2020/05/30

半遁世と隠居ふう 

《私はいつのころからか、半遁世の心をときどき持つようになった。
 宗教心なんてものとは何の関係もなく、ただ極力単純簡素な生活をしてみたい、という心からである》(「半遁世の志あれど」/山田風太郎著『風太郎の死ぬ話』角川春樹事務所)

 同書の巻末の初出一覧を見ると「『問題小説』一九九一年」とある。日本が後に「バブル」と呼ぶ時代の最盛期もしくは崩壊直前のエッセイだ。

 山田風太郎は一九二二年一月生まれだから六十九歳。蓼科に「風山房」と称する山荘を建てたのは四十歳前後だった。毎年七月半ばから九月半まで山に籠った。
「半遁世の志あれど」にはこんな記述もある。

《百閒先生は大貧乏時代、二、三年か新聞もとらなかったが、あとになってみると、それでも世の中に起ったことはちゃんと知っていたと書いているし、志賀直哉さんも若いころの漂泊時代、たしか尾道に住んでいたころ、飯を焚く鍋で顔を洗っていたが、別に不潔とは思わなかったと書いている。
 そんな生活にあこがれたのである》

 色川武大著『いずれ我が身も』(中公文庫)所収の「老人になる方法」には「私も十年ほど前に大病した経験があるが、あのとき、隠居ふうになっておけばよかった」という文章がある。

『街は気まぐれヘソまがり』(徳間書店)の「若老衰の男」を読んでいたら、色川武大と妻のこんな会話が出てきた。

《カミさんは病院を出ると、先に立ってコーヒーを呑もうといった。
「今日は気分がいいわ」
「気分がよくてよかったな。俺が先に死ぬということがわかって」
「そうねえ。でも寝ついて貰っちゃ困るのよ」
「いや、もう仕事は無理だ。これからは君にかわって働いて貰うことにする」
「冗談じゃないわよ。働くくらいならあたし死ぬわ」
「健康なんだから、ドシドシ働いてくれ。俺は隠居さ。一日じゅう寝る」》

 色川武大も隠居に憧れていた作家である。他にも隠居の話を書いたエッセイが何本かある。晩年、岩手県の一関に引っ越したのは「隠居ふう」を実践したかったからかもしれない。

「隠居ふう」の生活を送りながら「隠居」や「遁世」という言葉がどこかしらに出てくるアンソロジーを作りたい。

(追記)
「半遁世の志あれど」は『死言状』(角川文庫)にも所収(ただし初出は載っていない)。

2020/05/28

深夜族

 夜がつまらない。わたしは日付が変わる直前くらいの時間に飲みに出かけることが多い。行きつけの店の営業はまだ再開していない。再開したとしても深夜営業はまだ先だろう。ふだん何をしているのかわからない夜型の常連組はどうしているのか。

《私の仕事は、一種の座業だから、家に引っ込んでいることが多い。しかし、屋内に長く閉じこもっていると、どういうものか、意欲がだんだん鈍ってくる》(「ときどき素顔に返れ」/『一人のオフィス 単独者の思想』思潮社、一九六八年)

 鮎川信夫は酒を飲まない。そのかわり深夜のレストランに出向く。コーヒーやオレンジジュースなどを注文し、店のすみっこで思いにふける。

《主要なテーマはいつも決まっている——「おれは自分の人生の大部分を、なにかしたくないことのために奪い取られているのではないか?」》

 答えは出ない。出なくてもいい。多くの人が眠っている深夜の町に出かけ、無意味なことを考える。その時間が好きだと鮎川信夫はいう。
 息抜きに出かける町は新宿だった。ほかの本のエッセイでも二四時間営業の喫茶店とサウナをよく利用するという話を書いている。

