2020/03/17

コレラ船

 家にこもり気味の日々。午前十時ごろ町に出れば、トイレットペーパーが買えることを確認する。
 仕事の合間、気分転換に木山捷平著『鳴るは風鈴』(講談社文芸文庫)を読む。この本の中に「コレラ船」という短篇が収録されている。九百三十二人の男女が乗った引揚船が山口県の仙崎沖に到着した。

《仙崎沖のはるか沖合にとまって上陸を待っていた船は、まる二日後、突然、逆戻りをはじめた》

 船内の噂では、入港早々、女性のひとりが疑似コレラと判定されたという。女性はすでに下船してしまい、他の乗員が船に残されることになった。船は仙崎港から長崎県の佐世保港に向かい、三日かけて「カリヤ湾」に到着した。佐賀県の仮屋湾である。そこは港ではなく、人家もない場所だった。

 この作品は、戦時中、満州国農地開発公社の嘱託として新京(長春)に渡り、一九四六年八月に引揚船で佐世保に上陸した木山捷平の実話を元にした小説だ。

 船は港の沖合にまで来ていたが、いつ上陸できるかわからない。そのうち、船内に数人のコレラ患者が出てくる。佐世保の沖合には他にも同様の理由で入港できない船があった。
 船内では冷えたビールが飲みたい、鮪の刺身が食いたいといったほのぼのとした会話も交わされる。
 港に上陸するまでに十一人の男女がコレラで亡くなった。

 木山捷平が「コレラ船」を発表したのは一九五九年八月、五十五歳。『鳴るは風鈴』の刊行は二〇〇一年八月。解説は坪内祐三さんが書いている。
 文庫の解説で坪内さんは「私の好きな短篇『豆と女房』(『豆と女房』は本作品集に収められた『コレラ船』の一種のリメイクでもある)」と指摘する。
「豆と女房」の初出は一九六二年十一月(『白兎 苦いお茶 無門庵』講談社文芸文庫に収録)。この作品は「上陸禁止で船のなかの雑居生活をしているうちに月が満月近くなった」という一文ではじまる。「コレラ船」と同じく引揚船で帰ってきたが、コレラの疑いのある女性がいて、沖合に停泊したまま月日がすぎていくという話だ。「豆と女房」は、高円寺の話も出てくる。満州に行く前、木山捷平は高円寺に住んでいた。

 新型コロナウイルス騒動で横浜沖に停泊していた大型豪華客船のニュースを見聞きし、木山捷平の作品は、文章だけでなくテーマも古びていないことがわかった。