2022/12/29

ここにいる

 水曜日、夕方五時ごろ、高円寺駅の総武線のホームから夕焼けと富士山を見る。西荻窪、荻窪の古本屋をまわりながら散歩する。荻窪駅の近くの善福寺川の遊歩道もすこし歩いた。

 渡辺京二、津田塾大学三砂ちづるゼミ著『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(文春文庫)を再読——。最後の「無名に埋没せよ」の言葉がいい。

《ですから、人間というのは、簡単に言ったらもう学問なんかしなくたっていいわけなんです。芸術なんてわからなくたっていいんです。自分が生まれてきて楽しいことを十分に感じられる人間になること。(中略)毎年流れゆく四季、それから自分を取りまいている町の佇まい、あるいは空の色、あるいは四季折々に咲く花、そういう中で生きているという喜びを感じるということですね》

 行きつけの店、町を流れる川——自分が住んでいる町に喜びをおぼえる。そういうことが人にとって一番大事なのだと渡辺さんは語っている。

《慎ましく、具体的に自分の家族を大切にしたり、あるいは自分の隣人を大切にしたり、その時々には喧嘩もするでしょうけど、そういう自分の狭い周りの中で正直に生きてきた人間が、世界史上の災いを引き起こしたためしは一度もありません。
 ですから、社会のために役立とうなんて、そんなことはまず考えないことです》

 何十年も本に埋もれるような生活をしてきて、自分の住んでいる町やその隣町のことを知らずに生きてきたのだなと……最近そういうことをよくおもう。これまで自分の関心をもうすこし外に向けてみたくなった。

 福原麟太郎の「この世に生きること」(『野方閑居の記』沖積舎)や尾崎一雄の「生きる」(『新編 閑な老人』中公文庫)も同じようなことをいっているようにもおもえる。

 定年まであと三年という時期の福原麟太郎はこんなことを書いている。

《私は自然に関して昔から無関心で、良い景色を見るということに興味がなく、雪月花の趣にも、深い感興は湧かなかった。鳥の名や花の名も、知っている数がすくなく、知ろうともしなかった。然るに、五十歳前後から、何となく、季節に感じるというところがあって、われながら、不思議だと思った》

《人間は死ぬものだ。死の足音はもう聞えて来ているのだと思うと、あとは、しみじみと暮らしたい、わが生命を心ゆくまで楽しむ日に恵まれたいと願う》

 尾崎一雄の「生きる」にこんな一節がある。

《巨大な空間と時間の面に、一瞬浮んだアワの一粒に過ぎない私だが、私にとってはこの世こそがかけ換えのない時空である。いつの世でも、いろんなさまたげがあってそうはいかないけれど、すべての生きものは、生まれたからには精いっぱい充実した時をかさね、やがて定命がきて自然と朽ちるようにこの世を去りたいものだ》

《巨大な時間の中の、たった何十年というわずかなくぎりのうちに、偶然在ることを共にした生きもの、植物、石——何でもいいが、すべてそれらのものとの交わりは、それがいつ断たれるかわからぬだけに、切なるものがある》 

 尾崎一雄がこの随筆を書いたのは六十三歳。でも三十代前半から似たようなことをくりかえし書いている。

 わたしは今五十三歳で……と書きかけた途端、いろいろな言葉があふれてきて収拾がつかなくなったのでちょっと散歩してくる。

2022/12/26

年の瀬

 今年もあとちょっと。時が経つのが早すぎる。
 土曜日、西部古書会館。今年最後の古書展を見て、高円寺を散歩する。この日の収穫は日本近代文学館『日本近代文学図録』(毎日新聞社、一九六四年)など。『日本近代文学図録』は刊行時三千円。五十八年前の三千円は……今の感覚だといくらくらいなのか。一九六四年、岩波文庫が五十円、公務員の初任給が二万円くらいの時代だ。大判で索引含め、三百九十頁以上ある。尾崎一雄の「暢気眼鏡出版記念会芳名帳」の写真も載っている。記念会は昭和十二年四月二十四日「新宿高野フルーツパーラア」で開催。この会に古木鐵太郎も出席していたことを知る。

