2014/07/28

カチリとしたもの

 先週、二週間ぶりに神保町へ行った。神田伯剌西爾で珈琲を飲んで、古本屋をまわる。
 神保町に行きそびれていたのは、飲みすぎて、珈琲をちょっとひかえていたからだ。
 仕事の資料と関係なく、今日なんとなく読んでみたい本を買おうとおもっていたら、清水哲男著『蒐集週々集』(書肆山田、一九九四年刊)という本があった。

 一九八八年六月から一九九三年三月まで産経新聞に連載していたコラム集だ。おもしろい題だし、中身も好きなかんじの本なのだが、こんな本を買いそびれていた……というか知らなかったのは、修業が足りない。どうして見すごしていたのか謎だ。
 家に帰ってから、清水哲男著『ダグウッドの芝刈機』(冬樹社、一九七八年刊)を読む。

《なんにも書きたくない日がつづく。かといって詩を読んでも、あるいは映画を見ても酒を飲んでも、なにかカチリとしたものにつきあたらない》(あとがき)

 一生かかっても読み切れないくらいの本がある。興味のないジャンルであれば、素通りして当然だとおもうのだが、かなり好みの本ですら、何十年も気づかないことがある。
 本にたいする感度も波がある。
 自分が探している本が何かわからなくなることもある。「カチリとしたもの」は、自分の状態にも左右される。どんなにおもしろい本でも、自分の調子がだめなときはピンとこない。
 おそらく「カチリとしたもの」に出くわす頻度が落ちているときは、余裕がない兆候なのかもしれない。
 おもしろいものを探すのと同じくらい、ちゃんと何かをおもしろがれる状態を作ることが大切なのだろう。

(追記)
……『閑な読書人』(晶文社)に収録したさい、痛恨の誤植(『ダグウッドの芝刈機』の書名をまちがえる)をしてしまう。つらい。

2014/07/23

連休でした

 夏バテ気味。そしてやや二日酔い。豚肉としょうが入りの蕎麦を作り、納豆ととろろとごまをかきまぜてペースト状にしたものを乗っけて食う。日中は部屋でごろごろして、夕方散歩する。
 夏場は週一日か二日、安静の日を作ろうとおもう。

 日曜日、JIROKICHIで東京ローカル・ホンクとパイレーツ・カヌーのライブを見て、翌日はペリカン時代で、木下弦二さん、浜崎仁精さん、髙瀬きぼりおさんのトークショー(絵と絵と音楽の対談)。
 パイレーツ・カヌーは新しいアルバム『ワン・フォー・ザ・ペイン・イン・マイ・ハート』が出たばかり。

 トークショーでは「絵を買うかどうか」という話が考えさせられた。音楽に関してはライブを観たりCDを買ったり、何かとお金をつかっているのだけど、わたしの場合、画家の自伝やエッセイは買うけど、絵そのものを買ったことがない。「いい」とおもうことと「ほしい」とおもうことのあいだには大きなちがいがある。

 あと話を聞きながらおもったのは「買う」だけでなく、どれだけの「時間をかける」ことができるか——それも同じくらい大事なのではないか。
 絵を描く人であれば、一日の中でどれだけの時間を絵に捧げることができるか。時間の長さだけでなく、質もふくめて、没頭し、熱中できるか。もちろん、そのあいだは、他のことができない。結局、時間をかけることは、自分を賭けることにもなるのではないか。

 絵がわからなかったり、それを「ほしい」という感覚がないのは、時間をつかってこなかったからなのかなと……。

 自分は何にお金と時間をつかってきたのか。

 さらにこの先の問いについても丸一日くらい考えていた。ただし今はそれを言葉にする気力がない。 

2014/07/15

釣りをはじめてみようかなとおもっている

……『フライの雑誌』102号に「神吉拓郎の釣り」というエッセイを書きました。なんというか、『フライの雑誌』の原稿料はすべて釣りにつかわなければいけない気がしている。とりあえず、釣り堀に行こうとおもっている。
 長年、中央線に乗っていて、市ケ谷にある釣り堀がずっと気になっている。あの釣り堀を見るたびに、仕事に行く途中、会社を休んでふらっと釣りをしてしまう人がいるのではないかと想像してしまう。もし自分が会社勤めをしていたら、そういう人間になっていたとおもう。

 最近、島崎憲司郎著『水生昆虫アルバム』(フライの雑誌社)という大きな本を読みはじめた。

《それに…大きな声では言えないが、釣りというのは生き物に色々とダメージを与える要素を拭い切れない泣きどころもある。偉そうなことを吹聴すると、とんだ薮蛇にもなりかねませんゼ。もっとも、人間が生きていること自体、誰しもその辺は払拭できないわけだが。キャッチ&リリースも残念ながら免罪符にはならない。魚に言わせれば連続暴行魔と大差なかろう》

 この本はフライフィッシャーのための本なのだが、たとえば、カゲロウの生態、昆虫が好きな人が読んでもおもしろいとおもう。
 どんな小さなことでも本気で研究すれば、その人の一生を費やしても研究しつくせない——世の中はわからないことばかりだ。

 釣りに関する文章を読んでいるうちに、最初はちんぷんかんぷんだった固有名詞がだんだんわかってきた。結局、釣りをしないと何もわからないということもわかってきた。

 わたしは釣り道具を何ひとつ持っていない。文字通りゼロからのスタート。わたしはここでよく躓く。自分の残りの人生にこれをする時間はあるのか。限られたお金と時間——できれば有意義につかいたい。いろいろ手をひろげると、何もかもが中途半端になりそうで怖い。しかし有意義とは何だろう。効率よく満足感をえることなのか。たぶん、ちがうだろう。

