昨年十二月に刊行された秋山駿著『私の文学遍歴 独白的回想』(作品社)を読む。
秋山駿は二〇一三年十月二日に亡くなっている。八十三歳だった。
聞き書きのせいか、秋山駿の独特の偏屈さがすこしやわらいでいる。こんなにとっつきやすい秋山駿の本ははじめて読んだかもしれない。
秋山駿は世の中や人間に嫌気がさして、石コロのことをひたすら考えはじめる。ただの石コロだから、何をどう考えていいからすらわからない。
二十二、三歳のとき、三日三晩徹夜するように考えているうちに、次のような経験をする。
《その経験というのはね、だんだん衰弱して、気を失うような感じになってくる。その数歩前に、とってもいい気持ちになってね。頭の中で、その一瞬、何とも名状しがたい音楽のようなものが鳴ったんですよ。そのときは、あ、これか、これが幸福というものかと思った。ある絶対的な状態だった》
また味わいたいとおもい、一所懸命考え続け、何度かその状態に近づいたが、「もう、あれは出てこない」。
ひたすらひとつのことを考え続ける。そのうち頭が疲れてしびれてきて、ある瞬間、時間が止まったような、多幸感に包まれる。
それ以前と以後で自分の感覚が変わってしまう。
アスリートやミュージシャンの自伝などによく出てくるピークエクスペリエンス(至高体験)のようなものは思索の世界にもある。
文芸批評とは何なのかについて語るくだりもおもしろい。
《批評とは何かと訊かれたら、苦しまぎれに「それはつまり、人の作品を読んで感想を書くものだよ」って答えてやる。相手は不思議な顔をするよ。それに次に、訊いてくるんだな。「感想を書くっていうのは、仕事になるんですか」とね。こちらは困るよな、答えられない。すると、すぐ相手はつづけて「結局、それが何の役に立つんですか?」って訊いてくる。
これが、批評家の急所の三点だよ》
作家が文章を書く。
文章はその書き手の思想や性格の一部でしかない。一部を手がかりに、文字を追うだけではなく、言語化されていない無意識の領域まで解明しようとする。
秋山駿はそういう批評家だったとおもう。