2018/08/18

『蒐める人』イベント

 来月、南陀楼綾繁さんの新刊『蒐める人 情熱と執着のゆくえ』(皓星社)の刊行記念のイベントがあります。
『sumus』『スムース文庫』初出のものにくわえ、古書日月堂の佐藤真砂さんのインタビュー、都筑響一さんとの巻末対談を収録しています。出版社はちがうけど、前著『編む人 小さな本から生まれたもの』(ビレッジプレス)と装丁が対になっています。

 わたしは「日曜研究家」の串間努さんのインタビューに同行していて(十六年も前か)、串間さんと南陀楼さんのあまりの話の濃さにまったくついていけなかったことをおもいだした。「僕は趣味を持つときには、入門書を読んだり道具を集めたりして結局やらないタイプ」という串間さんの話は自分もその傾向があるので「それでもいいんだ」とほっとした気持になった。たしか「トランプの遊び方とか?」という質問をした。
 それから「私の見てきた古本界七十年 八木福次郎」の回(二〇〇三年)は貴重だとおもいます。昭和十年代に神保町のすずらん通りで露店の古本屋が出ていた話は、その後の一箱古本市につながっているのかなと……。

第101回 西荻ブックマーク 南陀楼綾繁×岡崎武志×荻原魚雷 
『sumus』から生まれた本のこと【東京篇】

西荻ブックマーク第101回目のイベント!
書物同人誌『sumus』や本について、同人である岡崎武志さん・荻原魚雷さんのお二人を交えて語り合います。
開催日:2018年9月9日(日)
開始:18時(17時30分開場)
終了:20時(予定)
会場:ビリヤード山崎2階(東京都杉並区西荻北3-19-6、西荻窪駅北口徒歩1分)
料金:1,000円
定員:50名(要ご予約)
詳細、ご予約はこちらから 西荻ブックマーク

2018/08/17

色川武大、志摩に行く

 十四日から十六日の三日間で四十時間くらい寝ていた。睡眠時間以外もほぼ横になっていた。熱はないが、すこし咽が痛くて、首と背中がこっている。夏風邪ですな。
 風邪をひいたときは珈琲が飲めなくなる(ふだんは一日四、五杯飲む)。からだが楽になって、もう治ったかなとおもっても、珈琲が飲みたくないときは、すこし寝て起きると、やっぱり、風邪のかんじが残っている。とくに起きぬけ一時間がきつい。風邪のせいとわかっていても、心が弱って自分の将来を悲観しまくってしまう。
 つまり風邪が治ったかどうかは、珈琲が飲みたくなるかどうかでわかる。珈琲は健康じゃないとおいしくない飲み物なのだ。

 今日は風邪がぬけた感覚があったので、コンビニのコーヒーを飲んでみた(たまに飲みたくなる)。だいたい七十二時間休むと回復する。

 病中、色川武大がどこかに伊良湖から鳥羽にわたる話を書いていたなと本棚をあさっていたら『引越貧乏』(新潮文庫)の「暴飲暴食」にあった。ただし、未遂。
 色川武大が東京から鳥羽か伊勢行き、そこから和歌山に行く旅の計画を立てる。和歌山に色川という名のつく村があり、以前から行きたいとおもっていた。その話を聞いた逐琢(ちくたく)が「俺も行く」といいだす。逐琢は鳥羽の奥のほうの村の生まれで学校を出たりやめたり入ったりを四十歳くらいまでくりかえし、四、五ケ国をよくする同人雑誌仲間である。

《「——行き方に二通りあるんだ。どっちにするかね。豊橋でおりて、渥美半島の尖端まで行き、そこからフェリーで鳥羽に渡る」
「なにィ——」
「名古屋まで新幹線で行って、近鉄の特急に乗りかえて、伊勢市か鳥羽でおりる。——おい、どうしたんだ」》

