2020/06/30

戦中の白鳥

『文学・昭和十年代を聞く』(勁草書房、一九七六年)という本がある。
 中島健蔵は戦前の反ファシズム、リベラルの勢力がいかに切り崩されていったかについて語っている。昭和十年代の作家や評論家たちの中には軍国主義に抵抗していた作家もいた。ナチスが共産主義や性関係の書物を焚書している噂が伝わってくると、多くの作家が反対した。

《その時には、日本でもそういうことがおこりかねない空気だった。事実、日本の古典に対しても相当うるさいことを言い出す人間が出はじめたし、検閲がひどくて何も書けない。少しでも左がかりの文章はみんなバッテンだらけだ》

 当時「戦争反対」や「帝国主義」という言葉が伏字になった。伏字ならマシで発禁になる。中島健蔵がペンクラブ常任理事になったころ、日本空軍の重慶の大爆撃が行われていた。ロンドンのセンターから政府に抗議しろと電報を受け取ったが、どうにもできない。

《あの時、ペンクラブには会長の藤村がいたし、白鳥も秋声もいたでしょう。それからもう少し若くなるが、武者小路実篤、堀口大学……ずいぶんいろいろな人がいたけれども、ほんとうに僕が「現役」だと思ったのは白鳥だね。白鳥はすごかったね、やっぱり》

 正宗白鳥は最後まで時勢に便乗しなかったという。

 正宗白鳥著『白鳥随筆』(坪内祐三選、講談社文芸文庫)の「少しずつ世にかぶれて」(一九四七年三月)に当時の心境を綴っている。

《今度の戦争では、日本が負けるだろうと、私ははじめから予想していたのであったが、それは先見の明があった訳ではなく、日露戦争の時にも、私は、小なる日本は大なるロシアに対して終局の勝利は占め得られないだろうと予定していたのであった》

 ようするに負けるとおもっていたから乗り気ではなかった。それで東京を離れ、軽井沢に移り住んでいた。

《私は独自一箇の見解を有っているつもりであり、それを志していたのであったが、今から回顧すると、時代の影響の下に動いていたに過ぎなかった。基督教は外来の清新な宗教であったために、私などはそれにかぶれたのであったが、も少しおそく生れてマルクス主義の流布する時代に接触していたなら、私はそれにかぶれたに違いなかった》

 中島健蔵は白鳥のことを「すごかったね」と語ったが、本人は「かぶれたものに徹底しないのを、私は悲むことがある」と自らの信念のなさをボヤいているのがおかしい。

2020/06/26

才能の貯金

 先日、昭和十二年の『杉並區詳細圖』を購入し、木山捷平の高円寺時代の住所を調べた。
 杉並区馬橋四の四四〇。高円寺駅と阿佐ケ谷駅の北側のちょうど真ん中あたりだ。わたしが二十代半ばごろ、高円寺で住んだ三番目のアパートの近くでもある。

 河盛好蔵著『文学空談』(文藝春秋新社、一九六五年)に「『メクラとチンバ』の作者」というエッセイがある。
『メクラとチンバ』は一九三一年、木山捷平が二十七歳のときに作った自費出版の詩集の題。
 藤原審爾の会で木山捷平が乾杯の音頭をとったら妙なおかしみがあって、みな吹き出してしまったという話から河盛好蔵は木山文学の魅力を語る。

《藤原君の会で井伏鱒二さんと会ったとき、木山文学の話が出て、井伏さんは「木山君は才能をいままで貯金して使わないでいたらしい」といった》

 藤原審爾の会は『殿様と口紅』で小説新潮賞を受賞したころだから一九六二年。木山捷平は五十八歳で『大陸の細道』を発表した時期だ。その翌年『苦いお茶』を発表している。直木賞候補になった『耳学問』が一九五六年——五十二歳のときの作品だが、ここから小説の代表作を次々と書いた。

 ちなみに河盛好蔵は荻窪(天沼)に住んでいた。亡くなったのは二〇〇〇年三月二十七日、享年九十七。酒好きだったエピソードがたくさん残っているが、長生きした。

2020/06/24

いい日

 仕事部屋兼書庫の引っ越しからもうすぐ一年になる。
 午後一時くらいに起きて冷たいほうじ茶を水筒に入れ、徒歩三分くらいのところにある仕事部屋に行く。テレビもネット環境もないのでずっとTBSラジオを流している。