 古木鐵太郎(一八九九〜一九五四)は改造社の編集者で葛西善蔵、宇野浩二といった私小説作家を担当した。豊多摩郡和田堀町(後・杉並区)、杉並区高円寺、中野区野方、鷺宮あたりを転々と暮らす。散歩好きで高円寺・野方界隈をよく歩いた。
 わたしが大和町、野方のあたりを散策するようになったのは福原麟太郎と古木鐵太郎の影響でもある。もうすこし暖くなったら妙正寺川沿いを歩きたい。妙正寺川は橋がたくさんある。
 高円寺から野方に行くときは「でんでん橋」という小さな歩行者用の橋を通る。橋は野方駅南口(野方駅入口)のバス停の近く。「でんでん橋」の名前を知ったのはつい最近だ。都立家政方面に行くときは歩道と車道のある川北橋をよく通る。

「でんでんばしの由来」と題したサイト(他の記事は見当たらない)によると、二〇二〇年末あたりまで「でんでん橋」には欄干などに橋の名を記したプレートがなかったそうだ。このサイトに二〇二一年一月のプレートのついた橋の写真が掲載されている。昔のでんでん橋は木製で下駄で渡ると「でんでん」と音が鳴り響いたことから、その名がついた(らしい)——という地元の高齢者の方から聞いた話を紹介している。

 昨日、都立家政方面を散歩した。駅南口に「かせいチャン」というモニュメントを見かけた。ちばてつやさんがデザインしたマスコットで、都立家政商店街には「かせいチャン七福神」がある。散歩中いくつか見かけた。

2022/12/19

冬晴れ

 先週の水曜日、午後二時すぎJR総武線の高円寺駅のホーム(阿佐ケ谷駅寄りの端)から南西の方角に富士山がよく見えた。晴れた日でも雲が少しでもあると見えないことも多い。電車に乗る日、時間、天候その他を考えると高円寺駅のホームから富士山を見るのは年に数日あるかどうか。

 福原麟太郎著『野方閑居の記』(沖積舎)に「四十歳の歌」という随筆がある。『福原麟太郎随筆選』(研究社出版、一九八一年)にも入っている。初出は「中外商業新報」(一九三四年九月)。福原麟太郎は一八九四年十月生まれだから、四十歳のすこし手前に書いた文章である。

《四十歳の歌は秋の歌である。蕭条として心が澄んでくる、あきらめのすがすがしさを身にしみて覚える。自分にどれだけの事ができるかという見通しがすっかりつく。どんなことは出来ないか、ということも解る》

 さらに「おのれの職分」の見極めがつくという。わたしは四十歳のころ、まだまだ若いつもりでいた。四十代半ばあたりから「どんなことは出来ないか」について、よく考えるようになった。しかし「あきらめのすがすがしさ」という心境はまだわからない。そのうちわかるのだろうか。

《自分の力などというものは四十歳くらいまでで行きどまりで、あとは、その時までに踏み込んでいた陥し穴の中で、それなりに朽ちていくだけのものである》

 明治生まれの四十歳と今の人の感覚はちがうかもしれない。福原麟太郎は墓のことまで考えている。人生五十年といわれた時代はそういうものだったのか。

《今日のおのれにとって、今日は一つしかない。この日を朗らかに愉快にあたたかに過そう》

《みたまえ、この人生という野原で、あの男は文士になっている。あの男の少年時代は日本の文豪を想像させる俊才であったが、結局雑文の方を沢山書く口すぎの為の文筆業の闘士にしかならなかった。それもよしよし、それが彼のひいた籤だったのだ》

「四十歳の歌」の「行きどまり」「陥し穴」「ひいた籤」という言葉についてはもうすこし掘り下げて考えてみたいが、頭がまわらない。昭和九年——八十八年前に書かれた随筆だが、今の中年のわたしが読んでも身にしみる。

 福原麟太郎も昔の偉人と自分を比べて、若いころからやり直したいといったことを書いている。あと朝も弱かったようだ。

2022/12/12

一生

 福原麟太郎著『野方閑居の記』(沖積舎)には栞がついていて、庄野潤三、阪田寛夫、外山滋比古が寄稿している。阪田寛夫の「福原さんの本」に「『ラム伝』以外は、西武電車新宿線野方駅辺りの書店や古本屋さんで買ったものだ」という一文があった。

《私は医師の勧めに従って散歩を始めた。最初は西武電車の一駅分を歩いていたが、引返し地点の都立家政駅前の書店で、その頃出たばかりの『福原麟太郎随筆全集』第三巻を買った》

