2018/09/29

安心して歩ける道

 先週と今週、神保町古書モールで百円から五百円くらいの街道に関する本、郷土文学の本を買いまくる。「道」関係なら何でもあり状態になっている。

 昨日は高円寺の西部古書会館に徹夜で原稿を書いたあと(といっても、朝寝昼起が基本なのだが)、初日の午前中から参戦した。
 目の前に読みたい本があふれている。カゴを持って本を買うことが増えた。
 すこし前の自分なら手にとらなかったような本が、めちゃくちゃおもしろい。大判の本が増え、仕事部屋が大変だ。しかし今は足を止める時期ではない。

 佐藤清著『道との出会い [道を歩き、道を考える]』(山海堂、一九九一年)はいい本だった。著者は一九三五年生まれ。長年建設省に勤めていた人だが、冒頭から「歩く楽しさと歩ける道づくり」を唱えている。

《最近、せっかく長距離の徒歩旅行をするのなら、歴史的な旧街道の一部または全部を歩いてみたいという人も増えてきているようだ。(中略)ただここで気になることは、急激に発達してきた自動車交通の波に押されて、旧街道の大部分は近代的ハイウェイに生れ変り、連続して安全に、そして快適に歩ける道が少なくなってしまったということである》

《国道や県道に併設されている歩道と、裏道(市町村道)や峠道として残っている旧街道をうまく結びつけて、連続した形での旧街道を再現させることは可能であるように思える》

 イギリスやドイツでは長距離の歩道が網の目のように整備されている。安心して歩ける道がある。日本にもいい歩道はたくさんある。ただ、それが寸断されている。そこが問題なのだ。

《「歴史の道」を保存して後世に残し、さらには国民の健康の増進のために自然に触れながら、快適に長距離を歩くことのできる道を整備することが、今後の「道づくり」の一つの課題であろう》

「歩く楽しさと歩ける道づくり」という文章の初出は一九八五年五月。この時期、安心して歩ける歩道の整備にとりかかっていれば……。

2018/09/27

馬橋村と高円寺村

 青梅街道は「甲州裏街道」とも呼ばれていた。新宿から青梅、そして大菩薩峠を通って甲府に通じていた。江戸に石灰を運ぶための道だった。
 高円寺の隣の中野は青梅街道の宿場町である。青梅街道の高円寺付近に福寿院という寺がある。場所は杉並第八小学校のすぐ隣のようだ。中西慶爾著『青梅街道』(木耳社)を読み、この寺に浮世絵師、池田英泉(渓斎英泉)の墓があることを知った。英泉は広重との合作『木曾街道六十九次』の作者である。

 街道本を読んでいると、旧町(村)名がわからなくて混乱するときがある。高円寺は、かつて高円寺村と馬橋村だった。大雑把に分けると、高円寺村が東(中野寄り)、馬橋村が西(阿佐ヶ谷寄り)である。村から町になったのは杉並区が成立した一九三二年、馬橋の町名が廃止になったのは一九六五年。今でも馬橋稲荷神社、馬橋公園、馬橋小学校、馬橋盆踊りなど「馬橋」の名が残っている。

 馬橋村、高円寺村界隈には多くの作家が住んでいた。吉川英治も関東大震災後の一九二四年に馬橋に移り住んだ。三十二歳。まだ複数の筆名で小説を書いていたころだ。
 吉川英治記念館は青梅市にある。戦中、青梅に疎開し、そのまま九年半すごした。

 わたしは十九歳の秋、二十歳になるすこし前に高円寺に引っ越した。その後、十年ちょっとのあいだずっと旧馬橋村界隈を転々とした。三十二歳のときに旧高円寺村界隈に移った。旧高円寺村のほうが長くなった。ただし酒を飲みに行くのは旧馬橋村方面である。

 井伏鱒二の『荻窪風土記』の副題は「豊多摩郡井荻村」。年譜には一九二七年九月に「豊多摩郡井荻村字下井草一八一〇(現、杉並区清水)に家を建てる」とある。ところが、井荻村が井荻町になったのは一九二六年七月——。
 東京府豊多摩郡は広くて、今の杉並区だけでなく中野区新宿区の一部も含まれていた。高円寺と西早稲田や歌舞伎町は同じ郡だった。不思議なかんじがする。

2018/09/25

青梅街道のへそ

 昨日の昼すぎ、西荻窪。音羽館に寄ってから、北口をまっすぐ歩いて青梅街道。

 中西慶爾著『青梅街道』(木耳社、一九八二年)を読んでいたら、急に歩きたくなった。中西慶爾には他にも『甲州街道』『巡歴中山道』(いずれも木耳社)という街道本がある。

