2020/03/29

五十肩

 先週、左肩が痛いと書いた。おそらく五十肩(自己診断が危ないのは承知の上だが、病院に行く気になれなかった)。肩を痛めたのは同じ姿勢でずっと本を読んでいたのが原因だとおもう。途中で左肩に違和感をおぼえ、まずいかもとおもいながら『吉田豪の巨匠ハンター』(毎日新聞出版)と『小田嶋隆のコラムの切り口』(ミシマ社)を読み続けてしまった。

 五十肩の急性期は何もしてなくても痛い。寝ても歩いても痛い。仰向けで寝ると、起きられなくなる。思考の九割くらいは痛みに奪われる。

 慢性期はちょっと動かすと痛い。腕を動かさないから(急性期よりも)可動域がせまくなり、服の脱ぎ着に苦労した。試行錯誤の結果、着るときは痛いほうの腕から袖を通し、脱ぐときは逆にするといいことがわかった。
 頭を洗うのも左手が上がらないから、片手でする。やりにくい。地味な不便さでは左耳の耳掃除ができないのも困った。自覚はなかったが、蛇口をひねるのも左手だった。右手で蛇口をひねるのは想像以上に違和感があった。

 腰痛や膝痛や帯状疱疹のときにも痛感したが、痛みがないって幸せなんだなって。

 かつて読書で肘を痛めたこともある。このときも激痛と痺れで仕事に支障が出た。

 月曜日の昼に痛みが出て、日曜日の朝五時、ようやく左手をまっすぐ上に伸ばせるようになった。完治はしていない。

2020/03/28

メガネを清潔に

 友人のインターネット環境が復旧したようで、しばらく更新してなかったツイッターが再開していた。メールは送信エラーになる。機械のことはよくわからない。
 刻一刻と新型コロナウイルスをめぐる状況は変化している。わたしも一ヶ月前と今とでは考え方は変わった。

 感染拡大を防ぐには? 閑なおっさんは家でのんびり過ごすにかぎる。

 個人の対策としては、うがい、手洗い、部屋の換気、バランスのとれた食事、睡眠——あと何だろう。

 そう、メガネ洗いだ。手洗いと同じかそれ以上にメガネは洗ったほうがいい。

 二十代後半の半失業期に、先輩のライターから「人と会うときは寝癖を直してこい、それからメガネを拭け」と説教されたことがある。メガネをきれいにしておくのは、感染症対策にとってもかなり大切だ。最重要かもしれない。

 メガネをしている人ならわかるとおもうが、何の気なしにメガネを触っている。ほぼ無自覚のうちに、しょっちゅうつけたり外したりズラしたりするので一日何百回とメガネに触っているとおもう。

 うがいや手洗いと比べるとメガネ洗いの重要性はそれほど告知されていない気がする。

 今の時期は神経質すぎるくらい洗ったほうがいい。

2020/03/23

春時雨

 一本原稿を書き上げ、押入にしまっていた春・夏・秋用のズボンを洗濯する。衣替えをすこしずつしている。
 気温の変化が激しい時期は心身ともに不安定になりやすい。これは自分のせいではない。そう考えるようになってから楽になった。今、左肩が痛い。ふだんは意識していないが、わたしの仕事は左手をけっこう使う。本は左で持つ。左手の親指の力加減で頁を自在にめくれる。頁をめくるだけでも痛い。

 山口瞳著『卑怯者の弁 男性自身シリーズ』(新潮社、一九八一年)を読む。ぱらぱら頁をめくっていると「春時雨」にこんな文章があった。

《規則正しい生活をする。特に運動を欠かさないようにする。人に会うのは避ける。そういう生活のなかで出来るかぎりの仕事をする。そうすれば心身爽快となり、病気のことなど忘れてしまう。
 それがわかっているのだけれど、そうはならない。出来やしない》