 さらに「急ぐ旅じゃァないだろ。お互い休暇のつもりだ。伊勢に泊ろうと渥美に泊ろうと、泊るというだけのことさ。——渥美半島はいいところらしいぜ。ところが俺は一度もそのコースで帰ったことがないんだ」と逐琢。結局、豊橋ではなく、名古屋までの新幹線の切符を買い、船で鳥羽にわたる話はうやむやになる。
「暴飲暴食」では、鳥羽に行く途中、松阪で下車、ステーキを食い、鳥羽で海の幸を食いまくる。さらに赤福も。その後、鳥羽から逐琢の郷里の奥志摩へ。どこだろうとおもったら船越という土地だった。チャーターした車の運転手は「昔は船でしか行けんかった一帯ですがね。よう開けたもんですわ」と説明する。

 わたしの母は伊勢志摩の生まれで子どものころよく行っていたのだが、船越のほうには行ったことがない。すこしはなれたところに深谷水路という太平洋と英虞湾を結ぶ運河がある。いつか行ってみたい。
 鳥羽滞在のあと、ふたりは和歌山を訪れる。新宮駅に降り、レストランに入った途端、店に出入りする老若男女の顔つきに自分の顔に似ているとおもう。色川武大の顔はほりが深く、目鼻立ちがはっきりしている。若いころはものすごくハンサムだった。

《「おそろしいものだねえ、俺は生まれてはじめて、自分の国へ来たという感じがする」》

『引越貧乏』は色川武大が五十歳になって書きはじめた連作なのだが、そのくらいの齢になると自分のルーツのようなものが気になりだすのか。

 先日、母から祖母と叔母が暮していた伊勢志摩の家は取り壊しが決まったと電話があった。元気なうちに行きたいところ行っておかないと……と病み上がりの頭で決意した。

2018/08/14

古山高麗雄の新刊

 今日も暑いなあとおもってたら雷。急に強い雨が降ってきた。外に干していた洗濯物を慌ててしまう。夕方、小雨になったので買い物に行くと、駅近くのスーパーの店先に土嚢が積んであった。町に人が少ない。

 四十代後半になり、十年前にはじめておけばよかったとおもうことがよくある。手間や体力を必要とすることが億劫になる。いってもしょうがないことだが、何をするにも時間が足りない。

《とにかく、わからないことだらけです。わからないことだらけで、結局私も、近々死んでしまいます。それでいいのだ、と思います》(古山高麗雄著『人生、しょせん運不運』草思社)

《人は、なんとか食っていけさえすればそれでいい、としなきゃ、とも思いました》(同書)

 この八月、古山高麗雄の新刊が二冊刊行される。『プレオー8の夜明け』(P+D BOOKS)は表題作を含む短篇十六作。目次を見たら、わたしがもっとも好きな古山さんの短篇「日常」も収録されている。

《朝起きて、昼寝をして、宵寝をして、深夜あるいは明方にまた寝たりすることがある。朝酒を飲んで、一寝入りして、また酒を飲んで、また一寝入りする。そういう日もある》(「日常」)

 二十代のころ、この短篇を読んで古山さんのファンになった。第三の新人と「荒地」の詩人が好きだったのだが、「戦中派」の作家の中で、古山さんの書くものがしっくりきた。「日常」を読んだとき、「文学はここにある」とおもえた。勘違いかもしれない。

 もう一冊、今月二十一日に『編集者冥利の生活』(中公文庫)が刊行予定。中公文庫のほうは解説を担当した。表題の「編集者冥利の生活」はPR誌『春秋』の連載していた回想録——『本と怠け者』(ちくま文庫)でも紹介している。編集者だけでなく、仕事がうまくいっていない人に読んでほしい。
 戦後、復員して河出書房の編集者の職についたが、会社が倒産。食べていくためにゴーストライターや校正の外注もした。転々と出版社を渡り歩いたが、そのたびに条件はわるくなる。

《反省すると、私には儲かる商品の企画力がない。組織の中の者として可愛げがない。ヘンな野郎である。お上手が言えない。好んで毒舌を弄したり、相手の嫌うことを言ったというわけではないのに、身に備わっている人間の持ち味が出世を拒む》