 プロ野球が開幕してひいきの球団はちょっと調子はよくないが、去年、一軍と二軍を行ったりきたりしていた選手が活躍して嬉しい……と書いていたらヤクルトファンの尾崎世界観が同じような感想を喋っていた。

 やらないといけない仕事が手につかず、黒田硫黄の『茄子』(全三巻、講談社)を読む。『月刊アフタヌーン』で連載がはじまったのは二〇〇〇年秋ごろか。もう二十年前か。

『茄子』の若隠居になりたい男性の名前がおもいだせなくて読み返した。二巻くらいだったかなとおもったら二巻だった。「お引っ越し」と題した回。デパートでアルバイトしている女性が可愛い。彼女は風呂なしアパートに引っ越したあと「リッチじゃなくても優雅に暮らす」とテレビのない生活を送る。
 隠居志望の男性はコンビニの夜勤のバイトをしながら「もっとガシガシ稼がないと若隠居はムリかなあ」とボヤく。やる気がなくて頼りない。で、結局、隠居じゃなくてインドを目指すのだが……。ちがうかもしれないが、九〇年代後半くらいの中央線界隈の下宿っぽい雰囲気だ。
『茄子』の中でも特に好きな回なのだが、ディテールはけっこう忘れていた。小さなエピソードだけで登場人物の性格がすーっとわかる形で描く。
 三巻には表紙にクマが描かれている。全巻通して登場する職業不肖のヒゲメガネ中年の回にクマが出没する。ツキノワグマか。たぶん場所は岩手だとおもう。花輪線の駅名が出ていた。前に場所を調べたことがあったが、それも忘れていた。

 三巻の「いい日」の「ロマン補充すっか」というセリフはおぼえていた。これは忘れん。

2020/06/22

列外

 十五日、特別給付金が振り込まれていた。二十代のはじめごろからある少部数の同人誌を集めているのだが、創刊号が未入手で——気長に探していたのだが、ついにネットの古本屋の力を借りることにした。あと戦前の杉並区の地図も買った。

 たまにツイッターやブログで二十代や三十代の人の文章を読む。世代のちがう彼らはわたしのまったく知らない漫画を読み、ゲームをして、音楽を聴いている(固有名詞がほとんどわからない)。
 だけど、集団生活が苦手であんまり働きたくなくて趣味にお金や時間を費やして……というタイプはどこかしら思考が似てくるのかもしれない。
 社会にたいする見方にしても早急の結論を出すやり方ではなく、人間のダメなところを許容し、失敗を責めず、自分も他人も適当にぐだぐだと生きていける世の中のほうが暮らしやすいのではないかと考えている。
 寛容ともいえるが、いいかげんともいえる人生観だ。

 まわりのみんなが力を合せて何かのプロジェクトに立ち向かっているときも常にそれ以外のことを考えている。
 なるべく邪魔をしたくないから、すみっこのほうでひっそりと時間をつぶしている。
 そして家に帰ると誰に頼まれたわけではない文章を書いたり絵を描いたり音楽を作ったりしている。彼らはいつだって寝不足だ。
 当然やる気がないと文句をいわれる。

 といって下手にやる気を出すとプロジェクトの意義そのものを否定するような提案をしかねない。だから終始黙っているのだが、そういう心情はおそらく周囲の人には理解されないだろう。

 中年のおっさんになったわたしにいえることはちゃんと栄養のあるものを食い、睡眠時間だけはきっちり確保しろということだ。

 あとは好き勝手に生きればいいとおもいますよ。責任はとれませんが。

2020/06/19

態度と反射

『鶴見俊輔著作集』(筑摩書房)の第五巻では「リンチの思想」をはじめ、運動における暴力、内ゲバの問題に言及している。

 鶴見俊輔は非暴力運動(市民的不服従)の提唱者のひとりでもあるヘンリー・デイヴィッド・ソローが「黒人を奴隷にしている制度を擁護する人たちに対して暴力をもって立上がる、その運動——ジョン・ブラウンの運動——に対する加担」をしていた件について述べている。

