2017/12/27

掃除中

 二十三日、今年の最後の西部古書会館。久々の初日に行く。午後二時すぎだが。ここ数年、西部古書会館には二日目、日曜日に行くことが多かった。「いい本を安く買いたい」「掘り出し物を見つけたい」といった欲求よりも「ゆっくり棚を眺めたい」という気持のほうが強くなったからだ。初日に行くと、本を買いすぎてしまう。今のわたしはそんなに買っても読む時間はないとブレーキを踏んでしまう。本の置き場所もない。

 今、大掃除の途中である。四日目。年中、本の整理はしているのだが、それでも増える。あと紙の資料(雑誌のコピー)が増える。
「自分はこれから何をしたいのだろう」と考えながら、取捨選択をする。時間がかかる。それをしないと先に進めない。

 小野博著『日本の本日』(orangoro)を読んだとき、このエッセイを気にいるだろうとおもう本好きの岡山出身の友人のことをおもいだした。すこし外出して家に戻ると、小野博著『Line on the Earth』(エディマン)が届いていた。掃除の途中、読みふけってしまう。学生時代、阿佐ヶ谷に住んでいたこともあるのか。読後、もういちど『日本の本日』を読み返した。掃除が終わらない。

2017/12/23

レエン・コオト事件

 はじめて読んだ小沼丹の本は『小さな手袋』だったか。単行本の『小さな手袋』(小澤書店)は、古本屋の目録で買った気がする。そのあと講談社文芸文庫で買い直した。今、単行本は手元にない。

「大先輩」という随筆はこんな一文からはじまる。

《青野季吉氏はたいへん怒りっぽかった》

 青野季吉はどうでもいいようなことで立腹する。面倒くさい人だ。

《しかし、青野さんが一番怒られたのは、或る会合の席である。妙な事情があって会が荒れて、青野さんは憤然として席を立った。僕は幹事だったから、出口まで送って行ったら青野さんはレエン・コオトを忘れたと仰言る。レエン・コオトを探して持って行くと、青野さんは今度は僕に食って掛った。
——先輩が帰るときは、黙っていても後輩はレエン・コオトぐらい持って来て着せ掛けるべきだ。それがヒユウマニズムだ。
 大体、そんな意味のことを云われた》

『藁屋根』の「竹の会」にも書かれていた「レエン・コオト事件」である。小沼丹は青野季吉に「そんなヒユウマニズムは御免蒙る」といって、自分の席に戻る。それからしばらく酒場で会っても、お互い、顔を合わせないような関係が続いた。

 小沼丹のエッセイを読むと、青野さんは怒りんぼうで酒癖のわるい厄介な人のようにおもえるのだが、昔からわたしは青野季吉の文章が好きである。名文家だとおもっている。

《誰でもさうであらうが、朝々にはまへの日やまへの夜にやつたこと、言つたことが、いろいろ氣になつたり、省みられたりするものだ。そして私など、どんな一日でも、美しく、滿足に、ひとに誇れるやうな生き方をしたことがないので、今日こそは祈るやうな氣持になるが、やはり駄目だ》

 青野季吉著『經堂襍記』(筑摩書房、一九四一年刊)の一節。この文章を書いていたころ、青野季吉は夜型から朝型に切り替えようとしていた。

《讀む時間、考へる時間、書く時間、遊ぶ時間、眠る時間を、どう割り當てていいか當惑して、結局は出鱈目になつて仕舞ふ。私にもひと並に釣をしたり、畑仕事をやつたり、碁將棋に費す時間があつていい筈なのだが、まるでそれが無い。不思議なやうな本當の話である。自分でも不思議でたまらない》

『經堂襍記』は、身辺雑記と本の感想をとりとめもなく綴ったかんじの本で、そのぐだぐだ感が素晴らしい。

『小さな手袋』の「お墓の字」は、谷崎精二が井伏鱒二に墓の字を書いてほしいとごねる話。このエピソードも「竹の会」に書いている。

2017/12/21

日本の本日

 年内の仕事が終わった。といっても、校正が残っていたり、年明けすぐのしめきりもあるのだが、とにかく一年乗りきった。「どうにかしのいだ」といったかんじだ。毎年同じような一年のくりかえしのようで、同じ一年にあらず。