 昔からこういう随筆が好きだ。ひとりの作家の随筆をずっと読んでいると書いているときの調子のよしあしみたいなものがわかるようになる(なんとなくだが)。調子はよくないかんじだけど、面白い。山口瞳はそういう随筆が多い作家である。おそらく規則正しい生活を送っているだけではいい文章は書けない。健康すぎてもいい文章は書けない。
『卑怯者の弁』では糖尿病で入院中の話が何本か入っている。

「病室にて」では「さいわいにして私は自営業者であるのだから、自分の生活を自分でコントロールすることができる。そのうえで、書けるだけのものを書いてゆくより仕方ない」とある。

 ウェブ上の書き込みにしても不健康に不寛容な人の文章というのは読んでいるときつい。「老害」という言葉を嬉々として使うような人もそう。アメリカでも若い世代のベビーブーマー世代にたいする風あたりが厳しく「OKブーマー(和訳=団塊乙)」という言葉が流行語になっている。新型コロナ関連では「ブーマーリムーバー」という言葉さえ生まれている。悪趣味だ。

 誰だって齢をとる。病気になる。ケガをする。誰かに助けてもらわなければ日々の暮らしがままならなくなるときがいつかはやって来る。いつ自分の身にそういうことが起こってもおかしくない。そうした想像力が欠落している人がいる。

 わたしも若いころはそうだった。

2020/03/22

三週間

 木曜日、新宿に寄り、都営新宿線で神保町へ。都営に乗るのは今年はじめてかも(神保町駅がきれいになり、スターバックスが入っていた)。
 新宿の金券ショップ、新幹線の回数券のコーナーに「大幅値下げ」の張り紙があった。出張や旅行者の減少で新幹線ががらがらだという。

 新型コロナ関連ではトイレットペーパーが店頭からなくなって、行列に並ばずに買えるようになるまでだいたい三週間くらいかかった(ティッシュペーパーはすこし早い)。一ヶ月分のストックがあれば大丈夫だが、この先どうなるかはわからない。
 米、冷凍食品はスーパーの棚から消えて二、三日後にふつうに買えるようになった。

 健康(安全)と経済のバランスをどうするかはむずかしい。
 感染を防ぐために、みんなが外出その他を控えれば失業者が増える。

 正しい情報がなければ、正しい判断ができない。正しい判断ができないときは慎重論を採用する。

 たいていの問題は楽観論と悲観論に分かれる。東日本大震災後、わたしは悲観論からゆっくりと楽観論に移行した。たぶん今回もそうなるだろう。

2020/03/17

コレラ船

 家にこもり気味の日々。午前十時ごろ町に出れば、トイレットペーパーが買えることを確認する。
 仕事の合間、気分転換に木山捷平著『鳴るは風鈴』(講談社文芸文庫)を読む。この本の中に「コレラ船」という短篇が収録されている。九百三十二人の男女が乗った引揚船が山口県の仙崎沖に到着した。

《仙崎沖のはるか沖合にとまって上陸を待っていた船は、まる二日後、突然、逆戻りをはじめた》

 船内の噂では、入港早々、女性のひとりが疑似コレラと判定されたという。女性はすでに下船してしまい、他の乗員が船に残されることになった。船は仙崎港から長崎県の佐世保港に向かい、三日かけて「カリヤ湾」に到着した。佐賀県の仮屋湾である。そこは港ではなく、人家もない場所だった。

 この作品は、戦時中、満州国農地開発公社の嘱託として新京(長春)に渡り、一九四六年八月に引揚船で佐世保に上陸した木山捷平の実話を元にした小説だ。

 船は港の沖合にまで来ていたが、いつ上陸できるかわからない。そのうち、船内に数人のコレラ患者が出てくる。佐世保の沖合には他にも同様の理由で入港できない船があった。
 船内では冷えたビールが飲みたい、鮪の刺身が食いたいといったほのぼのとした会話も交わされる。
 港に上陸するまでに十一人の男女がコレラで亡くなった。