 中野から荻窪くらいまでの青梅街道はよく歩いている。でも荻窪から先はよく知らない。
 西荻窪〜荻窪間は、まいばすけっと(イオン系の小型スーパーマーケット)がたくさんある。
 荻窪方面に向かって歩いていると荻窪八幡神社があり、その少し先に本屋Titleがある。Titleで太陽の地図帖『日本の古道を歩く』(平凡社)を買い、コーヒーを飲む。『日本の古道を歩く』は、今年の夏に歩いた「伊勢本街道」も出てくる。伊勢奥津の街道、雲出川が素晴らしく、土の道も残っている(伊勢奥津のことは次号の『フライの雑誌』に書いた)。

 さらに少し歩くと青梅街道と環状八号線が交差する四面道(しめんどう)にたどりつく。
『青梅街道』によると「四面道だが、土地っ子は“しめんと”という。(中略)井伏鱒二は“青梅街道のヘソ”という。車の渋滞で名高い喧騒の地である」そうだ。井伏鱒二は四面道の北(清水町一丁目)に住んでいた。井伏鱒二旧宅は十年くらい前に見に行ったことがある。

 この四面道を環八に沿って中央線の線路方向に歩くと慈雲山光明院(通称・荻寺)があると『青梅街道』に記されていた。

《作家上林暁はこの寺近くの旅館に仕事部屋を構え、佳作「光明院の鐘の音」(昭和二十九年)などを書いた》

 光明院に行ってみると線路のすぐそば。お寺の前を中央線(快速)が走る。光明院ガード(トンネルっぽい)を抜けると、北口から南口に抜けることができる。近くまでは来たことがあったのに、このガードは知らなかった。中央線の荻窪界隈、まだまだ知らないことだらけだ。

 タウンセブンではまちの寿司(オリーブはまち?)、ザ・ガーデンで焼きさばの瓶詰などを買い、家に帰る。夜、仕事にとりかかるのも睡魔が……。

(追記)
 井伏鱒二著『荻窪風土記』(新潮文庫)には「四面道は青梅街道のへそのようなもので、その常夜燈は荻窪八丁通りのトーテムのようなものであったろう」と記されている。

2018/09/22

人生と道草

 二十代のころのわたしは、私小説と詩とアナキズムが好きなフリーライターだった。さりげなく過去形にしてみたけど、今もそうだ。
 当時、自分の書きたいことを持て余していて、どうやって形にしていいのかわからなかった。

 先日、南陀楼綾繁さんの新刊記念の西荻ブックマークで『sumus』の話になり、三十歳前後のときのことをいろいろおもいだした。
 何を書いていいのかわからなくなっていた時期に、好きなことをを書いてもいいという場所があったのはありがたかった。

 自分がおもしろいと信じるものを書く。それが伝わらなかったら書き方を変える。それでも伝わらなかったら、わかってくれる奇特な人を探す。

 一九九〇年代の商業誌では主観を入れない文章を書くことを奨励する編集者が多かった。
 自分の書いた文章が活字になるだけで嬉しい時期や「てにをは」がめちゃくちゃな時期にはそういう仕事をするのも有意義だろう。資料代や取材費を稼ぐためと割り切っている同業者もいた。
 ところが、五年十年と続けているうちに雑誌の枠からはみだしたものが書けなくなる。そういう癖がついてしまう。

 フォーマットから逸脱する意志を持続させるのはむずかしい。

『人生と道草』(旅と思索社)という雑誌がある。第3号の特集は「いざ! ヨバツカ!」。こんなにおもしろい雑誌を知らなかったのは不覚だ。

 BGM代わりに流していたラジオから渋滞情報が聞こえてくる。
「『ヨバツカ』交差点、流れが悪くなっています……」
 何度も聞いたことがある「ヨバツカ」という地名——しかし、どこにあるのかわからない。
 ならば、調べる。そして行く。あとはひたすら歩く。道草、寄り道、脱線。

《地図やナビに極力頼らず、知らない土地を歩きながら、だんだんとその地形やランドマークを理解し、自分の頭の中の真っ白な地図に描き込んでいくことは、わたしにとって楽しい旅の作業だ》

 おそらく自分の勘と好奇心だけを頼りに書いている。写真もいい。
 わたしはそういう文章を読むのがすごく好きだ。街道の話も出てくる。『人生と道草』のバックナンバーを注文した。
 それから「神田でいちばん小さなひとり出版社〜「旅と思索社」代表・廣岡一昭のブログ」を読んだ。プロフィールを見たら、一九七〇年生まれ。しかも元フリーターで職を転々している。

 旅と思索社は二〇一四年五月一日に創設。その経営理念も素晴らしい。

《旅に生きる。まだ知らない新しい世界を探しに行こう。
 夢に生きる。誰もがあきらめてしまったことに挑戦しよう》

2018/09/21

雑記

 東京メトロの半蔵門線で神保町から九段下で東西線に乗り換え、中野駅で降りて、ブックファースト中野店に寄る。あおい書店がブックファーストになったのはいつだったか。今、調べたら、昨年九月にあおい書店の中野本店が閉店――十一月二一日にリニューアルし、ブックファースト中野店になったようだ。
 中野の南口の文房具店でパラフィン紙を買う。一枚五十円。高いなとおもったら、いつもの倍の大きさだった。青梅街道を歩いて高円寺に帰る。古本のパラフィンがけと雑誌のスクラップ、資料の整理と掃除に明け暮れる。