 夕方、新宿のち神保町。神田伯剌西爾で、新刊の小野博著『日本の本日』(orangoro)を読みはじめる。この題名は無視できない。大当たりだ。エッセイと写真——どちらも素晴らしい。一九七一年生まれ(たぶん、早生まれ)でほぼ同世代ということもあって、読んでいるうちに、いろいろ記憶がよみがえってくる。ものの見方、考え方に共感するところも多かった。
 小野さんは岡山出身の写真家でオランダに十五年住んでいる。
 東日本大震災後、日本中を旅行するようになった。子どものころから今に至るまでの「日本」と「自分」の回想――観察と洞察も深い。
「小野さん、幸せ?」というエッセイは東京で会社勤めをしていたころの話である。

《残業なしでは到底処理できない仕事量を任され、予算がないからという理由で人手が増やされることはなく、納期だけは必ず守るように言われる。日本人の誠実さ、忍耐強さが、不景気による経営不振の埋め合わせに利用されていた。
 電車に揺られながら、「あと四〇数年、こんなこと続けられるだろうか?」と自分に問いかけてみる。その答えは、「無理」だった》

 数年後、小野さんは「仕事=人生」ではない生き方を求めてオランダに移住した。
 わたしも「仕事=人生」とはおもっていない。若いころから、なるべく働かずに食べていくことばかり考えてきた。いちども定職に就いたことはないし、その選択に悔いはない。それでも「仕事=人生」という価値観の呪縛はおもいのほかきつい。

「あの時、壊されたもの」というエッセイは、会社を辞め、派遣社員として働いていたときのことをこんなふうに綴っている。

《ある日、一年分の収入と支出を計算してみた。僕は家賃のために五ヶ月、食費のために二ヶ月、国民年金と交通費と通信費のためにそれぞれ一ヶ月働いていることがわかった。ただ生きていくためだけに、収入一〇ヶ月分が消えてなくなっている事実に愕然とした》

 ほかにも「ヤンキーと僕」がよかった。中学時代に親しかったヤンキーの級友の話なのだが……内容は手にとって読んでほしい。

 家に帰って、すぐ小野さんの『ライン・オン・ジ・アース』(エディマン)と『世界は小さな祝祭であふれている(新装版)』(モ・クシュラ)を注文した。早く読みたい。

2017/12/14

竹の会

 小沼丹著『藁屋根』(講談社文芸文庫)所収の「竹の会」を読む。小説なのか、エッセイなのか。ありし日のことをおもいだすままに書いた(ようにおもえる)文章である。

《高円寺にいた何とかさんが今度新宿に店を出した、井伏さんからそんな話を聞いたので、誰か友人と一緒に「高野」の横の汚い路地に入って、それらしいちっぽけな店を覗いた。茲は井伏さんの見える店かい? と訊くと眼玉の丸いお上が、
——はい、左様でございます。
 と神妙に返事をした》

 ハモニカ横丁の「みちくさ」という店の話。
 村上護著『阿佐ヶ谷文士村』(春陽堂)の「ハモニカ横丁から」にも「みちくさ」が出てくる(「道草」「みち草」など、表記はまちまち)。当時の「みちくさ」は朝四時ごろまで客がいた。井伏鱒二も「遅い組」だった。

 上林曉も常連のひとりだった。『阿佐ヶ谷文士村』によれば、「上林を『みち草』に紹介したのは新居格であった」そうだ。

《彼は文化人ではじめての公選杉並区長になっていた。そんな肩書きをもつ新居が、中央沿線に住む文士たちに、「みち草」を紹介する。彼は酒を飲まなかったが、次々酒飲みを連れていったのだからおもしろい。(中略)その後、「みち草」は高円寺から新宿に出て、ハモニカ横丁に店を開いた。昭和二十三年だったという》

 小沼丹は一九一八年生まれ。ハモニカ横丁に移った「みちくさ」で飲んでいたのは三十歳くらい。
 小沼丹の「竹の会」は「早稲田文学」の主幹だった谷崎精二の話が軸になっている。小沼丹は谷崎精二の教え子である。戦中から戦後にかけての文学者の様子が装飾のない文章で描かれている。
 谷崎精二から同人誌の「奇蹟」のことや葛西善蔵のことを訊く場面があるのだが、「どこかで蟋蟀の鳴く声が聞えて来たりして」といったかんじで、話題が変わってしまう。

