2014/01/26

いつもの旅先

《寒いのが苦手だから、十二月にはいると、冬眠したくなってくる》

 本をひらいたら、いきなりそんな一行が綴られていた。
 常盤新平著『いつもの旅先』(幻戯書房)の「春を待ちながら」というエッセイの冒頭の一文である。

 常盤新平が亡くなったのは昨年の一月二十二日——『いつもの旅先』は没後一年の刊行の単行本未収録のエッセイ集。

 常盤新平は山口瞳の熱心な読者だった。文体ではなく、随筆を小説のように書く手法が似ている。『ニューヨーカー』の掌編のスタイルの影響もあるだろう。木山捷平の作品も愛読していた。古本屋で見つからなかった木山捷平の本が講談社文芸文庫になったことを喜んでいる。

『いつもの旅先』が刊行されるすこし前、『小さなアメリカ』(PHP研究所、一九九一年刊)を読み返していた。エッセイ集というより、アメリカの雑誌記事の小ネタ集で『ビッグコミック オリジナル』と『ダカーポ』の連載をまとめた本だ。

《▼最近の雑誌について、ノースウェスタン大学ジャーナリズム学部の雑誌グループ部長エーブ・ペックが嘆いている。
「何を着るか、どこで食べるか、どんなふうに買物するか、こんなことしか教えない雑誌が多い」》

 それから北沢夏音さんが『窓の向うのアメリカ』(恒文社21、二〇〇一年刊)がおもしろいといっていたことをおもいだし、久しぶりに読み返した。

 この本の中に「コラムとエッセイのちがい」という文章が入っている。

 クリストファー・シルヴェスター編『コラムニスト』という英米百四十一人のコラムニストの作品を集めた本を紹介し、コラムの定義が提示される。

『窓の向こうのアメリカ』の「山口組の末席をけがして」「稀に見る素敵な人」は、山口瞳のことを描きながら、自分のだめなところを書いている。この二篇を読んでおくと、『いつもの旅先』はさらに味わい深くなるだろう。

2014/01/25

冬眠生活

 一月、二月は自分に期待しないことにしている。ひどい風邪をひかず、腰痛その他を回避することを心がけ、多少、気持がふさぎこむくらいはよしとする。

 あたたかい汁ものを作って、しょうがを入れまくる。瓶入りの最初からすってあるしょうがは楽だ。
 一年中同じ調子を維持しようとしても、その無理はどこで出る。仕事も趣味も暖かくなるまで怠けながらやる。

 コタツに入っている時間が長くなると、どうしても腰によくないので散歩はしたほうがいい。あとお湯につかるか足湯をして汗をかくのもいい。

 キンドルで本を検索すると、色川武大の『花のさかりは地下道で』が電子化されていた。
 文春文庫版は品切れで古本屋でもあまり見かけない。

 紙と電子——どちらがどうというのではなく、この先、入手しにくい本が電子版で読めるのであれば、それでいいやとおもっている。

 本を見つけるまでの苦労や一冊の本にたいする愛着は、電子書籍で味わうことはむずかしいとおもうが、そのあたりの感覚も変わっていくかもしれない。
 インターネットの古本屋が普及する以前にあった古本にたいする「一期一会」の感覚はなくなりつつある。
 幸か不幸かといえば、どちらともいえない。本が探しやすくなった分、見つけたときの感激が薄れた。今は知らない本を探すために古本屋や古書会館に行く。

 いまだに音楽だけはレコードかCDの形をしていないとだめだ。

2014/01/18

フライの雑誌

『小説すばる』2月号の特集「はじめての東京暮らし」で「今住むなら、この古書店街だ!」という記事で「谷根千」「おに吉」「わめぞ」を紹介しました。
 今、自分が上京したら、どこに住みたいかと考えたら、その界隈かなと。
 下北沢を入れるかどうかは最後まで迷った。

