2021/03/31

日光御成道

 金曜日、高円寺環七沿いのバス停から王子行のバスに乗る。前に乗ったのは二〇一九年二月。二年ぶりか。野方を通り、練馬を通り、氷川台を通り、板橋を通り、十条を通り、王子駅ひとつ手前のバス停で下車した。電車で行くより遠回りだし、時間はかかるが、バス楽しい。

 権現坂から飛鳥山公園を桜(満開)を観ながら歩く。公園沿いの本郷通りは日光御成道ですこし歩くと西ヶ原の一里塚がある。
 赤羽、十条、王子あたりも古鎌倉街道といわれている道がある。
 高円寺からは赤羽行きのバスもあり、なんとなく赤羽には親近感を抱いている。

 読書と散歩、そして睡眠——。生活における優先課題になっている。定年後の生活みたいだ。

 庄野潤三著『世をへだてて』(講談社文芸文庫)を読んでいたら、長女の今村夏子さんの「父の散歩」に「一万五千歩より少ない日は、ほとんどありません」とあり、もっと歩こうと……。一万五千歩は難しい。九キロくらいか。

 わたしは晴れの日一万歩、雨の日五千歩を目標にしているが、達成率は七、八割という日が多い。あくまでも一万歩は目標であって、七割くらいでよしとしようとおもっているからそうなる。無理は続かないから、それでいいと考えている。
 人間の心の動きは不思議なもので散歩の途中、万歩計を見たときに七、八千歩くらいだと「今日はこれでいいかな」とおもうのに九千歩くらいだと「あと千歩なら」と一万歩まで頑張る気になる。 

 この心理は何だろう。

2021/03/26

紙とウェブ

 水曜日、神保町。『歴史と旅』(二〇〇一年四月号)の「開道四〇〇年記念特集 東海道五十三次を歩く」を均一台で購入。『歴史と旅』は二〇〇三年に休刊。いっても仕方がないことだが、街道の研究を二〇〇〇年前後くらいに始めていれば……。この時期、江戸の五街道関連の博物館や史料館のイベントがたくさん開催されている。この先も“間に合わなかった感”を抱えて生きてゆくことになるだろう。とにかく今のわたしの目標は雑誌で街道特集を組むときに呼ばれるライターになることだ。十年以内に。

『ウィッチンケア』volume11が届く。今回は「古書半生記」と題したエッセイを書いた。
 二〇一七年に「わたしがアナキストだったころ」、二〇一八年に「終の住処の話」、二〇一九年に「上京三十年」を発表している。同誌では四作目だが、いずれも私小説風随筆である。
 しめきりと文字数さえ守れば何を書いてもいいという条件は、ライターとしては嬉しくもあり苦しくもある。つまらなかったときに言い訳がきかないからだ。結局、自由に執筆できるなら、面白いかどうかはさておき、自分の生きた証を書き残したい。
 わたしの半生を要約すれば、本を読んで酒飲んで原稿を書いてたまに旅して、就職せず、ふらふらと生きてきた——ということになる。

 仮にもし今自分が二十代であれば、そういう生き方は目指さないだろう。わたしの二十代は、ほぼ一九九〇年代と重なっている。定職に就かなくてもアルバイトでもそこそこの暮らしができた。まちがいなく時代の恩恵を受けている。定職につかなかった分、生活は不安定だったが、時間はたっぷりあった。その時間を本と酒に注ぎ込んだ。

 最近、若いライターと話をする機会があると、どこかのタイミングで何か一つのテーマに絞って、自分の看板を作ったほうがいいと助言する。好きなものはたくさんあっていいし、好奇心旺盛であることはわるくない。ただし“何屋”かわからない店だと仕事を頼みにくい。だからまず本業をはっきりさせる。そして自費出版でも何でもいいから形にする。名刺代わりになる作品をつくる。守備範囲を広げるのはそれからでも遅くない。

 もちろん最初からライフワークになるようなジャンルを絞りこめたら苦労はない。人生、乱読迷走期は不可避である。

 今はブログやSNSでも作品は発表できる。どうしてわざわざ紙に印刷しなければいけないのか。触れるか触れないかの差しかないではないか。そうおもう。わたしも漫画や雑誌は電子書籍で買っているし……。
 それでも「これは!」とおもう文章を書く人に出会うと「自費出版でも何でもいい、五十部でもいいから紙の本を作れ」といいたくなる。ネット上の無数の表現から切り離されたモノとして所有したいという気持が強いのかもしれない。

