2020/12/28

都丸書店のこと

 土曜日、改装したばかりのコクテイル書房へ。カウンターがすこし移動し、奥のほうが秘密基地(缶詰工場の予定?)みたいになっていた。日曜日、西部古書会館。一九九六年五月〜九七年三・四月の『旅行人』バックナンバー——宮田珠己さんの連載「社員の星(シャイン・オブ・スター★)」の掲載号を買う(『わたしの旅に何をする。』幻冬舎文庫にも収録) 

 数日前、高円寺の都丸書店閉店の件を知った。
 平日の夕方、店の前を通っても閉まっていることが多い。都丸書店の本店は中通り側、ガード下側と入口がふたつある。わたしは薄暗いガード側のほうから入ることが多かった。

 一九八九年秋に高円寺に引っ越した。下見をかねて町を散策したとき、都丸書店で古本を買った。ガード下の中古レコード屋のRARE(レア)にも寄った。RARE高円寺店は昨年四月末に閉店した。そのあと中通りの二階の喫茶ルバイヤートに入り、買ったばかりの本を読んでいたら、会計のさい、マスターに「古本好きなの?」と話しかけられ、古書即売展一覧のチラシをもらい、西部古書会館通いがはじまった。

 はじめて本の買取をしてもらったのも都丸書店だ。査定中、緊張したが、予想よりもいい値段で買い取ってもらい、本を買ったり売ったりする面白さを知った。

 都丸書店に関しては、社会科学系の本店ではなく、人文系の分店に通っていた。ガード下の分店は、大きな壁をぐるっと均一本が囲み、歩いているだけで大量の背表紙が目に入ってくる。かならずほしい本がある。知らない作家、知らない出版社の本が目に入る。それがどれほど恵まれた環境だったか。
 だから今回の本店より支店(その後、藍書店)がなくなったときのほうが喪失感は大きい。

 上京したころの高円寺のガード下には小雅房、それから球陽書房の分店もあり、散歩の巡回ルートだった。昼すぎに球陽書房の分店に行くと、店の人が焼酎を飲んでいたり、出前のラーメンを食べていたりしていた。そのゆるいかんじも好きだった。

 厳しい時期だからこそ、古本に救われる人はいる。自分もそのひとりだ。

2020/12/22

街道と路

 先週の火曜日から貼るカイロ生活がはじまった。防寒と腰痛予防である。今年の春先に買ったカイロがまだ残っている。
 一年経つのが早い。しかし昨年の十二月はけっこう昔のことにおもえる。今年は時間の流れ方が変だった。

 火曜日、座・高円寺「本の楽市」(十二月十九日~二十五日)に行く。
 植田正治=写真、石塚尊俊=文『出雲路旅情』(朝日新聞社、一九七一年)などを買う。朝日新聞社のカラーシリーズは『飛騨路の四季』や『花の大和路』といった街道本もある。

 街道の本を探すさい、信濃路や木曽路の「路」の字は重要なキーワードだ。どれだけあるのかわからない。さらに宿場町の本も膨大にある。知れば知るほど、未知の本が増えてゆく。

 出雲は一度だけ行ったことがある。青春18きっぷで東京から博多まで行って、帰りも18きっぷで日本海側の町をあちこち途中下車しながら新潟へ——四泊五日の旅だった。たしか福岡ドームがオープンした年だから一九九三年だ。球場でホークスの試合を観たが、記憶がない。

 そのころ二十五歳までに四十七都道府県を踏破するという目標を立てていた。予備校のPR誌の仕事でいろいろな講演会やシンポジウムを原稿にまとめる仕事をしていて、北海道から九州まであちこち出かけた。ついでに古本屋と中古レコード屋をまわった。もっと早く街道に興味を持っていれば——とおもうが、悔やんでも仕方がない。古本やレコードを背負って街道歩くのはきつかったにちがいない。

2020/12/13

行ける時に

『フライの雑誌』の最新号「特集 北海道」。もちろん釣りの特集なのだが、北海道の魚の生態、釣り場の特徴など、その道のプロというか筋金入りの趣味人(遊び人)のおもいのこもった文章がつまっていて、いつも以上に情報が濃い。
 わたしはこの号では根津甚八の話を書いた。一九九〇年代半ばごろ、根津甚八はフライフィッシングのエッセイを週刊誌に連載していた。編集後記にもすごく楽しみな一行があった。

 すこし前の『フライの雑誌』のブログ「あさ川日記」に「行ける時に釣りに行っておくんだ。なにかの理由で行けなくなっちゃうかもしれないでしょ。」という言葉があった。

 わたしは古本屋がそうだなと……。金曜日、荻窪の古書ワルツに行く。八〇年代と九〇年代に出たフライ・フィッシングの本を二冊。古書ワルツ、釣りの本がけっこうあった。『信濃路とわたし』(社団法人、信濃路、一九七〇年)は、はじめて見た。タウンセブンの地下でぶりの寿司を買う。

 古書ワルツで買った大岡昇平著『戦争』(岩波現代文庫、二〇〇七年)を読む。単行本は一九七〇年刊。

《その頃は古谷綱武なんていう仲間としょっちゅう学校をさぼって、丸善の二階へいったり、神田の古本屋をウロウロしたりというようなことをやってたんですけどね。ある時古本屋のまん中でフッとこう考えたんだよね。ここには、人間の文化が始まって以来何千年に書かれた日本と外国の本がある。これを一生かかっても読んでこなすってことは、これはとてもできねえと思ったんだよね。そんなことより、まず自分がなにをするかをきめなきゃだめだ、その上で、自分に気に入ったものだけ選るんじゃないと間に合わない。自分で書けるように持っていかなきゃ意味ねえな、てなことを考えた覚えがあります》

「その頃」は一九二七年——大岡昇平十八歳である。

 上京後、十九、二十歳のころのわたしも似たようなことを考えた。本を読んでいるだけで一生終わるともおもった(それはそれで幸せかもしれないが)。
「自分がなにをするか」を決める。決めても変わるし、変わってもいい。まさか四十代後半から街道本を蒐集する人間になるとはおもわなかったですよ。

 二十代から三十代にかけて、わたしは小林秀雄と中村光夫を愛読していたのだが(今も読む)、ふたりと仲がよかった大岡昇平は敬遠していた。「ケンカ大岡」の印象が強くて、とっつきにくかったのだ。

 吉行淳之介著『懐かしい人たち』(ちくま文庫)の「三島事件当日の午後」という大岡昇平を回想したエッセイがある。

《大岡さんは東京育ちで、私もそうだからある程度分るのだが、こまかく気を使うタチで、それが相手に通じなかったり誤解されたりすると苛立ってくる。私の場合は我慢してしまうが、大岡さんはそのとき怒るのだろう。(中略)そのほかにも、筋の通らないことにたいしては、猛然と怒る、という話も聞いた。しかし、筋の立て方が、大岡さんと私と違う形になることも有り得るわけで、なにかスイッチの在り場所の分らない危険な爆発物を見るような気がして、あまり近づきたくない》

 いつキレるかわからない大御所を「危険な爆発物」と『大岡昇平全集』(中央公論社、一九七五年)の月報で評してしまう吉行淳之介もなかなか……。

2020/12/10

津田左右吉のこと

 休み休み仕事——いろいろなことが頭におもい浮ぶのだが、まとまらない。
 気分転換に『津田左右吉全集』(岩波書店)の二十七巻をパラパラ読む。大正十四年四月から昭和二年十二月までの鈴木拾五郎夫妻宛てに送った「日信」の巻。鈴木夫妻は若い研究者である。編集後記には「鈴木家では、これをほゞ四ヶ月分づつの和装本に綴ぢ」保存していたとある。わたしはこの全集の「日記」と「日信」の巻しか読んでいない。

 鮎川信夫の『一人のオフィス 単独者の思想』(思潮社)を読み、わたしは二十代のころ『津田左右吉全集』を買った。もちろん積ん読だ。否、積ん読どころか、ずっと押入にしまいっぱなしで背表紙すら見てなかった。

 津田左右吉は一八七三年岐阜生まれ。「日信」は五十一歳のときに書きはじめている。今のわたしと同年齢である。時は来れり。

《苦しい夢からやつと覚めたと思つたら、夜がもう明けてゐた。ぐつたりして、起きる気になれない。さうしてまだねむい。ねてゐるでもなし、覚めているでもなし、むら雲のさわぐやうに、連絡もなく理路も無いさまざまの考が乱調子に頭の中に起きては消える》(大正十五年五月二十七日)

《朝からねむくてたまらぬ。本を読んでゐると眼が痛い》(同年五月二十八日)

《ゆうべはあまりねむかつたので、八時にねてしまつた。十分熟睡はしなかつたが、それでも時間が多かつただけ、けさは昨日ほど頭がぼんやりしてゐない》(同年五月三十日)

 津田左右吉は「日信」の書き出しで眠れないとか原稿が捗らないとか、そういう愚痴をよく書いている。ほかにも季節のこと、庭の草花などの身辺の話、新聞やラジオの雑感、知り合いとの対話などを綴っている。

 たとえば、ラジオで聴いた市会議員選挙の結果の感想ではこんなことを書いている。

《あまりに理智の勝つた、打算的な、冷静な人は、さきが見えすぎて勇気が挫折する》(大正十五年六月四日)

 仕事や人間関係(恋愛も含む)にもそのことがいえるのではないか。文章を書いていても、冷静になりすぎると「こんなもの書いても無駄だ」みたいな気分になることが多い。

 津田左右吉の「日信」では次の言葉も好きだ。

《人間味といふものの出るのは、一つは自分が弱いものであるといふことを知るところにあるのではなかろうか》(大正十五年六月十九日)

 ほかにもある人がアメリカはわがままで変な国だといっていたことにたいし、津田左右吉は「どこの国も大抵似よりのものであらう」と答える。

《個人を見てもさうで、大ていの人間にはどこかに可愛らしいところもあるが、かはゆくないところもあり、欲ばり根性、我がまゝ根性、いばり根性、なまけ根性、なども少しづつはだれでも持つてゐるが、それと同時に其の反対のよいところも幾らかづつは有る。さうしてそれがどれもこれもちよいちよい頭を出す。他人から見ると、だれでも多頭性の怪物である。みんな鵺(ぬえ)みたやうなものである。たゞ環境により、修養により、其の他いろいろの事情によつて、其のうちの何れかが優勢になつて他を抑へつけてゆくので、そこからよい人間や悪い人間や面白い人間やつまらない人間ができてゆく。国とても同じことだらう》(大正十五年八月十日) 

 鮎川信夫は津田左右吉の「日信」を「すきなことをすきに書いて、そこにてらいもなければ無理もなく、余裕しゃくしゃくとしているのである」と評していた。

 まだまだ紹介したい言葉があるのだが、今日はこのへんで。

2020/12/05

冬の断想

 十二月四日午後、高円寺南口の業務スーパーのち北口の西部古書会館。はじめて見る街道の図録、宿場町の図録が大量に並んでいた。『木下街道展』(市立市川歴史博物館)、『北区の古い道とみちしるべ』(北区教育委員会)、『島田宿と大井川』(島田市教育委員会)など。展覧会の半券を同じ位置にセロテープで貼られている。

 例年通り、十二月から三月中旬までは冬眠モードで過ごそうとおもっている。貼るカイロは三箱買った。葛根湯のストックも増やした。
 先月二十八日から東京二十三区と多摩地域の各市町村は、新型コロナの拡大防止のための営業時間短縮要請(十二月十七日まで)。
 多摩地域は二十三区と島嶼部(伊豆諸島、小笠原諸島)を除いた二十六市・三町・一村。今回の東京の夜間自粛は島以外と考えればいいのか。
 冬のあいだも街道はちょこちょこ歩く予定だが、遠出はしないつもりである。都内近郊にも歩きたい場所は無数にある。
 地理や風土を意識しながら、日本の文学を読み直したい。

 新型コロナのことを考えていると、九年前の東京電力の原発事故のときのことをおもいだす。
 ウイルスや放射能にたいする不安や危機感には個人差があること。情報量に比例して、その受け取り方の差が広がっていくこと。安全と経済の議論になり、意見が分離すること。
 何が正しくて何がまちがっているのか、その判断は個人の気質に左右されがちだ。
 自分や家族の心配をしている人と医療崩壊を危惧している人とでは(たぶん)不安の種類がちがう。医療崩壊にしても外部の人と現場の人の意見ではかなりズレがあるようにおもう。

 新型コロナは怖いが、生活苦がどれだけ心身によくない影響を与えるか——今のわたしはその心配のほうが大きい。充分な栄養と休息をとり、部屋を換気しつつ、適度な室温と湿度を保つことは、新型コロナだけでなく、風邪対策にも有効だとおもうが、そういう生活を送るにはそれなりに金がかかる。貧乏はからだにわるい。

 仮にまったく同じデータを共有していても、人の思考や行動はズレる。今の時代は、個々人の情報源がバラついている。従来の個人の感覚のズレと情報源のバラつきがかけ合わさることで、無数の思考、行動が生まれる。自分がおかしいのか、まわりがおかしいのか。しょっちゅうわからなくなる。

 以上、古本読んで寝てばかりいる人間の妄言でした。

2020/11/29

大岡昇平の世界展

 気温が下がり、空気が乾燥し、風が強い。新型コロナにたいし、自分の思考と感情が定まらない。家でひとりで考えていると「たいしたことない」という気分になってしまう。先日、自営業の友人と話をして、「密」と無縁な生活をしている自分は楽観に傾きすぎていたと気づかされる。

 二十四日、荏原中延、なかのぶスキップロードの隣町珈琲で岡崎武志さんと古本談義をする。隣町珈琲は、前の場所のとき、平川克美さんと木下弦二さんのイベントを何度か見に行ったことがある。

 対談後、カフェ昔日の客の関口直人さんも加わり、岡崎さん、関口さん、わたしの三人、餃子の王将で軽く打ち上げ。
 この日、関口さんは夏葉社の島田潤一郎さん、平川克美さんと鼎談していたそうだ。すこし前に関口さんと平川さんが高校の先輩後輩の関係と知って世間は狭いなと……。

 二十八日、神奈川近代文学館の大岡昇平の世界展(二十九日まで)。大岡展は三月二十日開催の予定だったが、新型コロナの影響で延期になっていた。春開催と秋開催の招待券が一枚ずつあったので、妻といっしょに横浜へ。神奈川近代文学館はけっこう人がいた。
 少年時代、大岡昇平は渋谷で暮らしているのだが、頻繁に引っ越し。当時の渋谷の写真が今とまったくちがう。
 原稿用紙を見ると、ものすごく推敲が多い。半分ちかく書き直している原稿もある。「俘虜記」関連の展示の前、人が動かずなかなか見ることができない。
 碁敵の尾崎一雄宛ての手紙をじっくり読む。武田泰淳、百合子夫妻の山荘前でいっしょに撮った写真もあった。今回、いい写真が多かった。写真の埴谷雄高はいつも面白い顔をしている。
 一時間半くらい堪能したか。『大岡昇平の世界展』のパンフレットを購入。会場を出ると関口直人さん夫妻、関口さんの母と会い、挨拶する。会場にいた時間がほんのすこしでもズレていたら、すれちがっていた。こういう偶然は嬉しい。

 家に帰って、大岡昇平著『昭和末』(岩波書店、一九八九年)を再読する。「狡猾になろう」というエッセイには「人がそのおかれている社会的条件を知ろうとする意志を失う時は、最も煽動に乗り易い時である」という言葉があった。

2020/11/24

忍耐

『有馬賴義と丹羽文雄の周辺』(武蔵野書房)所収の「丹羽文雄と『文学者』の人びと」(談・中村八朗)を読んだ。中村八朗は『十五日会と「文学者」』(講談社、一九八一年)の著者でもある。

 中村八朗は一九一四年長野生まれ。早稲田大学の仏文時代、吉江喬松に文学を学んだ(吉江は井伏鱒二の先生でもあった)。
 吉江喬松は長野県の塩尻出身で代々庄屋の家に育った。わたしは三重からJR中央本線で東京に帰るときはいつも塩尻に宿泊している。
 塩尻からの五千石街道には吉江喬松の生家がいまも残っている。それで気になっていた。

「丹羽文雄と『文学者』の人びと」の話に戻る。

《中村 吉江先生は、手をあげた者に対して、作家となるには、どういう素質が大切だと思うか、ひとりひとり聞きはじめるんだ。ぼくは何て答えたか忘れたけどね、みんな、ろくな答はでなかったね。そうしたら先生は、いきなり黒板に、フランス語で、パシャンス、と書くんだよ。もうスペルは忘れちゃったけどね。これ知っている者、と先生がいったら、八木だったか誰だったか、たぶん八木だね、八木はフランス語がよくできたからね、忍耐、ではないですか、といったんだ。すると先生は力をこめて、そのとおり、作家の大切な資質は忍耐である、といったね》

 八木は八木義徳。中村八朗と八木義徳は第二早稲田高等学院のころ、いっしょに同人雑誌を作っていた。

 話はあちこち飛んで恐縮だが、以前、古本屋で坪内祐三さんのサイン本を見かけ(買わなかった)、その署名の横に「忍耐」と書いてあった——というエッセイを『本の雑誌』に書いたことがある。吉江喬松の「忍耐」の話と関係あるのかどうか。

 中村八郎は吉江先生の教えを「じつにいい教訓だったね」と回想している。吉江喬松は作家を育てたいというおもいが強かった。当時、学生にたいし「作家になれ」とけしかける先生は珍しかった。

《中村 作家の素質について、あれやこれや言ってみても、勉強したり、調べものをしたりすれば、いろいろとついてくるもので、そんなものは素質といえないね。吉江先生のいう忍耐力がないから、消えていっちゃうんだね。書かないし、注文がないと書けないなんていっていては、だめなんだよね》

 中村八朗は、吉江喬松のほか浅見淵にもよくしてもらった。浅見は「後輩のために、損得ぬきで面倒をみる」人だった。浅見は新人をとにかくほめた。

《中村 そこでね、つくづく思うのは、作家の才能の中にはさ、普通でないものがある、ということだね。人間的には何か、こう少し、はずれたり、ゆがんだりしたもの、それを持っていた方がいいね。そう思うよ》 

 何か「おかしいところ」がないと文学にならない。面白い教えだ。そのとおりだとおもう。

2020/11/14

備忘録

 金曜日午後、西部古書会館。上坂高生著『有馬賴義と丹羽文雄の周辺 「石の会」と「文学者」』(武蔵野書房、一九九五年)、中川竫梵著『増補 伊勢の文学と歴史の散歩』(古川書店、一九八三年)など。

『有馬賴義と丹羽文雄の周辺 「石の会」と文学者』を読んでいたら、「石の会会報」四号の色川武大「石の会阿呆列車」、十三号の後藤明生の「十一月例会記」などが、(おそらく)全文掲載されている。色川武大の「石の会阿呆列車」は石の会の金沢旅行の報告である。単行本で約二頁分くらい。

《二月八日午後一時半、かかることには神経質な小生はじめ、福井・佃・山田・桂・高井・黒須・高橋・早乙女氏等参加者一同、東京駅頭に粛然と揃いしが、肝心の有馬氏の姿が見えぬ》

 さらに色川武大は「街中で眠り、酒食に向かいて眼が開くことあらば金沢に失礼と案ぜしも、よいあんばいに眠りさめやらず。何がどうしたか我関せずなり。帰途道端の松の木に衝突してようやく目覚むるも、この時おそく一行は駅前解散にて、永平寺、能登、東京直行と三方に散り行き、“松風ばかり残るらん——”という次第」と書いている。著者の上坂さんは「色川さんは、市中見物で睡魔至ると書いているが、じつはこれは色川さんの持病のようなもので、のちのちそれに苦しめられていた」と補足する。会報は一九六九年二月二十八日付。

 年譜を見ると、前の年の一九六八年くらいから幻視幻覚に悩まされていたようだ。

 先日、河田拓也さんから色川武大の単行本未収録とおもわれる随筆のコピーをもらった。「石の会阿呆列車」の件はご存知だろうか。

 後藤明生の「十一月例会記」には「金沢ゆきの報告は確かマージャン名人の朝田(?)哲也氏こと色川武大氏だったと思うが、その中でわたしが、ゆきもしないのに、なんだったら報告だけ書いてもよいですよ、といったというデマを書かれたのをおぼえている」といった一文も。後藤明生、途中で阿佐田と朝田の誤記に気づくのだが、直さない。「色川武大=阿佐田哲也」を明かしている初期の文章かもしれない。

 同号で後藤明生は「課題随筆『わたしの癖』を書いている」。 

《「癖は運命のようなものだ」と題して、酒を飲むことに触れ、「そのことによって破滅もできるし、またそれを利用することもできる」と葉書ていどの文をしめくくっている。これは後藤文学を明かす一つの鍵になりそうだ、といえば、当たっているか、違っているか》

 上坂高生は「石の会」と「文学者」の両方に参加していた。「石の会」に誘われたときは横浜市立帷子小学校につとめていた。

『増補 伊勢の文学と歴史の散歩』を読んでいたら、尾崎一雄の「父祖の地」にもふれていた。霊祭講社(伊勢市岡本)の隣に参宮館という旅館があり、その離れに尾崎一雄は住んでいたことがあり、その旅館は「今、某代議士の邸になっている」。

 某代議士は一九三七年に「腹切問答」で軍部の政治干渉を批判した浜田国松だった。
 軍が政治に関わるのは危険だ——という浜田の発言に寺内寿一陸軍大臣は軍を侮辱したと憤る。それにたいし、浜田は「速記録に自分が軍を侮辱した言葉があれば割腹して謝する。なければ、君が割腹せよ」と反論した。
 尾崎一雄の「父祖の地」は一九三五年の作。「腹切問答」の二年前だ。
『暢気眼鏡』(新潮文庫)所収の「父祖の地」を読んでいたら、七十八歳で亡くなった祖母の死について、次のように綴っている。

《病みついて暫くすると「これは治らぬ病気だ、放っておけ」そう自分から云った。初めは冗談にして笑っていた家の者も、やがて慌て出した。医者を断われ、薬は要らぬ、そう云う祖母に、母がすがりついて泣いたことを覚えている。
「死ぬときは死ぬ」と、祖母は笑っているのだ。一と月程して死んだ。非常におだやかな死にぎわだった》

『増補 伊勢の文学と歴史の散歩』の中川竫梵は、県立伊勢高校の先生である。同書の写真とイラストは高校時代の同級生が担当している。この本、前の持ち主の付箋がびっしり貼ってあった。

 時間をかけ、歩いて調べた郷土文学の本は勉強になる。

2020/11/11

井伏鱒二展

 毎日睡眠時間がズレる。いつになったら生活のリズムが戻るのか。ライターの仕事の場合、絶不調でさえなければ、どうにかなることも多い(小さなミスは増える)。
 土曜日、夕方四時すぎ、西部古書会館。未見の街道資料を何冊か。適当に手にとった随筆もパラパラ見ていたら街道の話が出てくる。
 日本の地理も歴史も知らないことばかり——勉強時間が足りない。

 日曜日、高円寺から歩いて杉並文学館へ。準常設展で「井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士 風流三昧」が開催中(十二月六日まで)。大宮八幡宮、和田堀公園を通って阿佐ヶ谷へ。十四、五キロ歩いたか。 阿佐ヶ谷文士の文学は近所の散歩がそのまま作品の世界につながっている。 

 家に帰って杉並区郷土博物館発行の『生誕百年記念特別展 井伏鱒二と『荻窪風土記』の世界』(一九九八年)をパラパラ読む。そのあと『荻窪風土記』(新潮文庫)を再読する。

 一九五八年一月、井伏鱒二は腹膜炎で二十日あまり入院する。退院後、井伏鱒二はこんなことを考える。

《自分は以前のまま、身すぎ世すぎのこういった稼業をしている存在である。作品というものは、偶然どんなに巡り合わせがよくて、あるいは出来栄えのいいものが書けたにしても、満点の作品ということはあり得ない。まして巡りあわせのいい偶然など一度もなく、今後ともその機会の来る見込みはないと仮定する。
「そうだ、絵を描くことにする。自分の一番やりたいことは、絵を描くことだった」》

 還暦ひと月前に井伏鱒二は天沼八幡通りの新本画塾に通いはじめる。画塾には六年通った。しかし描けば描くほど自分の絵が拙くなる。それで絵を諦める。さらに釣りもうまくならないとぼやく。

《自分にとって大事なことは、人に迷惑のかからないようにしながら、楽な気持で年をとって行くことである》

 将棋と釣り、絵や骨董などを愛しながら井伏鱒二は九十五歳まで生きた。日本の作家の中でもかなり恵まれた人生を送った人物かもしれない。

2020/11/05

掃除の途中

 気がつけば十一月。部屋を掃除し、コタツ布団を出す。押入からコタツ布団を出すと扇風機をしまう。
 コタツ布団期が十一月から四月末、扇風機期が五月から十月末――どちらも半年くらいなのだが、扇風機の時期のほうが調子がいい。

 朝九時くらいに寝て、昼すぎ起き、二時間くらい仕事して、それからまた寝て起きたら夜八時とか九時とかになっていて、それから朝まで起きている。体内時計が二十四時間周期と合わない。そういうときは神経を休めることに専念する。古本を読むか、レコードを聴くか。あと散歩か。それでよしとする。

 古山高麗雄著『一つ釜の飯』(小沢書店、一九八四年)に「死んでもラッパを」というエッセイがある。
 昔、修身か何かの教科書に弾丸が当たってもラッパを手放さない兵隊の話があった。作家も死ぬまでペンを持ち続けるべきか。古山さんはそういう考え方を「億劫」におもう。

《毎日を大切にして生きいそぐのもよい、死ぬまで励むのもよい、が、私は、自分がそうだからか、日本人はもっと、互いに、だらしなさやいい加減さをゆるす気持をもってもいいのではないか、と思っている。(中略)無論、本人が励むのはいい。しかし、他人にもそれを求め過ぎてはいないだろうか》