《実は私が会社の転勤で家族連れで東京へ来て最初に住んだのが野方二丁目の、当時の米軍刑務所脇の家だった》

 阪田寛夫は西武新宿線の鷺ノ宮駅あたりに住んでいた。新宿方面に歩いて一駅隣が都立家政駅、さらに一駅隣が野方駅である(鷺ノ宮駅〜野方駅は約一・五キロ)。
 米軍刑務所は今の平和の森公園——西武新宿線の野方駅と沼袋駅の間(沼袋寄り)にあった。野方は縦に長い町で南のほうはJR中央線の中野駅や高円寺駅も近い。

「福原さんの本」には天野書店のシールが貼られた本の話も出てくる。
 巻末の「『野方閑居の記』復刊にあたって」には「野方駅すぐ近くに古書の天野書店がある。福原先生は生前この店の先代とも親しかった」とある。

 今、天野書店は沼袋駅にある。野方の福原麟太郎が暮らしていた家とそんなに離れていない。

『野方閑居の記』の「この世に生きること」に「歳をとるとともに考えや嗜好が変ってゆくのは、どうにも仕方がない」とある。

《だから私の話は、結局、一八九四年生れの凡庸な少年が、どういう手続で、一九五二年にどういう考えを抱くようになったかという、ある時代の個人の話になってしまうことになる》

 七十年前の随筆。福原麟太郎五十八歳。

 学生時代、福原麟太郎は文学を崇拝していた。芝居に熱中した。学問のことしか頭になった時期もあった。

《そのうちに、一番大切なものは、よく生きることである、文学も学問も生きることの一部分に過ぎないということを考えるようになってくるのだが、それは、いつごろであったであろうか》

——「よく生きること」とは?

2022/12/09

宿題

 寒い。貼るカイロのおかげでどうにかなっている。電気代の値上がりが予想されるが、夏の冷房はそんなにつかっていないので、冬の暖房代はしょうがないと諦める。年々、体力や根気は衰えているが、その分、不調時のやりすごし方は向上している。

 先週の土曜日、西部古書会館。初日ではなく二日目。『神奈川県立金沢文庫開館75周年記念 企画展 繪地圖いろいろ』(神奈川県立金沢文庫、二〇〇五年)、『甲賀水口 歩みと暮らし』(水口町立歴史民俗資料館、一九九四年)など街道資料を買う。

 滋賀の水口宿(東海道)は一度歩いている。郷里の鈴鹿からもわりと近い。
『甲賀水口 歩みと暮らし』に「横田の渡し」の記述あり。

《水口宿の西方横田川では、幕府により通年架橋が許されず、渇水期を除き船渡しが行われました》

 水口あたりでは野洲川が横田川になる。地図を見ると、横田川の渡し舟跡はJR草津線の三雲駅がもより駅だ。街道も川も土地ごとに呼び名がちがって、ややこしい。滋賀県の野洲川、草津川などは周辺の地面よりも高い位置を流れる天井川でもある。時代とともに川の流れは変わる。今、草津宿付近の天井川は公園になっている。

 日本の一級河川は約一万四千もあり、名前すら知らない川がたくさんある。

……ここまで書いて中断する。天井川の話をもうすこし書くつもりだったが気が変わる。

 気がつくと金曜日、再び西部古書会館二日目。『秋岡古地図コレクション名品展』(神戸市立博物館、一九八九年)、庄野潤三著『山の上に憩いあり 都築ヶ岡年中行事』(新潮社、一九八四年)など。先週六千七百円、今週三千二千円。年末だし、最近、古本を買い控えていたのでよしとしよう。

『山の上に憩いあり』は帯の背に「河上徹太郎、福原麟太郎の両先達を偲ぶ」とあった。福原麟太郎と庄野潤三の「対談 瑣末事の文学」も所収。
「『随想全集』のあとに」の庄野潤三の言葉——。

《身辺の何でもないようなことを捉えて、これを芸術的な纏りのある一篇の随筆に仕上げる。いいかえれば、個人の日記の中にしか書きとめる値打ちのないように見える事柄を、人間、人生に通じる深いひろがりを持つものにする》

 同書「福原さんの思い出」に近代日本文学館設立のための色紙展の話が出てくる。

《福原さんがその時、出されたのは「静かに過すことを習へ、聖典のことばを誌す」であった》

 福原麟太郎著『この道をゆく わが人生観』(大和書房、一九七一年)の「老いの術」も色紙展の話を書いているのだが……。

《「われとともに老いよ ベン・エズラ法師のことばなり。ロバート・ブラウニングの詩にいふ」と記し私の名を麟とだけ書いて、どうも落ちつきがわるいので、小林淳男大人の刻んでくれた朱印を押してみたらますますこみあって来て、どうも失敗作であった》

