2020/07/31

中年の本棚

 突然、ブログの仕様が変わり、投稿の仕方がわからなくなる。Bloggerの利用者、ついていけてますか。変な「+」マークをクリックすると新しい投稿が作成できるようだ。
  新刊の『中年の本棚』(紀伊國屋書店)が出ました。「scripta」で二〇一三年春から二〇一九年秋まで続けた連載をまとめた一冊(書き下ろしも一篇収録)である。コロナ禍の推敲作業——五十肩の痛みに耐え、よく頑張ったとおもう。
 今「中年本」は出版のひとつのジャンルになっている。「四十歳からの~」「五十歳からの~」といった本も合わせるとすごい量だ。就職氷河期世代の「中年本」も次々と刊行されている。

《仕事が減る。将来に不安をおぼえる。そのときにちょっとした発想の転換ができるかどうか》(「中年フリーランスの壁」/『中年の本棚』)

 今もわたしはそういう状況にいる。自分の書いた文章に教えられ、気づかされることもある。「初心」を忘れず、「好奇心」を持続し、さらに休息をとって――中年は課題だらけである。
  中年ひとりひとりの事情は多岐にわたる。子どものいないわたしは「親」という立場からの中年論には踏み込めなかった。自由業しか経験していないので勤め人の中年事情にも疎い。それでも中年期の「心のもや」を晴らす一助になるような本を目指したつもりだ。
 ヘタな考え休むに似たり。だったら、とりあえず一休みしてから考えようというのが、わたしの人生の方針である。疲れた状態で悩んでもロクな結論に至らない。

 今はどうにかこうにか本の形にまとまったことを喜びたい。

2020/07/28

藤原審爾のこと

 藤原審爾著『一人はうまからず』(毎日新聞社、一九八五年)の「梅崎春生 その噂」は「もの書く連中で、戦後、最初の友人は、梅崎春生と江口榛一である」という一文ではじまる。
 江口榛一は赤坂書店の『素直』の編集長である。

《「素直」に作品をわたしはのせてもらったし、そのころ梅崎は高円寺よりの阿佐ケ谷に住んでおり、わたしは阿佐ケ谷の外村繁師の宅へ泊っていたものだから、自然、親しくなったのである》

 梅崎春生、阿佐ケ谷に住んでいたのか。

 梅崎春生の年譜には一九四五年九月に「南武線稲田堤の知人宅にころがりこむ」、一九四六年二月「目黒区柿ノ木坂一五七の八匠衆一宅に転居」とある。

《それ以前、梅崎の噂をよくきいていたし、梅崎と一緒に住んでいた八匠衆一とは、もう知り合っていたから、万更知らぬ仲でもなかった》

 一九四七年一月、梅崎春生は結婚、十月に世田谷区松原に引っ越す。松原には椎名麟三も住んでいた。
 梅崎春生が「高円寺よりの阿佐ケ谷」に住んでいた時期を推測すると結婚して世田谷に引っ越すまでの間か。藤原審爾が梅崎春生にはじめて会ったのは「秋津温泉」を発表後とある。「秋津温泉」の発表は一九四七年——梅崎春生はその作品を「曲射砲で撃たれたようだ」と評した。

 他のエッセイでも梅崎春生に誘われて新宿のハモニカ横丁で飲んだ話などを綴っている。

 藤原審爾は一九二一年三月生まれ。幼いころ、両親を亡くし、岡山の父方の祖母に育てられた。

《わたしが育った家は、瀬戸内海の入り海ぞいの町で、岡山市から七里(約二十八キロ)ほど離れたところである。今は、隣町と一緒になり、備前市となっている》

 すこし前に笠岡市の古城山公園の木山捷平の詩碑のことを書いたが、詩を選んだのは藤原審爾だったことを『一人はうまからず』の「木山捷平さんの詩のこと」で知る。

《わたしは、大いに迷ったが、「杉山の松」をえらんだ。二十の頃のわたしはこの「杉山の松」に出あい、大きな感銘をうけた》

2020/07/27

住まいの話

 QJWebの「半隠居遅報」は隔週から月一の連載に——報告が遅れてすみません。
 今月は「『プリンセスメゾン』をコロナ禍に読む。持ち家か賃貸か。何かをしようと考えることによって初めて道が見えてくる」というコラムを書いた。
https://qjweb.jp/column/30553/

