「試行錯誤」を書きはじめたときは、どこにたどり着くのか、わからなかった。そのうち「自分の声」という問題が浮上してきた。
「自分の声」は、個性や独自性だけでなく、内なる「子どもの声」という意味合いもあるのではないか。
この十年くらい、バラバラに考えていたことが、なんとなく、つながりそうになってきた。
三十代のわたしは私小説と海外コラムとスポーツ心理学に傾倒していた。
そこから自分が導き出そうとしていた答えは、ほとんど同じものだということに四十代になって気づいた。
二十代後半に失業状態になり、自分の感情その他のコントロールが必要だとおもうようになった。
編集者に何かいわれるたびに、一々ケンカしたり落ち込んだりしていたら、身が持たない。子どものころから「わがままだ、身勝手だ」といわれ続けた性格はそう簡単には変わらないだろうが、せめて怒りや不安などの負の感情は抑えられるようになりたい。
吉行淳之介や鮎川信夫は、自己抑制や規律を大事にする作家だった。
いっぽう自分の感情をコントロールしようとすればするほど、本能とか欲望とか内なる自分の「子ども」みたいなものが弱ってしまう。
自分の中の「子ども」の部分を温存しながら、自分を律していくというのは、かなりむずかしい。今もどうしていいのかわからない。
スポーツ心理学の本を読んでいても、いかにして規律と本能のバランスをとるかということがテーマになっている。
ガルウェイのインナーゲーム理論もそうだし、勝木光の『ベイビーステップ』(講談社コミックス)もそうだ。
わたしの場合、あまりにも急に感情を抑えようとしすぎて「自分の声(言葉)」が出せなくなった。あまり怒らなくなったかわりに、文章に気持がこもらなくなった。
中途半端に自己抑制を心がけるだけではいけない。
で、どうすればいいのかわからず悩んでいたときにマイク・ルピカのコラム集を読んだ。
ピート・ハミルの「序」には、コラムニストは「自分の声」と「驚いたり恐れたりすることへの感受性や能力」を保持することの大切さを説いている。
ルピカは、スポーツライティングにとって「心にたっぷり少年の部分」を持ち続ける必要があるといった。
規律と本能をどう調和させるか。
日本の私小説——尾崎一雄の文学もそのことについてくりかえし書いている。
(……続く)