「静かに過すことを習へ」「われとともに老いよ」どちらが正しいのか。本人の記憶が正しいとはかぎらない。

 そのあと福原麟太郎著『野方閑居の記』(沖積舎、一九八七年)の「治水」を読む。

(追記)「われとともに老いよ」は「失敗作」とあるから、色紙展には「静かに過すことを習へ」を提出したというのが事実に近いかも。

2022/12/03

雑記

 最近、日常の行動範囲を広げたいと考えている。散歩のルートがちがえば、見える景色も変わる。小さな変化の積み重ねが、自分の思考や感覚にどんな影響を及ぼすのか。何も変わらないならそれはそれでいい。

 この十日くらいのあいだに野方を四度歩いた。高円寺と野方は徒歩二十分くらい。火曜日、小雨。西武新宿線の都立家政を目指し、高円寺北口の商店街を歩いていたら、古本ツアー・イン・ジャパンさんとサンカクヤマの前で遭遇する。軽く挨拶する。早稲田通りを越え、大和町の中央通りをまっすぐ北へ。高円寺からは都立家政も野方と同じくらいの距離だ。
 今年、中野区の大和町、若宮あたりにワゴン車のコミュニティバスが運行する予定というニュースを見た。今は実験走行中のようだ。

 ブックマート都立家政店……なんといったらいいのか、長い年月をかけて熟成されたお宝とガラクタのごった煮感がいい。本だけでなく、CD、レコード(レア盤あり)、おもちゃ(バルタン星人の人形など)もある。矢口高雄のエッセイ集などを買う。
 都立家政の北口を歩いて新青梅街道から野方へ。都立家政と野方は近い(徒歩で七、八分)。野方の北口の商店街のサカガミというスーパー、近所の店ではあまり見かけない刺身(カワハギ)が売っている。郷里にいたころ、カワハギ(地元ではハゲと呼んでいた)の干物をよく食べた。いつも家にある魚だった。志摩にいたおば(母の姉、板前)がしょっちゅう送ってくれていた。野方に行けば、(いつでもかどうかはわからないが)カワハギが売っているとわかったのは嬉しい。あと近所のスーパーはコチ(マゴチ)があんまり売っていない。年をとったせいかどうかはわからないが、肉より魚が好きになっている。

 以前、野方でふらっと入った喫茶店があり、ひさしぶりに寄ったら居心地がよかった。古本屋に寄り、家に帰る前に喫茶店に入り、買ったばかりの本を読む。

 店を出る。雨と風が強くなっている。バスに乗るのもありかなとおもったが、歩いて帰ることにした。

2022/11/29

横浜

 十一月二十五日(金)の午後一時すぎ、新宿駅から湘南新宿ラインに乗る。武蔵小杉駅をすこし過ぎたところで富士山が見えた(建物の間から、ほんのちょっとだけ)。

 横浜駅で地下鉄(みなとみらい線)に乗り換え、元町・中華街駅へ。
 以前は東横線で桜木町駅まで行くことが多かった。何度も降りているのに横浜の地下鉄はいまだに迷う。目的地の反対側の出口(中華街のほう)から出てしまう。中華街でちまき、まいばすけっとでビールを買い、公園で飲み食いする。
 数日前に阿佐ケ谷の古本屋で神奈川近代文学館の川端康成の文学展の招待券をもらっていた。川端展は過去にもいろいろな文学館で開催されている(文学展パンフの数も多い)。書画骨董などのコレクションがすごい。三島由紀夫といっしょの写真を見て、今、小説をまったく読まない人でも顔と名前を知っている作家はどのくらいいるのかと考える。展示を見て、吉田健一と川端康成の文学展パンフを買う。

 関内駅まで歩いて地下鉄で弘明寺(ぐみょうじ)駅へ。前号の『フライの雑誌』の取材(大岡川沿いを歩いた)を通して好きになった町だ。鎌倉街道らしき道も通っている。

 地下鉄ブルーラインと京急の駅のあいだの商店街がいい。

 柳屋という衣類などの激安店があり、新調したいとおもっていた掛け布団カバーを買う。五百九十八円だった。前に行ったときは九十八円の枕カバーを買った。
 地下鉄の弘明寺駅に着いたのが夕方で京急の弘明寺駅あたりで日没になる。
 駅から坂と階段をのぼったところに弘明寺公園があり、横浜の夜景の名所としても有名だ。前に弘明寺に行ったときはまだ明るい時間帯だったので夜景は見ていない。
 公園の展望デッキも登る。西の空はかすかに夕焼けが残っていたが、港方面は見事な夜景だった。高校生くらいのカップルが二組いた。邪魔したな。