 そのときどきの体調と相談しながら、必要最低限の仕事(家事)をして、あとはのんびりすごしたい。

 というわけで、これから掃除の続きをする。

2020/10/31

戸石泰一

『フライの雑誌』次号のエッセイの校正――「ペッテリーさん」という人名を「ベッテリーさん」と書いている。半濁点と濁点が見分けられないこと多し。老眼か。
 読むのもそうだが、眼鏡をしているとペンで字を書くとき、よく見えない。かれこれ二年くらい遠近両用眼鏡を買うかどうか迷っている。

 金曜日の昼、荻窪、古書ワルツ。はなや(中華)でラーメンと半チャーハンのセット。涼しい。夜、コクテイル。戸石泰一著『五日市街道』(新日本出版社、一九八〇年)を買う。
 古山高麗雄著『袖すりあうも』(小沢書店、一九九三年)の「逝きし人・触れし人」の一番最初に名前があがっているのが戸石泰一である。

《戸石泰一君とは、昭和十七年の十月に、仙台の歩兵第四連隊の同じ中隊に召集されて、知り合った》

 古山さんは軍隊にいたころ「孤独に閉じこもっていた」が「戸石泰一君だけは、本音の話ができると感じた」と回想している。
 古山さんは外出日になると、戸石家に行き、彼の妻に文学書の購入を頼んだ。当時、陸軍の一等兵が兵舎に文学書を持ち込むのは禁止されていた。発覚すれば、処罰される。その違反の協力を新婚時代の戸石夫妻に頼んでいた。
 戸石泰一著『消燈ラッパと兵隊』(KKベストセラーズ、一九七六年)に古山さんの話が出てくる。

 戸石泰一は一九一九年仙台生まれ。『五日市街道』所収の短篇の何作かは古山さんが編集者をしていた『季刊芸術』が初出。同書は没後刊行された短編集で「五日市街道」「三鷹下連雀」は三鷹を舞台にした作品だった。

 戸石は高校の講師をしながら小説を書いていた。

 一九七八年十月三十一日、急性心不全で亡くなった。享年五十九。命日の前日に『五日市街道』を古本屋で手にとったのは何かの縁か。

2020/10/24

ちよろちよろだ

 土曜日、西部古書会館。高円寺フェスも開催中。
 新高円寺方面まで散歩する。いなげやで百円均一パンを買う。帰りに馬橋稲荷神社に寄る。

 そういえば、昨年の九月下旬ごろ、帯状疱疹になっている。どうやらわたしは九月から十月くらいに体調を崩しやすいようだ(秋の花粉症の影響もあるかもしれない)。今年の春は五十肩(完治していない)。季節の変わり目の寒暖差が激しい時期は要注意ということか。
 一年働き続ける体力はとっくの昔になくした。

《はつきり云へば、(あんまり云ひたくもないが)もともと僕なんかの泉は細々としたものなのだ。ちよろちよろだ。そいつをしぼるやうにしながら、辛くも五十といふ年までやつてきた。いつも「財布の底をはたいたやうな」(志賀先生の言葉。随筆の中にある。)仕事しか出来なかつた。それでも、身体が丈夫なら、まだ何とか自分を掻き立て、自惚れを持つこともできようが、この病体では、どうにも仕方がない》(「下曾我放談」/尾崎一雄著『わが生活わが文學』池田書店、一九五五年) 

 尾崎一雄の愚痴に勇気づけられる。他にも「自分は生来の怠け者だ」とも書いている。それでもずっと名作を書き続けてきた。隙あらば横になる。冬は休む。たぶんそれが正しい。

 今発売中の『散歩の達人』十一月号の特集「読書は冒険だ」で「同世代座談会 50代編」にマンガ研究者のヤマダトモコさん、往来堂書店の笈入建志さんといっしょに参加しました。
「街にゆかりの本が知りたい」にも東京の本を五冊紹介しています。外に出てカメラマン、ライター、編集者といっしょに仕事をするのは久しぶりだった。雑誌の現場から離れて何年になるか。 

 すこし前まで「蔵書を整理して、もうすこし狭い部屋に引っ越して……」とかなんとか考えていた。ほんとうにそうしたいのだが、その引っ越しも面倒くさい。

2020/10/22

風呂

 書いては消してをくりかえしているうちに、二日くらいすぎてしまった。

 疲労と空腹に弱い。こういう感覚は、他人比べることはむずかしい。わたしは疲れていると苛々して余計に体力を消耗してしまう。もともと短気な性格を体力で抑えているせいかもしれない。そういうときは風呂に入る。疲れていると浴槽にお湯をはることすら面倒くさいのだが、ゆっくり風呂につかってさっぱりすると、心からよかったとおもえる。
 気分転換にもなるし、体温が上がるとそれだけでちょっと元気になる。

 からだを冷やさない。寒さをガマンしない。

 何度も紹介している一文だが、アンディー・ルーニーの「ものごとがうまく行かなかったら、熱いシャワーを浴びよ」という言葉が好きだ(『自己改善週間』北澤和彦訳、晶文社)。
 アンディー・ルーニーの忠告では「なにごともヴォリュームを落とすこと。塩とおなじである。少ないことには慣れる」というフレーズも気にいっている。家にいるときだけでもなるべくそうしたい。

2020/10/14

半信半疑

 すこし前まで二十五、六度だった気温が急に下がる(とおもったら、また上がる)。冷えもそうだが、わたしは寒暖差にも弱い。肩凝りがひどい。そろそろコタツ布団を出す季節か。連日、朝昼晩と三回くらい寝ている。一日の半分くらい寝ているかもしれない。年に何回かそういう時期がある。からだが休息を求めているのだろう。従うしかない。

 火曜日、仕事ようやく一段落。
 山田風太郎著『人間万事嘘ばっかり』(ちくま文庫)を再読する。
「ハリの話」は中共の話からはじまる。中国礼賛一辺倒の報道を山田風太郎は警戒している。

《いま手ばなしで中共の讃歌を歌っている人々は、ちょうどかつてのナチス讃美にのぼせあがっていたのと同じタイプの連中で、ああ、またはじまったか、と憮然たらざるを得ない》

 初出は一九七二年七月(『週刊ゴールド』)。文化大革命期、日中国交正常化の二ヶ月ちょっと前に発表されたエッセイである。
 さらに同エッセイはこう続く——。

《要するに、中共にせよアメリカにせよ、スエーデンにせよフランスにせよ、光があれば必ず影がある。光だけの国家があるものではなく、その光のあたっている一面ばかり云々するやつがあるとすれば、その論旨や報道には必ず虚偽があると見ていい》

 山田風太郎、五十歳。慧眼である。ここでは「光」と「影」という言葉がつかわれているが、たとえば「健全」な社会というのは「不健全」を排除していく社会でもある。

 それとは別に山田風太郎は麻雀とハリを発明した中国人はすごいともいう。
 ギックリ腰になった風太郎はハリ治療を受け、快癒する。いっぽう「普通の医者にゆけば癒るべき病気が、ハリを盲信するあまりにとり返しのつかない手遅れとなる危険はある」と警戒心をとかない。

 終始、半信半疑。けっして盲信しない。わたしはそういう姿勢の人が書くエッセイが読みたい。

2020/10/07

自治の話

 昨日今日と寝てばかり。九月の中旬くらいから秋花粉の症状が出ている。近所のビルとビルの隙間にブタクサが生えている。
 五日、NHK「ひるまえほっと」の「中江有里のブックレビュー」で『中年の本棚』が紹介される。わたしが「中年本」を集めはじめたのは三十五歳のときに中村光夫を読んだことがきっかけだった。当時、晶文社のウェブ連載で中村光夫の「青年と中年のあいだ」というエッセイを書いた。
 三十五歳から五十歳まで十五年。それなりに時間をかけたテーマを形にすることができたのは季刊の連載というペースが自分に合っていたのかもしれない。

 臼井吉見著『教育の心』(毎日新聞社)の「歴史と教育」を読み返す。長野県の塩尻、東筑摩の教育会で話した速記録をもとにしたエッセイである。臼井は一九〇五年長野県安曇野生まれ。

《『安曇野』では、作者ながら、ちょっと思い出せないくらい多くの師弟愛を描いています。(中略)先輩後輩のことで特色ありと思うのは、石川三四郎、新居格、大宅壮一ですが、みんな子年で十二歳ずつ違うんですが、これを同年輩の友人の如く描きました。一まわりずつ違う三人の友情と信頼、どこかで本当に強く結ばれているこの特別な友情、どうぞ読んでくださいよ》

 石川三四郎は一八七六年埼玉生まれ、新居格は一八八八年徳島生まれ、大宅壮一は一九〇〇年大阪生まれ。年齢も出身地もバラバラだ。石川三四郎と新居格は「自治」の大切さを説いていた人物でもあった。

 お上が決めたことに従うのではなく、自分たちが国に参加し、国を変えていくことができる——そういう考え方が「自治」の根本である。
 明治期以降の日本は「自治」が根づく前に中央集権国家の「型」を先に作ってしまった。当時の国際情勢を考えると、近代化を急がざるを得なかったのはやむをえないところもあった。

 臼井吉見は「自治」なき近代化を日本社会の「最大の欠点」と批判している。戦前だけでなく、戦後もこの欠点を引きずっている。

『教育の心』の「青春の文学」は今読んでもまったく古びていない。

《要するに、いま若い諸君にとって一つの不幸は——不幸といっていいと思いますが、本がありすぎて、本に対する飢えというものをおそらく経験しないことだろうと思います。本に対する飢えですね、ぜひ読みたいけれどもなかなか手に入らない。昔はそれがふつうでありました》

 臼井吉見は旧制中学の二年のころ、同じ下宿にいた先輩から『中央公論』を借りた。大正八年九月号だった。臼井青年は『中央公論』という雑誌が出ていることも知らなかった。
 その号には芥川龍之介、正宗白鳥、菊池寛、佐藤春夫、谷崎潤一郎の作品が載っていた。
 とくに正宗白鳥の「あり得べからざる事」に感銘を受け、文学に深入りするきっかけになった。その話を亡くなる数年前の正宗白鳥にいったら、「君、僕はそんな小説を書いているかね」と……。
 臼井吉見は「あり得べからざる事」を読み、「文学というものを初めて知って、自分を考え、人間というものを考えずにはおれない、そういうことが僕の心の中に起こってきたわけです」という。この正宗白鳥の話と旧制中学時代の自由と規律の素晴らしさについて、臼井吉見はくりかえし書いている。しかしそれは当時の少数のエリートしか経験できないことでもあった。

『あたりまえのこと』(新潮社、一九五七年)の「戦中派の発言」では、青年将校と農村青年の兵とのあいだの「断層」を次のように述べている。

《田植の辛さとくらべれば演習など何でもないという農村出の兵、住みこみの奉公人生活よりは軍隊のほうがよっぽどましだという職人や丁稚たち。食って、着て、寝るところのある軍隊生活を内心は喜んでいた多くの兵をぼくもまた知っている。例の近江絹糸の女工さんたちが、最初はたからいろいろ言われても、自分の家にいたときのことを考えれば何一つ不平はないと語っていたのと事情は同じであろう》 

 二十代のころから戦中派作家のエッセイを読んでいるが、終戦時四十歳の臼井吉見のこの指摘は印象に残っている。

 臼井吉見は軍隊生活をこんなふうにふりかえる。

《自分と同じような大学出が数十名いっしょに入隊したのだが、農村や工場からやって来た青年たちとくらべて、無論自分もふくめたわれわれの仲間が、なんという身勝手で、思いあがった、そのくせ空虚で、あいまいな存在であるかを骨身にしみて思い知らされたことであった。これは生涯と通じて忘れることはないだろう》 

 この「戦中派の発言」は、戦後の「進歩的文化人」の批判にもつながる。
 石川三四郎が東京郊外で半農生活の道を選び、新居格が生協運動に尽力したのは「食って、着て、寝る」生活なくして自治も文化も成り立たないと考えていたからだろう。

 大宅壮一の話はいずれまた。

2020/10/02

浜島町の写真集

 十月。今年もあと三ヶ月。例年通り、十二月になったら「冬眠」モードに切り換える予定だ。
 衣替えの洗濯、布団カバー、毛布も洗う。

 毎日新聞の日曜版で連載していた「雑誌のハシゴ」は九月二十七日が最終回。「巷の好奇心」「そのほかのニュース」とタイトルを変えながら、夕刊、日曜版で二〇〇〇年一月から二十年以上続いた連載だった。
 雑誌関係の大量のスクラップをすこし整理したい。

 十月七日(水)から毎日新聞の夕刊で「ラジオ交差点」というラジオのコラムを週一で連載することになった。急に決まった話で今ちょっとバタバタしている。

 今日、金曜日だけど、西部古書会館の古書展が開催していた。『写真集 浜島の昔と今 百景』(浜島町教育委員会、一九八九年)を買う。「五か村合併100年・町制施行70周年記念」と記されている。こんな写真集があったとは知らなかった。

 浜島は母の郷里でわたしも物心つく前から毎年夏になると祖母の家に行っていた。
 祖母の家は水産試験場のすぐそばにあった。水産試験場は明治三十二年に創立されたものだったらしい。近くには堤防もあり、そこでよく釣りをした。
 昔は平和劇場という映画館があったが、一九七六年にスーパーマーケットになった。わたしはスーパーの記憶しかない(その記憶もぼんやりしている)。
 明治三十四年建築の浜島座という芝居小屋もあったそうだ。けっこう大きな芝居小屋だ。岩崎商店街の古い写真には人がたくさん映っている。江戸時代から続く船宿もあったようだ。もちろん記憶なし。

 かつての浜島は芝居小屋や映画館があり、漁業が盛んで複数の造船所を有する豊かな町だった。母からは戦後の苦労話ばかり聞かされていた。母の父は四十代前半で亡くなっている。大工だった。
 海をはさんだ向いにはポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)の発祥の地として知られる合歓の郷もある。

 浜島には四十年くらい行ってない。鳥羽は何度か行っているのだが……。

2020/09/28

石川三四郎

 すこし前に鶴見俊輔著『戦後を生きる意味』(筑摩書房、一九八一年)を読み返していたら「石川三四郎」と題した評論で臼井吉見の「何百人という人たちに、『安曇野』には登場してもらいましたが、一番敬愛する人は誰かと訊かれれば、石川三四郎を選びます」という言葉を紹介していた。

 臼井吉見著『教育の心』(毎日新聞社、一九七五年)からの引用である。鶴見さんの本を読み、気になったので『教育の心』をインターネットの古本屋で注文したのだが、『中年の本棚』の作業と重なり、積ん読のままになっていた。

 すると、大澤正道著『石川三四郎 魂の導師』(虹霓社、二〇二〇年)が届いた。虹霓社は新居格の『杉並区長日記』を復刊した静岡県富士宮市の出版社である。
 先日、鈴木裕人さんの『龍膽寺雄の本』もそうだが、新居格や石川三四郎に関する本が“新刊”で読めるとは……。

『石川三四郎 魂の導師』で、大澤正道は石川の「私は保守主義者である。私は私の善いと思ふことを固守するが故に保守主義者である」という言葉を紹介している。

 アナキズムと保守は対立概念ではない。むしろ二項対立の構造を崩していくこともアナキズムなのだ――とわたしは考えている。日露戦争から一貫して反戦の立場をとっていた石川三四郎だが、戦後は天皇を擁護していた。アナキストとしては“異端”の立場だった。『自叙伝』の「無政府主義宣言」では石川の天皇擁護の部分が差し替えになっている。

『石川三四郎 魂の導師』でも「天皇と無政府主義者」の章で大澤正道自身、差し替えを進言した一人だと告白している。

《しかし、今にしておもえば、小人、師の心を知らずで、わたしも「主義」の「熱病」につかれていたにすぎない。慚愧に堪えぬ思いである》

 鶴見俊輔は、石川の思想の根底に「非暴力直接行動」があると指摘し、「おだやかな社会思想」とも述べる。

 最後に臼井吉見の石川三四郎評を紹介したい。

《石川三四郎は、人間とは何か、ということをはっきりした形でつかんでいた人だと思います。人間とは、命を終える瞬間まで、二つの闘いをやりぬく存在である。そういう考えであります。二つの闘いとは何かというと、一つは、外なる社会の不合理と闘うということ。もう一つは、内なる自分と闘うということ、自分の内なる“無明”と闘うということです》(「歴史と教育 『安曇野』にことよせて」/『教育の心』)

 石川にとって“無明”とは「人生は何のためにあるか、何のために人生を生きるかっていうことにさえ無関心で、考えようもしない」状態のことだった。また臼井吉見によると、石川が一番大切に考えていたのは「教育」だったそうだ。

2020/09/24

「S」さんの放出品

 たまたまなのかもしれないが、JR総武線に乗っていたら、車内の広告がスカスカだった。脱毛と育毛、転職、墓の広告がちらほらあり、中吊りはほぼJRの自社広告である。電車に乗ったら、まず週刊誌の中吊りを見るのだが、それがない。新型コロナ不況は関係あるのか。

 連休中、ふらっと高円寺のあづま通りの中古レコード屋に入ったら、コレクターの「S」さんの放出品のコーナーがあった。七、八〇年代の洋楽、邦楽の名盤がぎっしり箱に詰まっていた。この日はジェームス・テイラーの『Gorilla』と『In the Pocket』の二枚買う(CDは持っている)。『In the Pocket』のジャケットはポーズを決めた後ろ姿なのだが、裏ジャケを見ると『Gorilla』のジャケットがプリントされたシャツを着ている。

 久しぶりに『Gorilla』を聴いてみたら「自分が好きな音楽はこれだ」という気持になった。平穏な美しいメロディの宝庫。声も音の質もやわらかい。

「S」さんのコーナー、二十年くらい前にアパートの立退のさい、売ってしまったレコードが十数枚あった(七〇年代の洋楽アルバム)。 箱ごと欲しい。二十代のころの自分が探していたレコードが格安で売っていた。

 昨日の深夜、ペリカン時代でその話をし、「S」さんは誰それさんではないかという話になる。ここ数年、若い人のあいだでレコード人気が復活している話も聞いた。

2020/09/20

郷土文学三昧

 昨日、杉並郷土博物館に行き、『杉並文学館 井伏鱒二と阿佐ケ谷文士村』など、未入手の文学展パンフを買った。杉並文学館は十月三十一日から。『井伏鱒二と阿佐ケ谷文士村』には「杉並の作家」という地図が付いていて、黒島伝治が高円寺(東高円寺)にいたことを知る。黒島家から青梅街道を渡ると龍膽寺雄と中野重治の家がある。京都の古書善行堂の棚みたいだ。ただし当時の作家はしょっちゅう引っ越していたので、時期が重なっていたかどうかはわからない。

 吉川英治は高円寺のどのあたりに住んでいたか。今の住所だと高円寺北三丁目あたりか。北原白秋も高円寺と阿佐ケ谷のあいだくらい。藤原審爾は阿佐ケ谷と荻窪も中間くらい。柏原兵三の家もそのすぐ近く。この地図だと新居格は高円寺ではなく、阿佐ケ谷時代の住まいが記されている(家の場所だけでなく、住んでいた時期がわかるといいのだが、それを調べるのはものすごく大変だ)。これほど見ていて飽きない地図はない。

 鈴木裕人さんの『龍膽寺雄の本』が届く(装丁は山川直人さん)。前述のように龍膽寺雄は高円寺に暮らしていた時期がある。そのあと中央林間に広大な土地を買い、引っ越した。拙著『古書古書話』(本の雑誌社)の「シャボテンと人間」で龍膽寺雄の話を書いた(初出は『小説すばる』二〇〇八年七月号)。鈴木さんは山川直人さんの漫画に龍膽寺雄が出てきて驚いたそうだ。 「シャボテンと人間」にも書いたが、久住昌之原作、谷口ジロー絵『孤独のグルメ』(扶桑社)にも龍膽寺雄らしき人物が描かれている(名前は出てこない)。龍膽寺雄はシャボテン(サボテン)研究者としても知られていた。

 高円寺にいた昭和の作家ではわたしは新居格のことを追いかけている。新居格を知ったのは龍膽寺雄の「高円寺時代」という作品だった(『人生遊戯派』昭和書院)。

 《その頃マルクシズムを標榜するプロレタリア派にも与せず、私たち新興芸術派にも与せず、アナーキストを名乗って独自の立場をとりながら、豪放磊落にして洒脱な風貌で一つの地位を保っていた評論家の新居格も、中央線沿線に住んで異彩を放っていた》

 二人の共通点では自宅もしくは近所の喫茶店を“サロン”にしていたことだろう。一九三〇年代のはじめ、若き文学者たちは龍膽寺雄や新居格に会うため高円寺に訪れていたのである。

2020/09/18

だらだら過ごす

 最近、生活リズムが乱れ気味。レコードを聴きながら押入を掃除する。久しぶりにノーマン・グリーンバウムを聴く。レコードを持っていたことすら忘れていた。これもジャケ買いか。『BACK HOME AGAIN』という一九七〇年のアルバムなのだが、髭とノースリーブと花のコントラストが斬新である。裏ジャケではノーマンが山羊の乳しぼりをしている。

 先週の西部古書会館では河島悦子著『伊能図で甦る古の夢 長崎街道』(一九九七年)を買った。長崎街道は街道に興味を持ちはじめてから、ずっと気になっている。
 江戸時代、海外の調味料は長崎街道を通って全国に広まった。象やラクダも通った道だ。今の九州の旧街道(長崎~佐賀~福岡)や宿場町の保存や整備の状況を知りたい。
 ただ、全国を追いかけるには時間が足りない。いずれは範囲を限定し、掘り下げていく必要がある。三十代から街道の研究をはじめていれば……とおもうが、そうすると別の人生になっていた。これまでのノープランの旅を活かしていくほかない。

 この日もう一冊『滝田ゆう作品集 ぼくの昭和ラプソディ』(双葉社、一九九一年)も買えた。遺稿作品集にもかかわらず「あとがき」がある。滝田ゆうが病床で亡くなるまで取り組んでいた本だった。絵もいいが、ちょっとよれよれの書き文字もいい。「北九州の朝」と題した絵がよかった。滝田ゆうが描いた昭和の風景はどのくらい残っているのか。知らない場所なのに懐かしくおもえるから不思議だ。

 昭和ではなく、平成の町並も消えつつある。

2020/09/16

岸部四郎の古本人生

 先日、岸部四郎さんが亡くなった。享年七十一。かつて『小説すばる』二〇一三年九月号に「岸部四郎の古本人生」というエッセイを書いたことがある(後に『古書古書話』本の雑誌社、二〇一九年刊にも収録)。以下はその再掲(最後の一行は単行本に収録したものではなく、元原稿のほうのオチである)。 

「岸部四郎の古本人生」 

 古本マニアのタレントといえば、岸部四郎(岸部シロー)である。
 グループサウンズ時代はザ・タイガースのメンバー、その後、俳優(『西遊記』の沙悟浄役など)や司会(『ルックルックこんにちは』の二代目司会者)としても活躍した。
 岸部四郎の父は、京都で店舗を持たずリアカーで古本を売る商売をしていた。
『岸部のアルバム 「物」と四郎の半世紀』(夏目書房、一九九六年)は、自らの蒐集哲学を綴った異色のエッセイ集である。
 第一章の「ノスタルジーとしての初版本」によると、古本が好きになったのは下母沢寛原作のドラマ『父子鷹』(関西テレビ、一九七二年)に出演したのがきっかけだった。幕末を舞台にした時代劇に出演したさい、その原作を読み、たちまち本の世界に魅了される。
「それまでは音楽に夢中であまり本を読む習慣はなかったが、それからはもう江戸の風俗や勝海舟、坂本竜馬、西郷隆盛をはじめとする幕末群像に関するものを、むさぼるように読みはじめた」
 さらに西山松之助、三田村鳶魚など、江戸文化の時代考証もの、明治期の日記や評論も読みふけった。二十代前半の岸辺さんの読書傾向はかなり渋い。
 それから夏目漱石に耽溺し、明治の文人の初版本を集めるようになる。
「近代日本の象徴ともいうべき漱石の大ファンになってしまったぼくは、作品を読めば読むほど、あるいはこれら弟子たちの書いた漱石を読めば読むほど、もっともっと漱石のすべてを理解したくなった」
 そのためには当時の雰囲気を感じながら読まなければいけない。
 岸部四郎はそう考えた。
 初版本だけでなく、読書環境もなるべく漱石の時代に近づけたいとおもい、アパートを借り、六畳一室を自称「漱石山房」にする。明治の家具や什器を揃え、座布団も芥川全集の装丁の布とそっくりなものを民芸屋で探してもらい、わざわざ作った。
 暖房もガスや電気ではなく、火鉢に炭を使い、部屋にいるときは和服ですごす。
 漱石、安倍能成、芥川龍之介、内田百閒、森鷗外、永井荷風、島崎藤村、志賀直哉と近代文学を次々と読破し、その初版本かそれに類する本を集めた。
 漱石の次は芥川龍之介も熱心なコレクションの対象になった。神保町の古本屋・三茶書房の店主・岩森亀一が自ら額装した芥川全集の木版刷り(売り物ではない)も頼み込んで譲ってもらった。
「芥川を蒐めだしたころは、ぼくは三茶書房のご主人がその道の権威だとは知らなくて、ただの偏屈な古書店の親父だと思っていた」
 続いて興味は芥川から永井荷風に移る。
「荷風に凝れば、どうしても私家版の『腕くらべ』『濹東綺譚』『ふらんす物語』が欲しくなるのは人情だ。これらはコレクターズ・アイテムのシンボルみたいなもので、だれでも欲しがるが、もう最近ではほとんど市場に出てこない」
『腕くらべ』の私家版は友人たちに配られたもので限定五十部。岸部四郎が探していたころ(おそらく一九八〇年前後)の古書相場は五十万円くらいだったそうだが、一九九〇年代半ば、店によっては二百万円くらいになった。『ふらんす物語』は発禁になり、印刷工場に残っていた予備を好事家が装丁したもので、『腕くらべ』が五十万円のころ、三百五十万円くらいしたという。
 しかし自称「漱石山房」は妻との離婚により幕を閉じ、蔵書の大半も売却した。中には売りたくないものもあったが、「それを隠したのでは値段がつかない」。
 自分の不要な本だけ売っても、なかなか高値で買い取ってもらえない。
 古本屋がほしい本(店に並べたい本)をどれだけ混ぜるか。このあたりの駆け引きは古本を売るときの醍醐味といえる。
 彼の趣味は、絵画、骨董、玩具、楽器、オーディオ、ヴィンテージバッグ、ヴィンテージジーンズなど、多岐に渡っている。
「趣味は貯蓄」といい、八〇年代にはお金儲けに関する本(『岸部シローの暗くならずにお金が貯まる』、『岸部シローのお金上手』いずれも主婦の友社)を刊行していた彼が自己破産に陥ってしまう。離婚の慰謝料、借金の保証人など、様々な事情もあるのだが、蒐集対象を広げすぎたこともすくなからぬ遠因になったとおもう。
 岸部四郎といえば、二〇一一年一月、昼の情報番組の企画で風水に詳しい女性タレントが部屋の運気を上昇させるという名目で、彼の蔵書を某古本のチェーン店に売り払ってしまう“事件”があった。
 蔵書の中には吉田健一の著作集(全三十巻・補巻二巻、集英社)もあったのだが、買い取り価格は六百四十円……。
 全集の古書価は下がっているとはいえ、今でも吉田健一は古本好きのあいだでは人気のある作家で、著作集はかつて十万〜十五万円くらい売られていた。
 放映後、番組にたいし「岸部さんが不憫すぎる」といった批難が殺到した。
 ただ、この騒動のおかげで岸部四郎が漱石、芥川、荷風から、英文学者でエッセイストの吉田健一まで読み継いでいたことを知り、ただ単に「物」としての本ではなく、心底、文学が好きな人だとわかったのは収穫だった。
 ちなみに、『岸部のアルバム』には、自称「漱石山房」時代、同じアパートの別の階に森茉莉も住んでいて、その交遊も記されている。
 なんと森茉莉は、鷗外よりも○○のファンだった。

