2019/11/29

夜の散歩

 水曜夕方神保町、神田伯剌西爾でマンデリン。JR中央線お茶の水駅から高円寺を通過して西荻窪の音羽館へ。村上文昭著『耕治人とこんなご縁で』(武蔵野書房、二〇〇六年)などを買う。耕治人は野方に住んでいた。野方は西武新宿線沿線だけど、高円寺からも徒歩圏内である。

 耕治人が亡くなったのは一九八八年一月。享年八十一。
『耕治人とこんなご縁で』には、著者以外の追悼文もいくつか収録されている。斎藤国治の「耕治人君と『丘』」にこんな一節があった。

《西武野方駅からそう遠くない耕君のお宅には一度だけお邪魔したことがある。静かなお住まいで奥様はお元気でおられた。野方は福原麟太郎先生がおられたのですぐ判った。あの頃の耕君はご夫妻ともお元気であった》

 一年くらい前に西部古書会館で買った福原麟太郎のあるエッセイ集に本人の名刺が貼られていたことがあった。その住所も野方だった。こういうのはちょっと嬉しい。
 福原麟太郎には『野方閑居の記』(新潮社)という函入りのきれいな本(野口弥太郎装丁)もある。
 福原麟太郎は一九八一年一月没。享年八十六。

 ひまなときに野方を散策したい。

 話は変わるが、音羽館の帰り道——北口から南口に抜け、荻窪まで歩いてささま書店に寄って高円寺に帰るつもりだった。
 神明通りという明るい道があり、荻窪駅方面のバスが走っていた。南東に斜めの道で荻窪駅からは確実に遠ざかっている気がしたが、そのまま歩く。
 しばらく歩くと大宮前体育館というところに出た。このあたりでバスが左折している。地図を持たず、夜の道を歩いていると不安になる。方向感覚がわからなくなる。適当に斜めの道を歩き、適当に曲る。すると与謝野公園に出た。与謝野鉄幹、晶子夫妻はかつて荻窪に住んでいて、すこし前にその終の住み処が公園になっていることを知って、何かのついでに行ってみようと考えていたのだが、まさか道に迷って夜の九時前にたどり着くことになるとはおもわなかった。

 結局、ささま書店の営業時間までにはたどり着けず、そのまま高円寺まで歩き、ペリカン時代で飲む。
 店に入ると根岸哲也さんとその親族の方々が飲んでいて、橋本治の杉並の実家の話を聞かせてもらう。近所だったらしい。

2019/11/25

知命の書

 今週五十歳になった。ここ数日、自分以外の人が五十歳くらいのころに書いた文章を読み返していた。

 久しぶりに古書善行堂の山本善行さんの『古本のことしか頭になかった』(大散歩通信社、二〇一一年)を手にとる。山本さんは一九五六年生まれ。この本で永田耕衣のエッセイ集を知って古本屋で探したけど、見つからず、そのまま忘れていたことをおもいだした。
 それにしても五十代に入ってからの古本熱がすごい。

《私の場合このように古本を買うことで自分を支えているみたいなところがあって、だからここのところが崩れると精神的にも苦しくなる。最近どういうわけか自分を支えすぎて(本を買いすぎて)、家に置けなくなり、こっそり実家に本を運んでいたのだが、それがとうとう見つかってしまったのだ。「二階の底がぬけるがな」と怒られたのだ。父は素人(?)なので、どのくらいの本で底が抜けるかわからないのだ》

 二〇〇六年三月の記。山本さんが古本屋をはじめるのはその三年八ヶ月後か。

 わたしが『sumus』に参加したのは二〇〇〇年の春——三十歳のときだった。山本さんや岡崎武志さんが当時四十代の前半で「四十代になっても、一冊百円するかしないかの本でこんなに一喜一憂できるのか」と畏敬の念を抱いた記憶がある。

