2014/08/28

夏が終わったみたい

 急に涼しくなったので、秋用のシャツを出し、洗濯する。小雨が降っていたので部屋干しに扇風機をまわす。金沢在住のシンガーソングライターの杉野清隆の「夏が終わったみたい」(アルバム『メロウ』に収録)を聴く。

 マクニースの「秋の日記」(中桐雅夫訳)が入った長田弘編『全集 現代世界文学の発見3 スペイン人民戦争』(學藝書林)が届く。長篇詩というからどのくらいの長さなのかとおもっていたら、二段組で六十頁ちょっとあった。一九三九年に発表された詩だ。

《しかし人生は礼儀や習慣にかなったことに限られはじめた、——「ねばならぬ」とか「ふさわしい」とかに——》

《今日の流行は、完全な画一性と
 機械的な自己満足だ》

《だが仕事はぼくには合わぬ》

《ぼくのプライドは理性の名において告げる、
 損の少いうちに手をひいて、やめた、といえと
 あまり自信がないのだったら
 たしかにそうすべきなのだが
 ひょっとしたら、と抜け道を見つけて
 いま一度の逢い引きに賭けるのだ》

《いつでも野蛮人がいる、いつでも各自の生活がある、
 通りには何ダースもの普通の人がいる、それから、
 食物を充分に得るという、重要ではないにしても
 永久的な問題がある》

 引用した部分はマクニースが「わたし自身のもっと私的な生活を扱っている一節」と述べているところだとおもう。でもこれらの「私的な一節」によって、わたしは遠い過去、遠い国の戦争のことを考えさせられている。
 ひとりの人間の輪郭の見える言葉で記録されたもの——は時間が経っても色あせない。

『全集 現代世界文学の発見』は他の巻もおもしろそうなのだが、揃い(十二巻)だと二万円くらい。バラで集めるのは大変か。

2014/08/23

マクニース

 高円寺は阿波踊り。太鼓の音とワッショイの掛け声で目がさめる。ぼんやりした頭で『日本の名随筆 翻訳』をパラパラ読む。

 長谷川四郎が「私の翻訳論」というエッセイで、マクニースの長篇詩『秋の日記』(中桐雅夫訳)について論じている。
『秋の日記』は、スペイン戦争を題材にしたものだ。しかし、長谷川四郎はその内容には深入りしない。

《「……なさそうだ」だとか「……以上のものらしい」だとか、このように言っているところに感覚的な現実性があるように思われる。——詩はなによりもまず正直でなければならない。正直さを犠牲にして「客観的」であったり、きちんと整っていたりすることは、わたしはおことわりだ。とマクニースは言っている》

 わたしも「……そうだ」「……らしい」をよくつかう。こうしたあやふやな言葉づかいを嫌う人がいるが、長谷川四郎は肯定していることを知って、すこし勇気づけられた。

 中桐雅夫の訳したマクニースの「秋の日記」は、『全集 現代世界文学の発見3 スペイン人民戦争』(學藝書林、一九七〇年刊)に収録されている。

 昨年、思潮社から『ルイ・マクニース詩集』と『秋の日記』が刊行されて、買うかどうか迷っていたのだが、むしょうに読んでみたくなった。

 ちなみに中桐訳のほうはルイ・マクニースはルイス・マクニースになっている。

2014/08/21

仙台に行ってきた

 一年二ヶ月ぶりに仙台へ。真夏に行くのも久しぶり。行きの新幹線で細馬宏通著『うたのしくみ』(ぴあ)を再読した。
 喫茶ホルンのコーヒーも久しぶり。book cafe火星の庭の「うたとうたのあいだ」というトーク&ライブを観賞する。
 第一部が細馬宏通、岸野雄一の『うたのしくみ』トーク特別編。第二部が岸野雄一のソロ・ミニライブ。第三部が細馬宏通&澁谷浩次のライブ。
 午後七時三十分開演終わったのが午後十一時。でもあっという間だった。贅沢だった。トークもずっと聴いていたかったし、音楽もずっと聴いていたかった。細馬宏通&澁谷浩次(かえるさんと澁谷さん)は、交互に詞と曲を作って、それぞれが唄う。おもしろい曲ばかりだった。「スワンプ相談室」にはやられた。

 時間の感覚がおかしくなり、打ち上げでこれでもかというほど料理が出て、食べて飲んでいるうちに午前二時をすぎていた。

 この日は、イベントを企画した高橋創一さんのアパートに泊まる。編集を手伝ったという『あきんどでざいん見本帖』をもらう。桜井薬局セントラルホール支配人の遠藤瑞知とフリーペーパー『のんびり』の編集長の藤本智士の対談を興味深く読む。
 早く目がさめてしまい、部屋にあった黒田硫黄の漫画を読みはじめてしまう。昼前に近所のラーメン屋に行って、仙台から在来線で福島に行く。