 現在、紙とウェブの仕事が半々くらいになっている。電子書籍の印税もちょこちょこ入る。いまだにウェブの仕事のスピード感にはついていける気がしない。紙の雑誌のテンポのほうが好きだ。

2021/03/23

前途

 三月、暖かい。桜の開花予想、各地で観測史上最も早い記録が出ている。この冬、貼るカイロを三箱(一箱三十個入り)買ったが、このままいくと一箱分くらい余りそう。すこしずつ衣替え、薄手のシャツなどを洗濯する。

 土曜日、東中野に散歩。早稲田通りから小滝橋。小滝橋は上野公園や九段下方面のバスが走っている。地下鉄の東西線とルートは重なっているが、バスは車窓から景色を楽しめる。
 この日は神田上水公園の遊歩道を歩く。けっこう桜が咲いている。花見客がちらほらいる。
 東中野のライフで衣類と食材を買い、電車で高円寺に帰る。だいたい一万歩くらい。

 庄野潤三の『前途』(講談社、一九六八年)を再読する。学生時代に読んだときは「小高」が島尾敏雄(をモデルにした人物)と気づかなかった。島尾敏雄と庄野潤三は九州大学の東洋史科の先輩後輩の間柄だった。『大菩薩峠』、佐藤春夫、長崎高商といったキーワードでやっとわかった。そもそも「小高」という名前自体がヒントになっている。小高(現・福島県南相馬市小高区)は、島尾敏雄の両親の郷里である。
「木谷数馬」は詩人の林富士馬か。

 この作品は主人公の漆山正三が伊東静雄に文学を教わる場面が何度となく描かれている。

《文は人なりという風な文学が本当にいいのだと思います》

 これも伊東先生の言葉——。

『前途』は難しいことがさらっと書かれている小説なのだ。文学だけでなく、あらゆる表現に通底するような話がけっこう出てくる。

 伊東先生は、若き日の庄野潤三(がモデルの主人公)に「とにかく、あなたはずっと文学を続けて行きなさい」という。

《近くの野原で坐って、煙草を吸いながら話していたが、それから田辺へ行く。途中、お酒飲む金でどんどん旅しなさいと云われる。いまごろ、どこかの小さい町の宿にいたらいいだろう。身も心もなく、見知らぬ土地を歩いていたら——》

 酒飲む金でどこかに旅か。若いころにそうしていれば、今とは別の人生になっていたにちがいない。

 酒の席で失敗するたびにこの言葉を思い出す。

2021/03/18

羅針盤

 思考の筋道を正確に書こうとすると、話があちこちに飛ぶ。わたしは中村光夫の批評が好きなのだが、読んでいるとけっこう振り回される。書きながら考え、考えながら書く人だからだろう。

《人間は元来、群をなして生きる動物です。だから僕らの意識は群のなかで自分の占める地位を、いつも鋭敏に感じるようにできています。
 僕らが行動する場合にも、自分の考えにしたがうより、他人の考えによることが多い、というと逆説めきますが、あることをするとき、それが自分の眼にどう映るかより、他人たちにどういう効果を生ずるかを考えるのは、僕らにとって、自然なことです》(「自分は大切か」/中村光夫著『秋の断想』筑摩書房、一九七七年)

「自分は大切か」は、近代における個人と集団の関係を論じたエッセイである。自分の行動の規範を持つには、船でいうところの羅針盤がいるという。

《群居する人間が、自分のなかに行動の基準を持たず、もっぱら他人の指図にしたがい、あるいは彼らを模倣して行動するのは、ちょうど、船隊の一隻として進む船のようなものです。こういう生き方をする人々は、彼らの内面に規準を持たなくとも、他人に倣っていれば、誤りなく目的地に、比較的骨を折らずに達することができます。全体の動きを導く指揮者は、彼自身より錬達である場合が多いからです》

《各自の羅針盤を持つということは、このような全体の動きから自分を切り離し、独自の進路を自分の判断できめて行くことで、たんに骨が折れるという点から見れば、前者よりずっと厄介な仕事なのです》