2020/09/09

私小説風

《戦時中の中学時分に上林暁氏の短篇集にふと眼をとおし、たちまち馴れて、他の作品集を買い漁り、耽読したことがある。変哲もない日常の時間を確かに在る時間に仕立てあげる作者の腕前のせいであることはもちろんだけれども、私は性のいい知人を知り得た気になり、書物の上での交際をやめることができなかった。後後まで上林暁氏のお名前を活字で見るたびに眼が和んでくる。同じようなことが木山捷平氏にもあった》

 色川武大著『ばれてもともと』(文藝春秋)の「風雲をくぐりぬけた人」の冒頭の一節である。上林暁と木山捷平の小説が好きだった作家といえば、山口瞳もそうだ。

 先月から大岡昇平の『成城だより』を読んでいる。私小説風の味わいがある。三巻目では『堺港攘夷始末』(中公文庫)の執筆中の話が綴られている。

《堺出身の河盛好蔵氏に電話、堺町は紀州街道と高野街道分岐点にて、高野山の門前町と考えられたることあり。大小路東方、大仙陵側の大和街道を出て、南に分れしや、それとも町の南方にて分れしやを質問す(古地図には両道あり)》

『成城だより』のこの記述はまったく覚えてなかった。とりあえず付箋を貼る。大和街道は奈良街道(長尾街道)のことか。街道名はややこしい。昨年秋に奈良の山の辺の道を歩いた後、大阪の街道のこともすこし調べた。
 明治初期の堺県は奈良が編入されていた時期もある。堺は何度か行ったことがあるが、街道を意識して訪れたことはなかった。大阪に行きたくなる。

『成城だより』三巻の続き——。

 《読者の活字離れすすみ、今年純文学作品の売行落ち込みは春秋の二段階あり。事態深刻なり、という。つまり現象的にいえば、これは出版社の経営的決定にかかわり、文学者がかれこれいってもはじまらぬ問題である》

 《文学者としての問題は、そのようなことにはなく、このような事態に起り勝ちな世態風俗への迎合的傾向にあろう》

 大岡昇平、一九八五年十二月十日の日記である。

2020/09/07

惰性の効用

 最近、なんとなく惰性というか低迷していると感じる。後になってふり返ると、そういう時期に次のテーマみたいなものを見つけていることがよくある。

『野間宏と戦後派の作家たち展』(神奈川近代文学館、二〇〇一年)のパンフレットを見ながら、二〇二〇年の今、「戦後派の作家たち」——安部公房、梅崎春生、大岡昇平、椎名麟三、島尾敏雄、武田泰淳、中村真一郎、花田清輝、埴谷雄高、福永武彦、堀田善衞は、どのくらい読まれているのか、と考える。学生時代のわたしは第三の新人と「荒地」の詩人に夢中で戦後派の作品を読む余裕がなかった。第三の新人と「荒地」のあとは私小説や中央線文士を追いかけるようになった。戦後派(第一次・第二次)の本は古書展に行って「今日はあんまりほしい本がないな」とおもったときに、ちょこちょこ買っていた。はじめて梅崎春生を読んだのも三十代に入ってからだとおもう。

 金曜日、昼すぎ、荻窪のささま書店の場所にできた古書ワルツ。本がすこしずつ増え、前に来たときより棚が整っていた。『日本橋絵巻』(三井記念美術館、二〇〇六年)は、日本橋を描いた絵を集めた図録。渓斎英泉の「江戸八景 日本橋の晴嵐」は素晴らしい。あと日本橋と富士山がいっしょに描かれた絵が多い。巻末付近の「現在の日本橋」の写真を見ると悲しくなる。

 レコードで持っているザ・バンドの『カフーツ』のCDを買う。昔レコードで買ったときの五分の一以下の値段。ザ・バンドは中古レコード屋では人気があった。高円寺にZQがあったころは古本ではなく、CDをよくジャケ買いしていた。髭のミュージシャンばかり。髭のミュージシャンが好きになったのはザ・バンドの影響である。令和になっても読んでいる本と聴いている音楽は昭和のままだ。レコードとCDは二十年前に半分以上手放してしまった。残ったものをくりかえし聴いている。Web平凡の山川直人さんの連載『はなうたレコード』を読んでいると中古レコード屋に行きたくなる。

 荻窪から阿佐ケ谷まで青梅街道を歩く。江戸時代には石灰を運んだ道だ。阿佐ケ谷でアーケードの商店街で期間限定の沖縄の物産品店に寄り、一時期、常備していた沖縄そばの濃縮スープを買う。味噌汁にも合う。毎日、同じような料理ばかり作っているが、すこしずつ味やら調理法は変化している。

2020/09/04

五十歳散歩

 八月末、「街道文学館」と「半隠居遅報」を更新。『中年の本棚』増刷決まる——。

 仕事でつかっているメールソフトが不調。送信はできるのだが、受信はできたりできなかったり。旅行用の予備の軽量パソコンでメールをチェックする。

 火曜日、JRお茶の水駅から神保町。文学展パンフ『野間宏と戦後派の作家たち展』(神奈川近代文学館、二〇〇一年)などを買う。『野間宏と戦後派~』は年表がいい。『成城だより』の二巻目を読んでいたら、大岡昇平は、岸井良衞と青山学院中学部時代の同級生だったことを知る。岸井良衞の『五街道細見』(青蛙房)、『東海道五十三次』『山陽道』(いずれも中公新書)は街道研究では欠かせない本だ。

 神保町から九段下にかけて古本屋めぐり。街道本を探す。西岡義治著『みちのくの宿場を歩く』(新樹社)を買う。この本は知らなかった。大人の休日倶楽部に入会したら、東北の街道を歩きたいのだが……。東北の街道といえば、古山高麗雄も七ヶ宿(たしか父方の郷里)の話を書いている。七ヶ宿は十年以上前にすこしだけ歩いた。さらに九段下から市ケ谷まで歩き、市ケ谷から四ツ谷駅まで外濠公園の遊歩道を歩く。歩きながら考えていたのは、これから何をするか(しないか)だ。五十歳になって以降、そのことばかり考えている。

 色川武大著『引越貧乏』(新潮文庫)の「暴飲暴食」で昨年五十歳になった「私」が同い年の病院の副院長に語った言葉が頭をよぎる。

《「一生というものが短すぎます。私などはやっと今、プロローグの段階が終って、これから仕事でも遊びでも本格的にと思ったら、もう残された時間がすくなくて、何をするにも時間制限が気になります」》

 四十歳のときのわたしは今ほど「残された時間」のことを考えなかった。むしろ考えないようにしていた。『引越貧乏』の話は『中年の本棚』にも書いた。もともと「五十歳記念」の題で刊行が予定されていた本である。五十歳のときに読むと格別の味わいがある。もちろん五十歳でなくても読んでほしい。

 車の通らない道を歩くのは気分がいい。お茶の水から四ツ谷まで寄り道しながら歩いたところ、まだ八千歩くらい。高円寺に帰って、スーパーなどで食材その他の買物をしているうちに一万歩になった。

2020/08/30

中年と旅

 コクテイル書房で『東京発 半日徒歩旅行』、『東京発 半日徒歩旅行 調子に乗ってもう一周!』(いずれもヤマケイ新書)の佐藤徹也さんと「中年と旅」という対談をした(後日、ユーチューブで公開予定。公開日は未定)。

「半日徒歩旅行」シリーズは歩くコースがいい。目的地に到るまでの移動ルートが選び抜かれている。遊歩道、自然歩道、旧街道、渡し船……。軽装で行けるが、冒険の要素もある。歩きながら、その土地を知り、学んでいく。三十年くらい東京に住んでいるが、首都圏でも行ったことのない場所がたくさんある。
 街道に興味を持つまで千住(日光街道の宿場町)に行ったことがなかった。浦和や大宮が中山道の宿場町だったことも知らなかった。

 今回の対談――対談というか、お酒を飲みながら旅の講義を聴かせてもらったかんじだ。わたしは心の中で佐藤さんを「徒歩先生」と呼んでいる。

 電車やバスの移動に徒歩の感覚が加わるだけで、行き先の選択肢がものすごく増える。佐藤さんの本は、読物としても面白いし、さらに読んで歩けば、紹介している道の素晴らしさがわかるだろう。道は深い。わたしも「散歩が仕事」の人生を目指し、もっと歩こうとおもっている。

2020/08/24

古鎌倉街道

 土曜日、午後三時、目白駅。古書往来座まで歩く。『生誕百年 杉浦明平の眼』(田原市博物館、二〇一三年)などを買う。杉浦明平は一九一三年愛知県渥美郡福江村(現・田原市折立町)生まれ。地元では町会議員をしていたこともある。本とレコードのコレクターでもあった。街道に関するエッセイも書いている。
 武田泰淳、木山捷平が伊良湖をそれぞれ別に訪れたさい、二人とも杉浦明平の名前をあげている。富士正晴の本で杉浦明平の本を枕元の書にしていると記されていた記憶がある(題名をおもいだせない)。渥美半島を二度ほど歩いたが、田原市博物館は寄ることができなかった。

 そのあと鬼子母神から雑司ケ谷、西早稲田界隈の古鎌倉街道を歩く。鎌倉街道は諸説いりみだれ、専門家のあいだでも意見が分かれる。誰も正解を知らない道といってもいい。地形や川の流れも昔と今とではちがう。

 金乗院(目白不動)のところに宿坂道の看板あり。宿坂通りをしばらく歩く。長い下り坂。面影橋、早稲田通りへ。さとし書房のあたりに出る。
 古書現世で向井さんと雑談する。『生誕100年記念 中島健蔵展』のパンフレットを買う。中島健蔵展(二〇〇四年一月二十日から二月二十二日)は恵比寿ガーデンプレイス内の東京都写真美術館で開催された。中島健蔵が撮影した文士の写真がたくさん収録されている。年譜も詳細。『司馬遼太郎追想集 ここに神戸がある』(月刊神戸っ子、一九九九年)も買った。古書現世の近くの通りも古鎌倉街道という言い伝えがあるらしい。

 往来座と古書現世が鎌倉街道(かもしれない街道)でつながっているのも不思議だ。
 雑司ケ谷あたりから西早稲田を通る古鎌倉街道は渋谷のほうにつながっていたという説もある。つまり、東京メトロの副都心線=鎌倉街道の可能性もあるわけだ。

 早稲田通りを歩いて、小滝橋から神田川沿いの遊歩道を歩く。夏は五千歩を目安に水分補給している。帽子(できれば通気性のよいもの)は必需品だ。小滝は「おたき」と読むのか。ずっと「こたき」だとおもっていた。木陰もあって快適だった。川沿いの道は風がやや涼しいのもいい。
 遊歩道を歩いていくとJR東中野駅に到着する。
 東中野のライフの品揃え、あいかわらず素晴らしい。

2020/08/21

願いごと

 水曜日神保町。東京堂書店の週間ベストセラー、二週連続で『中年の本棚』(紀伊國屋書店)が一位。ちなみに二週連続二位は村上春樹の『一人称単数』(文藝春秋)である。東京堂で本を買う人はヤクルトファンのひとりっ子が書いた五文字タイトルの本が好きな人が多いようだ。

 毎年行きつけのバーの七夕の短冊に願いごとを書いている。いつも「本が売れますように」と書いていたのだが、今年は「増刷」の二文字にした。目標は明確にしたほうがいいとおもったのだ。

 木曜日新宿。駅の東口から西口の旧青梅街道のトンネルを通る。トンネル内に青梅街道の宿場町が描かれている。街道のことを知るまでは青梅街道は青梅までだとおもっていたが、山梨県の酒折まで続いている。酒折で甲州街道と合流する。新宿西口のよく利用していた金券ショップが閉店していた。紀伊国屋書店の新宿店に行く。時々レジのモニターに『中年の本棚』のカバー(装丁・鈴木千佳子さん。カバーをとった表紙もすごく気にいっている)が映る。紀伊國屋書店の地下の水山であなご天梅とろろうどん。期間限定メニューなのかもしれないが、一年中食べたい。

 そのあと都営地下鉄で神保町に行き、久しぶりに本の雑誌社へ。街道歩きを再開することを伝える。

『中年の本棚』で「もう若くないとおもうからこそ、今のうちにできることをやっておきたいという気になる。ところが、手を広げすぎると収拾がつかなくなる」(色川武大、「心臓破り」の五十路)と書いた。古本にしても街道にしても興味がどんどん拡散している。読めば読むほど読みたい本が増え、歩けば歩くほど歩きたい道が増えてくる。

 五十代は何をしないかを考える時期なのかもしれない。

2020/08/18

おおらかな読み

 街道歩き再開に向け、日中の暑い時間帯に散歩する。昨日は大手町で取材、五十肩の話で盛り上がる。五十肩以来、万事、安全志向になっている気がする。治ったかなとおもって油断するとすぐぶりかえす。その後、大手町から水道橋まで歩く。途中、神田伯剌西爾でアイスコーヒー。電子書籍でダウンロードした新書を紙の本で買い直す(無駄づかい……ではない)。

 前回紹介した大岡昇平の『対談 戦争と文学と』は二〇一五年八月に文春学藝ライブラリーで文庫化されていたことを知る。ちなみに『成城だより』も昨年中公文庫から三巻本で復刊している。どちらも刊行時の記憶があるような、ないような——最近のことにもかかわらず、いろいろなことがあやふやだ。戦争のことについても、わたしは小説、随筆、戦記などを乱読してきたせいで、事実関係、時系列がおかしくなっている。「戦時中」と一言でいっても昭和十七年と十九年では状況がちがう。どこにいたかでもちがう。しかしそのあたりをきっちり分けていくと、どうしてもまだるっこしい文章になる。

 戦中、困窮していた人もいれば、裕福だった人もいる。一度も飢えや空襲を経験せず、終戦を迎えた人もいる。戦争体験としてはどちらも真実ではある。そこに戦争を語るむずかしさがある。あの戦争は悲惨だった、日本はまちがっていた——そういうストーリーを作ろうとすれば、それ以外の枝葉は切り落とされることになる。

 部屋の掃除中、『大岡昇平対談集』(講談社、一九七五年)を読む。吉田満との対談「戦争のなかの人間」が収録されている。吉田満は東京帝大の法科の学生で学徒兵として海軍に入り、電測士(レーダーの指揮官)として戦艦大和に乗船した。大岡昇平の対談で吉田満は「多少適性検査はあったんですが、しかし無茶な話です。法文系の学生に、しかもたった半年間の専門教育でレーダーをやらせたんですから」と語っている。一九四四年、吉田満二十一歳のときの話である。戦艦大和に乗って、百日くらいで沈んだ(戦死者二七四〇名、生存者二七六名)。 

《だから戦争というものの、初期の頃の華々しさ、カッコよさのイメージは、われわれには一つもありませんね》

 それでも吉田満は海軍のエリートであり、誇りもある。大和で命を落とした仲間のためにも世の役に立ちたいとおもい続けてきた。

《編集部 戦争体験と一口に言いましても、その人の資質とか、ものの考え方、その他もろもろの条件によってずいぶん違うわけですね。

 大岡 だから、人の書いたものをなんか違うと思っちゃうところがおかしいんだな。なんか人の書いたものは読めないところがあるでしょう。一度これは違うぞと思ったら、そのあとを読めないんですよ(笑)

 吉田 戦争体験には、なにが事実かっていうことを、ちょっと超えたところがありましてね、われわれのような極端な特攻作戦の例で、泳いでいる場面なんていうのは、とくにそうですね。ある男は、そのとき小雨が降っていたと言い、実際小雨が降っていたんですけれども、べつの男は夕焼けがきれいだったって言うんですね。(中略)ですから、私の「大和」も、一つの記憶として書かれたかっこうになっておりますけれども、あれについて「違うな」と思う人は、もちろん生き残りの人のなかにいると思うんです。いろいろな人の手で、もっと多くの戦争体験の記憶が書かれていいし、おおらかに読まれていいと思うんです。決しておれの方が正しいんだということではないんですね》

 渦中にいるときは、今の自分がどういう状況にいるのかわからないことが多い。戦争体験をおおらかに読む。たまに今の価値観で過去の出来事を裁こうとする言説を見かけるが、自分がその時代に生きていたとして(現代の価値観において)正しい思考や行動ができたか——わたしは無理だと考える。

2020/08/15

終戦の日

 七十五年目の終戦の日。戦争体験はどこにいたか何歳だったかといったことでもちがってくる。 

 戦争にかぎらず、生まれた時代や場所、生い立ち、能力その他、様々なちがいがあり、その「差」はどこまで意識すればいいのか。

『大岡昇平対談集 戦争と文学と』(中央公論社、一九七二年)に古山高麗雄との対談が収録されている。一九〇九年生まれの大岡昇平と一九二〇年生まれの古山高麗雄——終戦時の年齢は大岡三十六歳、古山二十五歳である。ふたりとも戦地で捕虜になった経験があり、お互いの作品に共通点があることを認めている。

 そのことをふまえ、古山高麗雄は「大岡さんの場合と私の場合で違う点は、ひとつには大岡さんには奥さんとお子さんがいらっしゃったけど、私は二十歳代の独身だったということかな。これは違うんじゃないかと思いますよ」という。いっぽう大岡昇平は「負けたらどうせ妻子もめちゃくちゃになっちゃうしね。負けるにきまっているんで、自分は確実に死ぬと思ってましたから、まあ、負けたあとの日本なんていうのは、どうせ生きるに値しないし……というふうなやけな気持だったね」と語る。

 そして戦争全体をとらえた小説を書くことの難しさについて語り合い、戦後の話になる。

《古山 ……私はデモクラシーというものを信じられないんですよ、日本人がやる場合。むろん封建制がいいというんじゃないですけど。そういうところに、なにかうそがあるな、と感じてきました。(中略)デモクラシーにしても平和運動というものにしても私はどうにもついて行けない。戦争中の思考の形とぜんぜん変っていなんで、そういう意味でも私は、ちっとも変ってる感じがしないんです。

 大岡 そうですね。戦争の性格が抑止戦略ということになっちゃって、戦争はそれこそ小説を受けつけない段階に達しちゃってる。その中で平和ということを主張するとすれば、その抑止戦略、威嚇戦略というものの中で、平和という理念をどういうふうに通すかということ、これは必ずしも心情的に平和を主張するのではなく、計量的に平和の可能性をはじき出そうというのです》 

 この対談を読みながら、戦中も戦後も日本人の「思考の形」が変わらないといった古山高麗雄の真意について考えていたのだが、すぐには答えがでない。

(……続く)

2020/08/14

荻窪

 木曜日、神保町。博多うどん、神田伯剌西爾。東京堂書店神田神保町店の週間ベストセラーで『中年の本棚』(紀伊國屋書店)が一位だった(八月十一日〜)

 金曜日、昼、古書ワルツ荻窪に行く。久しぶりに鞄が重くなるくらい本を買う。ここ数年、西部古書会館で古書ワルツが出品する街道本をよく買っていた。これから楽しみだ。あとスペクトラムの『スペクトラム伝説』も買う。一九八五年発売のベスト盤。スタン・ハンセンのテーマで有名なバンドだ。ドラムとパーカッションがすごい。ベースの人はバッファーローマンのようなツノがはえた帽子をかぶっている。かっこいい。古書ワルツ、七〇年代のアメリカのフォークロックなど、洋楽のCDも好きなミュージシャンのアルバムがけっこうあった。 

 そのあと青梅街道を歩いて本屋Titleへ。店内で汗だくになっていることに気づく。二階で石山さやかさんの「台風と小旅行」展を見る。やや猫背で眼鏡の男性の絵に親近感をおぼえる。

 荻窪の青梅街道と環八の交差点付近に四面道(しめんどう)と呼ばれる場所があるが、名古屋の西区には四間道(しけみち)という通りがある。近くには円頓寺商店街もあって、十年以上前、ブックマークナゴヤで一箱古本市が開催されたときにすこし歩いた。

 Titleを出て八幡神社に寄る。帽子に汗じみができている。夏の通気性のいいアウトドア用の帽子がほしくなる。

 今年の春以降、自分の時間が止まっているというか、なかなか未来に向って踏み出そうという気分になれず、知り合いに会うと「しばらく休むよ」というのが挨拶がわりになっていた。家に帰って『スペクトラム伝説』を聴いているうちに、街道歩きを再開する気になった。夕方、帽子を買いに行った。

2020/08/13

日記

 十二日、昼二時半ごろ、雷が鳴りまくる。バリバリ鳴る。杉並区は二千五百戸以上停電になったようだ。
 新型コロナと関係なく、収入減——旅もせず、外食も減り、かつてないくらい財布の紐が固くなっている。
 人口過密の都心部でさえ、個人営業の店やチェーン店が閉店している。年に一、二回しか行ってなかった店でもなくなると寂しい。いわゆる常連客、年数回の客、新規の客——すべてが店を支えるためには必要なのだ。店の並びが町の風景を作っている。その風景が変わってしまう寂しさもある。

 大岡昇平著『成城だより』の一巻。四月十一日、渋谷の「109」は「トウキュウ(東急)」と読み、営業時間の午前十時から午後九時まで営業していることとかけているといった記述があった。「109」は大岡昇平の息子が(通路や壁面の)設計にかかわっていた。「トウキュウ」の読みは「イチマルキュー」になり、今は「マルキュー」か。
 開業は一九七九年。大岡昇平は新宿生まれ、渋谷育ちでもある。

 六月十五日の日記に「暑い間はひる寝なり」とある。七十代の大岡昇平、けっこう忙しい。寒い日と暑い日は休み休み仕事している。

 神奈川近代文学館の「大岡昇平の世界展」は十月三日(土)に開催延期になった。部屋の掃除をしていたら一九九六年十月の神奈川近代文学館の「大岡昇平展」のパンフレットが出てきた。わたしが文学展パンフの収集をはじめたのは、一九九五年ごろで、かれこれ四半世紀になる。

《大岡昇平が大磯から成城へ移ったのは一九六九年(昭和四十四)六十歳のとしであった》

 同パンフには『成城だより』の原稿の写真も載っている。
 講談社文芸文庫版の加藤典洋の解説には、大岡昇平は武田百合子の『富士日記』を意識していたのではないかと書いている。『成城だより』にも武田百合子の名前はちらほら出てくる。

  一九八〇年六月十六日の日記には「武田百合子さんのマンション、近所なれば、帰りに埴谷と寄る」とある。

《百合子さんはすでに週末は富士北麓の山小屋行きあり。こっちは隣組だが、老衰して梅雨が明けないと行けず。しかしこんどはこっちが「日記」を書いているから「富士日記」の仇取ってやるぞ、といえば、あぶないから近寄らない、という》

2020/08/11

成城だより

 昨日は日中の最高気温三十五度。暑い。万歩計のボタン電池が切れていたので交換する。
 週一、二回、中野区の大和町や野方を散歩する。道に迷っているうちに大和町の八幡神社に辿り着いた。住宅街の中の神社だけど、参道がある。魚魂碑という釣魚の慰霊碑があることを知る。

 都内の新型コロナの感染者数の増加と自分の危機感がまったく比例していない。時候の挨拶のようにコロナの話を書いている。新刊案内を見るとタイトルに「コロナ後」と付いた本がけっこうある。「コロナ後」はいつ来るのか。