 こんな文章を書いているひまがあったら、やってみたほうが早いだろうという話でした。

2014/07/12

貧乏は幸せのはじまり

 岡崎武志著『貧乏は幸せのはじまり』(ちくま文庫)が刊行。二〇〇九年に出た『あなたより貧乏な人』(メディアファクトリー)を改題、再編集した本です。

 巻末でわたしと古書ますく堂がそれぞれ対談しています。高円寺のコクテイルで飲みながらちまちましたことをいっぱい喋ったら、それがほとんど収録されていた。対談に出てくる「業務用スーパー」は「業務スーパー」ですね。まちがえました、すみません。

 この本を読んでおもったのは「貧乏」の中におもしろい貧乏や笑える貧乏——それこそ幸せな貧乏もあるということだ。
 もちろん、おもしろい貧乏や笑える貧乏というのは、ほんとうの貧乏ではない。そういう考え方もあるかもしれない。

 でも収入が不安定だったり、ちょっと生活が困窮したりしたときに、案外、気の持ちようでなんとかなることもある。

 そういう意味ではこのエッセイ集は庶民向けの「幸福論」としても読める。というか、わたしはそう読んだ。

2014/07/05

東京ベンチ

 月島であいおい文庫を運営していた砂金一平さんが、七月一日に「東京ベンチ」(東京都江戸川区瑞江2-22-5)というケアブックカフェをオープンした。
 砂金さん自身も昨年末に江戸川区民になった。

 昨日、ペリカン時代で星野博美さんといっしょに砂金さんと飲んだのだけど、「東京ベンチ」のある瑞江という場所が一目で気にいって、デイサービスとブックカフェを融合した空間を作ることになった。
 お年寄りが気兼ねなく寛げる場所というだけでなく、町の人たちがカフェに出入りすることによって、いろいろな世代の人が交流できる場所にしていきたいそうだ。
 この新しい試みは「福祉」というものが、これからどう変わっていくかの試金石になるとおもう。

 親老後、自分の老後について今はそれどころではないというか、正直、考える余裕がない。
 でも「東京ベンチ」のような場所が、江戸川区だけでなく、あちこちにできたら、そうした心配も軽減されそうな気がする。未来に希望が持てそうな気がする。

 最初に志のある個人が無理をしないと切り開けないことはたくさんある。
 砂金さんもそのひとりだとおもう。
 ただし、いろいろな人の世話をする本人が疲れてしまってはいけません。というわけで、また飲みましょう。たぶん、何か困ったことがあったら、飲食業の先輩たちが喜んで相談にのってくれるでしょう。

 詳しくはブログ「東京ベンチでつかまえて。」を参照してください。
 http://tokyo-bench.hateblo.jp/

2014/07/04

あしたから出版社

 島田潤一郎著『あしたから出版社』(晶文社)を読む。二〇〇九年、“ひとり出版社”の夏葉社を創業。マラマッドの『レンブラントの帽子』(小島信夫、浜本武雄、井上謙治訳)、関口良雄著『昔日の客』を復刊し、わたしのまわりの古本好きのあいだでも話題になっていた。「若い人がやっている出版社らしい」「飲むとおもしろい人らしい」という噂も耳にした。

 島田さんは二十七歳まで作家志望でアルバイトで暮らしていた。その後もほとんど定職に就かず、三十一歳になって真剣に仕事を探しはじめる。

《結局、ぼくは、転職活動をはじめてから八ヶ月で、計五〇社から、お断りのメールをもらった。
 だれにも合わせる顔がなかった》

《転職に失敗したら自分で事業をやるしか方法はないのかもしれない、とそのころからぼんやり思いはじめていた》

 島田さんの夏葉社がうまくいったのは「たまたま」なのかもしれない。いや、うまくいっているのかどうかはわからない。たぶん楽ではないとおもう。島田さんのやり方でうまくいくとは限らない。

 追いつめられ、どこにも行けなくなって、自分の道を切り開くしかなかった。それで出版社を作って、自分が読みたい本を出した。

 夏葉社の本は一冊一冊すべて島田さんのおもいがこもっている。手間がかかっている。
 そういう本に飢えていた読者はそれなりにいたはずだ。わたしもそのひとりだ。

 夏葉社の社名の由来はこの本ではじめて知った。

2014/07/03

忘却の日々

 寝る前にいくつか書きたいとおもうことが頭に浮かぶ。しかし翌日、起きて家事や仕事をこなしているうちに忘れてしまう。というか、起きたときには忘れていることのほうが多い。

 書きたいとおもうことの中には、自主規制で書かないこともある。今書くと、愚痴っぽく、ひがみっぽくなりそうなことは、すこし寝かせたほうがいいかなと考える。そうこうするうちに、そのことを忘れてしまう。

 読んだ本の感想もそう。おもしろいとおもったら、一行でもそのときに書き残しておかないと書く気が失せてしまう。

 ただ、何もかも書くこと、書き残すことがいいのかどうか。迷っているうちに忘れてしまう。

 ライター業をしていて、書いて失敗と書かなくて失敗の比率は半々くらいか。いや、書かなくて失敗というのはたいてい忘れてしまうから、ほんとうはその比率は実感よりもはるかに大きいはずだ。

 そんなことを昨日の晩、考えていたのだけど、たまたま忘れなかったので書いてみることにしたが、前の日におもっていたかんじとちがうものになっている。