 帰りは京急で品川駅まで行こうかどうか迷ったが、横浜駅でJRに乗り換えると電車が遅延——すぐ改札で払い戻し、東急に乗り換え、渋谷駅へ。渋谷もひさしぶり。渋谷ヒカリエで惣菜を買う。
 新宿駅からJR総武線に乗ると映画「月の満ち欠け」の中吊り広告があった。映画の宣伝と横に岩波書店の佐藤正午の単行本と文庫の広告も。この日、行き帰りの電車の中で佐藤正午著『小説家の四季 1988−2002』(岩波現代文庫)を読んでいた。

 一時期激減していた電車の中吊り広告がやや復活したような気がする。

2022/11/27

狛江

『フライの雑誌』最新号(126号)届く。わたしは島村利正と多摩川の話を書いた。島村は狛江市に長く暮らしていた作家で釣りも好きだった。島村利正著『随筆集 多摩川断想』(花曜社)を読んで、狛江を歩きたいとおもっていた。
 十月下旬、はじめて小田急の狛江駅で降りた。さらに十日後——。

 先日、三重と大阪に行った帰り——郷里の家から朝六時前の電車で名古屋に出て、名鉄の特急で豊橋まで行き、JRの在来線で浜松駅で下車。馬込川をすこし歩いて、金券ショップで新幹線の切符を買い、こだまで小田原駅まで行き、小田急に乗り換える。
 途中、登戸駅で下車した。多摩川沿いの登戸の渡し(跡地)を見て、多摩川水道橋を渡り、狛江駅へ。短期間に二度狛江を訪れた。
 前に歩いたときには寄らなかった南口の商店街を散策する。住宅街も歩いた。荷物がなければ、野川まで歩きたかった。

 一、二度、訪れたくらいでは何もわからない。それでも町の名前を聞いて、ぼんやりと風景が頭に浮ぶ。今はそういう町が増えることが楽しい。降りたことのない駅、見ていない川——すこしずつ歩きたいとおもっている。家でごろごろしている時間が外でだらだらしている時間になっただけともいえる。

2022/11/22

籠原観音

 昨日に続いて野方を散歩する。暇なのかといわれたら、そうでもない。この日、最高気温は二十度。歩いているうちに暑くなる。福原麟太郎の「篭原観音その後」にあった観音様の石像とお堂を見に行く。高円寺駅から緑野中学校までは約三キロ。野方のあたりからは環七ではなく、住宅街を通った。オイルコンパスを見ながら、わからなくなったら、とりあえず北に向う。籠原観音は何の説明もなければ道祖神かなと。観音像と道祖神のちがいはよくわからん。お堂はコンクリート製で屋根もある。お堂のあちこちにステッカーが貼られている。すぐ側に案内板もあったが、メモはとらなかった。

 中野区と練馬区の境を流れる江古田川——旧丸山小学校付近は暗渠になっていた。いつか江古田川沿いも歩きたい。

 豊玉氷川神社に寄り、豊玉中あたりをうろうろして、福原麟太郎の散歩コースを想像しながら練馬駅を目指す。豊中通りを歩いていたら東武ストアがあった。寿がきやの「岐阜タンメン」(インスタントの袋麺)と天むす(三個入り)を買う。東武ストア、寿がきやのインスタントラーメンが四種類も売っていた。籠原観音から練馬駅までは二キロくらいだが、いろいろ寄り道したり遠回りしたので、もうすこし歩いたかもしれない。それでも(高円寺から練馬までの)万歩計の歩数は一万歩未満だった。

 午後三時すぎ、練馬駅北口から高円寺行きのバスに乗る。駅前付近はバスが動かなくなることが多いので一つ手前の停車所で下車した。

(追記)
 練馬駅のバス停に成増駅(板橋区)行きのバスがあることを知る。ルートを調べたら東武東上線の下赤塚駅も経由する。下赤塚はわたしが上京して最初に住んだ町だ(半年くらい)。地図を見ると、高円寺駅〜野方駅〜練馬駅〜下赤塚駅は南北、縦に並んでいる。