 昨晩はフライの雑誌社の堀内正徳さんと高円寺で飲んだ。『葛西善蔵と釣りがしたい』を読んで、同世代で高円寺・阿佐ケ谷界隈にいたこともある人ということは知っていた。
 堀内さんからフライフィッシングの話をいろいろ伺った。「この人はフライフィッシングの世界における手塚治虫のような人です」といった説明がおもしろかった。

『フライの雑誌』は100号まで出ていて、100号の特集は「フラット・グリップ・レボリューション」である。

 フライは毛鉤。フライフィッシングは毛鉤を使った釣りのこと。
 同誌の樋渡忠一の「頭がフライフィッシング!」を読んで、その奥深さを垣間見た。おそろしい趣味だ。もはや趣味といっていいのかすらわからない。

《私はフライフィッシングを始めるまでは、休日は身体を休めたり身の回りのことをする日であったが、フライフィッシングを始めてからは、休日どころか24時間、365日フライフィッシングのことを考えるようになった》

 車、住まい、ファッションもフライフィッシングが中心になり、観光旅行もせず、行き先で釣りができるかを重視するようになる。

《フライフィッシングにのめりこんだ多くのフライフィッシャーは血液型にA型やB型等の他にFF型があるように感じたり、DNAのA、G、C、T以外に、FFという塩基があるのではないかと思ってしまうほど、頭の先からつま先まで、体中全てがフライフィッシングになってしまう》

 これがあれば、それさえあれば生きていける——。わたしはそうした気迫と覚悟に満ちた人たちの文章を読むのが好きだ。
『フライの雑誌』は、そういう文章だらけの雑誌なのである。

 堀内さん自身は、そっちの世界にはまりこみすぎてしまうと雑誌を出せなくなるからちゃんとブレーキを踏んでいる……というようなことをいっていた。「自分はふつう」とおもっているおかしな人だった。

2014/01/17

詩の話

 秋山駿の『私の文学遍歴』の中で、石コロのことをずっと考えているうちに音楽が鳴ったという話を紹介した。

 いい話のように紹介したが、一歩まちがえば……ちょっと危ない。

 受験勉強していたころ、この不毛な時間を早く終わらせて、本が読みたい、音楽に浸りたいとおもっていた。
 その後、独学の研究によって、そういう精神状態だと、成績が上がらなくて当たり前だということがわかった。
 こんなことをやっていても無駄とおもいながら勉強しても、ちっとも頭に入らないし、血肉にならない。

 深夜にラジオを聴いていて、知らない洋楽が流れ、肌がぞわっとなったり、後頭部の上のほうがしびれたりした。
 そうなると、もうだめだ。他のことは考えられない。ラジオに耳を近づけ、今流れている歌詞やメロディを脳裏に焼き付ける。ヘタすると、誰の曲なのか、何ヶ月も何年もわからないことがある。
 その間、自分の記憶の中の曲を反芻し続ける。

 歌詞はわからない。ただ、「Poetry Man」という単語だけは聴き取れて、「詩人」のことを歌った曲だということだけはわかった。

 当時のわたしは詩の話のできる友人がいなかった。詩が好きであることは恥ずかしいことだとおもっていた。
 だから「詩人」のことを歌っている人がいることを知って、うれしかった。
 今聴いてもフィービー・スノウの「Poetry Man」は、文句のつけようのない名曲だとおもう。

 秋山駿の『私の文学遍歴』は、石コロの話のあと、中原中也の話になる。
 小林秀雄と中原中也を比較し、「中原中也の詩のほうがほんとうの知性であると、私は思っています」と語る。

《Q どこか、向こう側に行っちゃった人間いるじゃないですか、おしまいになってしまった人間。中也はそういう人間なんですよね。われわれ、常識の世界にとどまって努力している人間とは、やはり違う。超えていますよね。
 秋山 なかなか行けないぞ、向こう側には。超えられないよ》

 そして「中也の詩が好きになるっていうのは、つらいことなんでね」という言葉が出てくる。

《中也はわれわれの生き方と違いますよ。中原中也の考え方で生きれば、みんな繁栄しない。終わりになっちゃう、そういう人だから、大変でね。小林秀雄は、中原中也がいたから良かったんだ。あんな人がそばにいて、自分を批判していたら、努力するほかないよ、もう》