 さらに中村光夫は「自分」を「多くの他人の影響の複合体」と定義する。

《自分の内心の声を聞いたつもりでも、実は時代の流行を追っていたにすぎないという経験は、おそらく誰にもあるでしょう》

 中村光夫は「誰にもあるでしょう」というが、たいていの人はそのことに気づかない。

 話はズレるかもしれないが、自分の羅針盤——自己判断は絶対ではない。わたしもそうだが、自己本位で何でもかんでも選択、決断しがちな人は、周囲の人の助言や苦言を無視する傾向がある。病院に行かず、症状が悪化するまで放置したり、次の職のアテがないのに急に仕事をやめたり……。

 自分の羅針盤をちゃんと機能させるには、知識や経験だけでなく、自分の得手不得手、向き不向きを知る必要がある。自分の判断を過信せず、時には周囲の意見とすり合わせていくことも大事だ。

 中年になると、自分が間違った方向に進んでいても、忠告、注意してくれる人がだんだんいなくなる。気をつけないと。

2021/03/16

黄色いやづ

 日曜日、仙台。七北田宿を歩いて、仙台文学館に寄る。昨年十一月の京都以来、約四ヶ月ぶりの遠征。一泊二日で宮城、福島、栃木の宿場(奥州街道)を疲れない程度にちょこちょこ歩いた。それでも筋肉痛になる。
 福島の街道は、会津方面、いわき方面——行きたい場所がいっぱいある。

 出発前に『黄色いやづ 真柄慎一短編集』(フライの雑誌社)が届く。挿画はいましろたかしさん。鮮やかな黄色い表紙の本(気合の箔押!)。わたしは解説を担当。真柄さんはこの十年くらいずっと注目していた文章家(釣人)です。心にしみる作品揃い。

 わたしのお気に入りは「あの頃の電車通い」という短篇である。

《月の半分はバイトして、もう半分は釣りのための生活だった。日銭を手にしては車に飛び乗るのではなく、始発電車に飛び乗るのだ》(あの頃の電車通い)

 電車の中でも釣りのことを考えている。車窓から谷間の川を眺め、どの駅で降りるかを決める。淡々と釣り場に向かうまでの様子が綴られている。釣りに行く交通費や釣り道具を買うお金を捻出するためにアルバイトを頑張る。何かに突き動かされているかのようにフライフィッシングという釣りにのめりこむ。
 川辺での高校生とのやりとりも微笑ましい。

『黄色いやづ』は山形で釣りをはじめた少年時代の回想から、上京後、アルバイト(一時期、無職)時代を経て、結婚や就職を経て父親になり、釣りにもおもうようにいけなくなるボヤキまで、良質な私小説の連作短篇としても読める。

『フライの雑誌』の堀内さんは、十年以上にわたって真柄さんに原稿を依頼し続け、発表の場を提供してきた。そしてこの短篇集を現代版の「ニック・アダムス物語」(ヘミングウェイ)だと——。そのくらい素晴らしい。いや、それ以上かも。

2021/03/12

雑誌の街道特集

 金曜日、西部古書会館。ひさしぶりに午前十時すぎに行く。今回も街道関係の資料が多かった。『旅』一九七六年十一月号。特集は「街道と宿場」。東京と三重県松阪を結ぶフジフェリーの広告があった。フェリーの名前はいせ丸としま丸だ。東京−松阪航路が廃止になったのはわたしが小学四年のときだから一九七九年。一度も乗ったことがない。復活は……むずかしいか。
 ネスカフェゴールドブレンドの広告は指揮者の岩城宏之が白いセーターを着ていて、乳首が透けている。

 このころ『旅』で富士正晴が「藪の中の旅」、開高健が「わがフォークロア」(対談)を連載していた。

『歴史と旅』(九七年五月増刊号)の特集は「古街道を探検する」。「東海道伊勢路五宿」は「石薬師、庄野、亀山、関、坂下」のこと。わたしの郷里近辺の宿場町のレポートだ。もともと東海道は四日市の次が亀山で鈴鹿市内の石薬師宿と庄野宿の二宿は新しくできた宿場町である。

《新参者の両宿には悩みがあった。なによりもまず、地の利が悪かった。当時、庶民の旅といえば伊勢参宮が多かった。東国からくる参詣者は、日永の追分から参宮街道に入り、西国からくる参詣者は、関宿から伊勢別街道を通ったからこの二宿はかすりもしない》