 青野季吉も登場する。青野季吉は短気でわがままな人物として描かれる。あまり怒らなさそうな小沼丹が青野季吉と喧嘩している。すくなくとも「竹の会」を読むかぎり、青野季吉のほうがひどすぎて、弁護のしようもない。晩年の谷崎精二も面倒くさい。齢をとって、頑固になる。小沼丹は困ってばかりいる。困り役が似合う。

 かつての谷崎先生は飲み屋で学校の話をするのを嫌ったが、学長になってからは学校の話ばかりするようになった——というようなことも書いている。地位を得てか、齢をとってかはわからないが、人が変わっていく様子を見事にとらえている。

2017/12/13

貼るカイロ

 睡眠時間がズレる周期に入った。毎日、寝る時間と起きる時間がズレる。原因は寝過ぎか運動不足かその両方かだろう。

 すこし前に毎日新聞の日曜版のコラムで「温活」に関する雑誌記事を紹介した。どの雑誌もショウガの効用を説いている。わたしも毎回、汁ものにはすりおろしのショウガを入れる。炒め物にも入れる。
 数年前から、たまにジンジャーハイボールを飲むようになった。

 ヤセ気味の人と小太りの人など、体質によって、からだの冷え方がちがう。
 わたしは三十代のはじめから四十代後半にかけて、体重が十二、三キロ増えた。あいかわらず、寒いのは苦手だが、太って楽になった。以前は、全身がだるくなる冷えだったが、ここ数年は、手足に冷えをかんじる。専門用語(?)では「末端冷え」というらしい。ちなみに、ヤセ気味の人は「全身冷え」が多い。
 梅崎春生や古山高麗雄の随筆を読んでいると、しょっちゅう寒がりであることを書いている。「冬眠居」を名のっていた尾崎一雄もそうだ。だからというわけではないが、冬になると、この三人の作家の本を読みたくなる。

 室内にいるときも貼るカイロを腰につけている。いまやカイロはからだの一部だ。三十袋入りの箱を買っていて、一袋あたり十五円前後——毎日使ってもワンコイン以下である。
 毎年、貼るカイロの話を書いている気がする。ほんとうに助かっている。

2017/12/08

次の一手

『フライの雑誌』の最新号、ワイド特集「釣り人エッセイ 次の一手」は読ませる。人生を棒にふるくらい釣りに特化した生き方をしている人、マイペースに釣りを楽しむ人——それぞれの気持のこもった素晴らしいエッセイばかりだった。言葉の端々からフライフィッシングの楽しさを伝えたい、広めたいというおもいが溢れている。マニアックだけど、閉じていない。
 フライフィッシングショップなごみの遠藤早都治さんの文章(「なるほど、そうやるのか」)は自分の経験を通して掴みとってきた言葉がいい。

《理屈抜きで楽しみたい。そういう気持ちもわかりますが、ある程度の段階になると、この趣味には地道な努力が必要なんだろうと気づくと思います》

 わたしが『フライの雑誌』を知るきっかけになった真柄慎一さんも久しぶりに執筆している。誠実さが、そのまま面白さになる。あらためて稀有な書き手だとおもった。小学生になったばかりの息子と釣りをする話で……真柄さんが無職のころから読み続けてきたので感慨深い。ずっと書き続けてほしい。

 中年になって、何か新しいことをはじめるのが億劫になっている。とくに人生の残り時間を考えると、年季がものをいう世界には、おいそれとは入っていけない。
 今から釣りをはじめても初心者のまま一生終わっちゃうな、と。でも初心者から何かをはじめるというのは、いい経験になるのではないか。そんなことを五年くらいぐだぐだと考えているわけだ。考えているひまがあるなら、やれよ(という自分つっこみもマンネリ化してきた)。
 どんな趣味でも「ある程度の段階」まで行くのは大変だ。その大変さを知れば知るほど、腰が重くなる。

 来年こそはきっと。いやはや、一年経つのは早いなあ。

2017/12/05

まだまだ何も

 竜王戦第五局が気になって仕事が手につかない。一日目、羽生善治さんの封じ手で終了。なんとなく羽生さんの手に勢いがあるようにおもう(形勢判断できるほどの棋力はないのだが)。

 わたしが将棋に興味を持ちはじめたのは一九九六年の羽生善治さんの七冠フィーバーのときだ。そのころ、大盤解説会に棋譜をFAXで送るアルバイトをしていた。
 当時、定跡も何も知らず、対局を見ていても何もわからない。何を考えているのかもわからない。こんなにわからないことを真剣に考えている人たちがいる。その姿に心を打たれたのだとおもう。