 恐怖や不安に根ざした思考は強い。さらに嫌悪感や正義感が加わるとより強固な思考になる。新型コロナに限ったことではなく、差別、排外主義も同様の思考過程をたどりがちだ。不安なときはニュースよりも古本を読むほうがいい——とわたしはおもっているのだが、それはそれで世の中とどんどんズレていく。
 大岡昇平の『成城だより』を再読する。文藝春秋のすこし大きめの新書版の三巻本で読む。

《散歩の必要。大腿筋の如き大きな筋肉を働かすと、脳内の血行が活発になるとの説あり。実際、古今東西に歩行の詩文多く、筆者も以前は行き詰まると書斎内をぐるぐる歩き廻ったものだった》

 当時の大岡昇平は駅まで十五分の散歩でも疲れ、帰りはタクシーに乗った。
 一九七九年十一月の日記。大岡昇平七十歳。『文學界』一九八〇年の新年号から連載がはじまった。大岡昇平が亡くなったのは一九八八年十二月二十五日。たしか『昭和末』(岩波書店)という本も家のどこかにあったはずだ。

2020/08/05

古山高麗雄生誕百年

 明日八月六日、古山高麗雄生誕百年を迎える。
 
 今の文芸誌は生誕百年や没後何年の企画をあまりやらなくなった。バックナンバーとしてとっておくのはそういう号だけなのだが。古本好きの文芸編集者の知り合いも、ほとんど引退してしまった。これから数年のあいだに戦中派の作家や詩人が続々と生誕百年になるが、特集が組まれそうなのは山田風太郎、鮎川信夫、吉本隆明あたりか。

 古山高麗雄著『一つ釜の飯』(小沢書店、一九八四年)の「過保護期の終わり」を読む。昭和十六年の春——コメディアンの高勢実乗の「わしゃかなわんよ」という流行語が時局に好ましくないという理由で禁じられた。

《私たちは、このような時代には、江戸時代の戯作者の精神で生きなければ生きようがない、などと言い、戯作精神の発露として、みんなで隅田川沿いに住み、互いにポンポン船を利用して訪問しあい、永井荷風のように娼婦を愛し、国民文学ではなく、黄表紙小説を書こうではないかと申し合わせた》

 この「私たち」の中には安岡章太郎もいた。安岡章太郎も今年生誕百年だった。

 昭和十六年になると、町から様々な物資が消えた。普通のパンがなくなり、コーヒーも大豆の代用品になった。
 はじめて古山さんと会ったときも戦時中のコーヒー事情を聞いた。わたしは二十五歳、古山さんは七十五歳——年の差五十歳。二十五年前の話である。「過保護期の終わり」にも当時二円で本物のコーヒーを飲ませる店に通いつめていた話を書いている。そうこうするうちに大東亜戦争がはじまった。

《ポンポン船に乗って、一時しのぎに自分を茶化し、紛らわしてみても、自分の行く道の先にあるものが、絶望的な状態であることは予見していた》

 古山さんに聞いた戦争体験で印象に残っているのは、戦死者といっても栄養失調や病気で命を落とした人が多かったという話である。それから現地では虫(蚊)や蛇が怖かったという。敵と銃を撃ち合って命を落とすみたいなことはほとんどなかった。あくまでも古山さんが経験した戦場の話だが、戦場で食料や薬が払底すれば、人間は簡単に死んでしまう。

 当時の軍部を古山さんは強い言葉で批判することはなかった。終始、穏やかに五十歳年下のわたしに戦争のひどさを伝えようとしていた。小柄で小声でぼそぼそ喋る人の戦争の話を聞くことで、自分のような人間が戦場に行けば、ロクな目に遭わないと想像できた。

2020/08/03

新居(にい)散歩

 夜、散歩。満月。ひさしぶりに月をじっくり見た。
 都内の新型コロナの感染者数を報じるニュースを見ても、天気予報くらいの感覚になりつつある。これが正常性バイアス(日常性バイアス)か。
 コロナ禍以降、気長にものを考えられなくなっている。それでも苦難苦境を乗り越えてきた人々が書き残してきた書物に学ぶことはたくさんある。

 土曜日夕方、西部古書会館。そのあと二冊持っていた本を何かと交換しようとおもい、高円寺の「まちのほんだな」の北二丁目支部を見に行く。ここは有志舎の永滝さんがやっている棚。読みたかった本があって嬉しい。

 話は変わるが『中年の本棚』のあとがきで「高円寺の寓居にて」と書いた。新居格の本を真似た。寓居は「仮の住まい」という意味と「自宅の謙遜語」という意味がある。

《わたしはなによりも散歩が好きであるが故に、散歩だけは怠らなかった》(「街の銀幕」/新居格著『生活の窓ひらく』第一書房、一九三六年)

 新居格は「散歩者」を自称し、単調な暮らしを好んだ。また「文学者」である前に「生活者」であろうとした。 戦中、言論弾圧が厳しくなった時期には「生活の向上」や「健康」に関する文章をけっこう書いている。

 彼が高円寺に住むようになったのは一九二四年十月。新聞社を何社もクビになった後、アナキストの評論家とおもわれていたため、定職に就くことができず、雑文書きで食いつないだ。勉強家だが、これといった専門がなく、高円寺で暮らしはじめたころは借金生活を送っていた。 すこし前、永滝さんに新居格が生協の前身にあたる運動をやっていたことを教えてもらった。頼み事を断れない性格だった。

 昭和十七年刊の『心のひゞき』(道統社)の奥付を見ると、新居格の住所は「杉並區高圓寺三ノ三一六」となっている。今の住所だと高円寺南四丁目——長善寺や福寿院などの近くか。評伝などを読むと中野や阿佐ケ谷界隈にも住んでいたことがあるようだ。

2020/07/31

中年の本棚

 突然、ブログの仕様が変わり、投稿の仕方がわからなくなる。Bloggerの利用者、ついていけてますか。変な「+」マークをクリックすると新しい投稿が作成できるようだ。
  新刊の『中年の本棚』(紀伊國屋書店)が出ました。「scripta」で二〇一三年春から二〇一九年秋まで続けた連載をまとめた一冊(書き下ろしも一篇収録)である。コロナ禍の推敲作業——五十肩の痛みに耐え、よく頑張ったとおもう。
 今「中年本」は出版のひとつのジャンルになっている。「四十歳からの~」「五十歳からの~」といった本も合わせるとすごい量だ。就職氷河期世代の「中年本」も次々と刊行されている。

《仕事が減る。将来に不安をおぼえる。そのときにちょっとした発想の転換ができるかどうか》(「中年フリーランスの壁」/『中年の本棚』)

 今もわたしはそういう状況にいる。自分の書いた文章に教えられ、気づかされることもある。「初心」を忘れず、「好奇心」を持続し、さらに休息をとって――中年は課題だらけである。
  中年ひとりひとりの事情は多岐にわたる。子どものいないわたしは「親」という立場からの中年論には踏み込めなかった。自由業しか経験していないので勤め人の中年事情にも疎い。それでも中年期の「心のもや」を晴らす一助になるような本を目指したつもりだ。
 ヘタな考え休むに似たり。だったら、とりあえず一休みしてから考えようというのが、わたしの人生の方針である。疲れた状態で悩んでもロクな結論に至らない。

 今はどうにかこうにか本の形にまとまったことを喜びたい。

2020/07/28

藤原審爾のこと

 藤原審爾著『一人はうまからず』(毎日新聞社、一九八五年)の「梅崎春生 その噂」は「もの書く連中で、戦後、最初の友人は、梅崎春生と江口榛一である」という一文ではじまる。
 江口榛一は赤坂書店の『素直』の編集長である。

《「素直」に作品をわたしはのせてもらったし、そのころ梅崎は高円寺よりの阿佐ケ谷に住んでおり、わたしは阿佐ケ谷の外村繁師の宅へ泊っていたものだから、自然、親しくなったのである》

 梅崎春生、阿佐ケ谷に住んでいたのか。

 梅崎春生の年譜には一九四五年九月に「南武線稲田堤の知人宅にころがりこむ」、一九四六年二月「目黒区柿ノ木坂一五七の八匠衆一宅に転居」とある。

《それ以前、梅崎の噂をよくきいていたし、梅崎と一緒に住んでいた八匠衆一とは、もう知り合っていたから、万更知らぬ仲でもなかった》

 一九四七年一月、梅崎春生は結婚、十月に世田谷区松原に引っ越す。松原には椎名麟三も住んでいた。
 梅崎春生が「高円寺よりの阿佐ケ谷」に住んでいた時期を推測すると結婚して世田谷に引っ越すまでの間か。藤原審爾が梅崎春生にはじめて会ったのは「秋津温泉」を発表後とある。「秋津温泉」の発表は一九四七年——梅崎春生はその作品を「曲射砲で撃たれたようだ」と評した。

 他のエッセイでも梅崎春生に誘われて新宿のハモニカ横丁で飲んだ話などを綴っている。

 藤原審爾は一九二一年三月生まれ。幼いころ、両親を亡くし、岡山の父方の祖母に育てられた。

《わたしが育った家は、瀬戸内海の入り海ぞいの町で、岡山市から七里(約二十八キロ)ほど離れたところである。今は、隣町と一緒になり、備前市となっている》

 すこし前に笠岡市の古城山公園の木山捷平の詩碑のことを書いたが、詩を選んだのは藤原審爾だったことを『一人はうまからず』の「木山捷平さんの詩のこと」で知る。

《わたしは、大いに迷ったが、「杉山の松」をえらんだ。二十の頃のわたしはこの「杉山の松」に出あい、大きな感銘をうけた》

2020/07/27

住まいの話

 QJWebの「半隠居遅報」は隔週から月一の連載に——報告が遅れてすみません。
 今月は「『プリンセスメゾン』をコロナ禍に読む。持ち家か賃貸か。何かをしようと考えることによって初めて道が見えてくる」というコラムを書いた。
https://qjweb.jp/column/30553/

 わたしは一度も持ち家に住んだことがない。
 コロナ禍のすこし前までは地方移住も考えていたが、今はずっと高円寺界隈で暮らしたいとおもっている(そのうち気が変わるかもしれないが)。
 二十代のころ、風呂なしアパートを転々と引っ越していた。当時、住まいに関するいちばんの悩みは防音だった。あと冬に銭湯やコインシャワーの帰り道、すぐ湯冷めしてしまうのもつらかった。

 音の問題を気にせずに暮らせる風呂付の部屋に引っ越せば、人生の悩みの大半は解決するのではないかとさえおもっていた。そんなわけはない。
 防音のしっかりした部屋はそうではない部屋より家賃が高い。家賃が高くなった分、仕事量を増やす必要がある。仕事が増えた分、ストレスも増え、仕事が減ったときの不安も増す。
 三十歳ちかくで風呂付きの部屋に引っ越してしばらくすると今度は追い炊き機能付の風呂がある部屋に住みたくなった。おそらく追い炊き機能の次はジャグジーやサウナ付に憧れるのかもしれない。

 人の欲はキリがない。簡単には満足できない。どこまで行っても不充足の日々である。
 ただ、人の欲なんてそういうものと割り切ってしまえば、住まいに関しては、小さな不満を抱えているくらいでちょうどいいのかもしれない。

 高円寺散歩の途中、入ったことのない喫茶店で富士正晴著『薮の中の旅』(PHP研究所、一九七六年)を読む。「所詮 人間」と題した連作随筆が面白い。

《人間は考える限り平屋に住んでた方がええ。せいぜい二階までや。火事の時飛び降りれるいうたら二階ぐらいまでやろ》

 これは完全に同意である。古い考えかもしれないが、わたしは賃貸の物件を借りるとき「窓から逃げることができる」部屋を選んでいる。
 もちろん理想の家は平屋である。

2020/07/22

大物ねらい

『フライの雑誌』の最新号(120号)が届く。ここ数日、今後の仕事のことを考え不安になっていたのだが、川の写真に癒される。この号の特集は「大物ねらい」と「地元新発見!」でいつも以上に密度が濃い。ものを作る、趣味を愉しむ。その「初心」に溢れている。頭脳警察の映画の広告が載っている釣り雑誌というのもおそらく前代未聞だろう。
 わたしもこの号に「釣れん文士 山口瞳」という随筆を書いた。でも本物の釣り好きの書くものにはかなわない。毎回敗北感を味わう。そういう感覚が味わえる雑誌に書けることは物書き冥利なのだけど、悔しい。
 ジョン・マント・ジュニアの「戦争と釣り人」(日本語訳・東知憲)が素晴らしかった。もともと二〇〇二年秋に発行されたアメリカのフライフィッシングの博物館の機関誌に発表されたものだという。
 戦争あるいは苦難の時代の中、釣りに耽っていた人たちがいる。当然、葛藤がある。釣り以外の趣味にも通じる普遍性のある葛藤だ。
 このレポートには釣り好きで知られるアメリカの政治家ヘンリー・ヴァン・ダイクの名前がたびたび登場する。彼は第一次大戦中の戦火の中でも釣りをしていた。釣りに関する著書も残している。
 ヘンリー・ヴァン・ダイクが当時の戦場を回顧する言葉が身にしみる。

《——マルヌ川やマース川で、激しい砲火が周りで炸裂しているとき、岸辺でじっくりと釣りをする兵士がいた。彼によると、普通の人間には神経への負担と集団的な狂気から身を守るための、リラックスと気晴らしが必要なのだ。——》

 真柄慎一さんの「親孝行」を読み、自分の父のことをおもいだした。真柄さんはなかなか書かないのだけど、書くものすべて傑作だ。わたしは生前の父に何もできなかった。子どもの役割は元気で楽しく生きていることだ——と開き直っている。子どもといっても中年のおっさんなわけだが。

「サバイバルです FM 桐生『You've got Kiryu!』から」(島崎憲司郎&山田二郎)は名言だらけ。生き残ることか。ほんとうにそうだなとおもう。

2020/07/20

タマの行方

 福原麟太郎の『野方閑居の記』の続き。タマは野方に引っ越せたのかどうか。昨年ふくやま文学館で買ったパンフレット『福原麟太郎の随筆世界』によると「猫」の初出は一九四八年一月の『サンデー毎日』となっている。これがそのとおりだとすると、福原麟太郎が野方に引っ越したのは一九四八年八月だから、すでにタマは世を去っている。
 しかし随筆の時系列はそれほど単純ではない。というか、新潮社版で読んだとき、新居にタマがいる文章があったような記憶がある。

『野方閑居の記』所収の「新しい家」を読む。これを読むと「(新居には)八月末に移れる筈が、十一月の末になった」と記されている。

《一生の流浪を覚悟した私の家庭もこうした郷里から父母を迎え、妻は妻の部屋に籠り、私は私の書斎らしいものを得、就中、震災の時から家族の一員になった老犬は、引越しのどさくさ紛れに、生まれて初めて空箱をほぐしてこしらえた小屋を新築してもらったとなると、どうやら少し落着く港を得たような心持であった》

 このエッセイでは新居に引っ越して、ある晩、タマがいなくなってしまう話が綴られている。

《初めは、明日は帰るだろうと思っていた。然し明日も帰らなかった。その翌る日も帰らなかった。(中略)三日目にも帰らなかった。私どもは殆ど絶望してしまった。新しい家には暗雲がとざして、どうにもいたましくてたまらなくなり、私は実際閉口してしまったのである》

 新居でタマが行方不明になったとすれば、一時は野方にいたのか。「猫」の初出の日付がまちがっているのか。
 行方不明になったタマはこの年のクリスマスに痩せて薄黒く汚れた姿で帰ってくる。

《そして私の家では、この新しい家で始めて、いくらか幸福が又立ち帰ってくるらしい気はいを感じながら、クリスマスの杯を上げたのであった》

 わたしは勘違いしていた。「新しい家」は昭和二十三年の野方ではなく、昭和八年の文京区小石川の家の話だったのだ。
 その間違いに気づくことができたのは沖積舎版の『野方閑居の記』の年譜のおかげである。昭和八年「同町内の新築家屋に転居」とあり、その下段に「新しい家」の一節の引用を見て「ああ」となった。

『野方閑居の記』と題した本で新居にまつわる思い出が書いてあるから、野方の話だとおもいこんでいた。これまでの読書人生でどれだけこうした誤読をしているか。気づかないままになっていることもたくさんあるにちがいない。

2020/07/19

福原麟太郎と猫

 先週、都内の新型コロナの感染者数が連日三百人近い数字を記録した。とはいえ、三月末にオーバーシュートだとかロックダウンだとか何とかいわれていたころと比べると、(わたしの)危機感は薄れてきている。
 マスクやトイレットペーパーや常備食品が難なく手に入るようになり、日常生活に不便を感じなくなったせいかおかげか。
 日曜日、東中野まで散歩。途中古書案内処、ブックオフの中野早稲田通店に寄る。古書案内処で福原麟太郎の『野方閑居の記』(沖積舎、一九八七年)を買う。新潮社の版の復刻だが、沖積舎版は巻頭に写真、詩作品、短歌、年譜、それから庄野潤三、阪田寛夫、外山滋比古の栞文が付いている。早稲田通りの東中野界隈は寺が多い。
 業務スーパー東中野店からライフ東中野店へ。ライフ東中野店は衣料品充実している。いつも郷里に帰省したときに買う夏用の長袖シャツも売っていた。三〇%引きだったので二着買う。

 家に帰りカレーを作り『野方閑居の記』再読。「猫」と題したエッセイがいい。昭和六(一九三一)年から十七年ともに暮らした猫のタマの死から戦中戦後をふりかえる。家を失い、猫とともに都内を転々と移り住む。

《私どもは、戦争中とにかく東京にいて戦火と戦ったことを誇としている。私は決して逃げなかった。逃げることは私の学校の勤めが許さなかった。(中略)みんな逃げてしまっては学校も学生も捨てられてしまう。
自分の勤めは勤めなんだから、はなれるのは卑怯だと考えていた。軍国主義でも全体主義でもない。格別えらい思想があったのでもない。ただ、自分のすべきことだと思っていたに過ぎない。だから猫も一緒に東京に留まっていた》

 福原麟太郎は一八九四年十月生まれ。五十歳のときに敗戦を迎えた。生きているかぎり、英文学の勉強をすると決めていた。五月の空襲で学校が焼けた週も読書会を続けた。学校は文京区小石川にあった東京文理大、後の東京教育大(現・筑波大)である。
 戦火にさらされながら教育者の使命を貫いた福原麟太郎は戦後になって疎開していた文化人たちが戦時中の日本の愚かさを嘲笑するのを聞き、腹を立てる。

《何だか解らない、そんなのはフェアプレーの言説ではないという気がして良い心持ではなかった》

《何といっていいか解らないが、己達は、すべき平常を守って来たんだ。逃避者やオポテューニストは少し遠慮してほしいというわけであろうか。私はくさくさしながら、焼け跡の瓦礫を踏んでいまの仮寓へ帰る日が多かった。猫は、いつの日にも私の靴音をきては玄関まで迎えに出て、障子の腰板に頭をすりつけて、だまってまたのそりのそり引っ込んだものだ》

 同書所収の「わが読書」でも空襲のさなかの読書生活を綴っている。朝はシェイクスピア、夜は斎藤緑雨、饗庭篁村などの明治文学を読んでいた。

 中野区野方に引っ越すのは一九四八年八月。タマは新居に引っ越せたのかどうか。今、調べているところである。

2020/07/15

信濃路

 夏にしては涼しいが、湿度が高い。日々の散歩の歩数が少なめのせいか頭が回らない。

 夕方、部屋でぐだぐだしながら三輪正道著『定年記』(編集工房ノア、二〇一六年)を再読した。三輪さんが亡くなったのは二〇一八年一月。もう二年半になる。神戸に暮らし、四十代以降だいたい五年に一冊ペースで編集工房ノアから随筆集を出していた。

『定年記』の目次を見ると「千國街道にて」という一篇がある。

《上杉謙信が武田側に塩を送ったという「塩の道」という昔ながらの街道がのこっていて、千國(ちくに)街道と呼ばれていた》

 三輪正道は黒田三郎の詩集を持って旅をする。その詩に「ぐずで能なしの月給取り奴!」という言葉が出てくる。『小さなユリと』か。このとき三輪さんはJR大糸線で信濃木崎駅を訪れた。地図を見ると木崎湖という湖がある。そこから西にすこし歩くと鹿島川があり、大町温泉郷がある。いつか泊りたい。

 昨年わたしは大糸線の豊科駅のあたりを歩いた。臼井吉見文学館に行った。
 大糸線で長野から新潟の糸井川あたりまで旅行したいのだが、都内の新型コロナの感染者数の増加のニュースを見て、二の足を踏む。

 三輪正道著『泰山木の花』(編集工房ノア、一九九六年)には「信濃路から金沢へ」「晩秋の信濃路」などの紀行文が収録されている。
 どちらも大阪発の夜行急行「ちくま」に乗って長野を旅している。
 三輪さんは青春18きっぷや周遊券もよく利用していた。インターネットが普及する以前の旅はのんびりしていた。
 夜行急行の「ちくま」は定期列車としては二〇〇三年秋まで運行していたようだ(臨時列車として二〇〇五年秋まで運行)。

 夏の信濃路を歩きたい。

2020/07/12

びりだらびりだら

《何もせんぞと思いつつ、何かをせねばならないぐらい厭なことはないが、何かをせねばならないことが、どうしてこう近頃ふえて来るのか、これは世間の都合だから仕方がないことで、世間に抗することは出来ない》(「何もせんぞ」/富士正晴著『狸ばやし』編集工房ノア)

「何もせんぞ」というわけにもいかず、週末、西部古書会館の大均一祭に行く。初日(土)は二百円、二日目(日)は百円、三日目(月)は五十円——といっても最終日まで売れ残っているかどうかはわからないので初日は街道関係と仕事の資料を中心に十二冊、二日目は何となく栄養になりそうな雑本を十二冊買う。「下半期の古書即売展一覧」も配っていた。

 富士正晴は読書と酒と煙草の人だった。そして集団ぎらい、強制ぎらいだった。幼少期から人と歩調を合せるのが苦痛で仕方なかった。世の中にはそういう人が一定数いる。共同作業には向かないが、集団ヒステリーには左右されにくい。これは思想以前の体質かもしれない。

 正義や道徳のない世の中は生きづらい。正義と道徳を押しつけられる世の中も生きづらい。
 たとえば行列がある。割り込みをするのは悪かもしれない。並びたくない人を無理矢理並ばせようとするのは正しいのか。

 正しいか間違っているかは「時の審判」がもっと信用できる。

 富士正晴は古典を読みながら新聞の切り抜きをする。時勢に流されず、ゆっくりものを考える。
 すぐに答えを出すことが正解ではない。正解がないという答えもある。

2020/07/07

不参加の思想

《文化大革命がはじまった時、わたしは一向にわけが判らなかったが、郭沫若の自己批判におどろきと共に、こいつめといった嫌悪感を抱いた》(富士正晴著『心せかるる』中央公論社、一九七九年)

 文革のころから富士正晴は新聞の購読を四紙に増やし、関連記事の切り抜きをはじめた。もともと中国びいきで毛沢東のことも好きだった(漢詩や『世説新語』などの古典を愛読していた)。
 ところが富士正晴は中国の文革の学生が「金瓶梅」などの古典の抹殺を唱えていることを知り、「いささか以上の憮然たる感情」を抱くようになる。さらに江青には「深い反感憎悪」を感じたという。

 文化大革命の情報にたいする富士正晴の心境は「嫌悪感」「憮然たる感情」「反感憎悪」と理屈ではない。
 理屈よりまず違和感がある。感覚をもとに判断する。まちがえることもあるだろう。
 富士正晴は文革の切り抜きを時間を置いて読み返すつもりだったのだが……。

《年老いて面倒になったということかも知れんし、革命ちゅうもんは阿呆らしいみたいなもんやなという気になって来たのかもしれん。とにかく、この世に気が失せて来たみたいや》(『心せかるる』)

 富士正晴著『不参加ぐらし』(六興出版、一九八〇年)の表題の「不参加ぐらし」でも文革について綴っている。

《政治とか経済とかの実力世界、闘争世界に、定年がない(つくれない)ということは実に気味悪い恐ろしいことだが、これは仕方がない。しかも、傑物、大物、切れ者、英雄であっても、年老いてモウロクすると、変な実力行使をはじめることが屡々あるので、理に合わぬ世界が、理に大いに合った外貌で、展開し渦巻くのではなはだ厄介な無意味な影響を後に残すということになる》

 富士正晴は会合その他に「不参加」を決める。
「私流・中国遠望」ではこんなことを書いている。

《五十歳をすぎてから、わたしはひどく精神の皮膚が弱くなった感じで、行動的にははなはだ冷淡で、デモ、集会、そうしたもののために一歩も足を動かしたことがなく、やたらにはやる宣言、カンパ、署名運動、政治運動、文学運動にも参加する気がない》

 わたしも五十歳になって、いや、もっと前から「社会不参加」を心がけている。理念や思想ではなく、体力がないというのがその理由だ。平行線になりがちな議論に参戦するには体力がいる。自分の考えが正しいとおもっているわけではない。でも考えを変えるにしても自分のタイミングで変えたい。

 自分のことしか考えてないのかといわれたら、そのとおりなので申し訳なくおもう。

2020/07/04

荷風と白鳥

 金曜日、三ヶ月ぶりに西部古書会館。入口で検温。ふだんより棚の本数が少ない。大岡昇平、坂口安吾の文学展パンフなどを買う。ここ数年、古書英二の棚が面白い。

 中村光夫の『《評論》漱石と白鳥』(筑摩書房)を読みながら、正宗白鳥の思想について考えた。
 白鳥は一八七九年岡山県和気郡(現・備前市)の生まれ。幼少のころ、よく西南戦争(一八七七年)の話を聞かされていた。

《白鳥氏の心に深く印象された最初の偉人が、西郷隆盛であったことは、今日多くの人々に意外の感を与えるでしょうが、同様に氏の文学趣味を最初にみたしたのが、江戸伝来の戯作であったことも、人々は意外に思う事実かも知れません》