《この運動へ加担するがゆえに、ソローの非暴力主義というのは、ある種のなまなましさで訴える力をもつ》

 ソローのなまなましさは危うさでもある。非暴力主義者が暴力を肯定したら、誰がその力の暴走を止めるのか。求心力のある運動というのはこうした危うさを孕んでいる。

 鶴見さんは神学者のラインホルド・ニーバーの「平和主義者は、そのことによって圧政に加担する」という言葉を重く受け止めている。圧政や暴力に目を閉じず、平和と非暴力の道をどう探るか。ニーバーの思想は「正しい戦争」という形で保守/革新を問わず、アメリカの外交政策とつながっている。ニーバーは原爆を支持していた。これも危うさの典型例だ。

 自由や正義を守るための暴力を肯定するか否か。これは今日にまで至る問題だろう。初期の『思想の科学』のメンバーには日本にニーバーを紹介した武田清子がいた。

 つるの剛士さんがツイッターで呟いた「普通の声で。」というメッセージは非暴力運動の現場では語られ続けてきた意見である。現在では「トーンポリシング」の典型として批判する人たちもいる。トーンポリシングかどうかはさておき、「普通の声」もしくは「低声」派のわたしだが「平和主義者は、そのことによって圧政に加担する」というニーバーの論理は無視できない。温厚さや平穏さが「圧政に加担する」ことはある。平和運動にかかわる人間はそうした現実と理想のあいだでたえず揺れている。その揺れをなくし、敵味方に分けたレッテル貼り思考に陥ってしまったときがもっとも危ない。

「すわりこみまで 反戦の非暴力直接行動」というエッセイで鶴見さんは戦時中の自分を次のようにふりかえっている。

《戦争中、私は、戦争に反対する何の行動もすることができなかった。反対の意志を日記に書きつける。信用できると思う人にしゃべる。それ以上のことは何もできなかった。しようと思うのだが、指一本あがらなかった》

 また同じような状況になったら、動けなくなるのではないか。鶴見さんはいざというときに指一本動かなくなるかもしれない自分を危惧していた。そこから「態度と反射」という思想が生まれた。

「普通の声で。」喋ることが困難な状況であってもわたしは「普通の声で。」喋りたいというおもいがある。リンチの歯止めは「普通の声で。」喋ることのできる場を保持できるかに懸っている。論理が飛躍しすぎたか。

 時間の余裕ができたら、この続きを書きたい。

2020/06/16

三鷹へ

 月曜日、十五時ごろ、三鷹へ。総武線各駅、ガラガラだった。北口の水中書店とりんてん舎に行く。詩の本が大事にされているかんじが嬉しい。水中書店に行くとなぜか小島信夫の本を買ってしまう。この日は『各務原 名古屋 国立』(講談社)を買う。小島信夫は岐阜出身で街道文学としても避けて通れない。

 そのあと三鷹駅の南口もすこし歩く。

『些末事研究』の最新号の「荻原魚雷 方法としてのアナキズム」が届いていた。嬉しいけど、照れくさい。この「方法としてのアナキズム」は鶴見俊輔さんのエッセイの題からとっている(福田さんが付けた)。

 昨年、発行人の福田賢治さんにライター生活三十年になるという話をしたら、東京と高松の書店でトークショーを企画してもらった。荻窪「本屋Title」で行われたかけだしのライター時代のことを喋った福田さんとの対談も収録(文中「玉川信明、鶴見俊輔、山本夏彦」の小見出し有り)。二十代のころ、玉川さんに「鶴見俊輔と山本夏彦に会っておいたほうがいい」といわれたんですね。
 福田さんが東京から高松に引っ越してだいたい年に一冊ペースでミニコミを出しているのだが、東京や高松や京都でしょっちゅう会っているのであまり距離を感じない。

 鶴見さんのアナキズムというか思想の根幹には「態度と反射」というテーマがある。自分がよりよいとおもうことを行いにつなげる回路をどう作るかという問いでもある。自分の正しさへの躊躇や逡巡も大切だが、それによって動くべきときに動けなくなることもある。数日前に「半隠居遅報」にも書いたトーンポリシングの問題とも重なっているのだが、どうしても今は煮え切らないかんじでしか言葉にすることができない。時間ができたら、続きを書きたい。