 昔からわたしの古本熱には波がある。今年は仕事部屋の引っ越しもあり、夏以降今に至るまで、おもうように本が買えない状態が続いている。本の置き場所がもうないですよ。地方の格安の平屋の家を買うか、蔵書を売るか。ほかの選択肢はないか。天命を知るといわれる齢になっても迷いまくっている。

『古本のことしか頭になかった』のあとがきは何度読んでもいいなあ。頭がおかしい。

2019/11/18

あと何年

 吉行淳之介は初期の習作のころから島尾敏雄を愛読し、高く評価していた。
 吉行淳之介著『犬が育てた猫』(文春文庫)に「島尾敏雄のこと」「島尾敏雄の訃報」のふたつのエッセイが収録されている。

 何かの雑談中、「ここまでくれば、もう粘るしかないな」と吉行淳之介がいった。島尾敏雄はその言葉を気にいり、その後、挨拶代わりに会話にまぜてくるようになった。そんなエピソードが綴られている。
「粘るしかないな」といった時期は定かではないが、島尾敏雄が亡くなる「六、七年前」の雑談らしいから、吉行淳之介は五十五歳くらいだろう。

「島尾敏雄の訃報」を読んでいたら、次のような記述があった。

《島尾敏雄は私より七歳年上だが、何月生まれだったろうと気になって、文芸年鑑で調べてみると「四月十八日生れ」と出ている。同じ四月の五日違い、とはじめて知って、
「あと七年かな」
 意味なくそうおもったりしたが、六十九歳というのはまだ早かった》

「あと七年かな」という言葉を見て、はっとした。
「島尾敏雄の訃報」の初出は『新潮』一九八七年一月号。島尾敏雄は一九八六年十一月十二日没。吉行淳之介が亡くなったのは一九九四年七月二十六日——たまたまともいえるが、「あと七年かな」という言葉通りに世を去っている。

 わたしはしょっちゅう「あと何年、仕事を続けられるのか、東京にいられるのか」といったことを考えてしまうのだが、「あと何年」なんていっていると、自分の言葉に引きずられ、そのとおりになってしまうかもしれない。
 頭に「あと何年」という言葉が浮んだら、即「いけるところまで」と打ち消すようにしたい。

2019/11/12

声高と低声

 午後三時、起床。頭が不調。寒暖の差が激しい日に弱い。
 頭がまわらず、からだが怠い日をどう過ごすか。ただひたすら休息に専念し、だらだらする——これまでそのプランを数えきれないくらい試してきたが、ここ数年は、外に出て、歩くことが増えた。そのほうがいいような気がする。あとは部屋の掃除か。

 寝起き、布団の中で古山高麗雄著『立見席の客』(講談社)を読む。
「発言は金」というエッセイの中で、古山高麗雄は(論争は苦手といいつつ)小田実の『群像』の発言にたいし、反論のようなものを試みている。初出は一九七四年六月十五日の東京新聞(夕刊)。小田実の発言も同時期のものだろう。

 小田実の発言の一部を引用する。

《声高に民主主義とか自由だとか、平等だとか、そんな声高に叫ぶのはやめてくれ、そんな恥ずかしいことやめてくれ、そんなこと叫んだって、浅薄で見てられぬ。それよりは、低声でひそかにつぶやくのがいいんじゃないか——こういう文学批評がよくあるでしょう》

《私も低声でつぶやくのは大事だと思う。ただ、そういうのが流行になって来て、そんなふうに言うこと自体が自己目的になっているのではないか》

 この意見を雑誌で読んだ古山高麗雄は小田実の批判を自分(のような人)に向けられたものと感じ、珍しく強い口調でこんなふうに述べている。

《低声でつぶやくのが大事だと思うと言うこと自体が自己目的になっているなどと、人を馬鹿にしたようなことを言ってはいけない。そうしかできない人がいて、そういう人は、そういう語り方でなければ物が語れないのである》

「発言は金」を読んだとき、「声高」というキーワードから、小田実は吉行淳之介の「戦中少数派の発言」(一九五五年)を想定した批判ではないかとおもった。
 吉行淳之介は戦前戦中の「甲高く叫んだ人種」を強く批判し、戦後の学生運動の指導者たちからも似たような不信感をおぼえると批判した。ほかのエッセイでも何度となく「一オクターブ高い声」という言葉で「声高」派への違和感を述べている。