 わたしは白鳥の反戦もしくは厭戦の思想は、キリスト教からきているとおもっていた(それもあるだろう)。
 しかし江戸文化や西郷隆盛におもいいれのある人物と考えると、明治以降の日本にたいし不信感をいだいていたとしてもおかしくない。
 昔も今も日本は一枚岩ではない。愛国心やナショナリズムは西南戦争以降の新しい文化なのである。
 白鳥と同い年の文士に永井荷風がいる。荷風も時勢にまったく乗らない作家だった。

 鮎川信夫著『歴史におけるイロニー』(筑摩書房、一九七一年)に「戦中『荷風日記』私観」という評論がある。
 昭和十五年ごろ、軍人に演説の依頼された荷風は「筆を焚き沈黙する」決意を固める。

《震災以後、東京の良風美俗が亡び、純粋の東京人が年とともに減少していくことを嘆くのは、ほとんど荷風の口癖といっていい》

《荷風は金があったから戦争中沈黙してすごせたのだという人がある。荷風自身も蓄えがあったから云々というようなことを言ったと思うが、自分を「他国人」と感じながら、あの時期にものなど書いていけるはずなかったろう》

 正宗白鳥が永井荷風をどうおもっていたのか知りたくなる。

2020/07/01

安保と白鳥

 戦中を回想する正宗白鳥の随筆を読むと、そのころ白鳥は文壇生活にも見切りをつけ、残生をどう過ごそうか——といった心境だったようだ。
 一八七九年生まれの白鳥は、終戦時、六十六歳だった。

 かつて中村光夫は白鳥について「理科系統の学者に通じる鋭さと冷たさがある」と批評した(『《評論》白鳥と漱石』筑摩書房、一九七九年)。

 わたしは三十歳すぎたあたりから白鳥の随筆をくりかえし読むようになった。この世のあらゆることを懐疑しつつ、とぼけた味わいのある文章を書く。

 一九六〇年——日米安保の議論が巻き起こったときも正宗白鳥は「賛成の方にも、反対の方にも、一理屈あって、私には簡単に一方ぎめにする気になれないのである。それに、言論自由の世の中だから、しいて一方にきめなくてもいいはずである」(「恐怖と利益」/『白鳥随筆』講談社文芸文庫)といっている。

 沈黙せず、しかも自分は賛成でも反対でもないことをのらりくらりと表明する。これも文学者としてのひとつの筋の通し方だろう。
 さらにこの随筆には続きがある。

《戦争拒否には、政府案がいいか、反対案がいいか、両者の新説を読んで、私には決定しがたいのである。どちらにしたって、戦争は起る時には起るだろうと、私には思われるだけだ》

 賛成か反対かという問いにたいし、どちらでもないという立場もある。その立場にも理屈はある。
 白鳥の場合、日露戦争のころから一貫して反戦の立場なのだが、そこには厭世観も含まれる。

2020/06/30

戦中の白鳥

『文学・昭和十年代を聞く』(勁草書房、一九七六年)という本がある。
 中島健蔵は戦前の反ファシズム、リベラルの勢力がいかに切り崩されていったかについて語っている。昭和十年代の作家や評論家たちの中には軍国主義に抵抗していた作家もいた。ナチスが共産主義や性関係の書物を焚書している噂が伝わってくると、多くの作家が反対した。

《その時には、日本でもそういうことがおこりかねない空気だった。事実、日本の古典に対しても相当うるさいことを言い出す人間が出はじめたし、検閲がひどくて何も書けない。少しでも左がかりの文章はみんなバッテンだらけだ》

 当時「戦争反対」や「帝国主義」という言葉が伏字になった。伏字ならマシで発禁になる。中島健蔵がペンクラブ常任理事になったころ、日本空軍の重慶の大爆撃が行われていた。ロンドンのセンターから政府に抗議しろと電報を受け取ったが、どうにもできない。

《あの時、ペンクラブには会長の藤村がいたし、白鳥も秋声もいたでしょう。それからもう少し若くなるが、武者小路実篤、堀口大学……ずいぶんいろいろな人がいたけれども、ほんとうに僕が「現役」だと思ったのは白鳥だね。白鳥はすごかったね、やっぱり》

 正宗白鳥は最後まで時勢に便乗しなかったという。

 正宗白鳥著『白鳥随筆』(坪内祐三選、講談社文芸文庫)の「少しずつ世にかぶれて」(一九四七年三月)に当時の心境を綴っている。

《今度の戦争では、日本が負けるだろうと、私ははじめから予想していたのであったが、それは先見の明があった訳ではなく、日露戦争の時にも、私は、小なる日本は大なるロシアに対して終局の勝利は占め得られないだろうと予定していたのであった》

 ようするに負けるとおもっていたから乗り気ではなかった。それで東京を離れ、軽井沢に移り住んでいた。

《私は独自一箇の見解を有っているつもりであり、それを志していたのであったが、今から回顧すると、時代の影響の下に動いていたに過ぎなかった。基督教は外来の清新な宗教であったために、私などはそれにかぶれたのであったが、も少しおそく生れてマルクス主義の流布する時代に接触していたなら、私はそれにかぶれたに違いなかった》

 中島健蔵は白鳥のことを「すごかったね」と語ったが、本人は「かぶれたものに徹底しないのを、私は悲むことがある」と自らの信念のなさをボヤいているのがおかしい。

2020/06/26

才能の貯金

 先日、昭和十二年の『杉並區詳細圖』を購入し、木山捷平の高円寺時代の住所を調べた。
 杉並区馬橋四の四四〇。高円寺駅と阿佐ケ谷駅の北側のちょうど真ん中あたりだ。わたしが二十代半ばごろ、高円寺で住んだ三番目のアパートの近くでもある。

 河盛好蔵著『文学空談』(文藝春秋新社、一九六五年)に「『メクラとチンバ』の作者」というエッセイがある。
『メクラとチンバ』は一九三一年、木山捷平が二十七歳のときに作った自費出版の詩集の題。
 藤原審爾の会で木山捷平が乾杯の音頭をとったら妙なおかしみがあって、みな吹き出してしまったという話から河盛好蔵は木山文学の魅力を語る。

《藤原君の会で井伏鱒二さんと会ったとき、木山文学の話が出て、井伏さんは「木山君は才能をいままで貯金して使わないでいたらしい」といった》

 藤原審爾の会は『殿様と口紅』で小説新潮賞を受賞したころだから一九六二年。木山捷平は五十八歳で『大陸の細道』を発表した時期だ。その翌年『苦いお茶』を発表している。直木賞候補になった『耳学問』が一九五六年——五十二歳のときの作品だが、ここから小説の代表作を次々と書いた。

 ちなみに河盛好蔵は荻窪(天沼)に住んでいた。亡くなったのは二〇〇〇年三月二十七日、享年九十七。酒好きだったエピソードがたくさん残っているが、長生きした。

2020/06/24

いい日

 仕事部屋兼書庫の引っ越しからもうすぐ一年になる。
 午後一時くらいに起きて冷たいほうじ茶を水筒に入れ、徒歩三分くらいのところにある仕事部屋に行く。テレビもネット環境もないのでずっとTBSラジオを流している。

 プロ野球が開幕してひいきの球団はちょっと調子はよくないが、去年、一軍と二軍を行ったりきたりしていた選手が活躍して嬉しい……と書いていたらヤクルトファンの尾崎世界観が同じような感想を喋っていた。

 やらないといけない仕事が手につかず、黒田硫黄の『茄子』(全三巻、講談社)を読む。『月刊アフタヌーン』で連載がはじまったのは二〇〇〇年秋ごろか。もう二十年前か。

『茄子』の若隠居になりたい男性の名前がおもいだせなくて読み返した。二巻くらいだったかなとおもったら二巻だった。「お引っ越し」と題した回。デパートでアルバイトしている女性が可愛い。彼女は風呂なしアパートに引っ越したあと「リッチじゃなくても優雅に暮らす」とテレビのない生活を送る。
 隠居志望の男性はコンビニの夜勤のバイトをしながら「もっとガシガシ稼がないと若隠居はムリかなあ」とボヤく。やる気がなくて頼りない。で、結局、隠居じゃなくてインドを目指すのだが……。ちがうかもしれないが、九〇年代後半くらいの中央線界隈の下宿っぽい雰囲気だ。
『茄子』の中でも特に好きな回なのだが、ディテールはけっこう忘れていた。小さなエピソードだけで登場人物の性格がすーっとわかる形で描く。
 三巻には表紙にクマが描かれている。全巻通して登場する職業不肖のヒゲメガネ中年の回にクマが出没する。ツキノワグマか。たぶん場所は岩手だとおもう。花輪線の駅名が出ていた。前に場所を調べたことがあったが、それも忘れていた。

 三巻の「いい日」の「ロマン補充すっか」というセリフはおぼえていた。これは忘れん。

2020/06/22

列外

 十五日、特別給付金が振り込まれていた。二十代のはじめごろからある少部数の同人誌を集めているのだが、創刊号が未入手で——気長に探していたのだが、ついにネットの古本屋の力を借りることにした。あと戦前の杉並区の地図も買った。

 たまにツイッターやブログで二十代や三十代の人の文章を読む。世代のちがう彼らはわたしのまったく知らない漫画を読み、ゲームをして、音楽を聴いている(固有名詞がほとんどわからない)。
 だけど、集団生活が苦手であんまり働きたくなくて趣味にお金や時間を費やして……というタイプはどこかしら思考が似てくるのかもしれない。
 社会にたいする見方にしても早急の結論を出すやり方ではなく、人間のダメなところを許容し、失敗を責めず、自分も他人も適当にぐだぐだと生きていける世の中のほうが暮らしやすいのではないかと考えている。
 寛容ともいえるが、いいかげんともいえる人生観だ。

 まわりのみんなが力を合せて何かのプロジェクトに立ち向かっているときも常にそれ以外のことを考えている。
 なるべく邪魔をしたくないから、すみっこのほうでひっそりと時間をつぶしている。
 そして家に帰ると誰に頼まれたわけではない文章を書いたり絵を描いたり音楽を作ったりしている。彼らはいつだって寝不足だ。
 当然やる気がないと文句をいわれる。

 といって下手にやる気を出すとプロジェクトの意義そのものを否定するような提案をしかねない。だから終始黙っているのだが、そういう心情はおそらく周囲の人には理解されないだろう。

 中年のおっさんになったわたしにいえることはちゃんと栄養のあるものを食い、睡眠時間だけはきっちり確保しろということだ。

 あとは好き勝手に生きればいいとおもいますよ。責任はとれませんが。

2020/06/19

態度と反射

『鶴見俊輔著作集』(筑摩書房)の第五巻では「リンチの思想」をはじめ、運動における暴力、内ゲバの問題に言及している。

 鶴見俊輔は非暴力運動(市民的不服従)の提唱者のひとりでもあるヘンリー・デイヴィッド・ソローが「黒人を奴隷にしている制度を擁護する人たちに対して暴力をもって立上がる、その運動——ジョン・ブラウンの運動——に対する加担」をしていた件について述べている。

《この運動へ加担するがゆえに、ソローの非暴力主義というのは、ある種のなまなましさで訴える力をもつ》

 ソローのなまなましさは危うさでもある。非暴力主義者が暴力を肯定したら、誰がその力の暴走を止めるのか。求心力のある運動というのはこうした危うさを孕んでいる。

 鶴見さんは神学者のラインホルド・ニーバーの「平和主義者は、そのことによって圧政に加担する」という言葉を重く受け止めている。圧政や暴力に目を閉じず、平和と非暴力の道をどう探るか。ニーバーの思想は「正しい戦争」という形で保守/革新を問わず、アメリカの外交政策とつながっている。ニーバーは原爆を支持していた。これも危うさの典型例だ。

 自由や正義を守るための暴力を肯定するか否か。これは今日にまで至る問題だろう。初期の『思想の科学』のメンバーには日本にニーバーを紹介した武田清子がいた。

 つるの剛士さんがツイッターで呟いた「普通の声で。」というメッセージは非暴力運動の現場では語られ続けてきた意見である。現在では「トーンポリシング」の典型として批判する人たちもいる。トーンポリシングかどうかはさておき、「普通の声」もしくは「低声」派のわたしだが「平和主義者は、そのことによって圧政に加担する」というニーバーの論理は無視できない。温厚さや平穏さが「圧政に加担する」ことはある。平和運動にかかわる人間はそうした現実と理想のあいだでたえず揺れている。その揺れをなくし、敵味方に分けたレッテル貼り思考に陥ってしまったときがもっとも危ない。

「すわりこみまで 反戦の非暴力直接行動」というエッセイで鶴見さんは戦時中の自分を次のようにふりかえっている。

《戦争中、私は、戦争に反対する何の行動もすることができなかった。反対の意志を日記に書きつける。信用できると思う人にしゃべる。それ以上のことは何もできなかった。しようと思うのだが、指一本あがらなかった》

 また同じような状況になったら、動けなくなるのではないか。鶴見さんはいざというときに指一本動かなくなるかもしれない自分を危惧していた。そこから「態度と反射」という思想が生まれた。

「普通の声で。」喋ることが困難な状況であってもわたしは「普通の声で。」喋りたいというおもいがある。リンチの歯止めは「普通の声で。」喋ることのできる場を保持できるかに懸っている。論理が飛躍しすぎたか。

 時間の余裕ができたら、この続きを書きたい。

2020/06/16

三鷹へ

 月曜日、十五時ごろ、三鷹へ。総武線各駅、ガラガラだった。北口の水中書店とりんてん舎に行く。詩の本が大事にされているかんじが嬉しい。水中書店に行くとなぜか小島信夫の本を買ってしまう。この日は『各務原 名古屋 国立』(講談社)を買う。小島信夫は岐阜出身で街道文学としても避けて通れない。

 そのあと三鷹駅の南口もすこし歩く。

『些末事研究』の最新号の「荻原魚雷 方法としてのアナキズム」が届いていた。嬉しいけど、照れくさい。この「方法としてのアナキズム」は鶴見俊輔さんのエッセイの題からとっている(福田さんが付けた)。

 昨年、発行人の福田賢治さんにライター生活三十年になるという話をしたら、東京と高松の書店でトークショーを企画してもらった。荻窪「本屋Title」で行われたかけだしのライター時代のことを喋った福田さんとの対談も収録(文中「玉川信明、鶴見俊輔、山本夏彦」の小見出し有り)。二十代のころ、玉川さんに「鶴見俊輔と山本夏彦に会っておいたほうがいい」といわれたんですね。
 福田さんが東京から高松に引っ越してだいたい年に一冊ペースでミニコミを出しているのだが、東京や高松や京都でしょっちゅう会っているのであまり距離を感じない。

 鶴見さんのアナキズムというか思想の根幹には「態度と反射」というテーマがある。自分がよりよいとおもうことを行いにつなげる回路をどう作るかという問いでもある。自分の正しさへの躊躇や逡巡も大切だが、それによって動くべきときに動けなくなることもある。数日前に「半隠居遅報」にも書いたトーンポリシングの問題とも重なっているのだが、どうしても今は煮え切らないかんじでしか言葉にすることができない。時間ができたら、続きを書きたい。

 青春18きっぷの季節になったら途中下車しながら西のほうに行きたいとおもっているのだが、新コロナどうなっているか。

2020/06/15

散歩

 晴れの日は一万歩、雨の日は五千歩の散歩の目標にしている。散歩中はマスクを外し、店に入るときだけ付ける。

 この三ヶ月くらいのあいだに中野〜阿佐ケ谷間でこれまで通ったことのない道をたくさん歩いた。十年とか二十年ぶりに通った道もあったかもしれない。
 緊急事態宣言以降、電車に乗って出かける回数が減った分、高円寺駅を中心に半径二、三キロのエリアを歩き回った。好きな道が増えた。

 一昨日、小雨降る中、早稲田通りと環七が交差点の北東側——住所が中野区の野方一丁目あたりを散策した。上越泉という銭湯を知る。サウナ付銭湯のようだ。気になる。

 しばらく細い路地を選んで歩いているとモンマート升本というコンビニがあった。鹿児島大口市(現・伊佐市)にいた祖父の店(酒+食品+生活雑貨の店)と雰囲気が似ている。黒ラベルの大瓶とサバ缶を買う。

 JR中央線の高円寺駅、中野駅、西武新宿線の野方駅からちょうど等距離くらいの場所にあり、それぞれの駅まで十五分くらいか。

 モンマートからすこし北のほうに歩いたところにあるレンガ敷っぽい細い路地もいいかんじの道だった。

 家に帰ると五千二百歩だった。

2020/06/12

オブローモフと西行

 埴谷雄高著『戦後の先行者たち 同時代追悼文集』(影書房、一九八四年)の「妄想、アナキズム、夜桜」という高橋和巳について書いたエッセイを読んでいたらこんな一節があった。

《高橋和巳君は私の「妄想」の立場をうけついで自分もまた「妄想」を文学的方法としていると常日頃いつていたけれども、いつてみれば、寝床のなかのオブローモフとして夜昼横たわりながら暗い頭蓋のなかだけの微光を明滅させている私と違つて、白昼の時間の真面目な努力を長くつづけてきた同君としては、私の「架空凝視」をその方法とすることなく、眼前にいま置かれたものを詳しく精査する「現実凝視」をその建前としてきたのであつた》

 この文章の初出は『現代の文学・高橋和巳』の月報(一九七一年十一月)だ。文中の「寝床のなかのオブローモフ」という言葉は後藤明生の小説の主人公が目指していた理想である。『四十歳のオブローモフ』の連載は一九七二年五月にはじまった。後藤明生は「妄想、アナキズム、夜桜」を読んでいたかどうか。今となっては確かめようがない。『四十歳のオブローモフ』(つかだま書房)には「ときどき彼は《眠り男》になりたい! と空想することがあった。《眠り男》すなわち現代の《三年寝太郎》であり《ものぐさ太郎》である。しかし、妻子を抱えた《眠り男》など到底、考えられない。彼の理想はまた、ロシアの怠け者《オブローモフ》であった」と書いている。

 オブローモフはロシア貴族で大地主だった。『四十歳のオブローモフ』の主人公は団地住まいである。オブローモフのように何もせず怠惰にひたることはできない。

 ちなみに埴谷雄高は母親が吉祥寺に建てた家に暮らしていた。一時期は賃貸収入もあった。

 車谷長吉は西行に憧れていた。しかし西行が隠遁しつつも生涯にわたり紀州の荘園からの収入があったことに文句をいっている。車谷長吉著『贋世捨人』(文春文庫)の冒頭の付近に「二十五歳の時、私は創元文庫の尾山篤二郎校注『西行法師全歌集』を読んで発心し、自分も世捨人として生きたい、と思うた。併し五十四歳の今日まで、ついに出家遁世を果たし得ず、贋世捨人として生きてきた」とある。
『四十歳のオブローモフ』と『贋世捨人』は文体も作品の雰囲気もちがうがモチーフは重なっている。わたしはどちらも好きだが。

 埴谷雄高の本を読み返したのは武田泰淳と梅崎春生の話で確認したいことがあったからなのだけど、この話はいずれまた。

2020/06/10

雑記

 神保町、キッチン南海は大行列ができていた。
 先週から小宮山書店のガレージも復活している。神田伯剌西爾でアイスコーヒー。
 三省堂書店の並びの博多うどんの店は毎回J-WAVEのピストン西沢の番組が流れている。

 行き帰りの電車で山本容朗著『作家の生態学』(文春文庫)の続きを読む。十返肇、戸板康二、山本容朗のような軽評論――文壇ゴシップを書く人がいなくなった。

『作家の生態学』に「吉行淳之介の“お墨付き”」という言葉が出てくる。

《吉行淳之介の“お墨付き”というものがあると噂があってから、かれこれ十年になろうか。昔、川端康成が認めると、それが、文壇へのパスポートを意味した。(中略)が、「吉行が認めている」という編集者のことばには、かなりの重さがある。それには、いい線いっている有望株という響きがあった》

 色川武大、田中小実昌、野坂昭如も「吉行淳之介の“お墨付き”」といわれていた。

『作家の生態学』を読み、水上勉著『今生の人びと』(構想社、一九七八年)をインターネットの古本屋で買った。届いてから山高登の装丁の函入の本と知った。この本は正宗白鳥や木山捷平や梅崎春生の話も出てくる。関口良雄の『昔日の客』(三茶書房)の隣に並べたい。雰囲気がよく似ている。

《『今生の人びと』は、もし、水上さんで一冊と言われたら、私が迷わず、これだとあげる本である》(「作家の生態学」/同書)

 さらに『今生の人びと』の中でも「木山捷平さんを書いた『鯉の話』は、白眉』」と記している。

 岡山県笠岡の古城山公園に木山捷平の詩碑がある。詩碑の建立には井伏鱒二が関わった——という話をどこかで読んだ記憶がある。

 木山捷平の書簡を見ると高円寺時代の住所が「杉並区馬橋四-四四〇」となっている。阿佐ケ谷寄りの高円寺か。
 戦前の東京の古い地図がほしくなる。

2020/06/08

阿佐ケ谷まで

 土曜日、馬橋公園から斜めの道(お気にいりの道)を歩いて阿佐ケ谷の神明宮の骨董市のちコンコ堂と千章堂書店へ。
 高円寺の西部古書会館はまだ再開していない。高円寺生活三十年、こんなに西部古書会館で本を買わないのは、はじめてだ。

 コンコ堂では伊藤博子著『サイカイ 武田泰淳』(希窓社、二〇〇九年)、山本夏彦著『完本文語文』(文春文庫、二〇〇三年)、千章堂書店では臼井吉見著『残雪抄』(筑摩書房、一九七六年)など。
 阿佐ケ谷の喫煙コーナーも封鎖中か。そのせいかどうかユジクの前の煙草屋の灰皿に人が集まっていた。わたしもそのひとりなのだが。

 高円寺に帰り、上林暁の『文と本と旅と』(五月書房、一九五九年)を読む。
「荻窪の古本市」というエッセイでは古本市の会場で上林暁が三人の友人と会う話を書いている。

《最初は福田清人君に会い、つづいて瀬沼茂樹君に会い、最後に渋川驍君に会った。何か嬉しかった。四人で待ち合わせて、近くの喫茶店に入った。同年輩の文学仲間だから、話がはずんだ》

 瀬沼茂樹が中野桃園町に住んでいたことを丸谷才一のエッセイで知ったが、荻窪の古本市にも通っていたんですね。

《お互い五十にもなって、こういう文学談に熱中しているところは、はたから見ると青臭いと思われるかも知れないが、文学青年の時代からは一時代も二時代も進んだ所で、文学に対する若々しい情熱がまだ燃えていることを意味するもので、非常に良い刺戟になった》

 上林暁は一九〇二年、福田清人は一九〇四年、瀬沼茂樹は一九〇四年、渋川驍は一九〇五年の生まれである。
「荻窪の古本市」を発表したは一九五四年十二月——上林暁は五十二歳か。古本好きの作家はしぶとい。

 三十歳くらいのときは五十代なんてずっと先のことだとおもっていたが、あっという間ですよ。わたしも古本屋通いを続けているが、もはや情熱か惰性かわからなくなっている。

 この日、買った臼井吉見も一九〇五年生まれだから前の四人とは同世代である(福田清人とは大学時代に同級生だった)。
 臼井吉見も成田東(阿佐ケ谷界隈)に住んでいた。

2020/06/05

中野桃園町

 木曜日、仕事の帰りに中野の郵便局に行ったら十九時以降の夜間窓口がまだ営業再開していなかった。地味に困る。寿楽でラーメンと半チャーハン、桃園商店街を通って高円寺に帰る。

 丸谷才一著『低空飛行』(新潮文庫)に「中野桃園町」というエッセイがある。

《今は中野区中野三丁目だろうか、味気ない地名になったけれど、以前は中野区桃園町であつた。わたしは英文科の学生のころから結婚するときまで、かなり長いあひだこの桃園町に下宿してゐたのである》

 丸谷才一が中野の本屋をまわっていると「セヌマ先生」と呼びかける声が聞こえた。
 セヌマ先生は瀬沼茂樹である。後にふたりは同じ町内に住んでいたことが判明する。

《われわれの同時代人のうち、最も高名な中野桃園町の住人はおそらく北一輝だらう》

『低空飛行』の解説は山口瞳でこれがめちゃくちゃ面白い。吉行淳之介著『軽薄のすすめ』(角川文庫)と並ぶ山口瞳の名解説だ。

 山口瞳が書き下ろしの長編を書いたとき、丸谷才一に解説をかねた推薦文を依頼した。

《しばらくして、私は、思わず頭をかかえてしまうようなことになった。私は、ほとんど、私小説しか書かない。(中略)ご承知のように、丸谷才一さんは、まっこうから私小説を否定する側に立つ人である。はたして、丸谷さんの推薦文には次の一節があった。
「この人はずいぶん私小説に義理があつて、それを新しい時代に即応させることに必死なんだなと、わたしは改めて感心した。感心したり呆れたりしたと言ふほうが正しいかもしれない。それは律義な男もゐればゐるものだといふ気持だつた」》

 山口瞳は「辛い仕事」を頼んでしまったと申しわけなくおもう。わたしはこの時代の文壇の雰囲気が好きだ。書評だろうが推薦文だろうが、いうべきことはいう。自分の立場を崩さない。