 青春18きっぷの季節になったら途中下車しながら西のほうに行きたいとおもっているのだが、新コロナどうなっているか。

2020/06/15

散歩

 晴れの日は一万歩、雨の日は五千歩の散歩の目標にしている。散歩中はマスクを外し、店に入るときだけ付ける。

 この三ヶ月くらいのあいだに中野〜阿佐ケ谷間でこれまで通ったことのない道をたくさん歩いた。十年とか二十年ぶりに通った道もあったかもしれない。
 緊急事態宣言以降、電車に乗って出かける回数が減った分、高円寺駅を中心に半径二、三キロのエリアを歩き回った。好きな道が増えた。

 一昨日、小雨降る中、早稲田通りと環七が交差点の北東側——住所が中野区の野方一丁目あたりを散策した。上越泉という銭湯を知る。サウナ付銭湯のようだ。気になる。

 しばらく細い路地を選んで歩いているとモンマート升本というコンビニがあった。鹿児島大口市(現・伊佐市)にいた祖父の店(酒+食品+生活雑貨の店)と雰囲気が似ている。黒ラベルの大瓶とサバ缶を買う。

 JR中央線の高円寺駅、中野駅、西武新宿線の野方駅からちょうど等距離くらいの場所にあり、それぞれの駅まで十五分くらいか。

 モンマートからすこし北のほうに歩いたところにあるレンガ敷っぽい細い路地もいいかんじの道だった。

 家に帰ると五千二百歩だった。

2020/06/12

オブローモフと西行

 埴谷雄高著『戦後の先行者たち 同時代追悼文集』(影書房、一九八四年)の「妄想、アナキズム、夜桜」という高橋和巳について書いたエッセイを読んでいたらこんな一節があった。

《高橋和巳君は私の「妄想」の立場をうけついで自分もまた「妄想」を文学的方法としていると常日頃いつていたけれども、いつてみれば、寝床のなかのオブローモフとして夜昼横たわりながら暗い頭蓋のなかだけの微光を明滅させている私と違つて、白昼の時間の真面目な努力を長くつづけてきた同君としては、私の「架空凝視」をその方法とすることなく、眼前にいま置かれたものを詳しく精査する「現実凝視」をその建前としてきたのであつた》

 この文章の初出は『現代の文学・高橋和巳』の月報(一九七一年十一月)だ。文中の「寝床のなかのオブローモフ」という言葉は後藤明生の小説の主人公が目指していた理想である。『四十歳のオブローモフ』の連載は一九七二年五月にはじまった。後藤明生は「妄想、アナキズム、夜桜」を読んでいたかどうか。今となっては確かめようがない。『四十歳のオブローモフ』(つかだま書房)には「ときどき彼は《眠り男》になりたい! と空想することがあった。《眠り男》すなわち現代の《三年寝太郎》であり《ものぐさ太郎》である。しかし、妻子を抱えた《眠り男》など到底、考えられない。彼の理想はまた、ロシアの怠け者《オブローモフ》であった」と書いている。

 オブローモフはロシア貴族で大地主だった。『四十歳のオブローモフ』の主人公は団地住まいである。オブローモフのように何もせず怠惰にひたることはできない。

 ちなみに埴谷雄高は母親が吉祥寺に建てた家に暮らしていた。一時期は賃貸収入もあった。

 車谷長吉は西行に憧れていた。しかし西行が隠遁しつつも生涯にわたり紀州の荘園からの収入があったことに文句をいっている。車谷長吉著『贋世捨人』(文春文庫)の冒頭の付近に「二十五歳の時、私は創元文庫の尾山篤二郎校注『西行法師全歌集』を読んで発心し、自分も世捨人として生きたい、と思うた。併し五十四歳の今日まで、ついに出家遁世を果たし得ず、贋世捨人として生きてきた」とある。
『四十歳のオブローモフ』と『贋世捨人』は文体も作品の雰囲気もちがうがモチーフは重なっている。わたしはどちらも好きだが。

 埴谷雄高の本を読み返したのは武田泰淳と梅崎春生の話で確認したいことがあったからなのだけど、この話はいずれまた。

2020/06/10

雑記

 神保町、キッチン南海は大行列ができていた。
 先週から小宮山書店のガレージも復活している。神田伯剌西爾でアイスコーヒー。
 三省堂書店の並びの博多うどんの店は毎回J-WAVEのピストン西沢の番組が流れている。