 木山捷平が「コレラ船」を発表したのは一九五九年八月、五十五歳。『鳴るは風鈴』の刊行は二〇〇一年八月。解説は坪内祐三さんが書いている。
 文庫の解説で坪内さんは「私の好きな短篇『豆と女房』(『豆と女房』は本作品集に収められた『コレラ船』の一種のリメイクでもある)」と指摘する。
「豆と女房」の初出は一九六二年十一月(『白兎 苦いお茶 無門庵』講談社文芸文庫に収録)。この作品は「上陸禁止で船のなかの雑居生活をしているうちに月が満月近くなった」という一文ではじまる。「コレラ船」と同じく引揚船で帰ってきたが、コレラの疑いのある女性がいて、沖合に停泊したまま月日がすぎていくという話だ。「豆と女房」は、高円寺の話も出てくる。満州に行く前、木山捷平は高円寺に住んでいた。

 新型コロナウイルス騒動で横浜沖に停泊していた大型豪華客船のニュースを見聞きし、木山捷平の作品は、文章だけでなくテーマも古びていないことがわかった。

2020/03/09

日常

 日曜日、雨。昼三時半起床。夕方四時すぎ、二日目の西部古書会館。人が少なくてのんびり棚を見ることができた。葛西善蔵の『椎の若葉・湖畔手記』(旺文社文庫)は家にあるのは扉が切れていたので、つい買ってしまう。はじめて葛西善蔵を読んだのも旺文社文庫版だった。

 福原麟太郎の『人生十二の智慧』(新潮社一時間文庫)も買う。ビニカバがきれいに残っていた。二十代のころに買った記憶があるが、今は行方不明(たぶん売ってしまった)。「失敗について」がすごくいい。

《人生が失敗であつたとか、成功であつたとかいうことに、どんな意味があるのかとも言つてみたい。死んでしまえば萬事終りで、人は一生を、何とかして過ごして来たというだけのことなのだ。誰も大した生きかたはしていない》

 あと『草野心平のすべて展』(大黒屋デパート)は、はじめて見た。二百円だった。一九八三年に開催された文学展のパンフレット。文学館ではなく、百貨店系の文学展パンフはたまに見かけるのだが、未知の領域だ(誰か研究している人がいるのだろうか)。地道に調べていくしかない。

 二月二十八日から高円寺ではトイレットペーパーとティッシュが店頭から消えたが、三月五日、六日あたりから値段が高めのものは夕方くらいでも見かけるようになった。しかし週末また品切れ。もちろんマスクはない。土日は買い出しの人が多いのか、スーパーの棚もすかすかになる。一週間くらいで通常モードに戻るんじゃないかという予想は外れた。

 食料品にかんしては今のところそれほど困っていない。店によっては納豆が売り切れのところもあったが、すこし値段が高めのやつは残っている。先週末はレトルトと冷凍食品、缶詰の棚がガラガラの店もあった。

 ふだん調味料はなくなりそうになったら買い足すようにしているが、いつ品切になるのかわからないので、すこしだけ早めにストックしてしまう(ごま油とか)。買い占めというほどでもない、(自分も含めた)人々の小さな備蓄が積み重なると、棚がすかすかなるのだろう。週一回くらいしか買ってなかった納豆(三個入り一パック)を先週は二回くらい買った。棚にあと二、三個しか残ってないと次来たとき買えないのではないか、売れ残りの高級品(?)しか買えないのではないかと考えてしまう。

 こうした心理は古本を買うときにも働く。(好き嫌いと関係なく)よく見かける本よりもあまり見かけない本をつい優先して買ってしまいがちだ。何年か前、そういう買い方はやめよう、読みたい本だけを買おうと決めたにもかかわらず、人間の習性というのはそう簡単には変わらない。

 週末、仕事で節酒していたので今日は飲みに行きたい。

2020/03/05

第四稿

 寒くて風が強い。夕方神保町。東京メトロ東西線の九段下駅から中野駅、そこから歩いて高円寺に帰る。
 すこし前に買って積ん読していたジョン・マクフィー著『ピューリツァー賞作家が明かすノンフィクションの技法』(栗原泉訳、白水社)を読む。
 ライター関係の技術書、入門書は買う。読んですぐ役に立つアドバイスもあれば、時間が経ってから有益な知識もある。何がどう役に立つか、そう簡単にはわからない。わかれば誰も苦労しない。