 丸谷才一と山口瞳は『男の風俗・男の酒』(TBSブリタニカ、一九八三年)という対談集もある。

《山口 しかし、酒にしろ、身なりにしろ、言葉にしろ、風俗への関心というのは大事なことですね。
 丸谷 生き生きとした態度で生きていくためには、どんなつまらないことであろうと、現世の風俗というものに関心を持つべきですね。僕はそれは、非常に大事なことだと思いますよ。それをやらないと老けちゃうんですね。小説家が、わりに老けないのは、それなんじゃないかな。くだらないことに関心を持つから気が若い。
 山口 井伏先生なんか今でもすごいですよ。いつだったか、こういう話をした人がいたんです。その人は午前三時頃タクシーを待っていたんですって。タクシーはなかなか来ない。すると豪華な毛皮を着た女性が二人、やっぱり車を待っている。で、一緒に乗りましょうと相乗りしたら、六本木で降りていったというんですね。その話を聞いた井伏先生は、「君、それからどうした、どういう女だ」とどんどん聞くんですよ。僕はすごいと思ったな。あの先生の好奇心みたいなものに感動しましたね。僕はそういうのを聞いても、「ああそう、面白いね」で終わっちゃうんです。井伏先生はすごいですよ、いまだに。
 丸谷 それが小説家というものなんだな……。われわれは、そういう意味じゃいい商売を選びましたね。なんだか趣味と実益を兼ねるようなところあるでしょう》

 丸谷才一はいわゆる文壇ゴシップが大好きだった。何度かわたしは丸谷さんから文壇の噂話を伺う機会があった。吉田茂が亡くなったあと、遺産の問題でごたごたしていたとき、吉田健一が「そんな金、飲んじまえばいいんだ」といい放った逸話も丸谷さんから聞いた。

 後日、山本容朗著『作家の生態学(エコロジー)』(文春文庫)の「野坂昭如」のところを読むと次の文章があった。

《丸谷才一も、野坂人脈には、欠くことが出来ない。なにしろ、野坂の旧制新潟高校の先輩で、その上、結婚式の仲人である。丸谷は、今、目黒のマンションにいるが、その前、中野にいた。目と鼻の先に住んでいた私は、時々遊びにいった》

 山本容朗も中野桃園町の住人だったとは! 瀬沼茂樹と山本容朗が近所に住んでいたら文壇ゴシップには事欠かなかったにちがいない。

 丸谷才一が中野に移り住むさい、野坂昭如が引っ越しを手伝った。

 丸谷夫人は「当日、戦争中の防空演習の時のような格好して、朝早くやってきたの。そして、こちらが、マゴマゴしているうちにどんどん片づけちゃうの。助かったわ。野坂さんって、見かけによらず引越しの天才ね」と回想している。

(追記)
 もともと先月の「散歩と読書」に書いた話だけど、山本容朗の逸話を書き足したくなったので分けることにした。

2020/06/04

ノーシンとビール

 数日前に高円寺界隈で歩いたことのなかった道を歩いた。北口の北中通りのコクテイル書房の横の道からガード下を抜け南口のエトアール通りに出る細い道——三十年以上住んでいてもまだ知らない道がある。

 部屋の掃除をしていたら『海』と『群像』の武田泰淳追悼号(どちらも一九七六年十二月号)が出てきた。

『海』の武田泰淳追悼特集は埴谷雄高の「最後の二週間」がいい。埴谷雄高の人物評は観察がきめ細やかで読ませる。

『群像』の追悼号は大岡昇平、埴谷雄高、野間宏の座談会が面白い。

 大岡昇平は「脳血栓をやるまで彼のシステムは、ノーシンを飲んで頭をはっきりさせて、ビールでそれを動かす、(笑)そういうふうに自分ではいっていたけれども、そう理屈どおりにいくわけがない」といい、それにたいし埴谷雄高が「あれはヒロポンをうんと使ったあと。初めは焼酎で、それからヒロポン。それがヒロポンが市販されなくなったので、やみで手に入れてたけれども、それもとうとう手に入らなくなってしまった。それでノーシンになった」と……。

 武田泰淳の「システム」を今の時代に推奨する気はない。わたしもシラフで仕事している。
 規則正しい生活を送り、ストイックに執筆するほうが、長く安定した作家人生を送れるだろう。スポーツや碁将棋の世界もそうなっている。

 この座談会で埴谷雄高は「本当に彼がえらいと思うのは、彼は書いたら読み返さないんだよ。(笑)だからヒロポン時代なんか、メチャクチャな文章があるけれども、それで直さないで渡しちゃう。実際ぼくはえらいと思う」といい、大岡昇平も「座談会だって、彼は全然直さないんだ」。

 こうした姿勢を「えらい」という人もいまや少数派だろう。

 武田泰淳が六十四歳で亡くなったとき、武田百合子は五十一歳。今の自分と同い年か。泰淳が山梨に山荘を建て、東京と山梨を行き来するようになったのは五十二歳だった。
 わたしもそういう生活に憧れていた。山梨に中古の家を探しに行ったこともあるが、新型コロナのゴタゴタで今はそういう気分ではない。

 石和温泉に行きたいですな。

2020/06/02

新しい非日常

 先週、久々に新宿に行った。
 西口のよく行く金券ショップに寄ったら新幹線の回数券が一枚も売ってなかった。長年、新宿の金券ショップを利用しているが、はじめての光景だ。安く売ってたら名古屋か大阪の切符を一枚くらい買おうとおもっていたのに。
 図書カードは一万円分が九千五百円だった(過去最安値かも)。

 そのあと青梅街道の宿場町が描かれたトンネルを抜けて東口へ。喫煙コーナーが閉鎖されていた。紀伊國屋書店に寄る。地下一階の水山で天ぷらうどん。人もいつもより少ない。

 新宿の追分から甲州街道を歩いて四ツ谷まで。快速一駅分だけど、散歩にちょうどいい距離である。歩道も広くて歩きやすい。

 学生時代、四ツ谷と麹町の中間あたりの編集プロダクションに出入りしていたことがある。
 仕事は電話番。暇だったからパソコンにインストールされた上海やソリティアで遊んでいたら戦力外通告を受けた。

 麹町の事務所に出入りしていたころ、Tさんというライターの先輩がいた。
 Tさんは今はテレビに出たり、大学で教えたり、多忙な日々を送っているが、当時は阿佐ケ谷に住んでいて貧乏だった。平日昼間に馬橋公園でキャッチボールをしたこともある。出版社の草野球の試合に出るから、その前に肩慣らしがしたいと誘われたのだ。
 キャッチボールをしていたとき「魚雷君はさあ、ルポやノンフィクションじゃなくて、荒俣宏さんみたいな資料を読んで書く仕事のほうが合ってんじゃないか」といわれた。
 わたしが二十二、三歳くらい、T先輩が二十七、八歳のときだ。

 T先輩は適当にいったのかもしれないが、わたしは勇気づけられた。

2020/05/30

半遁世と隠居ふう 

《私はいつのころからか、半遁世の心をときどき持つようになった。
 宗教心なんてものとは何の関係もなく、ただ極力単純簡素な生活をしてみたい、という心からである》(「半遁世の志あれど」/山田風太郎著『風太郎の死ぬ話』角川春樹事務所)

 同書の巻末の初出一覧を見ると「『問題小説』一九九一年」とある。日本が後に「バブル」と呼ぶ時代の最盛期もしくは崩壊直前のエッセイだ。

 山田風太郎は一九二二年一月生まれだから六十九歳。蓼科に「風山房」と称する山荘を建てたのは四十歳前後だった。毎年七月半ばから九月半まで山に籠った。
「半遁世の志あれど」にはこんな記述もある。

《百閒先生は大貧乏時代、二、三年か新聞もとらなかったが、あとになってみると、それでも世の中に起ったことはちゃんと知っていたと書いているし、志賀直哉さんも若いころの漂泊時代、たしか尾道に住んでいたころ、飯を焚く鍋で顔を洗っていたが、別に不潔とは思わなかったと書いている。
 そんな生活にあこがれたのである》

 色川武大著『いずれ我が身も』(中公文庫)所収の「老人になる方法」には「私も十年ほど前に大病した経験があるが、あのとき、隠居ふうになっておけばよかった」という文章がある。

『街は気まぐれヘソまがり』(徳間書店)の「若老衰の男」を読んでいたら、色川武大と妻のこんな会話が出てきた。

《カミさんは病院を出ると、先に立ってコーヒーを呑もうといった。
「今日は気分がいいわ」
「気分がよくてよかったな。俺が先に死ぬということがわかって」
「そうねえ。でも寝ついて貰っちゃ困るのよ」
「いや、もう仕事は無理だ。これからは君にかわって働いて貰うことにする」
「冗談じゃないわよ。働くくらいならあたし死ぬわ」
「健康なんだから、ドシドシ働いてくれ。俺は隠居さ。一日じゅう寝る」》

 色川武大も隠居に憧れていた作家である。他にも隠居の話を書いたエッセイが何本かある。晩年、岩手県の一関に引っ越したのは「隠居ふう」を実践したかったからかもしれない。

「隠居ふう」の生活を送りながら「隠居」や「遁世」という言葉がどこかしらに出てくるアンソロジーを作りたい。

(追記)
「半遁世の志あれど」は『死言状』(角川文庫)にも所収(ただし初出は載っていない)。

2020/05/28

深夜族

 夜がつまらない。わたしは日付が変わる直前くらいの時間に飲みに出かけることが多い。行きつけの店の営業はまだ再開していない。再開したとしても深夜営業はまだ先だろう。ふだん何をしているのかわからない夜型の常連組はどうしているのか。

《私の仕事は、一種の座業だから、家に引っ込んでいることが多い。しかし、屋内に長く閉じこもっていると、どういうものか、意欲がだんだん鈍ってくる》(「ときどき素顔に返れ」/『一人のオフィス 単独者の思想』思潮社、一九六八年)

 鮎川信夫は酒を飲まない。そのかわり深夜のレストランに出向く。コーヒーやオレンジジュースなどを注文し、店のすみっこで思いにふける。

《主要なテーマはいつも決まっている——「おれは自分の人生の大部分を、なにかしたくないことのために奪い取られているのではないか?」》

 答えは出ない。出なくてもいい。多くの人が眠っている深夜の町に出かけ、無意味なことを考える。その時間が好きだと鮎川信夫はいう。
 息抜きに出かける町は新宿だった。ほかの本のエッセイでも二四時間営業の喫茶店とサウナをよく利用するという話を書いている。

 時評の合間に何てことのない日常を綴る。その日常の部分がなかったらわたしはくりかえしこの本を読むことはなかっただろう。

《私にとって、もっとも素顔にかえれる時間は、午前四時だ》

 鮎川信夫は「深夜族」だった。朝型でも夜型でもない不規則な生活を送っていた。

 わたしもなるべく不規則に生きたいとおもっている。今後も。

2020/05/26

古本屋のある町

 サンカクヤマで河田拓也さんと待ち合わせ。喫茶店で色川武大関係の貴重な資料を見せてもらう。

 この日『季刊銀花』一九九三年夏号「『當世日和下駄』で歩く東京の道」を買う。出久根達郎さんが「ムダを愛する町——高円寺」というエッセイを書いている。

《一九九三年現在、古本屋の数は二千七百軒ある。うち東京には七百八十軒。いわゆる古本街と称される神田神保町に百四十。早稲田に四十。本郷に三十店。いずれも概算である。ところが杉並区高円寺には、一ヶ所にまとまってはいないが、実に二十四店もの数が営業しているのである。更に貸本屋が四軒あり、新刊書店が十五軒ある。(中略)高円寺という町の特色をあげるなら、まず本屋が多いということであろう》

 二十七年前の話だ。今はずいぶん減った(それでも残っているほうだが)。
 同エッセイには飛鳥書房の竹岡昭さん、大石書店の大石功さん、球陽書房本店の西平守次さん、都丸書店の外丸茂雄さん、球陽書房分店の西平守良さん、青木書店の青木卓雄さん、大竹文庫(貸本屋)の大竹正春さん、そして芳雅堂書店の出久根さん自身の写真が載っている。

 大石書店は昭和六年、都丸書店は昭和七年に開業。高円寺の銭湯の小杉湯が昭和八年である。
 わたしが高円寺に移り住んだのは一九八九年の秋だが、都丸書店と飛鳥書房と竹岡書店によく通った(均一本ばかり買っていた)。出久根さんが書いているころの高円寺には漫画専門の古本屋も二軒あった。
 一日おきに北口と南口の古本屋を回っていた。
 当時、中古レコード屋レンタルビデオ屋古道具屋リサイクルショップなどでも古本を売っていた。それらを合せると九〇年代前半の高円寺には「古本が買える店」が三十軒くらいあった。
 さらに西部古書会館もある。

 部屋の掃除をしていたら山本夏彦著『やぶから棒』(新潮文庫)が出てきた。「古本屋のない町多し」というコラムがある。

《古本屋のない町は戦前はなかった。どんな田舎町にも一軒はあった。旅してその町の古本屋をさがすともなくさがしあて、棚を見るのは旅の楽しみの一つだった》

2020/05/21

二十八年前

 小雨。やや肌寒い。神保町。東京堂書店、博多うどん、神田伯剌西爾。
 行きと帰りの電車で竹中労著『決定版 ルポライター事始』(ちくま文庫)を再読する。

《一九五八年上京して、フリーのもの書きになってから、およそ四半世紀の日々を、追い立てられるように、私は生きてきた。過去に一刻の安息もなく、未来にむかって一文の貯えもなく、五十の坂を越えてしまったのである》

 単行本は一九八一年七月刊。まえがきを書いたのは同年二月——竹中労、五十歳だった。
 わたしは名古屋の予備校時代に古本屋で単行本を買った。

『決定版』では晩年『ダカーポ』に連載していた「実践ルポライター入門」(未完)も収録。この連載で竹中労は関川夏央著『水のように笑う』(新潮文庫)を紹介している。関川夏央では『家はあれども帰るを得ず』(文春文庫)も好きな本だ。文章を書くには技術だけでなく、時間も必要だと痛感させられた本だった。
 そのときどきに考えていることがあり、そのときにしか書けない文章もある。しかし十年後二十年後にふりかえる形で書く。渦中にいるときの生々しさが乾かないと書けないものもある。

 二十代のころ、わたしは関川夏央の文体を真似した失敗作をたくさん書いた。深夜、阿佐ケ谷のファミレスで原稿を書いた。恥ずかしい過去とはおもっていない。

 学生時代、わたしは玉川信明さんの読書会に参加していた。玉川さんは竹中労と親しかった。
 一九九二年五月、「竹中労と会う機会を作ってあげようか」と玉川さんがいった。そのころ、わたしは『現代の眼』の元編集長が作っていた『新雑誌X(後、新雑誌21)』の編集部に出入りしていた。
 編集長の丸山実さんも竹中労と長く付き合いのある人だった。編集部では鈴木邦男さんと何度か会ったこともある。鈴木さんはいつ見ても笑顔だった。
 当時のわたしは大学四年目を迎えていたが、卒業できる見込みがなく、中退し、ライター一本で食っていこうと考えていた。

 しばらくして竹中労の訃報を聞いた。亡くなったのは五月十九日、わたしが知ったのはその数日後である。

 二十二歳、迷走期。まだ書けないことがたくさんある。

2020/05/16

山口瞳と古山高麗雄

 部屋の掃除。ある本を探している。どこに何が書いてあったか。おもいだしたときにメモをしないとすぐ忘れる。付箋を貼っても忘れる。自分の記憶を過信してはいけない——とおもったこともすぐ忘れてしまう。

 探している本は見つからないが、そのかわりに別のことをおもいだした。
 山口瞳著『天下の美女 男性自身シリーズ』(新潮社)の「貧乏」である。「男性自身」で古山高麗雄が出てくる回はどれだったか——ちゃんとメモしておこうとおもっていたのだ。

 山口瞳は河出書房にいたころの月給は二万五千円。アパート代は一万円で親子三人暮らしだった。厳しい生活だろう。

《こんど『プレオー8の夜明け』という小説で芥川賞を受賞した古山高麗雄さんと、そこで机を並べていたときに、私は古山さんに言った。
「河出書房という全国に名を知られている出版社に勤めていて貧乏しているんだから、これは俺たちの責任じゃねえよなあ。しょうがないよなあ」
 古山さんは、
「そうだよ、そうだよ」
 と言った。古山さんも親子三人で暮らしていた》

 山口瞳と古山高麗雄は河出の元同僚で、お互い、競馬好きでもあった。

《読者および評論家諸氏は『プレオー8の夜明け』という小説の登場人物の名前が、主人公の吉永をはじめとして、ほとんどが競馬関係の、騎手名、調教師名、厩舎名になっていることに気づいているだろうか》

 たまに小説や漫画を読んでいて、登場人物の名前が「何々線の駅名だ」とか「野球選手の名前だ」とかわかると嬉しい。

 読みかけのまま行方不明になった本を一日中探したが見つからなかった。そういう日もある。

2020/05/15

練馬あるき

 今週は高円寺の古書サンカクヤマ、中野の古書案内処に行った。古本屋が営業していることがこんなに嬉しいとは。
 サンカクヤマでは岩田健三郎著『ヘラヘラ・マガジン』(冬樹社、一九八四年)を購入。字が小さい。でも楽しい本だ。
 わたしは冬樹社の本をだらだらとコレクションしているのだが、この本は知らなかった。著者インタビューの新聞記事もはさまっていた。

《「ヘラヘラマガジン」という、ちょっと変わった本が出た。兵庫県姫路市でミニコミ活動を続けている岩田健三郎さん(37)の作品。装丁も自分で手がけ、表紙から奥付まで、乾いた軽いタッチの漫画やイラスト、語り口そのままの「しゃべくり」調でつづった身辺雑記を、手書きのまま印刷している》

——新聞記事の抜粋。いい記事なんですよ。一九八四年十一月二十七日(火曜日)の「自由席」というコーナーの記事である。

《アルバイトで生活しながら、「何の役にも立たないようでいて、いないと何となく寂しい、という人がいる。そんな人間みたいな絵がかけたらなあ」と思ってきた》

 サンカクヤマのあと、野方あたりまで散歩するつもりが、勢いがついて練馬まで。練馬のライフは高円寺のスーパーにない商品がけっこうあってあれこれ買ってしまう。
 高円寺から練馬までは一万歩ちょっと。途中、梅崎春生が住んでいた豊玉中あたりも歩いた。高井有一も練馬の豊玉に住んでいた。高井さんには若き日の色川武大の話を聞いたことがある。二十年以上前の話だ。帰りはバスに乗る。環七まっすぐあっという間に高円寺に着いた。

 翌日、古書案内処。街道本二冊。中野のライフでパンを買う。北口のサントリーパブ・BRICKも閉店か。二十代のころ何度か飲みに行った。通りかかったときも店の写真を撮っている人がいた。
 中野は営業している店が多く活気があった。行きはガード沿い、帰りは南口の桃園商店街からあみだくじ方式で高円寺に帰る。

2020/05/10

なまけ親父

 わたしは富士正晴の本がある古本屋が好きだ。富士正晴の本が並んでいる棚にはその近くにもいい本がありそうな気がする。
 ささま書店の富士正晴の本が並んでいた棚の周辺には長谷川四郎や小沢信男の本をよく見かけた。

 富士正晴著『思想・地理・人理』(PHP研究所、一九七三年)は十年以上前にささま書店で買った。一〇五〇円の値札がついている。
 目次を見ているだけで楽しい。
「現代の隠者にふさわしき者」「男性的隠棲考」「一億総サル化現象」「丘の上にひきこもり…」「冬眠終わる」「われ動かず」——。
 わたしの好きなエッセイは「なまけ親父」だ。

《世の中が性急になって行くばかり(特に日本は)なので、性急であることが日に日に厭になって来ている。ゆっくりとしていたい。
 利のあるところに人がすべて殺到するようなので、利を考えることが日に日に厭になって来ている。なるべく利の薄い方に廻りたいという気がしている》

《タバコをもっと控えた方がいいぞ、深酒はよせよ、ウイスキーのガブのみはいかんぞ、そんなことしていると長生きは出来ないぞ。
 いや、結構。余り長生きはしたいとは思わん。タバコとウイスキーは唯一のわたしの生活のアクセントである。そのほかに余り欲望はない。強いていえば、もう少し広い家に住めて、本の背中がみな読めるように並べることの出来る本棚と、その場所があったらなと思うぐらいのことだ》

 三十代のころのわたしも「本の背中がみな読める」暮らしに憧れていた。それで立退きのさい、奥行の狭い本棚を買い替えた。本棚からあふれた本は売った。
 すべてではないが、なるべく背表紙が見えるように本を並べたい。背表紙を見るたびに読んだ本のことをおもいだす。

 西部古書会館が一ヶ月以上も休館している。つまらない。部屋の掃除ばかりしている。

2020/05/08

二枚落ち

 木曜日、神保町。三省堂書店の近くの博多うどん酒場官兵衛でごぼ天うどん。今年二月二十五日にオープンか。
 うどんにはごぼ天がよく合う。汁につけるとじゅっと音が出る。だしもおいしい。
 そのあと神田伯剌西爾でアイスコーヒー。すこしルーティーンが戻ってきた。

 外出のさいはウレタンマスクをしている。家に帰ったらすぐ洗う。すぐ乾くのがいい。二枚を交互につかう。

 現役奨励会三段が二枚落ち(飛車角落ち)のソフトに敗けたというニュースを知る(真剣勝負ではないが)。すでにトップ棋士でも飛車落のソフトに勝つのがむずかしくなっている。
 二十年前の将棋ファンにいっても、たぶん信じてもらえないだろう。
 AIどこまで強くなるのか。いつかこれ以上強くなれないという限界を迎えるのか。
 逆に人間の棋力に合わせて僅差の一手勝ち/一手負けにもちこむ機能も面白いかもしれない。麻雀のゲームだと接待モードがすでにある。

 どこに行って何を食べたかみたいな日記を書いてくれるAIも作ろうとおもえば作れる。主語や文体も選択でき、文章内容に応じたイラストや写真も入る。読みたいかといわれたら微妙だけど。

2020/05/06

十二歳

 今年は五月五日にコタツ布団を洗った。
 年によって多少ズレるが、コタツ布団は五月の連休中にしまい、そのかわりに扇風機を出す。次にコタツ布団を出すのは十一月くらいだろう。

 コタツと扇風機はそれぞれ半年ずつ使う。それが自分の区切りになっている。

 話は変わるが、すこし前に西部古書会館で買った『歴史読本ワールド』の「アメリカ合衆国大統領」の号(一九八八年四月)に川本三郎の「THEY ARE INNOCENT」というエッセイが収録されていた。
 ゴルバチョフ夫妻がアメリカを訪れたとき、夫人が記者に「いまマーク・トウェインを読んでいます」と答えた。
 ヘミングウェイは『ハックルベリイ・フィンの冒険』がアメリカ文学の原点といった。そこからアメリカ文化は「子ども」性を大切にするという話になる。

《自分たちはヨーロッパとは違った国を作りたい、ヨーロッパとは違った文化をフロンティアに新しく作っていきたい。そこから「子ども」性の重視という無意識の伝統が形成されていったのだろう》

 この話を読んでふとおもったのがマッカーサーの「日本人十二歳説」だ。
 すこし前に占領期に関する本をいろいろ読んでいたとき、マッカーサーの「日本人は十二歳」という言葉に多くの国民が失望したと半藤一利のエッセイにあった。わたしもそうだとおもっていた。しかし「子ども」性を重視するアメリカ人の言葉と考えると「十二歳」には可能性を秘めた無垢な国という意味も含まれていそうだ。

 アメリカの父親が子どもに釣りを教えるように日本人に民主主義を教えていたつもりだったのかもしれない。
 敗戦国にたいし厳しい制裁を求めるアメリカ人を抑え込む意味でも「十二歳」という言葉は有効だったのではないか。

2020/05/04

相変らず

 尾崎一雄の『随筆集 金柑』(竹村書房、一九四一年)は二十年前、もう閉店してしまった京都の古本屋で買った。以来、何度も読み返しているが、五十歳になってますます心にしみるようになった。
「相變らず」は日米開戦前の昭和十六年二月に発表された随筆である。文学者としてこれからどうやっていくか。尾崎一雄は「自分としては大して変るまいと考へてゐる」という。

《こんな所へ引合ひに出して失礼だが、井伏鱒二氏が、「自分は変らない」と云つたそうで(どこかの座談会だそうだが)、それを取り上げて、井伏氏を非難してゐる匿名の文章を読んだことがある》

 当時、作家が時勢に無関心なことへの批判があった。尾崎一雄と井伏鱒二は「思想のない」作家とおもわれていた。

《ひとり今度の新体制と云はず、何か社会情勢が変ると、慌てて着物を変へたり身振りをそれらしくすると云ふのは、根本的に落度があるからだろうと思ふ》

 日々の情報に翻弄されながらも、なんとかいつも通りに暮らしたいとおもう。
 部屋の換気をし、掃除をする。しっかり睡眠をとる。新聞を読み、ニュースを見たら、昔の本を読む。そうやって心のバランスをとっている。

《読書とは、要するに考へることだと思つてゐる。したがつて、大半を忘れても、何か考へさせてくれた本なら、いい本だと思つて了ふ》(「悪い読書家」/『随筆集 金柑』)

 八十年前に書かれた随筆だ。本好きの心情は昔も今も変わらない。尾崎一雄は古本好きで知られる作家でもあった。

《北向きの小さい静かな日本間に、一閑張りの小机を据ゑ、ゆつくりと気に入った本を読む、眼が疲れたら散歩ながら碁敵きを襲ひ一二局ならべて帰る。そして晩酌には菊正二本位、実に佳いなあと思ふ》

 変わらないことが正しいとはかぎらない。しかし変わらない人が書いた文章を読むとすこし気持が落ち着く。そして晩酌も。

2020/04/28

不思議な奇骨

 日常の生活範囲は高円寺を中心にその日の気分で中野や阿佐ケ谷あたりまで歩く。人混を避け、ふだん通らない道を歩く。
 なみの湯、今年も鯉のぼり。ずっと変わらない風景を見ると嬉しくなる。
 途中ベランダにマスクを十枚くらい干している家があった。