《私は学校を中途退学して以来、ずっと、しがない場所を歩き続けてきた。その自分を、諦めた目で見ている。そして、なんのよりどころもなく、まあなんとかなるだろうさ、と思っている》

『編集者冥利の生活』では古山さんが二十八歳のころに書いた幻のデビュー作「裸の群」も収録している。「裸の群」と「プレオー8の夜明け」とかなり似ている。ぜひ読み比べてほしい。今日、見本が届いた。すごくいい文庫だとおもいます。安岡章太郎との対談のことも書きたかったが、長くなるのでいずれまた。

 わたしは今年の秋、四十九歳になる。ようやく古山さんが小説を書きはじめた齢になった。
 この先も寝たり起きたりしながら文章を書く生活を続けたい。

2018/08/09

武田泰淳と東海道

 東名高速道路の全線開通が一九六九年五月二十六日。来年五十周年になる。東海道新幹線の開通が一九六四年十月(東京オリンピックの年)。西ドイツを抜いて日本のGNPが二位になったのが一九七〇年。いわゆる「東洋の奇跡」である。

 武田泰淳著『新・東海道五十三次』(中公文庫)は一九六八年十一月に旅立つ(連載開始は毎日新聞で翌年一月四日から)。つまり東名高速道路の全線開通の年に執筆していたことになる。

《静岡と岡崎のあいだに高速道路が開通したばかりで、私たちはその前日、牧の原のサービスエリアで中食をとっていた。「祝開通東名高速道路 コカコーラ」その他、スポンサーつきのアドバルーンが赤白だんだらで十ヶ以上も揚がっていた》

 自動車(運転手は武田百合子)による東海道漫遊記は時代風俗資料としても貴重である。武田泰淳の『新・東海道五十三次』では東海道をそれ、愛知県のあちこちをまわる。泰淳の兄は知多半島の新舞子の水産試験場で伊勢湾、三河湾の水産資源の生態を研究していた。戦後、「『愛』のかたち」の執筆時、泰淳は新舞子で一ヶ月ほどすごしている(原稿はほとんど書けなかった)。

《椎名麟三、梅崎春生の両氏が講演会の帰途、たち寄ってくれたのが何よりうれしかった》

『新・東海道五十三次』では、知多半島の常滑に下り、半田市、高浜町、碧南市、西尾市、一色町、幡豆町(はずちょう)を走る(一色町と幡豆町は二〇一一年に西尾市に編入)。幡豆町は名鉄蒲郡線。名鉄三河線の「山線(猿投〜西中金)」「海線(碧南〜吉良吉田)」といわれる区間が廃線になったのは二〇〇四年四月。西尾市には予備校時代の友人が住んでいるのだが、行ったことがない。

 話がそれてしまったが、泰淳と百合子は三河湾沿いの町から浜名湖に行き、さらに豊橋に引き返し、伊良湖岬に向かう。

《渥美半島の突端まで行くには、豊橋から半島の内側を貫通する、田原街道の良く舗装された快適なドライブウェイがある》

 伊良湖岬に向かう途中、武田泰淳は杉浦明平と会ったのかどうか。「会った」という記述はない。そのかわり——。

《杉浦明平氏には、ルポルタージュ「台風十三号始末記」(岩波新書)がある。
 氏が町会議員となっていた福江町が、今では泉村、伊良湖岬村と合併して渥美町となった》

 渥美町の合併は一九五五年四月十五日。さらに渥美町は二〇〇五年十月に田原市に編入された。伊良湖岬から再び豊橋を経て名古屋に向かう。名古屋では東山動物園、名古屋城、平和公園に行っている。
 そして三重へ——。
 自動車で東海道を走り抜けた泰淳はこんなふうに述懐している。

《峠の茶屋。その名物。およそ「峠をこえる」という感覚は、東名、名神の二つの高速道路を走っていれば、消え失せてしまう。橋もトンネルも坂も峠も一直線に同じ平面でつながっているのだから「河を渡った」という感覚さえうすれてしまう》