 原書の題は「Draft No.4」、つまり「第四稿」である。このタイトルだと内容がわからない。しかし、いい題名だ。わたしが書店で手にとるのは『ノンフィクションの技法』だけど、読後、家の本棚に並べたいのは『第四稿』だ。

 この本の中でも「第四稿」が読みごたえがあった。
 行き詰まって書けないときは、自分の能力不足に関する愚痴など何でもいいから書けというようなアドバイスする。ライター歴三十年のわたしも実践している。

 テーマと関係ないことを書いているうちに力が抜けてくる。ジョン・マクフィーは最終稿ではその部分を削れというが、わたしはわりと残す。そのあたりがノンフィクションとエッセイの技法のちがいだろう(たぶんちがう)。どうでもいいことを書いているうちにエンジンがかかってくる。すくなくともわたしはそう。

 また「わたしの文体っていつも、そのとき読んでいるものと同じか、さもなければ、自己意識の強い、ぎこちない文になってしまう」というジェニーの悩みにたいし、マクフィーはこう答える。

「そりゃ、困ったことだね、もしきみが五十四歳だというなら。だが、二十三歳ならそれが当たり前だし、重要なことでもあるんだ」

 この続きの言葉もいい。何が書いてあるかは読んでのお愉しみということで。

2020/03/01

備蓄

 今年は閏年だったかと数日前に気づいたのだが、とくに予定なし。

 二十代のころは曜日の感覚がめちゃくちゃで、しょっちゅう火曜日だとおもって一日すごしていたら水曜日だったということがよくあった。今はそういうことはない。
 曜日をしょっちゅう間違えていたころは、生活リズムもめちゃくちゃで時計を見て五時三十分くらいだと、「朝? 夕方? どっち?」と焦ることが月に二、三日はあった。
 曜日の感覚がおかしくなったり、朝か夕方かわからなくなったりしたのは徹夜したり、半日くらい酒を飲んだりした次の日に十二時間とか十四時間とか寝ていたからだろう。

 今は朝か夕方かわからなくなる日は年に二日か三日くらいしかない。

 もはや生活リズムがデタラメだったころの感覚が思い出せなくなっている。今も規則正しい生活を送っているわけではないのだが、徹夜はしないし、飲みに行っても二時間くらいで切り上げる。

 九年前の東日本大震災後も町からトイレットペーパーとペットボトルの水と乾電池が消えた。菓子パンやカップ麺も品切になっていた気がする。ただ、当時の記憶もあやふやになっている。

 朝寝昼起の生活をしていると物不足のときに対処が遅れる。午前中でいろいろなものが売り切れ、午後は棚がすかすかになる。開店前に薬局でマスクの整理券を配っている。昨日か一昨日あたりから、急にトイレットペーパーとティッシュが売り切れの店が増えた。
 子どものころ、鹿児島にいた明治生まれの祖父が郷里の家に来たとき「ティッシュなんて贅沢だ。鼻は古新聞かチラシでかめばいい」といっていた。母は「ケチクサイ」と文句をいっていたが、ちり紙(チリシといっていた)がなくなったとき用のやわらかい紙のチラシをためていた(家は長屋で水洗トイレじゃなかった)。昭和五十年代の話である。

 数週間後には平常運転に戻るとわかっていても、いざ店にものがないと不安になる。家にあるものでもすこし買い置きしておこうかなとおもってしまう。ひとりひとりのそうした心理が積み重なって、町からものが消える。

 ものを備蓄するのも大事だが、なければないでどうにでもなる——とおもって日々をすごすのも生活の智慧だ。ほんとうにないと困るものは何か。そういうことを常日頃から考えておくのはわるくない。