 阿佐ケ谷の某古書店で佐藤観次郎著『文壇えんま帖』(學風書院、一九五二年)を買う。佐藤観次郎は『中央公論』の編集長である。

 尾崎一雄については「器用な作家ではないがこの男でなくては書けないユニークな作品がある」「元来、呑気な男で何時も青年の気持で、仕事に精進し、決してあくせくしない所に特徴がある」「不思議な奇骨をもつている」と綴る。

 寒い時期は「冬眠」する。とにかく無理をしない。尾崎一雄の生活態度は我が理想でもある。
 世の中は自分の意志とは関係なく変わる。体調も天気や気温に左右される。
 尾崎一雄著『楠ノ木の箱 他九篇』(旺文社文庫)の表題作を読む。
 体調を崩した「私」は医者に行った。検査をしたら血圧が高いといわれる。

《「下げる薬を上げますけど、ご自分で注意して下さい。煙草はどのぐらい喫いますか」
「ハイライト六十本ぐらい」
「それは多い。いきなりやめろとも云えないが、せめて半分にして下さい」
「やってみましょう。——酒は?」「少しならかまいません……」》

 健康観念のゆるい時代だった。
 作中の「私」は「強圧的でない」医者のややいいかげんな態度を気に入っている。同時に自分が「良くない患者」ということもわかっている。自分のからだが「穴だらけ」と認識している。
 若き日の尾崎一雄は肺結核を患ったことがある。前年に父、翌年には妹が亡くなっている。

《人間のいのちなんて、なかなか医者の云う通りにはいかないものさ。俺は、はたちの頃も危ないと云われたんだ》

 震災、戦災、大病……。何度となく危機を乗り越えてきた。
 尾崎一雄は八十代までウイスキーを飲みながら小説を書き続けた。不思議な奇骨がほしい。

2020/04/25

戦中派の話

 二十二日から小型郵便局(七都府県)の営業時間が午前十時から午後三時までになっていたのを知らず、朝九時に高円寺の郵便局に行った。一時間後、再び行ったら外に人が並んでいる。局内に数人しか人をいれず、整理券を配って外に並ばせる方式のようだ。雨の日はどうするんだろう。

 田中小実昌著『ほのぼの路線バスの旅』(中公文庫)を読みはじめる。「東海道中バス栗毛」と「山陽道中バス栗毛」か。街道文学だな。三重も通るが、鈴鹿(石薬師宿と庄野宿)はスルー。コミさんは四日市から亀山までのバスに乗る。

 巨大迷路、あったなあ。一度だけ行った記憶がある。いとこといっしょだったか。
 コミさんを乗せたバスは日永の追分、采女のつえつき杖(杖衝坂)を通る。

《京都九十キロ、左鈴鹿市五キロ。だるま寺、左てに川、川ぞいの道になる。めし・おかず・やまもと食堂、安楽橋。田圃と茶畑のむこうにミエライスの看板。やはり国道一号線だ》

 二十年かけて鹿児島まで旅をしている。急がないのは大事だ。過去に何かしらの縁のあった土地を再訪する。いろいろ記憶が甦る。中年の旅の醍醐味のひとつといえる。

 ツイッターで河田拓也さんも『ほのぼの路線バスの旅』について呟きつつ、中公文庫の「戦中派」路線に反応していた。二十代のころ、河田さんとは戦中派の作家の話を公園とか喫茶店とかでよくしていた。ひまだった。

 中公文庫は池波正太郎の『青春忘れもの 増補版』も今月刊行している。池波正太郎も戦中派だ。戦後DDTの撒布作業をしていた時期がある。

《作業は、進駐軍の兵士たちが都内の各区役所へやって来て、われわれ作業員を引きつれ、しらみつぶしに焼けのこりの家々へ、DDTの撒布とワクチンの注射をおこなってゆく。
 チフス患者が発生した場所へは再三にわたって消毒をし、これを管理する》

 ある日、撒布の仕事で彫刻家の朝倉文夫の家に行く。朝倉氏が池波正太郎や学生に語った言葉がすごくいいんですよ。泰然自若といった雰囲気で若者を励まし、勇気づける。朝倉文夫は釣りの随筆も書いている。

 戦中派といえば、詩人の衣更着信が今年生誕百年(一九二〇年二月二十二日香川生まれ)だった。香川県で高校の先生をしていて、晩年は高松に暮らしていたのではないか。
 むしょうにジャンボフェリーに乗りたい心境だが、今はガマンだ。

2020/04/22

四十歳のオブローモフ

 喫茶店と飲み屋と古本屋に行って街道を歩きたい。今はおもう存分それができる日が来るまで倹約して体力を温存する。怠けたり休んだりすることが、こんなに肯定される時代がくるとは……。
 しかし気温二十度こえるとマスクもつらい。新型コロナが長期化しそうなら冷却素材のマスクを開発してほしい。

 後藤明生著『四十歳のオブローモフ イラストレイテッド版』(つかだま書房)が発売――解説を担当しました。山野辺進の挿画、旺文社文庫版では未収録の「後記」も再録されている。
 ロシアの怠け者オブローモフを理想とする団地住まいの中年作家、本間宗介の物語である。主人公は二児の父親で真面目にも不真面目にも振り切れないところがある。活躍らしい活躍もしないし、小さな失敗をくりかえしてばかりいる。悪人ではないが、すくなくとも立派な人物ではない。たいていどうでもいい話だ。若いころの自分が読んでもこの小説のよさはわからなかったかもしれない。
 たとえば、二日酔いにたいして主人公はこんな考察をする。

《二日酔いからさめかけの不安というものは、実さい、何ともいえないものだった。ことばを扱うことを商売としている宗介が、「何ともいえない」などというのは、いささかだらしのない話であるが、要するに、何故だかわからないが、世界じゅうの一切のものから自分一人が忘れ去られてしまうのではないか、といった不安なのである》

「誕生日の前後」という章で旧日光街道の綾瀬川沿いを子どもといっしょに散歩する場面がある。昨年わたしもこのあたり膝を痛めながら歩いたことをこの小説を読んでおもいだす。

《人間の理想は、ただただ、ひたすら自由に、足のおもむくまま歩き続けるということかも知れないのだ》

 家に一冊くらい『四十歳のオブローモフ』みたいな小説があるのはわるくないとおもう。

2020/04/17

文豪と借金

 火曜日、検温してから税務署に確定申告。阿佐ケ谷まで歩く。阿佐ケ谷の商店街、テイクアウト充実。中華惣菜二品買う。産直マルシェで焼きそば、うどんの麺、ネギなど。
 コクテイル書房の漱石カレー(レトルト)も注文した。

 自宅充電に専念しつつ、毎日一時間くらい散歩している。足が弱ると頭も回らなくなる。

『文豪と借金』(方丈社)という借金アンソロジーの解説を書きました。わたしはその人の「声」が聞こえてくるような文章が好きなのだが、この本の収録作は全編そうだ。

 企画の相談があったのは十一月下旬——五十歳の誕生日の前日だった。まさか緊急事態宣言の最中に刊行されることになるとはおもいもしなかった。

 書店も休業していたり、営業時間を短縮していたりする。だからこそ、今、買ってほしい本である。

 お金に関する不安や心配が吹き飛ぶわけではないが、何度読んでも「ふざけたことに使うお金ではございません。たのみます」(太宰治)はおかしい。

 重たいニュースに疲れた気持がすこし軽くなるかも……。

2020/04/15

マイナーポエット

 東京都の休業要請の新リスト——新刊書店はOKで古書店はNGときたか。
 夕方のニュースでは「古本は趣味だから」というような理由をあげていたが、古本屋には買取という仕事がある。古本屋に行く人の中には蔵書を売って、その日の晩メシの食材を買ったり、家賃の足しにする人間もいる。

 家で『なんのせいか 吉行淳之介随想集』(大光社)を再読していたら「短編小説私見」というマイナーポエットについて綴ったエッセイがあった。

《マイナー・ポエットという言葉があって、これは貶す言葉であると同時に、褒め言葉である。私は小説の世界では、マイナー・ポエットが好きだし、私自身その範疇に入るとおもっている。わが国の近代小説の短編の傑作は、みなマイナー・ポエットの手によって書かれている。芥川竜之介、梶井基次郎、牧野信一、太宰治…。みなマイナー・ポエットである。ということは、醇乎たる芸術家であるということだ。井伏鱒二氏にしても、近年大作家の風格を備えてこられたが、本質はマイナー・ポエットである。そして、マイナー・ポエットがその本領を発揮するのは、やはり短編の分野なのである》

 昨年の『本の雑誌』十一月号の特集「マイナーポエットを狙え!」で岡崎武志さん、夏葉社の島田潤一郎さんとの座談会に参加した。

《島 井伏鱒二の一連の作品ってまさにそういう小説とエッセイの間というか、そういうものをかなり早くからやっていろんな人に影響を与えてますよね。でもマイナーポエットというときにあまり名前が出てこない。
 魚 やっぱり井伏鱒二は文豪、大家感がすごいからかな。
 岡 そうだね。でも資質としてはマイナーポエットでしょう。長編もそんなに書いていないし。だから二十代で亡くなっていれば間違いなく伝説なんですよ。
 魚 二十代の井伏鱒二は絵描きを目指していてあんまり小説はないですから(笑)》

 そんな会話をした。井伏鱒二はマイナーポエットかどうか問題——一九六七年に吉行淳之介がすでに論じていたんですね。ちなみに井伏鱒二の初の作品集『夜ふけと梅の花』(新潮社)は一九三〇年、三十二歳のときに出ている。

2020/04/13

五十歩百歩

 色川武大著『ばれてもともと』(文藝春秋)に「節制しても五十歩百歩」というエッセイがある。座右の銘にしたいくらい好きな言葉だ。

 山田風太郎もどこかで似たようなことを書いていた気がして枕元にあるエッセイ集の頁をめくる。この二人、健康観のようなものがけっこう重なっている。

『風眼抄』(中公文庫)の「飲めば寝るゾ」は、タイトル通り、酒飲んで寝る話なのだが、山田風太郎ならではの凄みがある。

《しかし、そんなに身体のことに気を使ってどうなるか。一般に健康法というものは、自分には有用かも知れないが、他人には有害なものである。なぜなら、人間はいかなる人間でも、その存在そのものが他人には有害だからだ》

 時流に合わない内容かもしれないが、ストイックな言説ばかりだと息苦しくなる。今さらながら不健康を楽しめるのは平和な日常あってのことと痛感する。

 山田風太郎の『死言状』(角川文庫)をパラパラ読んでいたら「日常不可解事」というエッセイの中にようやく探していたフレーズが見つかった。

《人間、永遠に健康な老人というわけにはゆかない。五十歩百歩、迷惑をかけるのがほんの少し先送りになるだけではないか。先送りになった分だけ老化するわけだから、かえって迷惑の度合がひどくなるだけではないか。……》

 節制すれば、寿命が二十年三十年と伸びるとは限らない。不健康でも日々楽しく暮らせればそれでいいとおもうが、今の時勢では声に出しにくい。

 気兼ねなく近所のバーでだらだら飲める日を夢見つつ、今は家でごろごろしている。

2020/04/11

自宅充電中

 水曜日、昼三時ごろ、地下鉄(東西線)に乗ったら車両に自分を含めて四人だけ。窓も開いている。三省堂書店はこの日から休み。東京堂書店は十一日から土日祝が休みで、平日のみ(十一時~十七時の営業)。
 書泉グランデも土日祝が臨時休業で平日のみ(十一時~十八時)と告知していた。

 土曜日、西部古書会館の大均一祭も中止。

 クイック・ジャパン・ウェブ「半隠居遅報」の「自粛と言わず『自宅充電』と呼ぶ。今の最善手とは」更新。https://qjweb.jp/journal/14554/

 わたしは不安が高まると思考が萎縮しがちなる。山田風太郎のような思索のスケールが大きい、達観した人の文章が読みたくなる。

《予想というものは、一般に希望の別名であることが多い。希望とは自分の利益となる空想である》(『戦中派不戦日記』)

 というわけで、わたしの予想というか希望というか空想を述べさせてもらう。
 すこし先の未来は今よりいい世の中になるはずだ……とおもっている。
 高度経済成長期の大公害のあと——数十年の歳月を経て、多くの町の空気や河川の水がきれいになったように。

 この先、体調不良のときに休みやすい社会になるとおもう。
 できれば閉塞感のない、風通しのよい町が増えてほしいと願いたい。

 移動欲が疼くが、とりあえず五月の連休明けくらいまでは静かに暮らす予定だ。

2020/04/07

空気の管理

 フローレンス・ナイチンゲール(一八二〇年生まれ)は今年の五月生誕二百年。

 四年ほど前『日常学事始』(本の雑誌社)で「一に換気、二に日当たり」というナイチンゲールのコラムを書いた。
 外出を自粛し、換気をしない部屋で長時間ですごすのは健康によくない。天気のいい日は散歩したほうがいい。

(以下、再掲。てにをは、改行など、すこし直した)

 ナイチンゲールの『看護覚え書』の初版は一八五九年に刊行、世界各国に翻訳され、今なお読み継がれている。
 日本では一九一三年に岩井禎三訳『看護の栞』が初訳——わたしの家には古本屋で買った二〇〇〇年一月の改訳第六版(現代社)がある。前の持ち主が勉強熱心だったのか、線引と書き込みだらけだった。

 ナイチンゲールは三十六歳のときにクリミア戦争から帰還してから、長年闘病生活を続け、九十歳で亡くなるまでほとんどベッドの上で暮らしていた。
 つまり彼女は優秀な看護師であると同時に長期にわたる病人でもあった。

 ナイチンゲールは、部屋を換気し、湿度を保つことの大切さをくりかえし(しつこいくらいに)説いている。冒頭から換気の話だけで数十頁費やしている。
「空気の管理」――窓を開けることが看護の第一原則なのだ。
 窓を閉め切った部屋は「汚れた空気の巣窟」になる。
 ひとり暮らしをしていると、日中、家にいなくて、なかなか部屋の換気ができない人も多いかもしれないが、夜も換気しろというのがナイチンゲールの意見である(当時のロンドンは、夜のほうが空気がきれいだったという理由もある)。

 次に日当たり。病人は新鮮な空気の次に陽光を求める。閉め切った暗い部屋はカビがはえやすく、細菌の温床になる。一日の大半をベッドですごす病人の部屋は日当たりをよくする必要がある。
 それから、からだを冷やさないよう室温を保つ。明け方の気温(室温)がいちばん低いときに気をつける(湯たんぽがおすすめらしい)。そして内蔵を温める食事や入浴や快適な運動も大切だという。

 静かな環境で休息し、そのときどきの体調に合ったバランスのよい食事をとることも快適な生活には欠かせない。
 ちなみに、一九世紀のイギリスでは、病人食は牛肉のスープがポピュラーだった。
 いっぽう食欲がないときや疲れているときに、無理に何か食べるより、あたたかい紅茶やコーヒーを一杯飲むほうが調子がよくなることもあるという話は、なるほどとおもった。

 療養の基本は「空気と陽光と栄養と安静」であり、看護の目的は「生命力の消耗を最小にする」こと。もちろん、それが大切なのは病人だけとは限らない。

 また「清潔の保持」も重視している。
 ナイチンゲールは掃除の仕方にもうるさい。
 ドアや窓を閉めて掃除をしてはいけない。掃除の目的はほこりの除去である。そのためには濡れ雑巾で拭いて乾拭きする(ハタキをかけるのは、ほこりを舞いあげるだけで部屋の清潔にはつながらない)。
 彼女にいわせると絨毯は人間が発明したモノの中で「最も始末の悪い代物」とのこと。このあたりは室内で靴を脱がない文化が関係あるかも。

 人生の大半を病床ですごしたナイチンゲールは看護師の立振舞いにも厳しい。
「(病室の)ドアを乱暴に開け閉めしないこと」「病人を急かさないこと」「病人の思考を中断させないこと」
 ようするに配慮のない看護師は患者を消耗させる。ガサツすぎても神経質すぎてもいけない。

 それから見舞客の病人にたいする「おせっかいな忠告」を厳しく批判している。
 病気で寝ているときにあれこれ説教されるのはたまったものではない。相手の症状を知らないのに「ああしろ、こうしろ」と助言するのはもってのほか。「自己管理がなっていない」「精神がたるんでいる」みたいなことをいう人がいるが、そうした意見は病人の生命力を消耗させる効果しかない。
 病人は見舞客といっしょに泣き言をいったり、落ち込んだりしたいわけではない。なるべく楽しい話題を心がけ、見舞に行ったときはマイナスの話題はしないほうがいい。

 ナイチンゲールは小説の不衛生なシーンなどにも文句をいっている。けっこう面倒くさい人かもしれない。

安静と静観

 日曜日の午後、西部古書会館。入口は全開。入館時に検温がある。おでこで「ピッ」となる体温計。三十六度二分。平熱だった。

 不要不急の外出はなるべく控えるようにしているが、西部古書会館だけは別だ。
 それでもしばらく背表紙の文字が頭に入ってこなかった。館内を一周したあたりで、ようやく頭が回りはじめる。もう一周する。

 近所のスーパーの中には入場制限をしている店がある。店の外まで人が並んでいる。混んでいる店を避け、混んでなさそうな店を目指す。品薄の食品の傾向はどこも同じだ。保存食、冷凍食品など。

 すくなくとも高円寺にかんしては町を歩いている人はたくさんいる。いつもと違うのは子ども連れの家族が多いことか。

 これからどうなるのか。

 しばらくは富士正晴の「不参加ぐらし」か古山高麗雄の「“いち抜け”者」でいこうと考えている。自己防衛に目一杯で社会のことまで考える余裕がない。「動」と「静」でいえば、今は「静」に徹したほうがいいと判断した。

 色川武大著『いずれ我が身も』(中公文庫)を読み返す。

《自分と、他人を比較する癖をやめることだ。
 自分は自分、他人は他人。
 それじゃ社会生活はできない、というかもしれないが、そんなもんでもないよ》(えらい人えらくない人)

 世の中が大きく動いて先が見えない時期にいっしょになって自分も動くと消耗が激しいし、ペースが崩れやすい。

 いずれは今も過去になる。「あのころマスク買えなかったなあ」と。

 確定申告はまだしていない。

2020/04/03

ささま書店

 荻窪のささま書店閉店(閉店セール中)。

 都丸書店(支店)、ささま書店、音羽館、あとは西部古書会館で買った本が我が家の蔵書の大半を占めている。
 ささま書店では私小説、随筆ばかり買っていたが、自分の知らない面白い作家を教えてくれる棚だった。

 上京した本好きの友人にすすめる古本屋がささま書店だった。「買いすぎちゃったよ」と文句をいわれた。
 外の均一で本を見ていると、友人と偶然(?)会い、そのまま喫茶店に行って古本の話をする。そういう店でもあった。

 過去形で書くのがつらい。

2020/03/29

五十肩

 先週、左肩が痛いと書いた。おそらく五十肩(自己診断が危ないのは承知の上だが、病院に行く気になれなかった)。肩を痛めたのは同じ姿勢でずっと本を読んでいたのが原因だとおもう。途中で左肩に違和感をおぼえ、まずいかもとおもいながら『吉田豪の巨匠ハンター』(毎日新聞出版)と『小田嶋隆のコラムの切り口』(ミシマ社)を読み続けてしまった。

 五十肩の急性期は何もしてなくても痛い。寝ても歩いても痛い。仰向けで寝ると、起きられなくなる。思考の九割くらいは痛みに奪われる。

 慢性期はちょっと動かすと痛い。腕を動かさないから(急性期よりも)可動域がせまくなり、服の脱ぎ着に苦労した。試行錯誤の結果、着るときは痛いほうの腕から袖を通し、脱ぐときは逆にするといいことがわかった。
 頭を洗うのも左手が上がらないから、片手でする。やりにくい。地味な不便さでは左耳の耳掃除ができないのも困った。自覚はなかったが、蛇口をひねるのも左手だった。右手で蛇口をひねるのは想像以上に違和感があった。

 腰痛や膝痛や帯状疱疹のときにも痛感したが、痛みがないって幸せなんだなって。

 かつて読書で肘を痛めたこともある。このときも激痛と痺れで仕事に支障が出た。

 月曜日の昼に痛みが出て、日曜日の朝五時、ようやく左手をまっすぐ上に伸ばせるようになった。完治はしていない。

2020/03/28

メガネを清潔に

 友人のインターネット環境が復旧したようで、しばらく更新してなかったツイッターが再開していた。メールは送信エラーになる。機械のことはよくわからない。
 刻一刻と新型コロナウイルスをめぐる状況は変化している。わたしも一ヶ月前と今とでは考え方は変わった。

 感染拡大を防ぐには? 閑なおっさんは家でのんびり過ごすにかぎる。

 個人の対策としては、うがい、手洗い、部屋の換気、バランスのとれた食事、睡眠——あと何だろう。

 そう、メガネ洗いだ。手洗いと同じかそれ以上にメガネは洗ったほうがいい。

 二十代後半の半失業期に、先輩のライターから「人と会うときは寝癖を直してこい、それからメガネを拭け」と説教されたことがある。メガネをきれいにしておくのは、感染症対策にとってもかなり大切だ。最重要かもしれない。

 メガネをしている人ならわかるとおもうが、何の気なしにメガネを触っている。ほぼ無自覚のうちに、しょっちゅうつけたり外したりズラしたりするので一日何百回とメガネに触っているとおもう。

 うがいや手洗いと比べるとメガネ洗いの重要性はそれほど告知されていない気がする。

 今の時期は神経質すぎるくらい洗ったほうがいい。

2020/03/23

春時雨

 一本原稿を書き上げ、押入にしまっていた春・夏・秋用のズボンを洗濯する。衣替えをすこしずつしている。
 気温の変化が激しい時期は心身ともに不安定になりやすい。これは自分のせいではない。そう考えるようになってから楽になった。今、左肩が痛い。ふだんは意識していないが、わたしの仕事は左手をけっこう使う。本は左で持つ。左手の親指の力加減で頁を自在にめくれる。頁をめくるだけでも痛い。

 山口瞳著『卑怯者の弁 男性自身シリーズ』(新潮社、一九八一年)を読む。ぱらぱら頁をめくっていると「春時雨」にこんな文章があった。

《規則正しい生活をする。特に運動を欠かさないようにする。人に会うのは避ける。そういう生活のなかで出来るかぎりの仕事をする。そうすれば心身爽快となり、病気のことなど忘れてしまう。
 それがわかっているのだけれど、そうはならない。出来やしない》

 昔からこういう随筆が好きだ。ひとりの作家の随筆をずっと読んでいると書いているときの調子のよしあしみたいなものがわかるようになる(なんとなくだが)。調子はよくないかんじだけど、面白い。山口瞳はそういう随筆が多い作家である。おそらく規則正しい生活を送っているだけではいい文章は書けない。健康すぎてもいい文章は書けない。
『卑怯者の弁』では糖尿病で入院中の話が何本か入っている。

「病室にて」では「さいわいにして私は自営業者であるのだから、自分の生活を自分でコントロールすることができる。そのうえで、書けるだけのものを書いてゆくより仕方ない」とある。

 ウェブ上の書き込みにしても不健康に不寛容な人の文章というのは読んでいるときつい。「老害」という言葉を嬉々として使うような人もそう。アメリカでも若い世代のベビーブーマー世代にたいする風あたりが厳しく「OKブーマー(和訳=団塊乙)」という言葉が流行語になっている。新型コロナ関連では「ブーマーリムーバー」という言葉さえ生まれている。悪趣味だ。

 誰だって齢をとる。病気になる。ケガをする。誰かに助けてもらわなければ日々の暮らしがままならなくなるときがいつかはやって来る。いつ自分の身にそういうことが起こってもおかしくない。そうした想像力が欠落している人がいる。

 わたしも若いころはそうだった。

2020/03/22

三週間

 木曜日、新宿に寄り、都営新宿線で神保町へ。都営に乗るのは今年はじめてかも(神保町駅がきれいになり、スターバックスが入っていた)。
 新宿の金券ショップ、新幹線の回数券のコーナーに「大幅値下げ」の張り紙があった。出張や旅行者の減少で新幹線ががらがらだという。

 新型コロナ関連ではトイレットペーパーが店頭からなくなって、行列に並ばずに買えるようになるまでだいたい三週間くらいかかった(ティッシュペーパーはすこし早い)。一ヶ月分のストックがあれば大丈夫だが、この先どうなるかはわからない。
 米、冷凍食品はスーパーの棚から消えて二、三日後にふつうに買えるようになった。

 健康(安全)と経済のバランスをどうするかはむずかしい。
 感染を防ぐために、みんなが外出その他を控えれば失業者が増える。

 正しい情報がなければ、正しい判断ができない。正しい判断ができないときは慎重論を採用する。

 たいていの問題は楽観論と悲観論に分かれる。東日本大震災後、わたしは悲観論からゆっくりと楽観論に移行した。たぶん今回もそうなるだろう。

2020/03/17

コレラ船

 家にこもり気味の日々。午前十時ごろ町に出れば、トイレットペーパーが買えることを確認する。
 仕事の合間、気分転換に木山捷平著『鳴るは風鈴』(講談社文芸文庫)を読む。この本の中に「コレラ船」という短篇が収録されている。九百三十二人の男女が乗った引揚船が山口県の仙崎沖に到着した。

《仙崎沖のはるか沖合にとまって上陸を待っていた船は、まる二日後、突然、逆戻りをはじめた》

 船内の噂では、入港早々、女性のひとりが疑似コレラと判定されたという。女性はすでに下船してしまい、他の乗員が船に残されることになった。船は仙崎港から長崎県の佐世保港に向かい、三日かけて「カリヤ湾」に到着した。佐賀県の仮屋湾である。そこは港ではなく、人家もない場所だった。