 わたしは一度も持ち家に住んだことがない。
 コロナ禍のすこし前までは地方移住も考えていたが、今はずっと高円寺界隈で暮らしたいとおもっている(そのうち気が変わるかもしれないが)。
 二十代のころ、風呂なしアパートを転々と引っ越していた。当時、住まいに関するいちばんの悩みは防音だった。あと冬に銭湯やコインシャワーの帰り道、すぐ湯冷めしてしまうのもつらかった。

 音の問題を気にせずに暮らせる風呂付の部屋に引っ越せば、人生の悩みの大半は解決するのではないかとさえおもっていた。そんなわけはない。
 防音のしっかりした部屋はそうではない部屋より家賃が高い。家賃が高くなった分、仕事量を増やす必要がある。仕事が増えた分、ストレスも増え、仕事が減ったときの不安も増す。
 三十歳ちかくで風呂付きの部屋に引っ越してしばらくすると今度は追い炊き機能付の風呂がある部屋に住みたくなった。おそらく追い炊き機能の次はジャグジーやサウナ付に憧れるのかもしれない。

 人の欲はキリがない。簡単には満足できない。どこまで行っても不充足の日々である。
 ただ、人の欲なんてそういうものと割り切ってしまえば、住まいに関しては、小さな不満を抱えているくらいでちょうどいいのかもしれない。

 高円寺散歩の途中、入ったことのない喫茶店で富士正晴著『薮の中の旅』(PHP研究所、一九七六年)を読む。「所詮 人間」と題した連作随筆が面白い。

《人間は考える限り平屋に住んでた方がええ。せいぜい二階までや。火事の時飛び降りれるいうたら二階ぐらいまでやろ》

 これは完全に同意である。古い考えかもしれないが、わたしは賃貸の物件を借りるとき「窓から逃げることができる」部屋を選んでいる。
 もちろん理想の家は平屋である。

2020/07/22

大物ねらい

『フライの雑誌』の最新号(120号)が届く。ここ数日、今後の仕事のことを考え不安になっていたのだが、川の写真に癒される。この号の特集は「大物ねらい」と「地元新発見!」でいつも以上に密度が濃い。ものを作る、趣味を愉しむ。その「初心」に溢れている。頭脳警察の映画の広告が載っている釣り雑誌というのもおそらく前代未聞だろう。
 わたしもこの号に「釣れん文士 山口瞳」という随筆を書いた。でも本物の釣り好きの書くものにはかなわない。毎回敗北感を味わう。そういう感覚が味わえる雑誌に書けることは物書き冥利なのだけど、悔しい。
 ジョン・マント・ジュニアの「戦争と釣り人」(日本語訳・東知憲)が素晴らしかった。もともと二〇〇二年秋に発行されたアメリカのフライフィッシングの博物館の機関誌に発表されたものだという。
 戦争あるいは苦難の時代の中、釣りに耽っていた人たちがいる。当然、葛藤がある。釣り以外の趣味にも通じる普遍性のある葛藤だ。
 このレポートには釣り好きで知られるアメリカの政治家ヘンリー・ヴァン・ダイクの名前がたびたび登場する。彼は第一次大戦中の戦火の中でも釣りをしていた。釣りに関する著書も残している。
 ヘンリー・ヴァン・ダイクが当時の戦場を回顧する言葉が身にしみる。

《——マルヌ川やマース川で、激しい砲火が周りで炸裂しているとき、岸辺でじっくりと釣りをする兵士がいた。彼によると、普通の人間には神経への負担と集団的な狂気から身を守るための、リラックスと気晴らしが必要なのだ。——》