 秋山駿と同時代のインテリのあいだで中也の評判はよくなかった。

《そういう人たちは、「知性がないからさ」と言う。よく喧嘩しましたよ。でも、つらいんだよ、絶対こっちのほうが不利だなと思ってね》

 中也では理論武装できない。論争になると負ける。

 論争で負けても詩の精神みたいなものは受け継がれる。笑われたり、恥ずかしがられたりしながら残る。

 そういう詩もある。

2014/01/16

私の文学遍歴

 昨年十二月に刊行された秋山駿著『私の文学遍歴 独白的回想』(作品社)を読む。
 秋山駿は二〇一三年十月二日に亡くなっている。八十三歳だった。

 聞き書きのせいか、秋山駿の独特の偏屈さがすこしやわらいでいる。こんなにとっつきやすい秋山駿の本ははじめて読んだかもしれない。

 秋山駿は世の中や人間に嫌気がさして、石コロのことをひたすら考えはじめる。ただの石コロだから、何をどう考えていいからすらわからない。
 二十二、三歳のとき、三日三晩徹夜するように考えているうちに、次のような経験をする。

《その経験というのはね、だんだん衰弱して、気を失うような感じになってくる。その数歩前に、とってもいい気持ちになってね。頭の中で、その一瞬、何とも名状しがたい音楽のようなものが鳴ったんですよ。そのときは、あ、これか、これが幸福というものかと思った。ある絶対的な状態だった》

 また味わいたいとおもい、一所懸命考え続け、何度かその状態に近づいたが、「もう、あれは出てこない」。

 ひたすらひとつのことを考え続ける。そのうち頭が疲れてしびれてきて、ある瞬間、時間が止まったような、多幸感に包まれる。
 それ以前と以後で自分の感覚が変わってしまう。
 アスリートやミュージシャンの自伝などによく出てくるピークエクスペリエンス(至高体験)のようなものは思索の世界にもある。

 文芸批評とは何なのかについて語るくだりもおもしろい。

《批評とは何かと訊かれたら、苦しまぎれに「それはつまり、人の作品を読んで感想を書くものだよ」って答えてやる。相手は不思議な顔をするよ。それに次に、訊いてくるんだな。「感想を書くっていうのは、仕事になるんですか」とね。こちらは困るよな、答えられない。すると、すぐ相手はつづけて「結局、それが何の役に立つんですか?」って訊いてくる。
 これが、批評家の急所の三点だよ》

 作家が文章を書く。
 文章はその書き手の思想や性格の一部でしかない。一部を手がかりに、文字を追うだけではなく、言語化されていない無意識の領域まで解明しようとする。

 秋山駿はそういう批評家だったとおもう。

2014/01/14

反復練習

 野球選手が、守備練習で連続でノックを受ける。野球の場合、試合中に守りの選手が起き上がる間もなく、ボールが飛んでくることはない。
 長年、わたしは「千本ノック」のような練習の意味がわからなかった。
 たぶん、考えなくても瞬時にからだが動くようにするための練習なのだろう。
 反復練習の目的というのは、たいていそうだ。

 草野球をやっていた子どもが、二、三十年ぶりに野球をする。
 運動不足でからだはおもいどおりに動かない。真っ正面に飛んできた簡単なゴロが捕れない。あれ、おかしい。逆に、ものすごく速くてむずかしい逆シングルの球に、からだが勝手に反応して、捕れてびっくりすることもある。

 不思議な感覚だ。考える間もなく、からだが動く。というか、考える間がないから、からだが自然に動く。

 慣れや熟練は、考える間を短縮する。

 すごい職人やミュージシャンを見ると、からだと道具や楽器が一体化しているかんじがする。
 ある種の技能というのは、できるようになってはじめてわかる。できないうちはわからない。