2022/11/21

野方の話

 ひさしぶりに中野区大和町を散歩。セブンイレブン(中野大和町1丁目北店)ができている。今月一日にオープンしたばかり。それから妙正寺川沿いを歩いていたら、いつの間にか住所の番地が野方になった。環七あたりまで歩いて家に帰る。

 野方のもより駅は西武新宿線野方駅だが、番地によってはJR中央線の中野駅や高円寺駅のほうが近いところもある。高円寺駅から野方駅行きのバスは一時間に何本も出ている。

 散歩のあと、福原麟太郎の「散歩道」(『この道を行く わが人生観』大和書房、一九七一年)を読んだ。

《そのころはよく北の方へ向って歩いた。丸山小学校というのが近所の子供などの行っている小学校で、その前の道を下ると、小川があって、これが、中野区と練馬区の境になっていた》

 丸山小学校は二〇一一年三月閉校(現在は緑野小学校)。中野と練馬の区境の川は江古田(えごた)川だろう。江古田川は江古田公園のあたりで妙正寺川と合流する。

 福原麟太郎は江古田川を越え、さらに北に向って歩いて練馬駅へ。

《私はよくそこまで歩いて、あとタクシーで帰った》

『この道を行く』の「篭原観音その後」も野方の話——。

《私の家の近くの道を散歩していたら、中学校の校地の角のところで道が二股に分れる。そこに観音様の石像が立ったり倒れたりしていた》

《道しるべを兼ねたものと見えて、右なかむら道、左あら井道などと彫ってある》

 福原麟太郎は知り合いの中学の校長に「あの観音様にお堂を立ててあげたらどうだろう」と提案し……。

 地図(Google)を見ると中野区立緑野中学校の角に籠原観音の印があり、旧丸山小学校もすぐ隣にある。そこから数百メートル歩けば、練馬区豊玉中——梅崎春生が住んでいた町だ。おもっていたよりずっと近い。

2022/11/20

東海8大街道

 土曜の昼、快晴。南口の古本屋の均一台でビニールに入った『東海日帰りドライブWarker 2018−2019』(KADOKAWA、二〇一八年二月)を見つけ、表紙の「絶景+グルメを巡る! 東海8大街道」の文字に釣られて買う。東海道や伊勢街道の記事が載っているのかなとおもったらちがった。「伊勢志摩スカイライン(三重)」「金華山ドライブウェイ(岐阜)」「茶臼山高原道路(愛知)」など、名古屋から二時間圏内のドライブコースの特集だった。「鈴鹿スカイライン(三重)」の滋賀県の日野町から三重県の菰野町を結ぶルートも紹介している。
 滋賀の日野町は(車だと)わたしの郷里の鈴鹿市からもけっこう近い。日野はさつき寺で有名な雲迎寺がある。先日京都で扉野良人さんに日野町に詩人の野田理一が暮らしていたことを教えてもらったばかりだった。

 地図で日野町のあたりを見ると近江商人街道という街道がある。近江日野商人館も気になる。
 近江鉄道水口・蒲生線の日野駅がもより駅。郷里の家から電車だとJR関西本線・草津線で貴生川駅まで行って近江鉄道に乗り換えて……だいたい一時間半。さつきの咲く季節に行ってみたい。五月か六月か。

 菰野町は三十年以上行ってない。予備校時代——一九八八年の秋ごろ、同じ講義を受けていた人たち何人かと湯の山温泉に遊びに行った。湯の山は家族で国民宿舎に泊ったこともある。湯の山、軽めの登山気分が味わえ、ロープウェイもある。東海自然歩道も通っている。

 古本屋で古雑誌を買った後、桃園川緑道を東に向って歩いていたら環七に出てしまったので、そのまま東高円寺方面に向う。天祖神社に寄って、ニコニコロードのオオゼキ、百円ショップで買物する。商店街の中華料理屋で青椒肉絲丼をテイクアウトして帰る。歩くたびに東高円寺はいい町だなとおもう。

2022/11/18

日向ぼっこ

 今月まもなく五十三歳になる。還暦まであと七年。時の流れについていけない気分だ。年をとったことで限りある時間の中で何をするか絞り込みやすくなった。時間がなくなることで見えてくるものもある。

 日々、倹約生活を送りながら、古本を買ったり、酒を飲んだり、旅行をしたりする。時間がない金がない体力がない。そうした条件を考慮しつつ、自分が楽しいとおもえることを探す。