 真柄慎一さんの「親孝行」を読み、自分の父のことをおもいだした。真柄さんはなかなか書かないのだけど、書くものすべて傑作だ。わたしは生前の父に何もできなかった。子どもの役割は元気で楽しく生きていることだ——と開き直っている。子どもといっても中年のおっさんなわけだが。

「サバイバルです FM 桐生『You've got Kiryu!』から」(島崎憲司郎&山田二郎)は名言だらけ。生き残ることか。ほんとうにそうだなとおもう。

2020/07/20

タマの行方

 福原麟太郎の『野方閑居の記』の続き。タマは野方に引っ越せたのかどうか。昨年ふくやま文学館で買ったパンフレット『福原麟太郎の随筆世界』によると「猫」の初出は一九四八年一月の『サンデー毎日』となっている。これがそのとおりだとすると、福原麟太郎が野方に引っ越したのは一九四八年八月だから、すでにタマは世を去っている。
 しかし随筆の時系列はそれほど単純ではない。というか、新潮社版で読んだとき、新居にタマがいる文章があったような記憶がある。

『野方閑居の記』所収の「新しい家」を読む。これを読むと「(新居には)八月末に移れる筈が、十一月の末になった」と記されている。

《一生の流浪を覚悟した私の家庭もこうした郷里から父母を迎え、妻は妻の部屋に籠り、私は私の書斎らしいものを得、就中、震災の時から家族の一員になった老犬は、引越しのどさくさ紛れに、生まれて初めて空箱をほぐしてこしらえた小屋を新築してもらったとなると、どうやら少し落着く港を得たような心持であった》

 このエッセイでは新居に引っ越して、ある晩、タマがいなくなってしまう話が綴られている。

《初めは、明日は帰るだろうと思っていた。然し明日も帰らなかった。その翌る日も帰らなかった。(中略)三日目にも帰らなかった。私どもは殆ど絶望してしまった。新しい家には暗雲がとざして、どうにもいたましくてたまらなくなり、私は実際閉口してしまったのである》

 新居でタマが行方不明になったとすれば、一時は野方にいたのか。「猫」の初出の日付がまちがっているのか。
 行方不明になったタマはこの年のクリスマスに痩せて薄黒く汚れた姿で帰ってくる。

《そして私の家では、この新しい家で始めて、いくらか幸福が又立ち帰ってくるらしい気はいを感じながら、クリスマスの杯を上げたのであった》

 わたしは勘違いしていた。「新しい家」は昭和二十三年の野方ではなく、昭和八年の文京区小石川の家の話だったのだ。
 その間違いに気づくことができたのは沖積舎版の『野方閑居の記』の年譜のおかげである。昭和八年「同町内の新築家屋に転居」とあり、その下段に「新しい家」の一節の引用を見て「ああ」となった。

『野方閑居の記』と題した本で新居にまつわる思い出が書いてあるから、野方の話だとおもいこんでいた。これまでの読書人生でどれだけこうした誤読をしているか。気づかないままになっていることもたくさんあるにちがいない。

2020/07/19

福原麟太郎と猫

 先週、都内の新型コロナの感染者数が連日三百人近い数字を記録した。とはいえ、三月末にオーバーシュートだとかロックダウンだとか何とかいわれていたころと比べると、(わたしの)危機感は薄れてきている。
 マスクやトイレットペーパーや常備食品が難なく手に入るようになり、日常生活に不便を感じなくなったせいかおかげか。
 日曜日、東中野まで散歩。途中古書案内処、ブックオフの中野早稲田通店に寄る。古書案内処で福原麟太郎の『野方閑居の記』(沖積舎、一九八七年)を買う。新潮社の版の復刻だが、沖積舎版は巻頭に写真、詩作品、短歌、年譜、それから庄野潤三、阪田寛夫、外山滋比古の栞文が付いている。早稲田通りの東中野界隈は寺が多い。
 業務スーパー東中野店からライフ東中野店へ。ライフ東中野店は衣料品充実している。いつも郷里に帰省したときに買う夏用の長袖シャツも売っていた。三〇%引きだったので二着買う。