《村というには家並は多く、町というには少なすぎるいまの庄野に、通過駅としてのわびしさを重ねてみた》

 さらに補足すると、石薬師、庄野はJR関西本線なのだが、鈴鹿は近鉄沿線のほうが町が栄えている。県外からJRで来た人は、庄野宿に寄った後、バスで近鉄の平田町駅のほうに行けば、飲食店もあるし、ホテルもある。ただし観光の要素はなきに等しい。

 江戸方面から伊勢神宮に向かう人は日永の追分から伊勢参宮街道を歩く。鈴鹿でいえば、今も市役所などがある神戸(かんべ)を通った。もよりの駅は近鉄の鈴鹿市駅。こちらは古い寺社町で城跡が公園になっている。「東海道中膝栗毛」で弥次喜多が通ったのも神戸である。

 同誌には「東海道七里の渡し」(日下英之)という記事も。常々春から秋の土日祝だけでも熱田と桑名を結ぶ「七里の渡し」を復活させてほしいとおもっている。たぶん東海道観光の目玉になるだろう。

2021/03/11

どんぐり

 水曜日、神保町。靖国通り沿いの古書店で『永遠の旅人 西脇順三郎 詩・絵画・その周辺』(新潟市美術館、一九八九年)を買う。そこそこ状態がいいのに均一台にあった。書き込みがあるのか——家に帰って調べる。蛍光灯の光が当たると、表紙に筆圧の強い字で手紙か何かを書いたような跡が見えた。おそらく図録を下敷にしたのだろう。これも“痕跡本”か。

 西脇順三郎は一八九四年新潟県北魚沼郡小千谷町生まれの詩人。一九二四年に英国人の画家マージョリ・ビドルと結婚(後、離婚)。この図録にはマージョリの絵も何点か収録されている(離婚後の絵も)。

 わたしは絵の良し悪しがわからない。

 寺田寅彦、中谷宇吉郎『どんぐり』(山本善行撰、灯光舎)をゆっくり読む。寺田寅彦の「どんぐり」から、一篇はさみ、中谷宇吉郎の「『団栗』のことなど」につながる。いろいろ感想が浮んだが、今は余韻に浸りたい。

 二十代のころ、寺田寅彦の短文をひたすら模写していた時期がある。

《思ったことを如実に言い現わすためには、思ったとおりを言わないことが必要という場合もあるかもしれない》 (『柿の種』岩波文庫)

 わたしの「かもしれない」多用癖は、寺田寅彦の影響……かもしれない。

 前にどこかに書いた気がするが(書いてない気もするが)、高校の物理の老先生が寺田寅彦の弟子の平田森三の元助手だった。授業中、何度となく寺田寅彦の名前を聞いた。わたしは居眠りして定規で「この庄助!」とよく叩かれた。寺田寅彦を読むとその物理の先生を思い出す。

2021/03/09

政治は妥協

  渡辺京二著『さらば、政治よ 旅の仲間へ』(晶文社)の「Ⅱ インタビュー」の章は何度読んでもいい。わたしは所収のインタビュー「二つに割かれる日本人」を『文藝春秋SPECIAL』(二〇一五年冬号)で読み、このブログ(「残りの一分」二〇一六年九月十八日)で紹介した。すでに『さらば、政治よ』は刊行されていたが、ブログ公開時には未入手だったため、「二つに割かれる日本人」が本書に収録されていることを記せなかった。

——今回も前回と同じ部分を引用する。

《また長い間、人間は天下国家に理想を求めてきましたが、これもうまくいかなかった。人間が理想社会を作ろうとすると、どうしても邪魔になる奴は殺せ、収容所に入れろ、ということになるからです。古くはキリスト教的な千年王国運動から、毛沢東の文化大革命に至るまで、地獄をもたらしただけでした》

 一見、理想を求めることはよいことのようにおもえるが、弊害もある。水清ければ魚棲まず——少数の清く正しく賢い人しか住めない理想社会は、そこに適応できない人にとって苦界となる。