 新幹線、高速道路は、日本人の旅をどう変えたのか。『新・東海道五十三次』は五十年後の「今」を予見している。
 来年の東名高速道路全線開通五十周年にあわせて復刊してほしい。

2018/08/08

木山捷平と伊良湖岬

 木山捷平著『新編 日本の旅あちこち』(講談社文芸文庫)を再読していたら「伊良湖岬——愛知」という一篇があることに気づいた。読んでいたことをすっかり忘れていた。今年、伊良湖岬に行ったときにもおもいだせなかった。

《名も知らぬ遠き島より
 流れ寄る椰子の実一つ》

 木山捷平は、島崎藤村の詩「椰子の実」の海を九州の南海岸のほうだとおもっていた。ところが、この詩の舞台は愛知県の伊良湖岬である。
 新幹線で豊橋へ。A新聞の記者とカメラマンも同行。そこからハイヤーで伊良湖岬に向かう。この紀行文の初出は一九六五年二月の『週刊朝日』。途中、今、走っている道のことを運転手にたずねると、よく知らないと答えた。

 木山捷平は、途中、渥美町に暮らす杉浦明平の家に寄る。杉浦明平は風邪をひいて寝込んでいた。杉浦明平に渥美半島を案内してもらうつもりだったが、アテが外れた。この部分は完全に忘れていた。杉浦明平の助言で陸軍試砲場の跡地に行く。
 その後、渥美町から伊良湖岬に行き、船で鳥羽にわたる。鳥羽と伊良湖を結ぶ伊勢湾フェリーは一九六四年四月に設立で営業開始は同年十月——木山捷平はこのフェリーの運行開始直後に乗ったことになる(当時の船事情はもうすこし調べてみたい)。

《鳥羽からかえりみると、伊良湖は一つの島であるかのように見えた。万葉時代は伊勢の国の内であった事情ものみこめたような気がした》

 今年、わたしは鳥羽のほうから伊良湖岬に渡って帰ってきたのだが、鉄道が普及する前は、東海道の吉田宿(豊橋)から伊良湖岬に出て船で伊勢に行く最短の道だったことを知った。ただし、伊良湖から鳥羽のあいだは波が穏やかではない。今のフェリーで約一時間の距離の船旅はけっこう大変だったとおもう。

 今は三重県の津から中部国際空港に行く高速船もある(四十五分)。空港から名鉄空港線で常滑駅に出て、名鉄河和線の知多半田駅方面のバスに乗り、さらに武豊線で亀崎駅、そこから歩いて名鉄三河線の高浜港駅(三キロくらい?)に行き、東海道刈谷駅……というルートで東京に帰ってみたい。かなり遠回りになるが。

2018/08/06

葛西善蔵の口述筆記

 古木鐵太郎の全集を買った……という話を書いたが、その何年か前に古木が葛西善蔵の小説の口述筆記をしていたことをどこかで読んだ気がしていた。今朝、おもいだした。木山捷平著『新編 日本の旅あちこち』(講談社文芸文庫)の「椎の若葉——青森」である。
 木山捷平は、青森の碇ケ関温泉に泊り、翌日、三笠山に登り、葛西善蔵の文学碑を見に行く。

《椎の若葉に
 光あれ
 親愛なる
 椎の若葉よ
 君の光の
 幾部分かを
 僕に恵め》

 文学碑の裏には友人の谷崎精二による葛西善蔵の略伝が彫ってある。

《この碑文はいうまでもなく善蔵の名作『椎の若葉』の中の一節だが、この作品は当時(大正十三年)雑誌「改造」の青年記者だった古木鉄太郎氏が口述筆記したものである》

《筆記の場所は本郷の何とかという下宿屋で、酒ずきの善蔵は一ぱいやりながら口述をはじめた。はじめたのは午後三時ごろで、終ったのが午前三時ごろだった》

 このエッセイは『古木鐵太郎全集』の別巻にも「『椎の若葉』より」として収録されている(途中、省略あり)。「何とかという下宿屋」は本郷の西城館だろう。
 口述に行き詰まった葛西善蔵が犬や牛の物真似をした話も「椎の若葉――青森」で紹介している。わたしはそこだけ覚えていた。
 葛西善蔵の口述筆記といえば、「酔狂者の独白」は嘉村礒多が担当している。