 家に帰りカレーを作り『野方閑居の記』再読。「猫」と題したエッセイがいい。昭和六(一九三一)年から十七年ともに暮らした猫のタマの死から戦中戦後をふりかえる。家を失い、猫とともに都内を転々と移り住む。

《私どもは、戦争中とにかく東京にいて戦火と戦ったことを誇としている。私は決して逃げなかった。逃げることは私の学校の勤めが許さなかった。(中略)みんな逃げてしまっては学校も学生も捨てられてしまう。
自分の勤めは勤めなんだから、はなれるのは卑怯だと考えていた。軍国主義でも全体主義でもない。格別えらい思想があったのでもない。ただ、自分のすべきことだと思っていたに過ぎない。だから猫も一緒に東京に留まっていた》

 福原麟太郎は一八九四年十月生まれ。五十歳のときに敗戦を迎えた。生きているかぎり、英文学の勉強をすると決めていた。五月の空襲で学校が焼けた週も読書会を続けた。学校は文京区小石川にあった東京文理大、後の東京教育大(現・筑波大)である。
 戦火にさらされながら教育者の使命を貫いた福原麟太郎は戦後になって疎開していた文化人たちが戦時中の日本の愚かさを嘲笑するのを聞き、腹を立てる。

《何だか解らない、そんなのはフェアプレーの言説ではないという気がして良い心持ではなかった》

《何といっていいか解らないが、己達は、すべき平常を守って来たんだ。逃避者やオポテューニストは少し遠慮してほしいというわけであろうか。私はくさくさしながら、焼け跡の瓦礫を踏んでいまの仮寓へ帰る日が多かった。猫は、いつの日にも私の靴音をきては玄関まで迎えに出て、障子の腰板に頭をすりつけて、だまってまたのそりのそり引っ込んだものだ》

 同書所収の「わが読書」でも空襲のさなかの読書生活を綴っている。朝はシェイクスピア、夜は斎藤緑雨、饗庭篁村などの明治文学を読んでいた。

 中野区野方に引っ越すのは一九四八年八月。タマは新居に引っ越せたのかどうか。今、調べているところである。

2020/07/15

信濃路

 夏にしては涼しいが、湿度が高い。日々の散歩の歩数が少なめのせいか頭が回らない。

 夕方、部屋でぐだぐだしながら三輪正道著『定年記』(編集工房ノア、二〇一六年)を再読した。三輪さんが亡くなったのは二〇一八年一月。もう二年半になる。神戸に暮らし、四十代以降だいたい五年に一冊ペースで編集工房ノアから随筆集を出していた。

『定年記』の目次を見ると「千國街道にて」という一篇がある。

《上杉謙信が武田側に塩を送ったという「塩の道」という昔ながらの街道がのこっていて、千國(ちくに)街道と呼ばれていた》

 三輪正道は黒田三郎の詩集を持って旅をする。その詩に「ぐずで能なしの月給取り奴!」という言葉が出てくる。『小さなユリと』か。このとき三輪さんはJR大糸線で信濃木崎駅を訪れた。地図を見ると木崎湖という湖がある。そこから西にすこし歩くと鹿島川があり、大町温泉郷がある。いつか泊りたい。

 昨年わたしは大糸線の豊科駅のあたりを歩いた。臼井吉見文学館に行った。
 大糸線で長野から新潟の糸井川あたりまで旅行したいのだが、都内の新型コロナの感染者数の増加のニュースを見て、二の足を踏む。

 三輪正道著『泰山木の花』(編集工房ノア、一九九六年)には「信濃路から金沢へ」「晩秋の信濃路」などの紀行文が収録されている。
 どちらも大阪発の夜行急行「ちくま」に乗って長野を旅している。
 三輪さんは青春18きっぷや周遊券もよく利用していた。インターネットが普及する以前の旅はのんびりしていた。
 夜行急行の「ちくま」は定期列車としては二〇〇三年秋まで運行していたようだ(臨時列車として二〇〇五年秋まで運行)。