 連休中、昨年十二月からこのブログで書き続けてきた「試行錯誤」と「自分の声」を読み返した。半知半解で書いているから未消化なところが多い。
 それこそ“自分の声”でこのテーマを書きこなすには、まだまだ時間がかかりそうだということがわかった。

 反復練習が必要だということも……。

2014/01/13

自分の声 その六

「試行錯誤」を書きはじめたときは、どこにたどり着くのか、わからなかった。そのうち「自分の声」という問題が浮上してきた。

「自分の声」は、個性や独自性だけでなく、内なる「子どもの声」という意味合いもあるのではないか。
 この十年くらい、バラバラに考えていたことが、なんとなく、つながりそうになってきた。

 三十代のわたしは私小説と海外コラムとスポーツ心理学に傾倒していた。
 そこから自分が導き出そうとしていた答えは、ほとんど同じものだということに四十代になって気づいた。

 二十代後半に失業状態になり、自分の感情その他のコントロールが必要だとおもうようになった。
 編集者に何かいわれるたびに、一々ケンカしたり落ち込んだりしていたら、身が持たない。子どものころから「わがままだ、身勝手だ」といわれ続けた性格はそう簡単には変わらないだろうが、せめて怒りや不安などの負の感情は抑えられるようになりたい。

 吉行淳之介や鮎川信夫は、自己抑制や規律を大事にする作家だった。
 いっぽう自分の感情をコントロールしようとすればするほど、本能とか欲望とか内なる自分の「子ども」みたいなものが弱ってしまう。
 自分の中の「子ども」の部分を温存しながら、自分を律していくというのは、かなりむずかしい。今もどうしていいのかわからない。
 スポーツ心理学の本を読んでいても、いかにして規律と本能のバランスをとるかということがテーマになっている。
 ガルウェイのインナーゲーム理論もそうだし、勝木光の『ベイビーステップ』(講談社コミックス)もそうだ。

 わたしの場合、あまりにも急に感情を抑えようとしすぎて「自分の声(言葉)」が出せなくなった。あまり怒らなくなったかわりに、文章に気持がこもらなくなった。

 中途半端に自己抑制を心がけるだけではいけない。
 で、どうすればいいのかわからず悩んでいたときにマイク・ルピカのコラム集を読んだ。

 ピート・ハミルの「序」には、コラムニストは「自分の声」と「驚いたり恐れたりすることへの感受性や能力」を保持することの大切さを説いている。
 ルピカは、スポーツライティングにとって「心にたっぷり少年の部分」を持ち続ける必要があるといった。

 規律と本能をどう調和させるか。

 日本の私小説——尾崎一雄の文学もそのことについてくりかえし書いている。

(……続く)

2014/01/12

成人の日

 本田圭佑がイタリア・セリエAのACミランの入団会見のさい、「心の中のリトル・ホンダが選んだ」と答えた。
 いくつかのスポーツ新聞の補足には、オランダのFWファンペルシーがマンチェスターUへの移籍時に「自分の心の中にいるリトル・ボーイに聞くと、彼は“ユナイテッド”と叫んだ」という発言が元ネタとあった。

 何か大きな決断をするとき、自分の心の中の「子ども」に相談する。子どもは好きなこと、やりたいことを選ぶ(そうじゃない子どももいるとおもうが)。

 わたしの場合、自分の内なる「子ども」の声は「やめたい」「休みたい」を連呼しかねないので、重要な決断をまかせるのは心配だ。
 かといって、「子ども」の部分を抑えすぎると、その声はだんだん聞こえなくなる。

 わたしは十九歳でフリーライターになった。
 成人式には行かず、高円寺の飲み屋でひとりですごした。
 数年後、大学を中退した。

 大学でやめて学生ライターじゃなくなったら、仕事が減った。
 その年、バブルがはじけた。住んでいたアパートも取り壊しになった。
 古本を買うだけでなく、売る生活がはじまった。

 貧乏生活が続くうちに、自分の中の「子ども」の部分が磨り減り、削られていくような気がした。

 自分がおもしろい人だなとおもった大人は、みんな「子ども」の部分を大事にしていたとおもう。
 損得抜きで「いやなものはいやだ」といえる人たちだった。
 親戚にひとりくらいいる変なおっさん——大人らしくない大人の存在に救われる子どもだっている。