 一年前の今ごろ一ヶ月近く左の肘から肩にかけての神経痛に悩んでいた。痛め止めの薬を飲んでごまかしていたが、まったく改善しなかった。ところがたまたま近所の薬局でもらった試供品の湿布が効いた。ちょうど治りかけの時期と重なっただけかもしれない。個人差もあるだろう。飲み薬も湿布も効くときとあんまり効かないときがある。

 年相応だとおもうが、体のあちこちガタがきている。おそらく無理をした分、力がつく時期は過ぎた。無理をするより自分のペースを守ったほうがよい。ペースを守ることは無理をする以上にむずかしい。

 水曜の昼すぎ、陽射しがまぶしく感じるくらい天気がよかった。体がじんわりと温まり、心のもやが晴れた気がした。

2022/11/15

帰省 その五

 茨木駅に大阪からではなく京都経由で行ってしまったのは、当初、三重に寄らず、東京から直接茨木市の図書館に向かう予定だったからだ。それだと新幹線で京都まで行って、そのままJRで茨木駅に行くほうが早い。
 近鉄電車で鈴鹿から茨木駅に行く場合、大阪(鶴橋駅)からのほうが近い。こうした地理感覚の混乱みたいなことは、都内の移動中にもよくある。

 おもいこみというのは気づきにくいものだなと……。

 講演の日の翌朝、午前九時すぎ、京阪三条駅から地下鉄東西線〜京阪京津線の直通に乗り、びわ湖浜大津駅(四百三十円)へ。二十分ちょっと。京阪京津線は好きな鉄道である。地下から地上に出てびわこ大津駅の手前で路面電車になる。
 駅の外に出て、琵琶湖の近くまで歩いて再び京阪に乗り、京阪石山駅へ(二百四十円)。JRの石山駅に乗り換え、草津駅へ(二百円)。

 草津駅で途中下車し、駅前の近鉄百貨店に寄る。オリックス・バファローズの日本一を祝う垂れ幕を見かける。オリックスは、阪急と近鉄という二つの関西の鉄道球団をルーツに持つ。近鉄は日本シリーズに何度か出場したが、日本一になっていない。バファローズとしては初の日本一か。

 草津宿界隈の旧中山道をすこし歩く。草津宿は東海道と中山道の合流地である。京都からJRで三重に帰るときはいつも草津駅界隈を散策する。

 草津駅からJRで亀山駅まで行ってバスで帰るか、加佐登駅から歩くか。悩んだ末、その二駅の間にある井田川駅で降りることにした(千百七十円)。京阪三条からJR関西本線の井田川駅まで途中下車しながらの移動で千九百四十円。三重にいるときだけでなく、東京でも片道二千円くらいの小さな旅をもっとしたい。

 井田川駅から近鉄の平田町駅まで六キロくらい(バスもある)。地元の人はこの区間を歩く人はあまりいないとおもう。わたしは過去に三回くらい歩いている。

 東海道の旧道を歩いて安楽川と鈴鹿川の合流地点あたりまで行き、別の道から戻って川俣神社の寄り、平和橋を渡り、鈴鹿環状線を歩く。川俣神社は鈴鹿川沿いにけっこうある。『新編 鈴鹿市の歴史』(鈴鹿青年会議所、一九七五年)によると、川俣神社は「加太から庄野へ五社あり」とある。

 井田川駅付近は亀山市内のリニア新幹線の駅の候補地でもある。ほかにも亀山インターチェンジ付近と下庄(しものしょう)駅付近なども候補地にあがっているようだ。
 といっても名古屋までのリニア新幹線の開通が二〇二七年の予定(たぶん遅れる)でそれより西はどうなるか、まったくわからない。

 井田川駅からの帰り道、イオンモール鈴鹿に寄り、店内に入り、自分がどこにいるのかわからなくなる。いつも迷う。サンマルクカフェでアイスコーヒーを飲む。イオンモール鈴鹿の隣にはイオンタウン鈴鹿もある。

 平田町駅に向かう途中、小学生のころ、しょっちゅう通っていた舗装されていない道を見つけ、懐かしくなって歩いた。車が通らないまっすぐの道である。長い道だとおもっていたが、それほどでもなかった。記憶というものは不思議である。遠いとおもっていた場所が近かったり、近いとおもっていた場所が遠かったり、忘れていたことを突然おもいだしたりする。

 大池、平田新町のあたりは知らないうちに飲食店が増えている。昔、映画館があったあたりをうろつく。角川映画と海外の映画の同時上映をよくやっていた。地元で観た映画でおぼえているのは「カプリコン・1」と「レイズ・ザ・タイタニック」。映画は四日市まで観に行くことが多かった。上京後、映画館にあまり行かなくなった。