 古山高麗雄は「低声」派は流行していないというが、小田実の立場からすると、無視できない勢力だったにちがいない。
 二十代のころ、吉行淳之介、古山高麗雄のエッセイを読み、わたしは「声高」派の多い政治活動の場から距離をとるようになった。さらにぼそぼそと小声で呟くタイプの作家ばかり読むようになった。
 いっぽう古山高麗雄は「低声」批判に抗いつつも「臆病な沈黙よりは、愚かな発言のほうがよいとは思う」とも述べている。

 わたしは「自分よりも適任者がいる」とおもう問題にたいし、沈黙を選択しがちだ。平行線になりがちな議論に参加するのも好きではない。
 なぜそんなふうになってしまったのか。

2019/11/09

コタツを出す

 毎年だいたい十一月のはじめにコタツ布団を出し、五月の連休中にしまう(気温によって、ちょっとズレることもある)。
 今年は十一月六日にコタツ生活が開幕した。

 尾崎一雄先生に倣い、十二月になったら冬眠モードに入る予定だ。昨冬は街道歩きにのめりこみ、外出することが多かった。歩いているうちに「すこし体力がついたかな」と過信していたところ、秋にバテた。やはり一年にわたって、ずっと調子を保つのはむずかしい。
 からだを冷やさず、疲れをためず——年中、自分にそう言い聞かせているのだが、すぐ忘れてしまう。

 スタンド・ブックスの新刊、スズキナオ著『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』はエッセイとルポ——なんていうジャンル分けから自由にはみだしていく雑文感が読んでいて心地よかった。あとお金をかけず、無駄な時間をかけるスタンスもいい。収録されなかったという話も読みたくなる。
 半額シールの肉パーティの話が好みだった。なんとなく、その生き方や遊び方はトキワ荘の時代っぽい雰囲気がある。

 著者は一九七九年生まれ。長年東京に暮らしていたが、今は大阪在住とのこと。今度、大阪に行ったら、この本に出てくる銭湯に寄りたくなった。

2019/11/02

桑名のこと

 気がつけば十一月。どうにか月末の仕事を乗りきる。巖谷國士著『日本の不思議な宿』(中公文庫)を読んでいたら「桑名 船津屋」の章があった。以前、『フライの雑誌』に桑名の話を書いたとき、この本は未読だった。よくあることだが、原稿を書き終わったあとに「読んでおけばよかった」とおもう本に出くわす。
 戦後まもなく永井龍男はわざわざ釣りをしに桑名に行っていた。たしかハゼ釣り。そのさい泊る旅館が船津屋だった。

 泉鏡花の『歌行燈』の湊屋のモデルといわれる船津屋はもともと桑名宿の本陣だった。かつての桑名は東海道屈指の宿場町——その本陣といえば、さぞかし豪華だったにちがいない。三重には歌行燈といううどん屋のチェーン店がある。郷里の家から徒歩の距離に鈴鹿店もあり、何度か食べにいっている。良心価格でうまい。天ぷらもうまい。今、調べたら東京の新宿店や立川店もあった。

 たまたま一昨日の深夜、仕事中にNHKのファミリーヒストリー(再放送)を観ていたのだが、桑名出身の瀬古利彦の回だった。父は海軍の衛生兵で戦場で九死に一生を得る経験をしている。
 鈴鹿にいた高校、予備校時代のわたしは桑名を素通りして名古屋に遊びに行っていた。ここ数年は頻繁に桑名界隈を歩き回っている。
 東海道においては、宮(熱田)と桑名は「七里の渡し」といわれ、船で行き来した。さらに伊勢湾は木曽三川の河口でもあるから、陸路、水路ともに交通の要所だった。
 桑名宿の研究をしている郷土史家がいたら、いろいろ話を聞いてみたい。