 序盤から中盤にかけて、その場にいた観戦記者(アマチュア四、五段の人)が予想外の手を羽生さんが指す。その一手が終盤に効いてくる。そんな場面が何度もあった。

 二十五、六歳のころ、ライターの仕事が行き詰まって、何かを変える必要があると考えていた。毎日、古本屋に通い、本を読んで酒を飲んで寝る生活は、楽しかったが、仕事にはまったくつながらなかった。当たり前だが。

 集中とリラックス、休息のとり方……将棋本に教わったことはたくさんあった(実践できているかどうかは別だが)。
 その後、海外のスポーツコラムやスポーツ心理学の本を読むようになったのは、将棋本がきっかけだ。

 五日、夕方。羽生さんが竜王位奪取。永世七冠達成。NHKに速報のテロップが流れる。

 対局後の記者会見で、挑戦者になることもむずかしかった、次があるのかどうかもわからない、最後のチャンスだという気持もあった——と語っていた。「そうですね〜」といいながら、言葉を慎重に選ぶ。受け答えの姿勢がまったく変わらない。(二十代三十代のころと比べて)四十代は足し算だけでなく、引き算で考えられるようになったことが強みになっているという答えも羽生さんらしい。

 永世七冠という偉業を達成し、今後の抱負を訊かれ「(将棋のことは)まだまだ何もわかっていない」。重い言葉だ。

2017/12/03

伊勢・志摩の文学

 日曜日、西部古書会館。来年の「古書即売店一覧」(半年ごとに配布)をもらい、年末を実感する。
 二十代のころは、古書会館に行くとき「五冊まで」「二千円以内」といったかんじで買いすぎに気をつけていた。最近は「五冊以上買う」「二千円以上買う」と心に決めて古書会館に行く。冊数と値段は、そのときどきによって変わるのだが、目標を設定したほうが棚を真剣に見る。
 どういうわけか、今回、三重県関係の本がたくさん出ていた。郷土史の研究をする予定はないが、見たことのない本がけっこうあったので、三冊買う。橋爪博著『伊勢・志摩の文学』(伊勢郷土会、一九八〇年)もそのうちの一冊。
 目次を見ると「尾崎一雄『父祖の地』と伊勢」や「庄野潤三『浮き燈臺』と安乗」といった項目がある。

 尾崎一雄は、三重の生まれ(宇治山田町)。父の尾崎八束は、神宮皇学館の教授だった。四歳で下曽我に引っ越すが、七歳のときに再び宇治山田に移る(翌年、沼津へ)。

《尾崎一雄氏は、私の「宇治山田のどこで生まれたのでしょうか。」という質問に、たいへん親切丁寧にお答えいただいた。昭和五十三年二月十一日の私に宛てた書簡によれば、生まれた場所は「宇治の浦田町五十番屋敷といふ所(当時の呼稱)です、別紙に略図します……」とあり(以下略)》

 この文章のあと「尾崎一雄氏の著者宛の書簡」という写真が載っている。尾崎一雄の筆跡の現住所がそのまま出ている。尾崎一雄が世を去ったのは一九八三年三月。亡くなる五年前の手紙ですね。

 庄野潤三の『浮き燈臺』の舞台の志摩郡阿児町安乗(あのり)——わたしの母の郷里の浜島と同じ現在は志摩市なのだが、行ったことがない(交通の便があまりよくない)。『浮き燈臺』は、一九六一年の作品である。

 庄野潤三は伊良子清白の「安乗の稚児」という詩で安乗という地名を知った。この詩を教えてくれたのは、恩師の伊東静雄である。

《その時から二十年後に私は安乗へ行き、そこへ行ったことを小説に書いた》(「志摩の安乗」/『週刊読書人』一九六二年一月十五日)

 橋爪さんは『浮き燈臺』に登場する「小安ばあさん」のモデルを訪ねる。すでに亡くなっていたが、庄野潤三と小安さんがいっしょに撮った写真が残っている。
 また庄野潤三と文学の話をした安乗の山本光男さんは「庄野氏は、人間は目に見えない糸のようなものがあって、たえずたぐり合っている。」というような話をしたそうだ。

 ちなみに、伊良子清白の「安乗の稚児」は『孔雀船』(岩波文庫)に所収。伊良子清白は、安乗へ行かずに「安乗の稚児」を書いた。