《政治とはせいぜい人々の利害を調整して、一番害が少ないように妥協するものです。それ以上のものを求めるのは間違っているんですよ》

 わたしの政治観も渡辺さんの意見と近い、というか、ほぼ同じなのだが、もしかしたら「妥協」という言葉をよくない意味にとらえる人もいるかもしれない。

 ラ・ロシュフコーに「(ほとんどの場合)美徳は悪徳の偽装に過ぎない」という箴言があるが、わたしはそこまでいうつもりはない。

 何事にもどっちつかずであやふやな立場の人、いいかげんなものやくだらないものが好きな人が許される世の中がわたしの理想である。今は妥協している。

(追記)理想社会について、あれこれ考えているうちに戦後の日本は他力というか敗戦の結果とはいえ、短期間のうちに社会が改良された例ではないかという気がした。このテーマに関しては、結論は保留ということで。

2021/03/07

理屈と感情

 久々にWEB本の雑誌の「街道文学館」を更新。昨年十一月の京都と三重の旅。

 この一週間、廣岡大志選手と田口麗斗選手のトレードの件で脳と心を酷使した。チーム事情からすれば、投手の補強のため、野手を出すのはやむをえないと理屈では納得しつつ、感情ではヤクルトのユニフォーム姿の廣岡選手が見れなくなって残念におもう(とはいえ、ヤクルトのユニフォームを着た田口選手を見た途端、応援したくなっている)。

 五日午後、荻窪まで散歩。古本と晩メシの食材を買う。阿佐ケ谷と高円寺のガード下を歩いているとき小雨が降ってきた。

 六日午後、西部古書会館、街道本充実。『特別展 開設四百年 中山道武州往来』(埼玉県立博物館、二〇〇二年)など。埼玉県は中山道だけで九つの宿場町があった。埼玉の市の数が多いのは、中山道、日光街道、川越街道など、宿場町が多かったからという説がある。

  渡辺京二著『さらば、政治よ 旅の仲間よ』(晶文社、二〇一六年)を再読。

《そこで私はひとつ提案をしたい。東京に住んでいる職業的な文筆家は、みなてんでに気に入った地方都市に移住したらどうか。一歩進んで農山村に住んでみたらどうか》(「物書きは地方に住め」/同書)

  郷里の三重にいたころ、「東京」という言葉は単なる都会の記号だった。今でも「東京が好きか?」と訊かれてもピンとこない。しかし「高円寺が好きか?」と訊かれたら「もちろん」と即答する。渡辺さんの提案にたいし「東京」を自分の暮らす町の名前に変えた途端、わたしの答えはかなり強めの「ノー」となる。

 何度となくこのブログで地方移住のことを書いている。収入が減るたび、このまま今のところに暮らし、家賃を払い続けることができるのかという不安が頭をよぎる。しょっちゅう地方移住のメリットとデメリットを考える。地方ではなく、もうすこし家賃の安い郊外に住み、古書展のときだけ電車で通えばいいではないか。本はネットで買えばいいではないか。

 理屈ではそう考えられても、感情が出す答えは別ということはよくある。

2021/03/04

早稲田古本村通信の話

 もう三月。昨年の今ごろはマスクが買えなかったり、トイレットペーパーが売り切れの店が続出したりした。あれから一年。

 復刊した「早稲田古本村通信」(メールマガジン)毎号面白い。古書現世の向井透史さんの古本の話、昔、BIGBOXの古本市でセドリしたある署名本を千五百円で古書目録に載せたところ、とんでもない数の注文が……。

 失敗をくりかえし、悔しいおもいをしながら仕事を覚える。

 インターネットの古本屋が普及する前、古本の値段は店ごとにかなり幅があった。なぜこの本はこんなに高いのだろう。稀少価値か、それとも何か他に理由があるのか。それを知ることも古本屋通いの楽しみのひとつだった。

 わたしが「早稲田古本村通信」で「男のまんが道」を書きはじめたのは二〇〇五年秋、かれこれ十五、六年前だ。出来不出来はさておき、月一回、テーマに沿った原稿を書くことは勉強になったし、連載中に最初の単行本も出た。その後「高円寺だより」というエッセイも「早稲田古本村通信」に書いた。連載前に向井さんから「若い人向けの文章を書いてみませんか」といわれた。当時、読者として想定していた若者も四十歳くらいか。いまだに君づけで呼んでしまう。前田君とか。