 行き帰りの電車で山本容朗著『作家の生態学』(文春文庫)の続きを読む。十返肇、戸板康二、山本容朗のような軽評論――文壇ゴシップを書く人がいなくなった。

『作家の生態学』に「吉行淳之介の“お墨付き”」という言葉が出てくる。

《吉行淳之介の“お墨付き”というものがあると噂があってから、かれこれ十年になろうか。昔、川端康成が認めると、それが、文壇へのパスポートを意味した。(中略)が、「吉行が認めている」という編集者のことばには、かなりの重さがある。それには、いい線いっている有望株という響きがあった》

 色川武大、田中小実昌、野坂昭如も「吉行淳之介の“お墨付き”」といわれていた。

『作家の生態学』を読み、水上勉著『今生の人びと』(構想社、一九七八年)をインターネットの古本屋で買った。届いてから山高登の装丁の函入の本と知った。この本は正宗白鳥や木山捷平や梅崎春生の話も出てくる。関口良雄の『昔日の客』(三茶書房)の隣に並べたい。雰囲気がよく似ている。

《『今生の人びと』は、もし、水上さんで一冊と言われたら、私が迷わず、これだとあげる本である》(「作家の生態学」/同書)

 さらに『今生の人びと』の中でも「木山捷平さんを書いた『鯉の話』は、白眉』」と記している。

 岡山県笠岡の古城山公園に木山捷平の詩碑がある。詩碑の建立には井伏鱒二が関わった——という話をどこかで読んだ記憶がある。

 木山捷平の書簡を見ると高円寺時代の住所が「杉並区馬橋四-四四〇」となっている。阿佐ケ谷寄りの高円寺か。
 戦前の東京の古い地図がほしくなる。

2020/06/08

阿佐ケ谷まで

 土曜日、馬橋公園から斜めの道(お気にいりの道)を歩いて阿佐ケ谷の神明宮の骨董市のちコンコ堂と千章堂書店へ。
 高円寺の西部古書会館はまだ再開していない。高円寺生活三十年、こんなに西部古書会館で本を買わないのは、はじめてだ。

 コンコ堂では伊藤博子著『サイカイ 武田泰淳』(希窓社、二〇〇九年)、山本夏彦著『完本文語文』(文春文庫、二〇〇三年)、千章堂書店では臼井吉見著『残雪抄』(筑摩書房、一九七六年)など。
 阿佐ケ谷の喫煙コーナーも封鎖中か。そのせいかどうかユジクの前の煙草屋の灰皿に人が集まっていた。わたしもそのひとりなのだが。

 高円寺に帰り、上林暁の『文と本と旅と』(五月書房、一九五九年)を読む。
「荻窪の古本市」というエッセイでは古本市の会場で上林暁が三人の友人と会う話を書いている。

《最初は福田清人君に会い、つづいて瀬沼茂樹君に会い、最後に渋川驍君に会った。何か嬉しかった。四人で待ち合わせて、近くの喫茶店に入った。同年輩の文学仲間だから、話がはずんだ》

 瀬沼茂樹が中野桃園町に住んでいたことを丸谷才一のエッセイで知ったが、荻窪の古本市にも通っていたんですね。

《お互い五十にもなって、こういう文学談に熱中しているところは、はたから見ると青臭いと思われるかも知れないが、文学青年の時代からは一時代も二時代も進んだ所で、文学に対する若々しい情熱がまだ燃えていることを意味するもので、非常に良い刺戟になった》

 上林暁は一九〇二年、福田清人は一九〇四年、瀬沼茂樹は一九〇四年、渋川驍は一九〇五年の生まれである。
「荻窪の古本市」を発表したは一九五四年十二月——上林暁は五十二歳か。古本好きの作家はしぶとい。

 三十歳くらいのときは五十代なんてずっと先のことだとおもっていたが、あっという間ですよ。わたしも古本屋通いを続けているが、もはや情熱か惰性かわからなくなっている。

 この日、買った臼井吉見も一九〇五年生まれだから前の四人とは同世代である(福田清人とは大学時代に同級生だった)。
 臼井吉見も成田東(阿佐ケ谷界隈)に住んでいた。

2020/06/05

中野桃園町

 木曜日、仕事の帰りに中野の郵便局に行ったら十九時以降の夜間窓口がまだ営業再開していなかった。地味に困る。寿楽でラーメンと半チャーハン、桃園商店街を通って高円寺に帰る。