 夏の信濃路を歩きたい。

2020/07/12

びりだらびりだら

《何もせんぞと思いつつ、何かをせねばならないぐらい厭なことはないが、何かをせねばならないことが、どうしてこう近頃ふえて来るのか、これは世間の都合だから仕方がないことで、世間に抗することは出来ない》(「何もせんぞ」/富士正晴著『狸ばやし』編集工房ノア)

「何もせんぞ」というわけにもいかず、週末、西部古書会館の大均一祭に行く。初日(土)は二百円、二日目(日)は百円、三日目(月)は五十円——といっても最終日まで売れ残っているかどうかはわからないので初日は街道関係と仕事の資料を中心に十二冊、二日目は何となく栄養になりそうな雑本を十二冊買う。「下半期の古書即売展一覧」も配っていた。

 富士正晴は読書と酒と煙草の人だった。そして集団ぎらい、強制ぎらいだった。幼少期から人と歩調を合せるのが苦痛で仕方なかった。世の中にはそういう人が一定数いる。共同作業には向かないが、集団ヒステリーには左右されにくい。これは思想以前の体質かもしれない。

 正義や道徳のない世の中は生きづらい。正義と道徳を押しつけられる世の中も生きづらい。
 たとえば行列がある。割り込みをするのは悪かもしれない。並びたくない人を無理矢理並ばせようとするのは正しいのか。

 正しいか間違っているかは「時の審判」がもっと信用できる。

 富士正晴は古典を読みながら新聞の切り抜きをする。時勢に流されず、ゆっくりものを考える。
 すぐに答えを出すことが正解ではない。正解がないという答えもある。

2020/07/07

不参加の思想

《文化大革命がはじまった時、わたしは一向にわけが判らなかったが、郭沫若の自己批判におどろきと共に、こいつめといった嫌悪感を抱いた》(富士正晴著『心せかるる』中央公論社、一九七九年)

 文革のころから富士正晴は新聞の購読を四紙に増やし、関連記事の切り抜きをはじめた。もともと中国びいきで毛沢東のことも好きだった(漢詩や『世説新語』などの古典を愛読していた)。
 ところが富士正晴は中国の文革の学生が「金瓶梅」などの古典の抹殺を唱えていることを知り、「いささか以上の憮然たる感情」を抱くようになる。さらに江青には「深い反感憎悪」を感じたという。

 文化大革命の情報にたいする富士正晴の心境は「嫌悪感」「憮然たる感情」「反感憎悪」と理屈ではない。
 理屈よりまず違和感がある。感覚をもとに判断する。まちがえることもあるだろう。
 富士正晴は文革の切り抜きを時間を置いて読み返すつもりだったのだが……。

《年老いて面倒になったということかも知れんし、革命ちゅうもんは阿呆らしいみたいなもんやなという気になって来たのかもしれん。とにかく、この世に気が失せて来たみたいや》(『心せかるる』)

 富士正晴著『不参加ぐらし』(六興出版、一九八〇年)の表題の「不参加ぐらし」でも文革について綴っている。

《政治とか経済とかの実力世界、闘争世界に、定年がない(つくれない)ということは実に気味悪い恐ろしいことだが、これは仕方がない。しかも、傑物、大物、切れ者、英雄であっても、年老いてモウロクすると、変な実力行使をはじめることが屡々あるので、理に合わぬ世界が、理に大いに合った外貌で、展開し渦巻くのではなはだ厄介な無意味な影響を後に残すということになる》

 富士正晴は会合その他に「不参加」を決める。
「私流・中国遠望」ではこんなことを書いている。

《五十歳をすぎてから、わたしはひどく精神の皮膚が弱くなった感じで、行動的にははなはだ冷淡で、デモ、集会、そうしたもののために一歩も足を動かしたことがなく、やたらにはやる宣言、カンパ、署名運動、政治運動、文学運動にも参加する気がない》

