2023/04/29

進んだり戻ったり

 歯科通いも後二回。体調もやや上向きになり、日課の散歩を再開した。仕事が滞ってしまったが、今は心身のメンテナンスを最優先しようとおもっている。
 古書ワルツで『没後50年 岡本一平展 現代マンガのパイオニア』(朝日新聞社、一九九七年)、『丹羽文雄と「文学者」』(東京近代文学博物館、一九九九年)など。岡本一平展のパンフは百頁もある。東海道五十三次漫画旅行(大正十年)のスナップも収録している(岡本一平は東海道が好きだった)。
 丹羽文雄は郷里(三重県)の作家なのだが、あまり読んでいない。本を読むにはタイミングとか波長とかいろいろあって、丹羽文雄はなかなかきっかけがないまま今に至っている。
 荻窪から歩いて帰ってきて、そのあと商店街を歩いていたら、中野の古書案内処さんと会う。「こんにちは」と挨拶されたが、逆光で顔が見えなくて別の誰かに声をかけたのかとおもって、つい後ろをふりかえってしまう。今週は金曜日から西部古書会館で古書展が開催中だった。夕方行った。

 ちょくちょく東アジアのニュースを追いかけている。すこし前に「新中式」という言葉を知った。建築やファッションなど、中国の伝統を取り入れた様式である(日本の「和モダン」みたいなものか)。近年、漢服もブームになっているようだ。
 技術の進歩は早いし、新しい価値観みたいなものも次々と更新されていく。いっぽう温故知新ではないが、古いものや昔のものを見直す動きもある。

 近未来の世界を舞台にした漫画を読んでいると、斬新かつ機能性を追求したデザインの家や服装が描かれることがある。未来の世界にも伝統の要素がけっこう残っているのではないかなと……。そんなことを散歩中に考えた。

 文化というものは、進んだり戻ったりしながら、移り変わっていく。文学もそういうところがあるようにおもう。

2023/04/22

病み上がりの思索

 体調が悪化し、一週間くらい古本屋にも喫茶店にも行かず、寝たきり生活を送っていた。寝てばかりいたので、変な夢をたくさん見た。

 昨日すこし外出したら、半袖の人だらけ。わたしは長袖+ジャケットを着ていた。都内、日中の最高気温は二十七度だった(群馬は三十度以上のところもあったようだ)。

 中年太りという言葉があるが、年をとると体重が減るのも早い。数日寝込むと三、四キロ痩せる。体調は回復しても、気力や体力が戻るまでに四、五日かかる。

 一日二食か三食、肉と野菜のバランスのとれた食事をとり、ゆっくり寝る。好きな本を読む、好きな音楽を聴く。そういう時間を過ごせればよしとしたい。

 本を読んでいて、自分と似た考え方の人を知る。すると、自分はまちがってなかったと嬉しくなるのだが、自分もその人もおかしい可能性はけっこうある。

 体調不良は体のしんどさでなんとなくわかるが、思考の変調の自覚はむずかしい。基本はおかしいとおもいながら、生きていくほうがよいのかもしれない。

2023/04/14

九二年の雑誌

 仕事の時間、休む時間のバランスが崩れ、一週間のサイクルがぐだぐだになる。プロ野球が開幕したことも関係しているかもしれない。大規模黄砂のニュースを見る。水曜の夜、長時間散歩したら、翌日、目がしばしばした(いまだに違和感あり)。

 先週、西部古書会館の大均一祭があった(初日二百円、二日目百円)。三日目は欠席した。

 先日、ユーチューブ「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」(何回かに分けて放映)で岡崎さんといっしょに高円寺を歩いた。最初に向かったのは西部古書会館。今さらながら「ZQ」(あづま通りにあった古本屋兼中古CD屋)は「ジーキュー」と読むことを知る。ずっと「ゼットキュー」だとおもっていた。深夜も営業していてよく行った(何回か本も売っている)。

 大均一祭では『太宰治8号 特集 井伏鱒二』(一九九二年)、『最新日本語読本 新潮四月臨時増刊』(一九九二年)など。積ん読本がたまる。『太宰治8号』の「中谷孝雄氏に聞く」(牧野立雄)で「日本浪漫派」創刊前後の話が詳しく語られている。
「日本浪漫派」は一九三五(昭和十)年三月創刊。
 中谷孝雄は太宰治を「日本浪漫派」に誘う。太宰は「『日本浪漫派』は嫌だ。寒気がするほど嫌だ」とごねる。太宰、まだ学生である。その後、三号から参加する。そのとき書いた作品が「道化の華」だった。

 中谷孝雄は三重生まれで「日本浪漫派」創刊時、高円寺に住んでいた。一九〇一(明治三十四)年十月生まれ。亡くなったのは九五年九月。長生きだ。

『最新日本語読本』を読んでいたら、カラーでSHARPのワープロの「書院(WD-551)」の広告があった。標準価格二十二万円(税別)。そのころ、わたしは東芝のルポという機種のワープロをつかっていた。たぶん十万円前後だった気がするが、記憶があやふやになっている。