 街道の研究(?)をはじめて資料が増えた。本以外にも観光案内所でもらえるマップを街道と宿場ごとにファイリングする。過去に旅先で手に入れた紙ものは、ほとんど捨てた。紀行関係の本もけっこう手放した。残しておけばよかったと悔やむ。

 掃除中、三輪要、木継鳥夫編『全国各駅停車の旅 鉄道唱歌とともに』(金園社、一九七七年刊)が出てきた。たぶん二十年以上前に買った本だろう。目次を見たら「東海道」「山陽道」「上州路」「信濃・越後・北陸路」「甲斐・木曽路」といったかんじで街道ごとの編集になっている。まったくおぼえてなかった。

 最近読んだ本では日本随筆紀行の12巻(愛知/岐阜/三重)の『東海に朝日が昇る』(作品社、一九八七年)がおもしろかった。
 愛知岐阜三重は「東海三県」といわれているが、「愛三岐」という略称もある。

 ルポライターの丸山邦男の「鈴鹿 クルマが支配する町」というノンフィクションも収録されている。この手の本で鈴鹿に関する文章が入っているのは珍しい。

 最近、渥美半島の伊良湖のことを何度か書いたが、この本では丸山薫が「伊良湖岬」のことを書いている。

《私の父は、九州熊本の出身だったが、母は、私がいま住んでいる豊橋市にほど近い、渥美半島田原という城下町の出身だった。だから、出身の元をただせば私もまた半分は愛知県三河の人間であり、渥美半島の突端に至る伊良湖岬にも、まんざら無縁ではない筈なのである》

 長年、河原淳の著作を愛読している。中でも『体験的フリーライター案内』(ダヴィッド社、一九八一年)は座右の書である。
 十九歳、かけだしのライターのころ、古本屋で見つけた。読んで眩暈がした。フリーライターとしてやっていくには、これほど膨大な知識が必要なのかと……。
 丸山薫の名前を知ったのもこの本だ。今、パラパラと読み返したら、デザインの話でウィリアム・モリスを紹介していた。当時のわたしには知らない固有名詞だらけの本だった。

 話を戻そう。大学時代、河原淳は結核になった。

《故郷に帰り、知多半島にある国立療養所に入った》

《療養所には、いろんなサークルがあった。私は『誘蛾燈』という詩の同人誌に参加していた。豊橋在住の丸山薫氏が選者で、拙作もいくたびか載った》

 わたしは河原淳によって「丸山薫=豊橋」とインプットされていた。
『東海に朝日が昇る』を読み、そのことをおもいだした。何でも読んでおくものだ。

2018/09/17

千住宿

 十七日(月・祝)、午前十時三十分、東京メトロ丸ノ内線の新高円寺駅まで歩き、国会議事堂前駅で千代田線に乗り換え、北千住駅へ。到着は午前十一時半。
 新高円寺から国会議事堂前、国会議事堂前から北千住まではいずれも二十三分。わたしは東京メトロの「時差券」の回数券(平日午前十時〜午後四時、土日祝)をつかっているので地下鉄だけで行くとすこし割安になる。

 というわけで、江戸四宿でほぼ未踏の地だった千住宿に行ってきた。
 事前に調べておいた「街の駅」で「千住散策マップ」などを入手する。
 旧日光街道は「宿場通り商店街」と重なっている。街道の商店街は楽しい。焼き団子を食う。ところどころ道に史跡に関する案内板みたいなものがある。まずは荒川まで行って、橋を渡らず折り返し、隅田川の千住大橋を目指す。途中、千住宿歴史プチテラスに寄ろうとおもったが、休館日(?)だった。「ほんちょう商店街」には森鷗外の旧居跡があった。

 千住大橋は徳川家康が江戸に来て最初に作った橋らしい(一五九四年)。橋をわたってしばらく歩くと荒川ふるさと文化館(南千住図書館と併設)がある。観覧料百円だけど、街道好きなら行くべし。勉強になった(何がどう勉強になったかは、いずれどこかにきちんと書きたい)。

 荒川ふるさと文化館を出たあと、都電荒川線(路面電車)の三輪橋駅方面に歩いていくと千住間道という道があった(「千住散策マップ」にこの道の名前が記されてなかった)。日光街道と明治通りを結ぶ間道なのだが、歩道が広くて歩きやすい。荒川区、図書館と歩道がいい。ふだん、日本橋より東側にはほとんど行かないのだが、千住宿界隈、イメージとちがった(もっとごちゃごちゃした町だとおもっていた)。