 無理や我慢をすることで身につく力もあれば失う力もある。

 成人の日から二十数年経った今おもうのは、別に急いで大人になる必要はないということだ。誰かにとって「扱いやすい」人間になることが大人になることではない。

 自分の中の「子ども」の声を失ったら、つまらない大人になる。

2014/01/08

ガルウェイの話

 今日から通常運行。正月中一日だけ横浜に出かけたが、ほとんど高円寺(主に室内)ですごす。外出らしい外出も、外食もせず、元旦に雑煮を作った以外は、うどんを主軸にしたいつもどおりの食生活。

 年末に新しいパソコンを買って(前のパソコンはキーボードの「S」が壊れていた。不便だった)、データ移行やら環境設定やらをしているうちに年が明けた。

 休み中、勝木光の『ベイビーステップ』(講談社コミックス)を現在刊行中の巻までキンドルで読んだ。優等生の主人公が高校生が、テニスに目覚め、プロテニスプレイヤーを目指すという漫画である。
 身体能力その他に突出したものがない人間が、フィジカルエリートにどう立ち向かうかというのは、スポーツ漫画における永遠のテーマといってもいいだろう。
 主人公は、目(動体視力)がよく、真面目で几帳面な性格ゆえ反復練習を厭わず、テニスに関するあらゆることをノートに書きこむ「記録魔」という設定だ。
 作中、ティモシー・ガルウェイのインナーゲーム理論(インナーテニス)が紹介されていたり、主人公が禅の修業をしたりする場面も描かれる。テニスの戦術やメンタル面などにかなり深く言及している理論派のスポーツ漫画である。

 インターバルの多いスポーツは、メンタルの要素が大きく影響する。
 スポーツ心理学は、テニスとゴルフが発展させたというのもうなづける話だ。今ではスポーツのみならず、チェスのプロもメンタルトレーナーをつけている。

 バリー・グリーン、ティモシー・ガルウェイ著『演奏家のための「こころのレッスン」』(辻秀一監訳、音楽之友社)は、インナーゲーム理論をスポーツ以外の分野に応用した本で、「リラックスした集中」のための技法やもうひとりの「自分の声」が、音楽にも有効だと説いている。

 バリー・グリーンはコントラバス奏者でガルウェイの『インナースキー』に感銘し、共著を出すことになった。

 グリーンはコントラバスのレッスンを受けていたとき、指をどうしろ、左腕をどうしろ、と先生に注意されてばかりいた。あなたはまちがっているといわれても、その理由がわからない。
 練習してもなかなか上達しなかった。
 ところが、あるとき演奏会で名コントラバス奏者のゲリー・カー(ゲーリー・カー)の演奏を聴いた。

《私がそこで学んだことは、10年分のレッスンに匹敵するものでした。私はゲリー・カーがどんなに易々と弾いているかを見たのです。音楽の意味と力を感じ、その音は私の心と魂に届きました。コントラバス奏者の身体が楽器と「融合する」と、きっとこんな感じなのだろうということが、おぼろげながら初めてわかったのです》(第10章 理想の指導と学習)

 その演奏会以来、バリー・グリーンは「カーならどう弾くだろう」と想像しながら、レッスンに取り組んだ。
 カーの演奏を自分の演奏に「翻訳」できることに気づいたことが、自分の転機だったという。

 言葉でいくら説明されてもわからないことが、たった一度の演奏を聴いただけでわかる。
 スポーツにも音楽にもそういう面がある。

2014/01/05

自分の声 その五

 三十代の試行錯誤をふりかえるつもりが、書いているうちに忘れていたことをおもいだしたり、考えが変わったりする。

 マイク・ルピカのスポーツコラムをはじめて読んだとき、その文章の何がどう「自分の声」なのかわからなかった。

 ルピカは野球、テニス、バスケットボール、陸上、ボクシンングなど、あらゆるジャンルのスポーツを書いている。おそらくひとつひとつのスポーツのジャンルの知識はその種目の「専門家」には太刀打ちできないはずだ。だとすれば、ルピカは何で「専門家」に対抗しているのか。