 わたしも五十歳になって、いや、もっと前から「社会不参加」を心がけている。理念や思想ではなく、体力がないというのがその理由だ。平行線になりがちな議論に参戦するには体力がいる。自分の考えが正しいとおもっているわけではない。でも考えを変えるにしても自分のタイミングで変えたい。

 自分のことしか考えてないのかといわれたら、そのとおりなので申し訳なくおもう。

2020/07/04

荷風と白鳥

 金曜日、三ヶ月ぶりに西部古書会館。入口で検温。ふだんより棚の本数が少ない。大岡昇平、坂口安吾の文学展パンフなどを買う。ここ数年、古書英二の棚が面白い。

 中村光夫の『《評論》漱石と白鳥』(筑摩書房)を読みながら、正宗白鳥の思想について考えた。
 白鳥は一八七九年岡山県和気郡(現・備前市)の生まれ。幼少のころ、よく西南戦争(一八七七年)の話を聞かされていた。

《白鳥氏の心に深く印象された最初の偉人が、西郷隆盛であったことは、今日多くの人々に意外の感を与えるでしょうが、同様に氏の文学趣味を最初にみたしたのが、江戸伝来の戯作であったことも、人々は意外に思う事実かも知れません》

 わたしは白鳥の反戦もしくは厭戦の思想は、キリスト教からきているとおもっていた(それもあるだろう)。
 しかし江戸文化や西郷隆盛におもいいれのある人物と考えると、明治以降の日本にたいし不信感をいだいていたとしてもおかしくない。
 昔も今も日本は一枚岩ではない。愛国心やナショナリズムは西南戦争以降の新しい文化なのである。
 白鳥と同い年の文士に永井荷風がいる。荷風も時勢にまったく乗らない作家だった。

 鮎川信夫著『歴史におけるイロニー』(筑摩書房、一九七一年)に「戦中『荷風日記』私観」という評論がある。
 昭和十五年ごろ、軍人に演説の依頼された荷風は「筆を焚き沈黙する」決意を固める。

《震災以後、東京の良風美俗が亡び、純粋の東京人が年とともに減少していくことを嘆くのは、ほとんど荷風の口癖といっていい》

《荷風は金があったから戦争中沈黙してすごせたのだという人がある。荷風自身も蓄えがあったから云々というようなことを言ったと思うが、自分を「他国人」と感じながら、あの時期にものなど書いていけるはずなかったろう》

 正宗白鳥が永井荷風をどうおもっていたのか知りたくなる。

2020/07/01

安保と白鳥

 戦中を回想する正宗白鳥の随筆を読むと、そのころ白鳥は文壇生活にも見切りをつけ、残生をどう過ごそうか——といった心境だったようだ。
 一八七九年生まれの白鳥は、終戦時、六十六歳だった。

 かつて中村光夫は白鳥について「理科系統の学者に通じる鋭さと冷たさがある」と批評した(『《評論》白鳥と漱石』筑摩書房、一九七九年)。

 わたしは三十歳すぎたあたりから白鳥の随筆をくりかえし読むようになった。この世のあらゆることを懐疑しつつ、とぼけた味わいのある文章を書く。

 一九六〇年——日米安保の議論が巻き起こったときも正宗白鳥は「賛成の方にも、反対の方にも、一理屈あって、私には簡単に一方ぎめにする気になれないのである。それに、言論自由の世の中だから、しいて一方にきめなくてもいいはずである」(「恐怖と利益」/『白鳥随筆』講談社文芸文庫)といっている。

 沈黙せず、しかも自分は賛成でも反対でもないことをのらりくらりと表明する。これも文学者としてのひとつの筋の通し方だろう。
 さらにこの随筆には続きがある。

《戦争拒否には、政府案がいいか、反対案がいいか、両者の新説を読んで、私には決定しがたいのである。どちらにしたって、戦争は起る時には起るだろうと、私には思われるだけだ》

 賛成か反対かという問いにたいし、どちらでもないという立場もある。その立場にも理屈はある。
 白鳥の場合、日露戦争のころから一貫して反戦の立場なのだが、そこには厭世観も含まれる。