 千住間道を歩き続けると都電荒川線の荒川区役所前駅に出る。線路を越えて右に曲り、荒川二丁目駅方向に進む。途中、公園でご年輩の方々が十人くらい集まって将棋を指している。その公園の先に「ゆいの森あらかわ」という荒川区の中央図書館と吉村昭記念文学館がある。吉村昭記念文学館は入館料無料。常設展示図録も素晴らしい。
「ゆいの森あらかわ」も「千住散策マップ」に載ってなかった。事前に調べておいてよかった。
 吉村昭記念文学館を出たのは午後二時半。北千住に着いてからちょうど三時間だった。

 やはり現地調達の地図だけで町歩きするのはむずかしい。市場が休みだったのも残念だ。日光街道は時間があるときにゆっくり歩きたい。日光の温泉にも行きたい。

 空模様があやしくなってきたので都電荒川線に乗る。荒川七丁目駅から大塚駅前へ(王子駅前で降りるかどうか迷っていた)。疲れたのでタリーズでアイスコーヒーを飲んでから山手線に乗り換え、高円寺に帰る。家には午後三時半ごろ着いた。

2018/09/16

井伏鱒二と街道

 JR東日本の「おトクなきっぷ」を見ていたら「秋の乗り放題パス」(十月六日〜十月二十一日)というのがあることを知る。連続する三日間、普通列車の普通席乗り降り自由のチケットらしい(大人 七千七百十円)。青春18きっぷと変わらないくらい「おトク」だ。昨日から発売開始。

 河盛好蔵著『井伏鱒二随聞』(新潮社)が電子化されていた。この本の中に「荻窪五十年」というエッセイがある。
 井伏鱒二が豊多摩郡井荻村(現、杉並区清水)に家を建てたのは一九二七年九月——「荻窪駅は、電車が今ほど頻繁に来なかつた。乗降客も一人か二人である」といったかんじだった。
 河盛好蔵が荻窪に移り住んだのは一九三四年五月。荻窪はすでににぎやかな町になりつつあった。

 井伏鱒二の年譜には、一九一八年、早稲田大学予科にいたころ「木曾福島を旅行し『徹頭徹尾、旅行が好き』になる」と記されている。
 この記述は「鶏肋集」(※「鶏肋」の「鶏」は旧字)の一節からとったものだろう。

《私は木曾に旅行して以来、旅行好きになった。徹頭徹尾、旅行が好きになった。その翌年の夏休みには、山陰道から隠岐の島に旅行した。その翌年の夏休みには近江、伊賀、志摩に旅行した。木曾に旅行した惰勢によるようなものであった》

 わたしもこの夏、木曽福島を歩いたが、井伏鱒二の年譜のことを忘れていた、というか、おぼえてなかった。短い滞在だったけど、木曽福島はいい町だった。
 それから一九二三年、「九月、関東大震災にあい、中央線、塩尻経由で帰郷する」という記述もある。

《地震の後四日目か五日目かに、汽車も中央線の立川から先が通ずるようになった。東海道はまだ不通であった》(「半生記」/『鶏肋集/半生記』講談社文芸文庫)

 当時、井伏鱒二は荻窪ではなく、早稲田界隈の下宿屋を転々としていた。そこから立川まで歩いたのか。途中まで電車があったのか。
 震災後の帰郷で井伏鱒二は中央線に乗った。後に荻窪に家を建てたのは中央線沿線に住めば、東海道線が不通になっても帰郷できる……というおもいがあったのかもしれない。
 戦時中は山梨に疎開している。疎開先は甲運村(現在は甲府市)。甲運村は中央線の石和温泉駅と酒折駅のあいだくらい。
 井伏鱒二と河盛好蔵の対談でも甲州の話がけっこう出てくる。

《河盛 日本国中ほとんど歩かれましたか。
 井伏 僕はおんなじところへ行くから、——いつもおなじとこですよ。
 河盛 甲府ですね。山梨県があんなにお詳しいのは、どういうわけですか。
 井伏 山梨県ばかり行ったからですよ。なんかあそこは飽きないですね。(中略)

 河盛 一つの土地を深く、詳しく知っているほうが面白いでしょうね。あちこちとび歩くより……。
 井伏 人がね。風景がよくても、どうも。
 河盛 甲州人というのはそんなにいいですか。
 井伏 僕のつきあう人はみんないい人のような気がします》

 この対談は一九六五年九月。井伏鱒二の対談は初読ではなく、三読目くらいでおもしろさに気づくことが多い。わたしは関心がないと固有名詞を流して読んでしまう癖がある。別の対談では井伏鱒二が甲州について次のような話をしている。

《井伏 それで随筆を五つばかり書きましたよ。久しぶりに。これからまた怠ける……。
 河盛 呼び水ですね。それは甲州の歴史ですか。
 井伏 そうです。甲州の昔の道、ヤマトタケルのころからの道を書こうと思う。古い道、最初は矢の根を運ぶ道ですね。
 河盛 どこへ運ぶんですか。
 井伏 ほうぼうへ。信州の和田峠というところから黒曜石が、いまでもあるそうですから、そこから矢の根を運んでいく道があるわけなんです。それから塩を運ぶ道。
 河盛 塩をね》

