるのだが、著者は北口の「3号店」のひいきのようだ(わたしもです)。
 北口の「あかちょうちん」の記述もすごく細かい。バンドマンのたまり場の店で「僕の中の『中央線文化』の象徴のような存在でした」と記している。

《ここのボトルは一升瓶。「いいちこ」「二階堂」「ちょっぺん」「(黒)桜島」「白波」「黒霧島」の6種類で、各2900円。じゅうぶんお手頃ですよね? (中略)ただし、これで驚いていられないのがあかちょうちんの恐るべきところ。なんと毎週、日、月、金曜日、これらの焼酎ボトルが、すべて半額! つまり、1450円。あきらかに原価割れてるでしょ……》

 さらに「ボトル会員」になると「3本目と5本目は半額、6本目は焼酎のみ無料です」。友人と飲みに行くと、誰かしらの半額か無料のボトルがあって激安で飲めた。
 知り合いのミュージシャンが結婚パーティーの二次会を「あかちょうちん」でやったこともあった。後にも先にもあんなに寛ぐことができた結婚式の二次会はない(当然、普段着)。
「あかちょうちん」の閉店は二〇一〇年九月——。その前年の南口の「石狩亭」の名前も『酒場っ子』を読んで思い出した。明け方、何度か飲みに行った。

2018/05/15

甲府

 日曜日、昼、三鷹から特急かいじで甲府へ。かいじ、はじめて乗ったかも。

 天気は雨。残念。今回の甲府行きは『フライの雑誌』の取材もかねている。取材といっても、ただ散歩するだけなのだが。
 甲府駅からすこし歩いたところにあるビジネスホテル(格安)に荷物を置き、バスで甲斐善光寺へ。帰りはJR身延線の善光寺駅から甲府駅。身延線(富士~甲府)は一九二八年に全線開通し、今年九〇周年ということを知る。
 JR中央線(中央本線)から甲府経由で東海道線の富士駅に出ることができる(青春18きっぷで一度、高円寺→甲府→富士→東京とまわる旅をしてみたい)。
 雨の中、駅前の甲府城(舞鶴城)を散策する(ほんとうに近い)。

 甲府は町の中に歴史が根づいていて、山があって緑が多くて温泉もたくさんある。好きな町のひとつだ。特急をつかえば、高円寺から一時間半。また行きたい。

 夕飯は駅ビルで吉田うどん。コンビニで酒とつまみ(焼き鳥)を買い、ホテルで「ザ!鉄腕!DASH!!」を観ながら原稿を書く。

 翌日は石和温泉駅界隈を散策した(『フライの雑誌』の次号に発表)。駅前にイオンができてた。帰ってきてから調べたら、ニチイ→サティ→イオンと変遷しているようだ。
 帰り、高尾駅で途中下車。ドトールで休憩して高円寺へ。

 今月から共同通信社のエッセイ「『ほどよさ』の研究」(全十回の予定)の配信がはじまりました。題字と挿絵は山川直人さんです。いつどの新聞に掲載されるのかはわかりません。

2018/05/11

時間の問題

『閑な読書人』(晶文社)の中で、J=L・セルヴァン=シュレベール著『時間術』(榊原晃三訳、新潮社、一九八五年)という本を紹介した。

 この本は鮎川信夫著『最後のコラム』(文藝春秋、一九八七年)で知った。当時、インターネットの古本屋もなく、海外の実用書を探すのはものすごく時間がかかった。本を探す時間も含めて読書の醍醐味だとおもっている。

『時間術』の要点は自分の時間をコントロールすることに尽きる。

《時をコントロールするとは、徹頭徹尾、自分自身をコントロールすることである》

 鮎川信夫は時をコントロールするためには「まず、時間泥棒にノーというべきである。イエスと言って、好ましくない約束や義務を引き受けてはならない。イエスと言うよりノーと言う方がずっと容易だ。(中略)時間配分の優先権を、他人に与えてはならない」という。
 二十代のわたしはこの考えに感銘を受け、実践した。そして仕事を干された。おかげで、時間について考える時間をたっぷり得ることができた。

 十代のころはたいてい学校に通い、同じような時間をすごす。それでも時間のつかい方の差はつくが、その差は年々広がっていく。
 二十代、三十代にどういう時間をすごしたかで、その人のあり方はほぼ決まってしまうといってもよい。

 さらに四十代以降は時間のつかい方にくわえてお金のつかい方も重要になってくる。

 時間とお金をおもしろくつかえる人になりたいものだ。

2018/05/08

金銭感覚

 昔、よくわかっていなかったことに、生活レベルの差がある。
 右も左もわからないという言葉があるが、上も下もわからない。

 風呂なしアパートに住んでいた二十代のころ、年上の編集者数人と酒を飲んでいると、ずっとマンションを買う話が続いてまったく会話に入れないことがあった。同じ趣味の古本の話でも、ジャンルのちがい以上に、生活レベルのちがいに戸惑うこともある。
 ふだん五百円以下の本ばかり買っていると、数万、数十万円の本の話についていけない。

 逆にものすごい貧乏もわからない。読書はお金かからないが、時間はかかる。趣味に没頭できる時間があるということはそれなりに恵まれた境遇ともいえる。

 今のわたしは新幹線を利用するが、三十歳までは交通費に金をかけるのは無駄だとおもっていた(その分、古本が買いたかった)。わからないという感覚を自覚することはむずかしい。

2018/05/04

休日

 怠け者の節句働きという言葉があるが、毎年五月の連休は仕事をしていることが多い気がする。終わりが見えない。スワローズの連敗はようやく止まった。

 京都在住の作家兼ミュージシャンでほとんど隠居といってもいいような暮らしをしている東賢次郎さんから『亀と蛇と虹の寓話』(柏艪社)が届く。『レフトオーバー・スクラップ』(冬花社、二〇〇九年)以来、八年ぶりの新刊。今回は長篇。東さんの小説は緻密なのだが、読み手の理解からはみだしていく部分を残そうという強い意志を感じる。寓話、あるいは神話風の小説で、その外側には現代がちゃんとある。密度が濃くて読み終えるまでに二日かかった。まだ頭がふらふらしている。

 コタツ布団、洗濯して押入にしまう。