 福島駅で降りて、駅のまわりをすこしだけ散歩し、ブックオフと喫茶店に寄る。それから各駅停車で郡山に行って、駅のフードコートでメシを食って、汗だくになりながら古書てんとうふまで歩く。清水哲男著『闇に溶けた純情』(冬樹社、一九七九年刊)を買う。この本もコラム集というか雑文集。一九八〇年前後の冬樹社本は見たら買う。

 駅ナカの食品売り場で東北各地の乾麺や調味料を買う。
 郡山からはつばさ。焼きおにぎりを食べ、車内で熟睡し、気が着いたら東京駅だった。

2014/08/16

掃除の途中

 ステレオの音がちょっと調子がよくなくて、新しいケーブルというか、つかってなかった予備のものをつなぎ直したら、急に音が変わった。嬉しくなって、スティーリー・ダンを聴きまくる。
 アンプもスピーカーも中古だし、そんなにすごくいい音というわけではないのだが、長年、聴きこんできたレコードやCDが自分のおもっている音とちがうと、しっくりこない。

 ケーブルをつなぎ直しているときに、ステレオの裏を見たら、埃だらけだった。
 気がついたら、エアコンを止めて、窓を開け、汗だくになりながら、掃除をしていた。いつもおもうことだが、こんなことをしている場合ではないときにかぎって、年に一度レベルの大掃除をはじめてしまう。しかも、まだ途中だ。

 ガリガリ君のWグレープフルーツ味をはじめて食う。うまい。

 テレビで観たか、雑誌で読んだかした掃除の豆知識に、狭い場所から片づけるというのがあった。
 その応用として、頭の中で部屋を何分割かして(和室だと畳一畳とか二畳とか)、すこしずつキレイにすると効率がいい。同じ場所を何度も拭いたり掃いたりしなくてもすむし、どのくらいの時間で片づくか、だいたいの目安がわかるのもいい。

2014/08/14

秋花粉に…

 先週あたりから、秋花粉の症状が出ている。

 以前は八月の終わりか九月のはじめごろだった。ここ数年は八月前半になっている。何かで首都圏でブタクサが減っているという話を聞いた。たしかにそんな気がする。漢方薬(小青龍湯)を飲む。この薬は秋花粉の時期には欠かせない。

『本の雑誌』九月号に『私がデビューしたころ ミステリ作家51人の始まり』(東京創元社)と新刊ニュース編集部編『本屋でぼくの本を見た 作家デビュー物語』(メディアパル)について書いた。
『小説すばる』九月号では、平野威馬雄の「お化けを守る会」の話。『小説すばる』で平野威馬雄を書くのは二回目。平野威馬雄は翻訳もふくめると三〇〇冊ちかく著作がある。さすがにコンプリートはできそうにない。

 最近、日本の古本屋で菅野青顔著『萬有流転(上・下)』(三陸新報社、一九八〇年刊)を買う。昔、値段の折り合いがつかず、買いそびれたまま、忘れていたのだが、急にほしくなった。菅野青顔は気仙沼の人で辻潤とも交遊があった。

 キンドルで荒川弘の『鋼の錬金術師』を全巻揃えた。読み出したら、止まらん。

 これから一眠りして、起きたら仕事。……をする予定。

2014/08/06

散歩の日々

 土曜日、馬橋小学校で馬橋盆踊り。午後六時半まで仕事して、残り一時間くらい堪能。「馬橋ホーホツ音頭」を作詞・作曲したオグラさんの生歌も聴くことができた。焼きそばと生ビール飲む。
 昨年三十年ぶりに復活した町の盆踊りだ。

 日曜日、ガード下を通って阿佐ケ谷まで散歩。暑い。目当ての沖縄そばの濃縮つゆは売り切れ。夏の部屋用のずぼんを買う。

 月曜日、荻窪のささま書店に行く。清水哲男著『球には海を』(あすか書房、一九七八年刊)などを買う。
 あすか書房の「わたくし贔屓のアンソロジー 1」とあるのだが、どんなシリーズだったのか気になる。表紙は谷川晃一。
 本のあいだに錦糸町の栄松堂書店のハンコが押してある「抽せん補助券」がはさまっていた。

 このころの清水哲男は「詩人」ではなく「雑文家」と称している。

 わたしは「読む」のも「書く」のも雑文がいちばん好きだ。しかしテーマらしいテーマや肩書らしい肩書を持たずに、文筆業を続けることはしんどい。

 古本にかぎった話ではないが、手を広げすぎると収拾がつかなくなるし、狭めすぎるとすぐ行き詰まる。どのくらいの加減で読んだり書いたりするのがいいのか。そんなことをちょっと考えた。

 火曜日、また納豆ととろろの蕎麦。オクラも入れる。夏はネバネバしたものがむしょうに食いたくなる。
 知り合いが高円寺に遊びに来たので、ひさしぶりに駅のちかくの定食屋で昼酒を飲む。