 井伏鱒二は五十代半ばくらいから「街道」や「古道」のことを調べはじめている。
 来月、井伏鱒二著『七つの街道』(中公文庫)が復刊される。わたしの「街道病」はまだまだおさまりそうにない。

2018/09/12

板橋宿

 先日、石和温泉の宿に泊ったとき、大浴場の電子体重計に乗ったら、自宅の体重計との誤差が四・五キロあった。
 ボクシングでいえば、ライト級(家)がフェザー級(温泉)に表示されたのである。結婚して最初の十年、わたしは年に一キロずつ体重が増えた。太った理由はちゃんとメシを食うようになったから。太ったら風邪をひく回数が減った。ここ数年は体重維持を心掛けていた。

 家の体重計が合っているのかどうか。それを調べるために銭湯に行こうとおもった。
 上京して最初に住んだ町は東武東上線の下赤塚だった(半年だけ)。下宿は四畳半風呂なしだったから、近所の栄湯に通った。一九八九年四月二百八十円。五月に二百九十五円に値上がりした。銭湯の回数券をつかっていた。父も単身赴任で四年ほど板橋区民だった。
 今、調べたら栄湯は今年三月末に閉店したとある。残念。

 板橋の銭湯のことをおもいだしているうちに、中山道の一番目の宿場の板橋宿を歩きたくなった。中山道沿いの銭湯の住所を何軒かメモして、地図も持たず(わたしは携帯もスマホも持っていない)、家を出る。地図は現地調達の予定だ。

 午後一時十五分高円寺。駅に行く途中、Tシャツ短パン姿で出社する古本酒場コクテイルの常連のKさんと会う。新宿で乗りかえ、JR埼京線で板橋駅へ。午後一時三十二分着。板橋近い。駅を出ると「旧中山道」の看板がある。板橋宿は江戸四宿(千住、板橋、内藤新宿、品川)のひとつ。江戸期の中山道の旅行者は、日本橋からではなく板橋宿から出発する人も多かった。

 しばらく歩くと商店街があり、旧中山道と重なっている。この商店街が素晴らしかった。観明寺に寄って、そのあと板橋観光センターへ。火曜日は定休日だったが、中に入ることができて「板橋区文化財マップ」ほか街道の地図を手に入れる。「五海道中細見記」をはじめとする街道関係の資料も展示していた。

 板橋の名前の由来になった石神井川にかかる橋を渡る。いい橋だった。環七をわたる前に喫茶エレファントという店に入る。オムライスとアイスコーヒーのセットを注文する。

 環七をこえ、志村一里塚。すこし先に国書刊行会が見える。寄ろうかどうか迷ったが、国書刊行会で仕事したことがないことに気づき、通りすぎる。
 志村一里塚から歩いてすぐのところにある薬師の泉跡がよかった。小さな庭園だが、石段があってきれい。トイレもある。通りの地図には薬師の泉跡のすぐ近くの小豆沢公園にトイレの表示があって寄ろうとしたら、トイレの入口に鍵がかかっていた。こういうのは困りますよ。緊急事態じゃなくてよかった。

 板橋宿からの旧中山道は歩道が広くて歩きやすい。このあたりの歩道の幅が街道の標準になればいい。この日は涼しかった。

「板橋区文化財マップ」は戸田橋までしか載っていない。ここまできたら荒川をこえたい。でもこの先は未知の領域……ではなかった。

 たぶん二十年以上前に訪れている。学生時代、アルバイト先の編集部で一時期週四日くらい晩飯をおごってもらっていたGさんが戸田公園に住んでいて、黄色のマウンテンバイクをくれるというので遊びに行ったのだ。当時、Gさんは新婚だった。
 戸田公園で自転車を受け取り、そのまま高円寺に帰った。そのとき戸田橋を渡り、環七を通った。途中、志村一里塚を見たような気もする。

 二十代のころはGさんにほんとうに世話になった。メシをおごってもらっただけでなく、家賃が払えないときにお金も借りた。そのお金が返せなくて、別のアルバイト(予備校の模試の試験官の仕事)を紹介してもらったこともあった。Gさんの世話になっていた若者はわたしだけではない。

 戸田橋を渡ると埼玉県である。右手の階段を下り、中山道を歩く。ここではじめて道をまちがえる。
 家で調べた銭湯の場所はこの近くのはずだ。煙突を探す。しばらくするとさつき通り商店街が見えてきた。
 商店街を抜け、中山道に戻る。健晃湯に到着したのは午後四時四十分。大人四百三十円。東京の銭湯より三十円安い。