 丸谷才一著『低空飛行』(新潮文庫)に「中野桃園町」というエッセイがある。

《今は中野区中野三丁目だろうか、味気ない地名になったけれど、以前は中野区桃園町であつた。わたしは英文科の学生のころから結婚するときまで、かなり長いあひだこの桃園町に下宿してゐたのである》

 丸谷才一が中野の本屋をまわっていると「セヌマ先生」と呼びかける声が聞こえた。
 セヌマ先生は瀬沼茂樹である。後にふたりは同じ町内に住んでいたことが判明する。

《われわれの同時代人のうち、最も高名な中野桃園町の住人はおそらく北一輝だらう》

『低空飛行』の解説は山口瞳でこれがめちゃくちゃ面白い。吉行淳之介著『軽薄のすすめ』(角川文庫)と並ぶ山口瞳の名解説だ。

 山口瞳が書き下ろしの長編を書いたとき、丸谷才一に解説をかねた推薦文を依頼した。

《しばらくして、私は、思わず頭をかかえてしまうようなことになった。私は、ほとんど、私小説しか書かない。(中略)ご承知のように、丸谷才一さんは、まっこうから私小説を否定する側に立つ人である。はたして、丸谷さんの推薦文には次の一節があった。
「この人はずいぶん私小説に義理があつて、それを新しい時代に即応させることに必死なんだなと、わたしは改めて感心した。感心したり呆れたりしたと言ふほうが正しいかもしれない。それは律義な男もゐればゐるものだといふ気持だつた」》

 山口瞳は「辛い仕事」を頼んでしまったと申しわけなくおもう。わたしはこの時代の文壇の雰囲気が好きだ。書評だろうが推薦文だろうが、いうべきことはいう。自分の立場を崩さない。

 丸谷才一と山口瞳は『男の風俗・男の酒』(TBSブリタニカ、一九八三年)という対談集もある。

《山口 しかし、酒にしろ、身なりにしろ、言葉にしろ、風俗への関心というのは大事なことですね。
 丸谷 生き生きとした態度で生きていくためには、どんなつまらないことであろうと、現世の風俗というものに関心を持つべきですね。僕はそれは、非常に大事なことだと思いますよ。それをやらないと老けちゃうんですね。小説家が、わりに老けないのは、それなんじゃないかな。くだらないことに関心を持つから気が若い。
 山口 井伏先生なんか今でもすごいですよ。いつだったか、こういう話をした人がいたんです。その人は午前三時頃タクシーを待っていたんですって。タクシーはなかなか来ない。すると豪華な毛皮を着た女性が二人、やっぱり車を待っている。で、一緒に乗りましょうと相乗りしたら、六本木で降りていったというんですね。その話を聞いた井伏先生は、「君、それからどうした、どういう女だ」とどんどん聞くんですよ。僕はすごいと思ったな。あの先生の好奇心みたいなものに感動しましたね。僕はそういうのを聞いても、「ああそう、面白いね」で終わっちゃうんです。井伏先生はすごいですよ、いまだに。
 丸谷 それが小説家というものなんだな……。われわれは、そういう意味じゃいい商売を選びましたね。なんだか趣味と実益を兼ねるようなところあるでしょう》

 丸谷才一はいわゆる文壇ゴシップが大好きだった。何度かわたしは丸谷さんから文壇の噂話を伺う機会があった。吉田茂が亡くなったあと、遺産の問題でごたごたしていたとき、吉田健一が「そんな金、飲んじまえばいいんだ」といい放った逸話も丸谷さんから聞いた。

 後日、山本容朗著『作家の生態学(エコロジー)』(文春文庫)の「野坂昭如」のところを読むと次の文章があった。

《丸谷才一も、野坂人脈には、欠くことが出来ない。なにしろ、野坂の旧制新潟高校の先輩で、その上、結婚式の仲人である。丸谷は、今、目黒のマンションにいるが、その前、中野にいた。目と鼻の先に住んでいた私は、時々遊びにいった》

 山本容朗も中野桃園町の住人だったとは! 瀬沼茂樹と山本容朗が近所に住んでいたら文壇ゴシップには事欠かなかったにちがいない。

 丸谷才一が中野に移り住むさい、野坂昭如が引っ越しを手伝った。

 丸谷夫人は「当日、戦争中の防空演習の時のような格好して、朝早くやってきたの。そして、こちらが、マゴマゴしているうちにどんどん片づけちゃうの。助かったわ。野坂さんって、見かけによらず引越しの天才ね」と回想している。