 ルピカは、ある試合、ある選手の記憶を書き留める。敗者に寄り添ったコラムを書く。しかも「一時間に千語」というスピードで。

 三十代のわたしが『スタジアムは君を忘れない』に感激したのは、スポーツという枠はあるにせよ、それ以外はかなり自由に書いているとおもえたからだ。

《ロイ・キャンパネラは口癖のように言ったものだ。野球をやるなら心にたっぷり少年の部分を持っていなければならない、と。スポーツライティングもまったく同じ。いま目にしているものを好きになること。もし好きになれなかったら、どこにでもいるタイムカードを押すだけのクズと変わらない》(『スタジアムは君を忘れない』まえがき)

 好きになること――ルピカのライティングの根底にはそういう気持がある。それがそのまま彼の「声」になっている。

 好きなことをする。当然、そのために何かを捨てたり、我慢したりすることもある。好きだからといって何もかもできるわけではない。

 いつの間にか、好きなことにブレーキがかかるようになっていた。せっかく好奇心が芽生えても、今やっている仕事にすぐ結びつかないようなことは後まわしにする。
 しめきりという制約の中、自分のできること、やりやすいことしかしなくなる。

 少年時代の自分はどうだったか。興味をもったことにすぐ飛びつき、できるかどうかわからなくても、やってみようとする。失敗をおそれず、簡単にあきらめない。

 いつから自分はそういうことができなくなったのか。

(……まだ続く)

2014/01/04

才能とは?

 今年初の西部古書会館。本が安くなった。昔、二千円くらいで自分が買った本が百円、二百円。それでも売れ残っている。ちょっと悲しい気分だ。

 年明けから、テレビを見て、漫画を読んで、ぐだぐだすごしている。サッポロビールのCMがよく流れる。妻夫木聡の「大人のエレベーター」シリ−ズの総集編——。
 その中に北野武に「才能とは?」とたずねる回がある。
 北野武は「どの仕事を選べばいいのかわかる人は才能がある(とおもう)」と答える。

 自分に合った仕事を選ぶ。それが何かはむずかしい。
 単に好きなことをすればいいというものではない。好きなものにも適性がある。どんなに好きでも、競争がものすごく激しく、限られた人しかその席に座れない仕事もある。
 適切な仕事の選択をして、一生にわたって創意工夫を続ける覚悟を持てるかどうか。他人から否定されても「自分は才能がある」とおもい続けることができるか。
 自分に足りないものをどう補えばいいのか。

 北野武というか、ビートたけし自身が本で語っていたことだけど、才能は「時代」にも左右される。
 ツービートが活躍していた時代と今とでは漫才やお笑いの裾野の広さがちがう。だから、今はかなりの技術があっても、突出するのはむずかしい。

 そういうことは他のジャンルにもいえるだろう。
 漫画家もそうだ。トキワ荘の時代なら高校を卒業して(もしくは在学中から)、プロになることは珍しくなかった。今でも不可能ではないが、現在の日本の漫画の平均水準を考えると、極めて困難だ。

 プロとアマの話をいえば、プロの場合、その職業に求められる平均水準の能力だけではなく、「+α」が問われる。逆に突出した「+α」があれば、平均水準の能力は「最低限」でもどうにかなる。

「+α」は、一言で説明するのはむずかしいのだけど、「独自性」や「希少性」に基づいた能力と考えてもいいかもしれない。
 色川武大はフリーランスとして生きていくには「極め技」がないと厳しいという(「極め技」があったとしても「運」に左右されるというのが色川・阿佐田哲学なのだが……)。

 しかし今の世の中は「最低限」の水準が上がり、「極め技」が通用する期間が短くなっている。

 新年早々、そんなことを考えていた。

 あいかわらず睡眠時間がズレまくる。正月ボケも治らん。