 健晃湯はサウナ付。ただしサウナはかなり熱い。わたしはサウナ耐性はわりとあるほうなのだが、それでもあまりの熱さに足のふくらはぎあたりが痛くなった(足に熱風がくる)。二、三分で出る。長く歩いた後の風呂は気持いい。贅沢な気分だ。
 風呂から出たあと、体重計に乗る。家と同じだった。脱衣所でおじいさんに「仕事帰り?」と訊かれる。「板橋から歩いてきたんです」というと「板橋、銭湯ないの?」「いや、あるとおもいます」「板橋のどこから」「板橋駅から」「この銭湯にわざわざ?」「いえ、中山道をずっと歩いていたんです」といった会話をかわす。不思議な顔をされた。

 午後五時十五分に銭湯を出て戸田公園駅を目指す。板橋宿の次の蕨宿はいずれまた。途中、戸田南小学校のちかくに「中古の店くらの」というゲームと古本の店があった。さくらももこのエッセイ集を一冊買う。

 戸田公園、浮間舟渡、北赤羽、赤羽、十条、板橋。埼京線で五駅分ほどの距離を歩いたことになる。
 帰りは池袋で途中下車し、古書往来座へ。退屈君が店番をしていた。
 古書往来座で宮本常一著『塩の道』(講談社学術文庫)などを買う。塩と街道の研究に関する本はたくさんある。たぶん全部は読めない。店を出たあと、山手線に乗りたくないので、目白通りを歩く。四時間歩いた後だと池袋から高円寺なんてすぐ近くにおもえてしまう。
 下落合の七曲坂あたりで急に疲労感をおぼえ、高円寺まで歩くのを断念した。高田馬場駅から東京メトロの東西線で帰る。疲れた。

2018/09/10

西荻ブックマーク

 南陀楼綾繁さんの『蒐める人 情熱と執着のゆくえ』(皓星社)の刊行記念の西荻ブックマークは無事終了。岡崎武志さんは甲府から会場へ(身延線にも乗ったらしい)。
『蒐める人』の話や同人誌『sumus』の話。わたしが『sumus』に参加したのは二〇〇〇年だから十八年前。岡崎さんと高円寺の飲み屋で知り合ったのは一九九〇年代の半ばごろで、かれこれ四半世紀の付き合いになる。南陀楼さんとは『sumus』以降もBOOKMANの会という読書会に顔を出していた。記憶は薄れつつあるが、BOOKMANの会で知り合った人は多い。
『蒐める人』に日本古書通信社の八木福次郎さんのインタビューがあり、昔の神保町の露店の古本屋のことが語られている。ひさしぶりに読み返し、このときの話が後の一箱古本市やみちくさ市につながっているとおもったが、南陀楼さん自身、そのことをどこかで書いていたかもしれない。

 わたしは二十代、三十代とアルバイトをしながらライターをしていたのだが(当時、商業誌では古本のことを書く場所がなかった)、それなりに楽しい日々をすごせたのは『sumus』の集まりや読書会があったのは大きい。
 開始前の打ち合わせでは三人でずっと老後の話をしていたのだが、イベントの終盤もそうなった。

 老後、というか、余生は、東京に(新幹線や特急をつかわず)二時間くらいの場所で格安のできれば平屋の一軒家(六畳二間くらい)に暮らしたい。上京するまで暮らしていた郷里の家も平屋の長屋(借家)だった。でも都内で平屋に住むというのはむずかしい。

 今年に入って山梨県の甲府、石和温泉を訪れてそれぞれ一泊した。
 甲州街道は、江戸を出て、新宿、八王子、甲府を過ぎて下諏訪で中山道に合流する。
 東海道、中山道、甲州街道の三つの街道だけで、山ほど資料がある。読んで歩いて、歩いて読んで……という読書が楽しくてしかたがない。

 今、人と会うとすぐ街道の話をしてしまうので自戒している。この日の打ち上げでもやってしまった。反省。

2018/09/09

喫茶品品

 世田谷ピンポンズさんの新譜『喫茶品品(きっさぴんぽん)』が届く。一曲目の「すみちゃん」から引き込まれる。「カーニヴァルの晩」のバンドサウンドもかっこいい。サビが頭に残る。今回のアルバムは作り込んでいるらしいという話はちらほら耳に入っていたのだが、予想以上だった。これまでとちがうことをする。変化に挑んでいる。音だけでなく、本人の転機になるアルバムなのかもしれない。「フォーク」というスタイルからも自由になっている。

 ここからはアルバムの感想とはすこしズレてしまうが、ここ一、二年、世田谷さんは音楽の変化だけでなく、いい意味で変になってきている気がする。年中旅して歌っていれば、どこかしらおかしな人間になる。おかしくならなければおかしい。

 就職せず、三十代を迎える。心のどこかで「まだ引き返せる」とおもっている。ある時期「もう無理」と開き直る、もしくは諦める。二年前の『僕は持て余した大きなそれを、』は、その過渡期に作った曲というかんじがした(それはそれでいいのですよ、もちろん)。

 これまでも「バンド向きの曲だな」という歌はけっこうあったけど、ようやく『喫茶品品』で形として聴くことができて嬉しい。

2018/09/05

18きっぷ紀行(後篇)