 この作品は、戦時中、満州国農地開発公社の嘱託として新京(長春)に渡り、一九四六年八月に引揚船で佐世保に上陸した木山捷平の実話を元にした小説だ。

 船は港の沖合にまで来ていたが、いつ上陸できるかわからない。そのうち、船内に数人のコレラ患者が出てくる。佐世保の沖合には他にも同様の理由で入港できない船があった。
 船内では冷えたビールが飲みたい、鮪の刺身が食いたいといったほのぼのとした会話も交わされる。
 港に上陸するまでに十一人の男女がコレラで亡くなった。

 木山捷平が「コレラ船」を発表したのは一九五九年八月、五十五歳。『鳴るは風鈴』の刊行は二〇〇一年八月。解説は坪内祐三さんが書いている。
 文庫の解説で坪内さんは「私の好きな短篇『豆と女房』(『豆と女房』は本作品集に収められた『コレラ船』の一種のリメイクでもある)」と指摘する。
「豆と女房」の初出は一九六二年十一月(『白兎 苦いお茶 無門庵』講談社文芸文庫に収録)。この作品は「上陸禁止で船のなかの雑居生活をしているうちに月が満月近くなった」という一文ではじまる。「コレラ船」と同じく引揚船で帰ってきたが、コレラの疑いのある女性がいて、沖合に停泊したまま月日がすぎていくという話だ。「豆と女房」は、高円寺の話も出てくる。満州に行く前、木山捷平は高円寺に住んでいた。

 新型コロナウイルス騒動で横浜沖に停泊していた大型豪華客船のニュースを見聞きし、木山捷平の作品は、文章だけでなくテーマも古びていないことがわかった。

2020/03/09

日常

 日曜日、雨。昼三時半起床。夕方四時すぎ、二日目の西部古書会館。人が少なくてのんびり棚を見ることができた。葛西善蔵の『椎の若葉・湖畔手記』(旺文社文庫)は家にあるのは扉が切れていたので、つい買ってしまう。はじめて葛西善蔵を読んだのも旺文社文庫版だった。

 福原麟太郎の『人生十二の智慧』(新潮社一時間文庫)も買う。ビニカバがきれいに残っていた。二十代のころに買った記憶があるが、今は行方不明(たぶん売ってしまった)。「失敗について」がすごくいい。

《人生が失敗であつたとか、成功であつたとかいうことに、どんな意味があるのかとも言つてみたい。死んでしまえば萬事終りで、人は一生を、何とかして過ごして来たというだけのことなのだ。誰も大した生きかたはしていない》

 あと『草野心平のすべて展』(大黒屋デパート)は、はじめて見た。二百円だった。一九八三年に開催された文学展のパンフレット。文学館ではなく、百貨店系の文学展パンフはたまに見かけるのだが、未知の領域だ(誰か研究している人がいるのだろうか)。地道に調べていくしかない。

 二月二十八日から高円寺ではトイレットペーパーとティッシュが店頭から消えたが、三月五日、六日あたりから値段が高めのものは夕方くらいでも見かけるようになった。しかし週末また品切れ。もちろんマスクはない。土日は買い出しの人が多いのか、スーパーの棚もすかすかになる。一週間くらいで通常モードに戻るんじゃないかという予想は外れた。

 食料品にかんしては今のところそれほど困っていない。店によっては納豆が売り切れのところもあったが、すこし値段が高めのやつは残っている。先週末はレトルトと冷凍食品、缶詰の棚がガラガラの店もあった。

 ふだん調味料はなくなりそうになったら買い足すようにしているが、いつ品切になるのかわからないので、すこしだけ早めにストックしてしまう(ごま油とか)。買い占めというほどでもない、(自分も含めた)人々の小さな備蓄が積み重なると、棚がすかすかなるのだろう。週一回くらいしか買ってなかった納豆(三個入り一パック)を先週は二回くらい買った。棚にあと二、三個しか残ってないと次来たとき買えないのではないか、売れ残りの高級品(?)しか買えないのではないかと考えてしまう。

 こうした心理は古本を買うときにも働く。(好き嫌いと関係なく)よく見かける本よりもあまり見かけない本をつい優先して買ってしまいがちだ。何年か前、そういう買い方はやめよう、読みたい本だけを買おうと決めたにもかかわらず、人間の習性というのはそう簡単には変わらない。

 週末、仕事で節酒していたので今日は飲みに行きたい。

2020/03/05

第四稿

 寒くて風が強い。夕方神保町。東京メトロ東西線の九段下駅から中野駅、そこから歩いて高円寺に帰る。
 すこし前に買って積ん読していたジョン・マクフィー著『ピューリツァー賞作家が明かすノンフィクションの技法』(栗原泉訳、白水社)を読む。
 ライター関係の技術書、入門書は買う。読んですぐ役に立つアドバイスもあれば、時間が経ってから有益な知識もある。何がどう役に立つか、そう簡単にはわからない。わかれば誰も苦労しない。

 原書の題は「Draft No.4」、つまり「第四稿」である。このタイトルだと内容がわからない。しかし、いい題名だ。わたしが書店で手にとるのは『ノンフィクションの技法』だけど、読後、家の本棚に並べたいのは『第四稿』だ。

 この本の中でも「第四稿」が読みごたえがあった。
 行き詰まって書けないときは、自分の能力不足に関する愚痴など何でもいいから書けというようなアドバイスする。ライター歴三十年のわたしも実践している。

 テーマと関係ないことを書いているうちに力が抜けてくる。ジョン・マクフィーは最終稿ではその部分を削れというが、わたしはわりと残す。そのあたりがノンフィクションとエッセイの技法のちがいだろう(たぶんちがう)。どうでもいいことを書いているうちにエンジンがかかってくる。すくなくともわたしはそう。

 また「わたしの文体っていつも、そのとき読んでいるものと同じか、さもなければ、自己意識の強い、ぎこちない文になってしまう」というジェニーの悩みにたいし、マクフィーはこう答える。

「そりゃ、困ったことだね、もしきみが五十四歳だというなら。だが、二十三歳ならそれが当たり前だし、重要なことでもあるんだ」

 この続きの言葉もいい。何が書いてあるかは読んでのお愉しみということで。

2020/03/01

備蓄

 今年は閏年だったかと数日前に気づいたのだが、とくに予定なし。

 二十代のころは曜日の感覚がめちゃくちゃで、しょっちゅう火曜日だとおもって一日すごしていたら水曜日だったということがよくあった。今はそういうことはない。
 曜日をしょっちゅう間違えていたころは、生活リズムもめちゃくちゃで時計を見て五時三十分くらいだと、「朝? 夕方? どっち?」と焦ることが月に二、三日はあった。
 曜日の感覚がおかしくなったり、朝か夕方かわからなくなったりしたのは徹夜したり、半日くらい酒を飲んだりした次の日に十二時間とか十四時間とか寝ていたからだろう。

 今は朝か夕方かわからなくなる日は年に二日か三日くらいしかない。

 もはや生活リズムがデタラメだったころの感覚が思い出せなくなっている。今も規則正しい生活を送っているわけではないのだが、徹夜はしないし、飲みに行っても二時間くらいで切り上げる。

 九年前の東日本大震災後も町からトイレットペーパーとペットボトルの水と乾電池が消えた。菓子パンやカップ麺も品切になっていた気がする。ただ、当時の記憶もあやふやになっている。

 朝寝昼起の生活をしていると物不足のときに対処が遅れる。午前中でいろいろなものが売り切れ、午後は棚がすかすかになる。開店前に薬局でマスクの整理券を配っている。昨日か一昨日あたりから、急にトイレットペーパーとティッシュが売り切れの店が増えた。
 子どものころ、鹿児島にいた明治生まれの祖父が郷里の家に来たとき「ティッシュなんて贅沢だ。鼻は古新聞かチラシでかめばいい」といっていた。母は「ケチクサイ」と文句をいっていたが、ちり紙(チリシといっていた)がなくなったとき用のやわらかい紙のチラシをためていた(家は長屋で水洗トイレじゃなかった)。昭和五十年代の話である。

 数週間後には平常運転に戻るとわかっていても、いざ店にものがないと不安になる。家にあるものでもすこし買い置きしておこうかなとおもってしまう。ひとりひとりのそうした心理が積み重なって、町からものが消える。

 ものを備蓄するのも大事だが、なければないでどうにでもなる——とおもって日々をすごすのも生活の智慧だ。ほんとうにないと困るものは何か。そういうことを常日頃から考えておくのはわるくない。

2020/02/26

冬をのりきる

 このあいだ二月になったとおもったら、もう月末、十二月〜二月の冬眠期(といっても仕事はしていた)も終わる。

 毎年のことだが、冬をのりきることが目標になっている。冷えと疲れは万病のもと——からだをあたたかくしてよく寝る。
 風邪対策としては何にでもショウガをいれる。万能とはいわないが、ショウガはすごいとおもう。お酒もジンジャーハイボール、モスコミュールを飲む。
 しかし細心の注意をはらいつつも風邪をひいたり、ひかなかったりしている。風邪なんてものはどんなに気をつけていてもひくときはひくものだ。健康管理が無駄とはいわないが、それでもひくときはひく。

 ただしあくまでも個人の意見だが、やせているときと太っているときを比べると、やせていたときのほうがよく風邪をひいた。だから冬のあいだはすこし太るくらいでちょうどいいとおもっている。

 街道を歩くさい、朝から夕方までほとんど食事をとらずに歩き続けるので二泊か三泊の旅行をすると二、三キロ痩せる。
 昨年末、自分のベストと考えている体重よりも四、五キロ痩せていた。今はベストより二キロほど太っている。

 五十歳をこえたら、一年通してずっと万全でいられるわけがない。一年のうち二、三ヶ月はダメな時期があってもいい。
 週に一日か二日か、完全休養日(何もせずだらだらする日)があるのが理想なのだが、なかなかうまくいかない。

 話は変わるが、連休中に読んだ古山高麗雄著『他人の痛み』(中公文庫)のメモをしておく。

 都会の子どもは自然と触れ合う機会が少ないという話から、古山さんはこんな感想を述べている。

《勉強のためならと言って、子供の部屋にクーラーを取り付けることには出費を惜しまない親が、子供が魚釣りに行くことにはいい顔しない。考えてみると、そういう大人たちも哀れである。
 しかし、こういうことを書いても、世の中変わるわけのものではない》

「こういうことを書いても、世の中変わるわけのものではない」とわたしもしょっちゅうおもう。

 でも変わらなくてもしつこく書き続けるしかない。

 わたしは気軽に休める世の中になってほしいのでそのことだけはくりかえし書いていくつもりだ。

2020/02/22

ガガンボとカトンボ

 遅報ですが、QJWEBの「半隠居遅報」の「異世界においてなぜ男はチート、女は悪役令嬢なのか」(https://qjweb.jp/journal/8279/)を更新しました。

 文中に出てくる釣り雑誌編集者は『葛西善蔵と釣りがしたい』(フライの雑誌社)の堀内正徳さん。高円寺のペリカン時代で「異世界」の話で盛り上がり、家に帰って、そのままほろ酔い状態で書いた。

『フライの雑誌』の119号の特集「春はガガンボ」。わたしは「安吾の無頼フィッシング」という原稿を書いた。晩年の安吾は群馬県の桐生市で過ごした。蔵がいっぱいあって、川があって、いい町だ。
 この号の編集後記で「たぶん人類の釣り雑誌史上初」と謳っているのだが、雑誌評を二十年以上やっているわたしの記憶にも「ガガンボ」の特集は見たことがない。

「ガガンボ」は郷里(三重)では「カトンボ」と呼んでいた。『機動戦士Zガンダム』に「落ちろ、カトンボ!」という台詞がある。富野由悠季さんは小田原出身なので、小田原も「カトンボ」というのかもしれない(今、ネットで検索したら「落ちろ、カトンボ!」は『聖戦士ダンバイン』でもつかわれているそうです)。

 魚の名前だとオイカワもなじみのない言葉で台湾生まれ鹿児島育ちの父はシラハエ(シラハヤ)といっていた。ヤマベ、ハイジャコといった呼び方もある。
 地域で呼び名がちがう魚だとカワハギもそう。伊勢志摩ではハゲと呼んでいたが、バクチ、メイボという呼び名もあるらしい。

2020/02/18

近況

『本の雑誌』三月号の特集「文学館に行こう!」で、中部地方の文学館を紹介した(内容としては「街道文学館」の番外編になっている)。
 わたしは二十五年くらい文学館のパンフレット(文学展パンフ)を収集していて、本の雑誌の編集者にその話をしたことが「街道文学館」の連載につながった。

『小説すばる』三月号の連載「自伝の事典」はこの号が最終回。『小説すばる』は、二〇〇八年一月号から十二年もお世話になった(『古書古書話』本の雑誌社)。
『scripta』の「中年の本棚」の連載も終わった。五十歳はいろいろ区切りの年か。五十代は仕事と関係ない本を読む時間を増したい。地理や風土を意識して本を読むようになって、一冊の本を読むのに時間がかかるようになった。楽しいけど、時間がいくらあっても足りない。

 二つの連載が終わるタイミングでQJWEBの「半隠居遅報」の連載がはじまった。あくまでも「遅報」であって「時評」ではないのだが、二十代のころから「今」をすこし広い幅、長い時間の中で考えたいとおもっていた。それをどう形にするかは、まだ手探りの状態。早い段階で型を作ってしまうと楽なのだが、それはしたくない。

 仕事のペース、生活のリズムをいろいろ再構築しないといけない。

 週末、街道歩きをした。雨の水戸街道を歩いた。雨の日はダメだ。足が止まると、からだが冷える。春先の街道歩きは昨年も苦労した。天候に左右されることも含めて楽しもうと前向きに考えることにする。

2020/02/04

二月になったが

 いつの間にか二月。昨年暮れあたりに部屋の天井がはがれてきて、大家さんに修理を頼んでいた。今日朝九時に工事の人が来て昼には終わった。
 テレビやステレオを動かし、もういちどコードやら何やらをつなぎなおす。ラジオをつけたらジェーン・スーさんの番組だった。飲み友だちのあいだで愛聴者が多い。本は全部読んでいるが、ラジオははじめて聴いた。面白い。
 そのあとレコードを何枚か聴く。CDは楽だけど、わたしはレコードが回っている光景が好きなのだ。見ていて飽きない。アンプをきれいに磨いたせいか、音がすこしよくなっている。

 西部古書会館で買ったまま積ん読になっていた福原麟太郎の『変奏曲』(三月書房、一九六一年)を読む。「野方の里」という随筆の初出は一九五九年四月の日本経済新聞なのだが、いきなり「野方の里といっても、東京都中野区野方町一丁目のことで、その五七六番地に、この筆者が住まわっているのである」と書いてある。おおらかな時代だ。

《昭和二十三年の夏、暑いさかりに、この町へ越して来たとき、書斎にした六畳の窓をあけると、生けがきの外にはすぐ麦畑が見渡すかぎり海のように続いており、涼風がそよそよと吹き込んで、実に快適であった》

 七十年ちょっと前の野方の話。高円寺からほぼ北にまっすぐ歩くと野方だ。昔はなかったけど、今、高円寺と野方のあいだに案内板みたいなものがあって、高円寺駅まで一・何キロ、野方駅まで一・何キロと駅までの距離が記されている。高円寺から野方は余裕で徒歩圏内である。
 高円寺駅と野方駅のちょうど中間地点は中野区の大和町なのだが、このあたりも好きな場所だ。近くに川があるのもいい。

 五十歳になって、気持の区切りというか、諦めというか、吹っ切れたことがいくつかある。
 ひとつは自分の能力にたいし、過度な期待をしなくなった。たぶんこの先万全といえる体調はない。やや不調くらいでよしとする。
 肩凝りや腰痛も簡単には治らない。今、腰の調子がよろしくないのだが、動くのに苦労するほどの痛みはないので休み休み仕事している。
 のんびり仕事しているが、しめきりまでには何とか仕上がるようになったのは年の功といえるかもしれない。
 焦ってもしょうがない。掃除したり散歩したり、適度に息ぬきをしながら、ひとつひとつ片づけていくのが自分には合っている。

 そのことはわかっていてもすぐ忘れてしまうので自分のためのメモとして書いた。

2020/01/25

半隠居遅報

 毎年恒例——というか、自分のためのメモとして書いていることだが、今年も「冬の底」と名付けている心身不調のどん底の時期がやってきた(ような気がする)。
 今年は一月二十四日か二十五日か。でもまだわからない。昨日午後一時すぎに起きて、原稿の校正、図書館に行って調べてものをする予定が午後四時すぎまで指先に力が入らない。頭蓋骨に膜がはっているかんじがして頭がまわらない。こんな調子が続くようなら仕事にならない。ただしそんなに悲観はしていなくて、経験上はここからすこしずつ上向きになっていくと考えている。昨年も一昨年もそうだった。

 そんなわけで、絶賛不調中なのだが、QJWEBで「半隠居遅報」という連載をはじめることになりました(いちおう隔週で三ヶ月の予定)。第一回は「気楽に休める社会 休み休み歩いたほうが遠くまで行ける」です。
https://qjweb.jp/journal/4383/

「半隠居」という言葉は山口瞳の『男性自身』シリーズの中で見つけた言葉で、杉浦日向子が提唱していた「晴れ時々隠居」のニュアンスもある。ようするに、働かないと食べていけない「金のない隠居」ですな。

 山口瞳の『隠居志願』(新潮社、一九七四年)に「小さい海」というエッセイがある。『男性自身』シリーズの中でも大好きな一篇だ。

《どうも現在の俺は半隠居かもしれないと思い、半隠居というのも落ち着かない感じだなと思った》

 初読は二十代半ばころか。父の本棚にあった。ブラックジャーナリズムの仕事を辞め、週三日くらいアルバイトをしながら、古本やレコードを売って暮らしていた。

「小さい海」を書いたころの山口瞳は四十六歳。同エッセイにはこんな文章もあった。

《以前、ある小説家に、おれたちは、五十歳を過ぎないと自分の仕事が出来ないと言われた》

 自分の仕事とは何か。あと何を書き残しておきたいか。
 最近、そんなことばかり考えている。

2020/01/19

貧乏は不便

 土曜日、外は雪(のち雨)。書くことも書かないことも気が重い。感情が安定していない。
 コタツでごろごろしながら新居格著『心のひゞき』(道統社、一九四二年)を読む。新居格の随筆は寝ころんで読むのに適している。心が落ち着く。

「金について」という一篇にこんな文章があった。

《わたしは時々こんな風にいふことがある。——金のないのが何で恥づべきことであるか。と、いつてのけた後で、「しかし不便ではある」と附け足さゞるを得なかつた》

 たしかにそのとおり。
 新居格は書籍を買う金と自然と親しむ旅をするための金を望んでいた。
 しかし——。

《そんな単純な、金持からいふと大凡吝臭い欲望でさへが金のないためになしえないことが多い》

 本を読み、旅をする。そのためにはお金もいるが、時間も必要である。
 先週高円寺の西部古書会館で大均一祭があった。初日一冊二百円、二日目百円、三日目五十円。二日目と三日目で三十一冊本を買った。二千三百円。買った本を読むひまがない。

 お金がないからできないのか。やる気がないからできないのか。そのあたりの線引きはいつだって曖昧だ。

2020/01/16

桐生の安吾

 坂口安吾の「ゴルフと『悪い仲間』」を読む。
 初出は「文学界」一九五四年八月一日発行。群馬県の桐生市にいたころの安吾の日記である。

《十六日
 久々の晴天。朝九時にゴルフに出発。女房より、本日ヒルすぎに安岡君来訪の由注意があったが、ヒルすぎにもいろいろある。(中略)
 安岡君の一行すでに来着。はからざる次第。早朝に文春記者に叩き起された由である。この一週間ほど前に河出書房のF君が来て、自分は安岡君の悪友で「悪い仲間」その他のモデルだと名乗り、安岡君について一席弁じていった。むやみに人に絶交したがる男だと云っていた。しかし、安岡君の方がだいぶおとなしい感じ。外面如ボサツというのかも知れん。絶交するのはもっぱらF君の方ですとは安岡君の説であった。ボクの青春時代にも今は死んだけれどもF君のような悪い仲間がいて絶交したりされたりしたのを思いだした》

 F君は古山高麗雄。二十代のころ、青山にあった事務所で古山さんとはじめてお会いしたときも安吾の話を聞いた。河出書房時代、安吾の担当だった。編集の仕事は好きだった。安吾が語った歴史の話は抜群に面白かった。そんな話をしてくれた。

 桐生は安吾が最後に暮らした町だった。晩年の安吾は古墳をまわり、ゴルフをしていた。

 すでにわたしは安吾が亡くなった齢(四十八歳)より二歳年上になっている。

2020/01/12

甲州の太宰治

 街道歩きをはじめて以来、もともと好きだったがさらに好きになった町は甲府、それから石和温泉である。高円寺からの距離感もほどよい。朝、JR中央線で新宿方面ではなく、高尾方面に向かう電車に乗るのも気分がいい。

《甲州を、私の勉強の土地として紹介して下さったのは、井伏鱒二氏である》

 これは太宰治の「九月十月十一月」という随筆の一文だ。山梨時代の太宰治の文章は心なしか明るい。

《ひそかに勉強するには、成程いい土地のやうである。つまり、当たりまへのまちだからである。強烈な地方色がない。土地の言葉も、東京の言葉と、あまりちがはないやうである。妙に安心させるまちである》

 三年くらい前、山梨で家を探したことがある。甲府あたりで格安の平屋の一軒家はないか。探してみたら何軒かあった(今はどうかわからない)。二〇二七年にリニア新幹線が開通したら、甲府から郷里の三重まであっという間に帰省できる——なんてことを考えていたわけだ。

 以前もこのブログで引用したが、「十五年間」という随筆でも甲府の暮らしを回想している。「十五年間」は故郷・津軽を離れていた歳月のこと。上京後、十五年で二十五回転居。太宰治はこの引っ越しを「二十五回の破産である」と記した。

《私のこれまでの生涯を追想して、幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期は、私が三十歳の時、いまの女房を井伏さんの媒酌でもらって、甲府市の郊外に一箇月六円五十銭の家賃の、最小の家を借りて住み、二百円ばかりの印税を貯金して誰とも逢わず、午後の四時頃から湯豆腐でお酒を悠々と飲んでいたあの頃である》

 最小の家はどんな家だったか。「東京八景」に次のような記述がある。

《昭和十四年の正月に、私は、あの先輩のお世話で平凡な見合い結婚をした。いや、平凡では無かった。私は無一文で婚礼の式を挙げたのである。甲府市のまちはずれに、二部屋だけの小さな家を借りて、私たちは住んだ。その家の家賃は、一箇月六円五十銭であった》

「I can speak」でも甲州の話を綴っている。御坂峠の天下茶屋で仕事をしていたが、太宰治は山の寒気で体調を崩す。

《甲府へ降りた。たすかった。変なせきが出なくなった。甲府のまちはずれの下宿屋、日当たりのいい一部屋をかりて、机にむかって坐ってみて、よかったと思った》

 その後、東京に戻ったが、三鷹の家が空襲で焼け、再び甲府市水門町にある妻の実家に移り住んだ。そこも焼夷弾で焼け、太宰治の甲州生活は終わった。

2020/01/06

年明け

 三日、氷川神社に初詣。今年、高円寺のスーパーは四日から営業のところが多い。
 三十年くらい前は年末三十日から三日までチェーン店以外の店はほとんど閉まっていた。二十代のころは年末年始に帰省しなかったので、その間、ちょっとした非日常を味わえた。地方出身で帰省する友人から冷蔵庫の中身をよくもらった。
 年末年始の食事はたいてい鍋だった。それからうどんと雑炊、そして雑煮。あとカレーか。

 二〇二〇年の初読書は山田風太郎著『秀吉はいつ知ったか』(ちくま文庫)。山田風太郎のエッセイは読むたびに感銘を受ける。「政治家の歴史知識」は自分の知識のなさゆえ、初読のときには山田風太郎の慧眼に気づけなかった。

 たとえば、次の文章——。

《外務省の「終戦史録」をみると、昭和二十年八月九日、米内海相は部下の高木惣吉少将にむかって
「総理は口をひらくと、小牧長久手だの大坂冬の陣だの、そんなことばかりいっているのだからね。……」
 と、嘆声をもらしている。いうまでもなく総理は鈴木貫太郎である。鈴木はこのとき数え年で七十九であった》

 この部分だけ読むと、敗戦の直前に「小牧長久手だの大坂冬の陣だの」と寝ぼけたことをいっている困った総理という印象だ。もちろん、そうではない。

《では、小牧長久手の戦いとはいかなるものであったか。これは秀吉と家康の戦いだが、家康はこのとき秀吉の心胆を寒からしめる痛烈な一撃を与えてから和睦を結んでいる。のちになってみれば、秀吉はこれで家康に舌をまき、この一撃が家康の後半生を護る遠因になったのである。
 鈴木首相は、負けるにしてもなんとかもう一度アメリカに一泡吹かせてから、と熱願し、その思いが右の言葉となって出たのだろう。空頼みとはいえ、望みとしては別に時代錯誤な歴史知識ではなかったのである》

 本能寺の変(一五八二年)から関ヶ原の戦い(一六〇〇年)までの十八年間は、日本史の激動期で……要するにややこしい。わたしは高校時代、世界史を選択していたので、小牧長久手の戦いのこともうろ覚えだった。小牧長久手の戦いが、その後の歴史に与えた影響の大きさについて考えたことすらなかった。
 昨年、鈴木貫太郎の郷里の千葉の関宿を歩いた。終戦時の首相が鈴木貫太郎だったことは昭和史の幸運のひとつだ。

 山田風太郎を読んだあと、山田芳裕の『へうげもの』(講談社)も再読。小牧長久手の戦いの場面はあっさりしていた。全二十五巻。しかし読みはじめたら止まらない。