 同誌に中野不二男の「日本ワープロ解体新書」も収録。九〇年代、ワープロで是か非かの議論があった。中野氏はワープロ派——一九九二年当時で十年目と書いているので、かなり初期からのユーザーだ。

《ワープロは、しょせんは筆記具である》

 当時、ワープロで書いた文章はダメだみたいな意見を何度か読んだ記憶がある。今のAIに関する議論の行方はどうなるのか。

2023/04/09

竹内浩三の下宿

 昨日、荻窪の「本で旅するVia」で岡崎武志さんとPippoさんのトークショーを見る。終わりごろ、竹内浩三の東京での下宿の話になり、Pippoさんは「江古田」といっていたのだが、わたしは「高円寺」ではないかと……。でも打ち上げ中、自信をなくす。勘違いかもしれない。

『定本 竹内浩三全集 戦死やあはれ』(藤原書店、二〇一二年)所収の「天気のよい風船」(冬休み日記 別題——タケウチコウゾーについて)に「ボクが浪人中の一九三九年七月に上京するときに、トシちゃんがハルキにボクの下宿の世話をたのみ、かつまた、ボクのカントクをたのんだ」とある。トシちゃんは浩三の兄、ハルキは兄の親友で中学の二年先輩。

 そのころハルキは高円寺に住んでいた。浩三は「それで下宿もハルキの下宿のすぐちかくにきめ、めしは同じうちにたべに行くことになった」と書いている。

《ここでボクのコーエンジ生活がはじまるわけである》

 その後、ハルキはコーエンジからセンゾク池に引っ越す。(おそらく一九四〇年の秋ごろの)コーエンジ生活は「不健康であった」と回想——。

《現在はなかなか健康である。めでたいと思う。エコダへ移ったのがよかったのである》

「天気のよい風船」は創作の部分もありそうなので下宿先の証拠としては弱い。ただし一九四〇年ごろの姉や兄への手紙に「通学」のための交通費が月六円かかると書いている。下宿先が江古田なら大学まで徒歩で通える。

「高円寺風景」には板橋のY君と池袋で食事して「省線で高円寺に帰る」という記述あり。

『伊勢人』(特集「竹内浩三が見たNIPPON」二〇〇七年八・九月号)は、浪人中から大学時代に送った姉宛の「手紙の住所をもとに、浩三が下宿していた高円寺界隈を歩くと、現住所の高円寺北、庚申通り商店街や純情商店街の一帯で、昔ながらの雑貨店や金物屋などが点在していた」と記す。

 全集所収「わが青春の竹内浩三」(中井利亮/中学時代からの浩三の友人)に「江古田の日大芸術学部近くの下宿は十畳の広さだが、足の踏み場もなく、夥しい書物が取り散らかり、垢じみたシーツの万年布団はポッカリと大きな煙草穴をあけていた」とある。

 おそらく浪人中と大学入学してしばらくは高円寺に住み、そのあと江古田界隈に引っ越したというのがわたしの推測である。

2023/04/05

新井宿の店

 火曜日、中央線で東京駅まで出て、京浜東北・根岸線快速でJR大森駅へ。かつて大森界隈には馬込文士村があった。
 駅前の八景天祖神社に寄ってからカフェ「昔日の客」に行く。「昔日の客」は古本屋の山王書房店主・関口良雄さんの息子の関口直人さんの店。
 関口直人さんはいつお会いしても明るい。
 尾崎一雄の四十周忌ということで貴重な署名本、写真、直筆原稿などを展示していた。
 尾崎一雄著『新編 閑な老人』(中公文庫)の全集未収録作「狸の説」は関口直人さんに教えてもらった。

《東京大田区の、旧式呼称で新井宿に住む古本屋の関本良三が、大崎五郎未亡人から、今戸焼の狸を貰ったというハガキをよこした》

 尾崎一雄は尾崎士郎と共に作っていた『風報』という雑誌が縁で関本良三と知り合う。関本良三は関口良雄、大崎五郎は尾崎士郎がモデルだ。「狸の説」には関本が『古書通信』に発表した「正宗白鳥訪問記」を気にいり、許可を得て『風報』に転載した経緯が記されている。
 ちなみに関口良雄著『昔日の客』所収「正宗白鳥先生訪問記」は『風報』(一九五九年十二月)が初出となっている。

 私小説や昔の古本屋の話をしているうちに一時間以上経っていた。知らない人名がいろいろ出てきた。
 岡田睦が山王書房や尾崎一雄のことを書いた随筆も見せてもらう。

 帰りは臼田坂を通り、都営地下鉄の馬込駅まで歩く。大森界隈は古東海道(鎌倉街道)が通っていた。