 台風接近でJR身延線が運休するかもしれないというニュースを見て、予定を変更する。

 石和温泉の宿では二時間くらいしか眠れなかった。おかげで朝六時のJR中央線の高尾行の電車に乗ることができた。

 石和温泉〜高円寺は二時間半。途中下車しながらでも昼前には高円寺に着くだろう。だったら「日本三大奇橋の猿橋(えんきょう)が見たい」とおもった。
 歌川広重の「六十余州名所図絵」で猿橋の絵を見て以来、気になっていた。
 大月駅の隣の猿橋(さるはし)駅には午前六時四十四分に着いた。さすがに店は一軒もあいていない。駅で「甲州街道を巡る」というマップを手に入れる。名勝猿橋までは一・四キロ。余裕だとおもった。

 小雨の中、甲州街道を歩く。車が速度をまったく落としてくれない。トラックが通りすぎるたびに傘が飛ばされそうになる。水しぶきをかぶる。なんとか猿橋に着いた。壮観。桂川もきれいだ。猿橋からあじさいの遊歩道を歩く。ここまではよかった。

 猿橋から歩いて鳥沢駅に向かうことにした。地図だと名勝猿橋は猿橋駅と鳥沢駅の中間とまではいわないが、けっこう近くに見える。雨がすこし強くなる。甲州街道は車が怖かったので小学校のある道を歩く。地図を見るとこの道のほうが近そう。でも行けども行けども鳥沢駅にたどり着けない。

 たまたま人が乗っている車が止まっていたので鳥沢駅までの道を聞くと「え?」という顔をされる。「まっすぐ歩いていくと左手に陸橋に行く道があって、橋の先に駅がある」と教えてもらう。
 ところが地図を見てもそれらしき道がない。まっすぐ行くと猿橋トンネルがある。トンネルだけは歩きたくないし(車が怖いから)、そのトンネルを抜けると、どんどん鳥沢駅を遠ざかる。

 なんとしても左に曲る道を見つけたい。しかし標識らしきものはどこにも出ていない。
 勘で曲るしかない。この道で合っているのかどうかわからない。陸橋も見えない。不安になる。しばらく歩くと新桂川橋梁が見えた。鉄道橋である。川からの高さ四十五・四メートル。全長五百十三メートル。電車に乗っていると、あっという間に通りすぎてしまうが、歩くとけっこうな距離だ。いちおう断っておくと、歩行者は鉄橋の下の道を歩く。
 橋の先にものすごい急勾配の坂と階段らしきものが見える。そこを登ると鳥沢駅がある。

 家に帰ってから道をまちがえていたことを知る。一見遠回りのようだが、猿橋から国道20号線——甲州街道をひたすら歩けばよかったのだ。わたしは県道513号線を歩いてしまった。そもそも台風の前に川の近くの名所に行こうとおもったことがまちがっている。

 鳥沢駅に着いたのは午前八時半。駅のホームで汗と雨でずぶ濡れになったシャツを変える。服を着替えると、気持に余裕ができた。急におなかが空いてきた。

 午前八時四十三分の高尾行きに乗る。
 午前九時十二分。高尾駅のひとつ手前の相模湖駅で途中下車する。通勤ラッシュは過ぎている時間だが、まだ東京には帰りたくない(混んでいる電車に乗りたくなかった)。
 駅で「甲州古道案内図」というマップを手に入れ、駅前の「いかりやレストラン デミタス」という喫茶店に入る。客はわたしひとり。
 今さらながら「さがみ湖ピクニックランド」が「さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト」になったことを知る。二〇〇七年に名称と運営会社が変わったらしい。

 学生時代に一度だけ相模湖を訪れたことがある。そのとき、相模湖は神奈川県であることを知った。

 エビチャーハンとコーヒーを注文。店のテレビで台風21号のニュースを見る。甲州街道の与瀬宿か小原宿か、どっちに行こうと迷っていたら雨がどしゃ降りになる。計画を断念する。

 午前九時五十九分の立川行きの電車に乗る。相模湖駅から立川駅まで三十分。立川駅から高円寺まで三十分。今度は天気のいいときに行きたい。

(追記)
 昼前までに高円寺に帰りたかったのは関東甲信越地方の台風接近時刻が午後すぎというニュースを見たから。台風よりも通勤ラッシュを回避したいとおもったのはどうかしている。

2018/09/04

18きっぷ紀行(前篇)

 月曜日、朝八時五十分のJR中央線で山梨に行く。青春18きっぷ使い切りの旅。武蔵小金井駅、豊田駅、高尾駅で乗り換えたり、途中下車したりしながら、酒折駅へ。駅を降りると家を出るときに降っていた雨はやんでいた。快晴。
 酒折駅からは歩いて身延線の善光寺駅へ。五月に善光寺に行ったので今回は反対側の住宅地を散策する。善光寺あたりは山梨出身の深沢七郎がおすすめの場所だ。
 途中、立ち食いうどんの店があったのだが、お客さんがいなくて営業しているのかどうかわからなかった。二十分くらい歩いた後、もういちど前を通ると店の中は満員。わざわざ車で来ているお客さんもいた。