 時評の合間に何てことのない日常を綴る。その日常の部分がなかったらわたしはくりかえしこの本を読むことはなかっただろう。

《私にとって、もっとも素顔にかえれる時間は、午前四時だ》

 鮎川信夫は「深夜族」だった。朝型でも夜型でもない不規則な生活を送っていた。

 わたしもなるべく不規則に生きたいとおもっている。今後も。

2020/05/26

古本屋のある町

 サンカクヤマで河田拓也さんと待ち合わせ。喫茶店で色川武大関係の貴重な資料を見せてもらう。

 この日『季刊銀花』一九九三年夏号「『當世日和下駄』で歩く東京の道」を買う。出久根達郎さんが「ムダを愛する町——高円寺」というエッセイを書いている。

《一九九三年現在、古本屋の数は二千七百軒ある。うち東京には七百八十軒。いわゆる古本街と称される神田神保町に百四十。早稲田に四十。本郷に三十店。いずれも概算である。ところが杉並区高円寺には、一ヶ所にまとまってはいないが、実に二十四店もの数が営業しているのである。更に貸本屋が四軒あり、新刊書店が十五軒ある。(中略)高円寺という町の特色をあげるなら、まず本屋が多いということであろう》

 二十七年前の話だ。今はずいぶん減った(それでも残っているほうだが)。
 同エッセイには飛鳥書房の竹岡昭さん、大石書店の大石功さん、球陽書房本店の西平守次さん、都丸書店の外丸茂雄さん、球陽書房分店の西平守良さん、青木書店の青木卓雄さん、大竹文庫(貸本屋)の大竹正春さん、そして芳雅堂書店の出久根さん自身の写真が載っている。

 大石書店は昭和六年、都丸書店は昭和七年に開業。高円寺の銭湯の小杉湯が昭和八年である。
 わたしが高円寺に移り住んだのは一九八九年の秋だが、都丸書店と飛鳥書房と竹岡書店によく通った(均一本ばかり買っていた)。出久根さんが書いているころの高円寺には漫画専門の古本屋も二軒あった。
 一日おきに北口と南口の古本屋を回っていた。
 当時、中古レコード屋レンタルビデオ屋古道具屋リサイクルショップなどでも古本を売っていた。それらを合せると九〇年代前半の高円寺には「古本が買える店」が三十軒くらいあった。
 さらに西部古書会館もある。

 部屋の掃除をしていたら山本夏彦著『やぶから棒』(新潮文庫)が出てきた。「古本屋のない町多し」というコラムがある。

《古本屋のない町は戦前はなかった。どんな田舎町にも一軒はあった。旅してその町の古本屋をさがすともなくさがしあて、棚を見るのは旅の楽しみの一つだった》

2020/05/21

二十八年前

 小雨。やや肌寒い。神保町。東京堂書店、博多うどん、神田伯剌西爾。
 行きと帰りの電車で竹中労著『決定版 ルポライター事始』(ちくま文庫)を再読する。

《一九五八年上京して、フリーのもの書きになってから、およそ四半世紀の日々を、追い立てられるように、私は生きてきた。過去に一刻の安息もなく、未来にむかって一文の貯えもなく、五十の坂を越えてしまったのである》

 単行本は一九八一年七月刊。まえがきを書いたのは同年二月——竹中労、五十歳だった。
 わたしは名古屋の予備校時代に古本屋で単行本を買った。

『決定版』では晩年『ダカーポ』に連載していた「実践ルポライター入門」(未完)も収録。この連載で竹中労は関川夏央著『水のように笑う』(新潮文庫)を紹介している。関川夏央では『家はあれども帰るを得ず』(文春文庫)も好きな本だ。文章を書くには技術だけでなく、時間も必要だと痛感させられた本だった。
 そのときどきに考えていることがあり、そのときにしか書けない文章もある。しかし十年後二十年後にふりかえる形で書く。渦中にいるときの生々しさが乾かないと書けないものもある。

