2020/06/04

ノーシンとビール

 数日前に高円寺界隈で歩いたことのなかった道を歩いた。北口の北中通りのコクテイル書房の横の道からガード下を抜け南口のエトアール通りに出る細い道——三十年以上住んでいてもまだ知らない道がある。

 部屋の掃除をしていたら『海』と『群像』の武田泰淳追悼号(どちらも一九七六年十二月号)が出てきた。

『海』の武田泰淳追悼特集は埴谷雄高の「最後の二週間」がいい。埴谷雄高の人物評は観察がきめ細やかで読ませる。

『群像』の追悼号は大岡昇平、埴谷雄高、野間宏の座談会が面白い。

 大岡昇平は「脳血栓をやるまで彼のシステムは、ノーシンを飲んで頭をはっきりさせて、ビールでそれを動かす、(笑)そういうふうに自分ではいっていたけれども、そう理屈どおりにいくわけがない」といい、それにたいし埴谷雄高が「あれはヒロポンをうんと使ったあと。初めは焼酎で、それからヒロポン。それがヒロポンが市販されなくなったので、やみで手に入れてたけれども、それもとうとう手に入らなくなってしまった。それでノーシンになった」と……。

 武田泰淳の「システム」を今の時代に推奨する気はない。わたしもシラフで仕事している。
 規則正しい生活を送り、ストイックに執筆するほうが、長く安定した作家人生を送れるだろう。スポーツや碁将棋の世界もそうなっている。

 この座談会で埴谷雄高は「本当に彼がえらいと思うのは、彼は書いたら読み返さないんだよ。(笑)だからヒロポン時代なんか、メチャクチャな文章があるけれども、それで直さないで渡しちゃう。実際ぼくはえらいと思う」といい、大岡昇平も「座談会だって、彼は全然直さないんだ」。

 こうした姿勢を「えらい」という人もいまや少数派だろう。

 武田泰淳が六十四歳で亡くなったとき、武田百合子は五十一歳。今の自分と同い年か。泰淳が山梨に山荘を建て、東京と山梨を行き来するようになったのは五十二歳だった。
 わたしもそういう生活に憧れていた。山梨に中古の家を探しに行ったこともあるが、新型コロナのゴタゴタで今はそういう気分ではない。

 石和温泉に行きたいですな。