 善光寺駅から甲府駅。甲府駅、駅の構内からの景色(山側)が素晴らしい。
 わたしが街道好きになったのは、東京と郷里の三重をつなぐ東海道、それから中山道のことを知りたいとおもったからなのだが、その前から甲府は気になっていた。東京、静岡、長野と三方向に電車が走っている。さらに下諏訪から塩尻に行けば、名古屋、新潟や日本海側にも行ける。交通の要所だ。東海道線ばかり利用していた自分の頭の中の地図の感覚が変わった。

 甲府駅をすこし散歩してから石和温泉駅に行く。山梨は駅前に足湯コーナーがけっこうある。
 駅前のイオンの中華料理屋でラーメンと半チャーハンのセット(お腹が空いていたのだ)。そのあと甲州街道を歩く。本陣跡ちかくの小林公園で休憩する。ここも足湯コーナーがある。
 石和温泉では平等川沿いのホテルを予約していた。当日になるまでどんな部屋になるかわからないという格安プラン。九畳三畳板の間四畳という広い部屋にひとり。屋上露天風呂、大浴場もついている。
 ホテルでごろごろしてから再び甲州街道を歩く。アピタにも寄る。近くの新鮮市場石和もよかった。石和温泉界隈、買物には不自由しなさそう。大きな道路沿いにはチェーン店も多い。あちこちに道順を示す看板があるのも助かる。旅行者が道に迷わないための心づかいを感じる。まっすぐではない道も多く、地図を見ながらでも何度か迷いそうになった。にぎり寿司と酒を買って宿に帰る。某誌の原稿を書くつもりが、温泉宿だとまったく仕事が捗らないことを痛感する。

 甲府市と笛吹市の境あたりの川沿いも歩いていて気持よかった。歩道も整備されている。病院、高齢者の介護付ホームがあちこちにある。前に石和温泉に来たときは春日居駅まで歩いた。井伏鱒二は一宮町のあたりが好きだと語っていた。

 宿に戻り、テレビで地元局の夕方のワイドショーの天気予報を見る。台風接近の影響で火曜日の午後から身延線の一部区間が運航中止になるとニュースに流れる。石和温泉の笛吹川流域は明治に大水害(川の流れが変わった)があった土地であることは深沢七郎の小説で知った。前に石和温泉に行ったときは鵜飼橋と笛吹橋のほうを歩いた。

 今回の旅行では甲府から身延線を途中下車しながら富士駅に出て、まだ行ったことのない東海道の宿場町をすこし歩いて東京に帰る計画を立てていたのだが、予定変更を余儀なくされる。
 夜九時ごろ、ホテルの露天風呂に行ったら客はわたしひとり。貸し切り。星が見える。

 風呂上がり、空腹をおぼえる。もうすこし何か買っておけばよかった。コンビニまでは五分くらい。しかし道が暗くて怖い。

(……続く)

2018/09/01

古山さんフェア

 金曜日、JR中央線で御茶ノ水駅まで。高円寺駅のホームにいると雷。阿佐ヶ谷方面で稲妻が光っている。あんなに大きな稲妻は、はじめた見た。
 千駄ケ谷駅を過ぎたあたりから緑が増える。
 大学時代、高円寺から御茶ノ水までの定期券を持っていた。大学に通うよりも古本屋をまわっていた。通学中、市ヶ谷の釣り堀を見るのが好きだった。こんな都心で平日の昼間から釣りをしている人がいるのはいい世の中だとおもっていた。

 東京堂書店の一階で『編集者冥利の生活』刊行記念フェア(古山高麗雄とその仲間達)を開催中。予備校時代の同級生の安岡章太郎、『季刊芸術』をいっしょに編集していた江藤淳、友人の田中小実昌、『戦艦大和ノ最期』の吉田満、古山さんが編集者として担当した森敦や中上健次の本がずらっと並んでいる。壮観です。

 東京堂書店の文庫ベストセラーランキングでも『編集者冥利の生活』が一位になっていた。よかった。

『編集者冥利の生活』所収の「職業作家としての不安」というエッセイにこんな一節がある。

《何をどう考えるかということが決まらなければ、原稿用紙のマス目を埋めることはできません。ところが私は、考えようもない不明なことに取り囲まれて、がんじがらめになっているわけです。結局私は、私がわかっているような気のするわずかばかりのことを寄せ集めて、小説を書こうとします。(中略)私たちは、もっと雑に、気楽に、いい加減に生きていけばいいじゃないか、と思います》

 外に出ると夕立。傘を買うかどうか迷ったが、地下鉄で帰る。半蔵門線で九段下、東西線に乗り換える。高円寺に着いたら、雨がやんでいた。