 二十代のころ、わたしは関川夏央の文体を真似した失敗作をたくさん書いた。深夜、阿佐ケ谷のファミレスで原稿を書いた。恥ずかしい過去とはおもっていない。

 学生時代、わたしは玉川信明さんの読書会に参加していた。玉川さんは竹中労と親しかった。
 一九九二年五月、「竹中労と会う機会を作ってあげようか」と玉川さんがいった。そのころ、わたしは『現代の眼』の元編集長が作っていた『新雑誌X(後、新雑誌21)』の編集部に出入りしていた。
 編集長の丸山実さんも竹中労と長く付き合いのある人だった。編集部では鈴木邦男さんと何度か会ったこともある。鈴木さんはいつ見ても笑顔だった。
 当時のわたしは大学四年目を迎えていたが、卒業できる見込みがなく、中退し、ライター一本で食っていこうと考えていた。

 しばらくして竹中労の訃報を聞いた。亡くなったのは五月十九日、わたしが知ったのはその数日後である。

 二十二歳、迷走期。まだ書けないことがたくさんある。

2020/05/16

山口瞳と古山高麗雄

 部屋の掃除。ある本を探している。どこに何が書いてあったか。おもいだしたときにメモをしないとすぐ忘れる。付箋を貼っても忘れる。自分の記憶を過信してはいけない——とおもったこともすぐ忘れてしまう。

 探している本は見つからないが、そのかわりに別のことをおもいだした。
 山口瞳著『天下の美女 男性自身シリーズ』(新潮社)の「貧乏」である。「男性自身」で古山高麗雄が出てくる回はどれだったか——ちゃんとメモしておこうとおもっていたのだ。

 山口瞳は河出書房にいたころの月給は二万五千円。アパート代は一万円で親子三人暮らしだった。厳しい生活だろう。

《こんど『プレオー8の夜明け』という小説で芥川賞を受賞した古山高麗雄さんと、そこで机を並べていたときに、私は古山さんに言った。
「河出書房という全国に名を知られている出版社に勤めていて貧乏しているんだから、これは俺たちの責任じゃねえよなあ。しょうがないよなあ」
 古山さんは、
「そうだよ、そうだよ」
 と言った。古山さんも親子三人で暮らしていた》

 山口瞳と古山高麗雄は河出の元同僚で、お互い、競馬好きでもあった。

《読者および評論家諸氏は『プレオー8の夜明け』という小説の登場人物の名前が、主人公の吉永をはじめとして、ほとんどが競馬関係の、騎手名、調教師名、厩舎名になっていることに気づいているだろうか》

 たまに小説や漫画を読んでいて、登場人物の名前が「何々線の駅名だ」とか「野球選手の名前だ」とかわかると嬉しい。

 読みかけのまま行方不明になった本を一日中探したが見つからなかった。そういう日もある。

2020/05/15

練馬あるき

 今週は高円寺の古書サンカクヤマ、中野の古書案内処に行った。古本屋が営業していることがこんなに嬉しいとは。
 サンカクヤマでは岩田健三郎著『ヘラヘラ・マガジン』(冬樹社、一九八四年)を購入。字が小さい。でも楽しい本だ。
 わたしは冬樹社の本をだらだらとコレクションしているのだが、この本は知らなかった。著者インタビューの新聞記事もはさまっていた。

《「ヘラヘラマガジン」という、ちょっと変わった本が出た。兵庫県姫路市でミニコミ活動を続けている岩田健三郎さん(37)の作品。装丁も自分で手がけ、表紙から奥付まで、乾いた軽いタッチの漫画やイラスト、語り口そのままの「しゃべくり」調でつづった身辺雑記を、手書きのまま印刷している》

——新聞記事の抜粋。いい記事なんですよ。一九八四年十一月二十七日(火曜日)の「自由席」というコーナーの記事である。

《アルバイトで生活しながら、「何の役にも立たないようでいて、いないと何となく寂しい、という人がいる。そんな人間みたいな絵がかけたらなあ」と思ってきた》

 サンカクヤマのあと、野方あたりまで散歩するつもりが、勢いがついて練馬まで。練馬のライフは高円寺のスーパーにない商品がけっこうあってあれこれ買ってしまう。
 高円寺から練馬までは一万歩ちょっと。途中、梅崎春生が住んでいた豊玉中あたりも歩いた。高井有一も練馬の豊玉に住んでいた。高井さんには若き日の色川武大の話を聞いたことがある。二十年以上前の話だ。帰りはバスに乗る。環七まっすぐあっという間に高円寺に着いた。