《自分は、今日も、と言つても、何んヶ年も出してみたことはないのだが、押入れから新聞紙包みの釣竿を出して見た》

「酔狂者の独白」はのんびりしたかんじではじまる小説だが、口述筆記の最中、葛西善蔵は嘉村礒多に「早く筆記して!」と急かした。ようやく筆記した原稿をその場で破り捨てることもあった。嘉村礒多の小説にも葛西善蔵の口述筆記をしていた話がある。

『葛西善蔵集』(山本健吉編、新潮文庫)で「湖畔手記」と「酔狂者の独白」を読んだのだが、字が小さくて苦労した。眼鏡を外したほうが読みやすい。老眼か?

2018/08/01

古木鐵太郎の話

 朝五時、近所を散歩。空は明るい。月が見える。

 古木春哉著『わびしい来歴』(白川書院)がおもしろかったので、父の古木鐵太郎の本を読んでみたくなった。
 読みたいときが買いどき。『古木鐵太郎全集(全三巻+別巻)』を衝動買い。すこし前に、別の古木鐵太郎の本をネットで購入したら、目次にびっしりと書き込みがあり、本文中に線引があった。安い本ではなかった。返品を申し入れたところ、返金してもらえた(本を返すための送料はどうすればいいのだろう? その後、何の連絡もない)。

 古木鐵太郎は一八九九年七月十三日生まれ(一九五四年三月二日に亡くなった)。
 もともと改造社の編集者で志賀直哉の「暗夜行路」、葛西善蔵の「椎の若葉」を担当した。「椎の若葉」は古木鐵太郎が口述筆記している。酔っぱらった葛西善蔵は犬の物真似をした。「湖畔手記」の担当も古木だった。
 先日『フライの雑誌』の堀内正徳さんも、あさ川日記に葛西善蔵のことを書いていた。

《葛西善蔵はあの時代に、仕事をするために籠った湯ノ湖の宿へわざわざ自前の釣り竿を持ち込んでいる。温泉入って釣りなんかしてたら、そりゃ作はできないですよ善蔵さん》(「きれいな川と元気な魚」/あさ川日記より)

『古木鐵太郎全集』所収の随筆を読むと、日光には葛西善蔵だけでなく、古木も同行していた。

《この日光湯本滞在の時が、葛西さんには最も楽しかつた期間ではなかったらうか。よく二人で湖畔を歩いたり、戦場ケ原に遊びに行つた》(葛西さんのこと)

『湖畔手記』は二、三年に一回くらい読み返したくなる。ぐだぐだ感がたまらない。

 古木鐵太郎は「散歩の作家」とも呼ばれていた。
 高円寺から野方あたりをよく歩いている。上林曉や木山捷平の随筆にも古木鐵太郎の名前は出てくる。改造社時代に上林曉と知り合い、いっしょに同人雑誌も作った(上林曉と共著もある)。井伏鱒二とも親交があった。中央線文士とのつながりがけっこう深い。

 古木の妻は佐藤春夫の妻(谷崎潤一郎の元妻)の妹でもあった。生活苦に陥っていた古木鐵太郎に佐藤春夫が編集の仕事を紹介しようとしたが、それを断り、以後、疎遠になったらしい。

 全集の別巻には尾崎一雄の古木鐵太郎の追悼文も収録されている。

《古木君の作品は、非常に特色あるものだ。即ち、古木君の作品ほど、素直な小説を、私は古今東西に亘って読んだことがないのだ。(中略)気持にも文章にも、全然ヒネつたところや企んだところの無い小説――どう考えても珍しい小説だと思ふ》

 読みはじめたばかりなのだが、すでに古木鐵太郎に魅了されている。いい人そう。