(追記)
 もともと先月の「散歩と読書」に書いた話だけど、山本容朗の逸話を書き足したくなったので分けることにした。

2020/06/04

ノーシンとビール

 数日前に高円寺界隈で歩いたことのなかった道を歩いた。北口の北中通りのコクテイル書房の横の道からガード下を抜け南口のエトアール通りに出る細い道——三十年以上住んでいてもまだ知らない道がある。

 部屋の掃除をしていたら『海』と『群像』の武田泰淳追悼号(どちらも一九七六年十二月号)が出てきた。

『海』の武田泰淳追悼特集は埴谷雄高の「最後の二週間」がいい。埴谷雄高の人物評は観察がきめ細やかで読ませる。

『群像』の追悼号は大岡昇平、埴谷雄高、野間宏の座談会が面白い。

 大岡昇平は「脳血栓をやるまで彼のシステムは、ノーシンを飲んで頭をはっきりさせて、ビールでそれを動かす、(笑)そういうふうに自分ではいっていたけれども、そう理屈どおりにいくわけがない」といい、それにたいし埴谷雄高が「あれはヒロポンをうんと使ったあと。初めは焼酎で、それからヒロポン。それがヒロポンが市販されなくなったので、やみで手に入れてたけれども、それもとうとう手に入らなくなってしまった。それでノーシンになった」と……。

 武田泰淳の「システム」を今の時代に推奨する気はない。わたしもシラフで仕事している。
 規則正しい生活を送り、ストイックに執筆するほうが、長く安定した作家人生を送れるだろう。スポーツや碁将棋の世界もそうなっている。

 この座談会で埴谷雄高は「本当に彼がえらいと思うのは、彼は書いたら読み返さないんだよ。(笑)だからヒロポン時代なんか、メチャクチャな文章があるけれども、それで直さないで渡しちゃう。実際ぼくはえらいと思う」といい、大岡昇平も「座談会だって、彼は全然直さないんだ」。

 こうした姿勢を「えらい」という人もいまや少数派だろう。

 武田泰淳が六十四歳で亡くなったとき、武田百合子は五十一歳。今の自分と同い年か。泰淳が山梨に山荘を建て、東京と山梨を行き来するようになったのは五十二歳だった。
 わたしもそういう生活に憧れていた。山梨に中古の家を探しに行ったこともあるが、新型コロナのゴタゴタで今はそういう気分ではない。

 石和温泉に行きたいですな。

2020/06/02

新しい非日常

 先週、久々に新宿に行った。
 西口のよく行く金券ショップに寄ったら新幹線の回数券が一枚も売ってなかった。長年、新宿の金券ショップを利用しているが、はじめての光景だ。安く売ってたら名古屋か大阪の切符を一枚くらい買おうとおもっていたのに。
 図書カードは一万円分が九千五百円だった(過去最安値かも)。

 そのあと青梅街道の宿場町が描かれたトンネルを抜けて東口へ。喫煙コーナーが閉鎖されていた。紀伊國屋書店に寄る。地下一階の水山で天ぷらうどん。人もいつもより少ない。

 新宿の追分から甲州街道を歩いて四ツ谷まで。快速一駅分だけど、散歩にちょうどいい距離である。歩道も広くて歩きやすい。

 学生時代、四ツ谷と麹町の中間あたりの編集プロダクションに出入りしていたことがある。
 仕事は電話番。暇だったからパソコンにインストールされた上海やソリティアで遊んでいたら戦力外通告を受けた。

 麹町の事務所に出入りしていたころ、Tさんというライターの先輩がいた。
 Tさんは今はテレビに出たり、大学で教えたり、多忙な日々を送っているが、当時は阿佐ケ谷に住んでいて貧乏だった。平日昼間に馬橋公園でキャッチボールをしたこともある。出版社の草野球の試合に出るから、その前に肩慣らしがしたいと誘われたのだ。
 キャッチボールをしていたとき「魚雷君はさあ、ルポやノンフィクションじゃなくて、荒俣宏さんみたいな資料を読んで書く仕事のほうが合ってんじゃないか」といわれた。
 わたしが二十二、三歳くらい、T先輩が二十七、八歳のときだ。

 T先輩は適当にいったのかもしれないが、わたしは勇気づけられた。