 翌日、古書案内処。街道本二冊。中野のライフでパンを買う。北口のサントリーパブ・BRICKも閉店か。二十代のころ何度か飲みに行った。通りかかったときも店の写真を撮っている人がいた。
 中野は営業している店が多く活気があった。行きはガード沿い、帰りは南口の桃園商店街からあみだくじ方式で高円寺に帰る。

2020/05/10

なまけ親父

 わたしは富士正晴の本がある古本屋が好きだ。富士正晴の本が並んでいる棚にはその近くにもいい本がありそうな気がする。
 ささま書店の富士正晴の本が並んでいた棚の周辺には長谷川四郎や小沢信男の本をよく見かけた。

 富士正晴著『思想・地理・人理』(PHP研究所、一九七三年)は十年以上前にささま書店で買った。一〇五〇円の値札がついている。
 目次を見ているだけで楽しい。
「現代の隠者にふさわしき者」「男性的隠棲考」「一億総サル化現象」「丘の上にひきこもり…」「冬眠終わる」「われ動かず」——。
 わたしの好きなエッセイは「なまけ親父」だ。

《世の中が性急になって行くばかり(特に日本は)なので、性急であることが日に日に厭になって来ている。ゆっくりとしていたい。
 利のあるところに人がすべて殺到するようなので、利を考えることが日に日に厭になって来ている。なるべく利の薄い方に廻りたいという気がしている》

《タバコをもっと控えた方がいいぞ、深酒はよせよ、ウイスキーのガブのみはいかんぞ、そんなことしていると長生きは出来ないぞ。
 いや、結構。余り長生きはしたいとは思わん。タバコとウイスキーは唯一のわたしの生活のアクセントである。そのほかに余り欲望はない。強いていえば、もう少し広い家に住めて、本の背中がみな読めるように並べることの出来る本棚と、その場所があったらなと思うぐらいのことだ》

 三十代のころのわたしも「本の背中がみな読める」暮らしに憧れていた。それで立退きのさい、奥行の狭い本棚を買い替えた。本棚からあふれた本は売った。
 すべてではないが、なるべく背表紙が見えるように本を並べたい。背表紙を見るたびに読んだ本のことをおもいだす。

 西部古書会館が一ヶ月以上も休館している。つまらない。部屋の掃除ばかりしている。

2020/05/08

二枚落ち

 木曜日、神保町。三省堂書店の近くの博多うどん酒場官兵衛でごぼ天うどん。今年二月二十五日にオープンか。
 うどんにはごぼ天がよく合う。汁につけるとじゅっと音が出る。だしもおいしい。
 そのあと神田伯剌西爾でアイスコーヒー。すこしルーティーンが戻ってきた。

 外出のさいはウレタンマスクをしている。家に帰ったらすぐ洗う。すぐ乾くのがいい。二枚を交互につかう。

 現役奨励会三段が二枚落ち(飛車角落ち)のソフトに敗けたというニュースを知る(真剣勝負ではないが)。すでにトップ棋士でも飛車落のソフトに勝つのがむずかしくなっている。
 二十年前の将棋ファンにいっても、たぶん信じてもらえないだろう。
 AIどこまで強くなるのか。いつかこれ以上強くなれないという限界を迎えるのか。
 逆に人間の棋力に合わせて僅差の一手勝ち/一手負けにもちこむ機能も面白いかもしれない。麻雀のゲームだと接待モードがすでにある。

 どこに行って何を食べたかみたいな日記を書いてくれるAIも作ろうとおもえば作れる。主語や文体も選択でき、文章内容に応じたイラストや写真も入る。読みたいかといわれたら微妙だけど。

2020/05/06

十二歳

 今年は五月五日にコタツ布団を洗った。
 年によって多少ズレるが、コタツ布団は五月の連休中にしまい、そのかわりに扇風機を出す。次にコタツ布団を出すのは十一月くらいだろう。

 コタツと扇風機はそれぞれ半年ずつ使う。それが自分の区切りになっている。

 話は変わるが、すこし前に西部古書会館で買った『歴史読本ワールド』の「アメリカ合衆国大統領」の号(一九八八年四月)に川本三郎の「THEY ARE INNOCENT」というエッセイが収録されていた。
 ゴルバチョフ夫妻がアメリカを訪れたとき、夫人が記者に「いまマーク・トウェインを読んでいます」と答えた。
 ヘミングウェイは『ハックルベリイ・フィンの冒険』がアメリカ文学の原点といった。そこからアメリカ文化は「子ども」性を大切にするという話になる。

《自分たちはヨーロッパとは違った国を作りたい、ヨーロッパとは違った文化をフロンティアに新しく作っていきたい。そこから「子ども」性の重視という無意識の伝統が形成されていったのだろう》

 この話を読んでふとおもったのがマッカーサーの「日本人十二歳説」だ。
 すこし前に占領期に関する本をいろいろ読んでいたとき、マッカーサーの「日本人は十二歳」という言葉に多くの国民が失望したと半藤一利のエッセイにあった。わたしもそうだとおもっていた。しかし「子ども」性を重視するアメリカ人の言葉と考えると「十二歳」には可能性を秘めた無垢な国という意味も含まれていそうだ。

 アメリカの父親が子どもに釣りを教えるように日本人に民主主義を教えていたつもりだったのかもしれない。
 敗戦国にたいし厳しい制裁を求めるアメリカ人を抑え込む意味でも「十二歳」という言葉は有効だったのではないか。

2020/05/04

相変らず

 尾崎一雄の『随筆集 金柑』(竹村書房、一九四一年)は二十年前、もう閉店してしまった京都の古本屋で買った。以来、何度も読み返しているが、五十歳になってますます心にしみるようになった。
「相變らず」は日米開戦前の昭和十六年二月に発表された随筆である。文学者としてこれからどうやっていくか。尾崎一雄は「自分としては大して変るまいと考へてゐる」という。

《こんな所へ引合ひに出して失礼だが、井伏鱒二氏が、「自分は変らない」と云つたそうで(どこかの座談会だそうだが)、それを取り上げて、井伏氏を非難してゐる匿名の文章を読んだことがある》

 当時、作家が時勢に無関心なことへの批判があった。尾崎一雄と井伏鱒二は「思想のない」作家とおもわれていた。

《ひとり今度の新体制と云はず、何か社会情勢が変ると、慌てて着物を変へたり身振りをそれらしくすると云ふのは、根本的に落度があるからだろうと思ふ》

 日々の情報に翻弄されながらも、なんとかいつも通りに暮らしたいとおもう。
 部屋の換気をし、掃除をする。しっかり睡眠をとる。新聞を読み、ニュースを見たら、昔の本を読む。そうやって心のバランスをとっている。

《読書とは、要するに考へることだと思つてゐる。したがつて、大半を忘れても、何か考へさせてくれた本なら、いい本だと思つて了ふ》(「悪い読書家」/『随筆集 金柑』)

 八十年前に書かれた随筆だ。本好きの心情は昔も今も変わらない。尾崎一雄は古本好きで知られる作家でもあった。

《北向きの小さい静かな日本間に、一閑張りの小机を据ゑ、ゆつくりと気に入った本を読む、眼が疲れたら散歩ながら碁敵きを襲ひ一二局ならべて帰る。そして晩酌には菊正二本位、実に佳いなあと思ふ》

 変わらないことが正しいとはかぎらない。しかし変わらない人が書いた文章を読むとすこし気持が落ち着く。そして晩酌も。