 弁天山公園から鈴鹿ハンター内のゑびすやでうどん。ゑびすやは一九七四年二月創業。わたしは四歳。物心つくかつかないかのからこの店のうどんを食べている。今はメニューにない、かやくうどんが好きだった。

 さらに翌日、鈴鹿から東京への帰り、名古屋、豊橋、浜松、小田原、登戸などに寄ったが、このへんで終わりにする。

2022/11/14

帰省 その四

 五日の土曜日、朝七時台に郷里の家を出る。伊勢若松駅から伊勢中川駅まで近鉄の急行に乗る。高校三年間、このくらいの時間の電車に乗って津新町駅まで通学していた。

 津新町駅のすこし先——岩田川の河口付近に中部国際空港に行きの津エアポートラインの港(津なぎさまち港)がある。いつか津の港から船で愛知県の知多半島に渡り東京に帰りたい。たぶん楽しいだろう。

 旧伊勢街道、旧伊賀街道も母校の近くを通っている。

 伊勢中川駅から特急に乗り換え京都へ。伊勢中川駅には……近いとはいえないが、松浦武四郎記念館がある。松浦は江戸末期から明治にかけての探検家であり、「北海道の名付け親」としても有名だ。雲出川近くの伊勢街道沿いの村の出身である。
 鈴鹿から関西方面に行くとき、伊勢中川駅でよく乗り換える。ここ数年、駅のまわりを何度か散策している。近くに初瀬街道も通っている。

 伊勢中川駅で乗った特急は奈良の大和八木駅で乗り換えなしの電車だった。
 街道歩きのさい、三重と東京の間の降りたことのない駅を散策することを目標にしているのだが、三重と京都・大阪の間の町も行ってみたいところがいろいろある。。
 京都駅からJRで茨木駅へ。後日、京都ではなく大阪(鶴橋駅)経由のほうが三十分くらい早くて三百円くらい安かったことに気づく。事前に調べておけばよかった。

 目的地は大阪の茨木市立中央図書館。富士正晴についての講演会の講師をする。開場は午後一時半だが、三時間くらい前に着いてしまう。駅の東口を出て、阪急京都線の線路のあたりまで歩き、そこから遊歩道(元茨木川緑地、茨木市中央公園)を散策していたら、川端康成文学館がある。通りの名も川端通りだった。偶然か。
 町の中心に遊歩道があるのは素晴らしい。のんびり歩いたにもかかわらず、図書館に訪れると約束した時間まで一時間以上ある。併設の富士正晴記念館を見る。企画展「茨木と武蔵野の遠い仲間〜富士正晴と埴谷雄高」を開催していた。埴谷雄高は中央線沿線の吉祥寺に住んでいた(家は何度か外から見ている)。わたしの父は台湾の新竹の生まれで、埴谷雄高の出身地と同じだ。新竹には大きな製糖会社があって、埴谷雄高の父は重役だった。そしてわたしの父方の祖父も台湾にいたころは製糖工場で働いていた……と父に聞いた。

 この日の講演のため、A4用紙十五枚分の富士正晴の随筆についての原稿を用意した。それなのに、いやはや、まったく喋れず。けっこう喋ったつもりだったのだが。予定は一時間半で、途中、「喋りすぎて予定をオーバーしてしまったかな」と不安になり、司会の人に時間を聞くとまだ四十五分しか経っていなかった。自分としては二時間くらい喋った気がしていたのに。たぶん早口になっていたのだろう。過去の最短記録も四十五分だったと図書館の人に教えられる。

 来場者の力を借り、三十分くらい話を続け、どうにか(なったとは言い難いが)終了した。あらためて人には向き不向きがあると知る。でも不思議と楽しかった。

 会場には扉野良人さん、世田谷ピンポンズさんも来ていた。打ち上げに出て阪急電車で京都へ。車内でわたしはつり革につかまったまま寝ていたようだ。

(……続く)

2022/11/12

帰省 その三

 鈴鹿にかぎった話ではないが、地方というのは車社会である。わたしのように車の免許を持っていない成人はかなり少ない。とくに男は。
 六年前に父が亡くなって以来、帰省すると町をよく歩くようになった。町は駅のまわりではなく、県道や国道沿いがにぎわっている。歩いている人は少ないが。

 近鉄の平田町駅からすぐ南の県道54号線(鈴鹿中央通り)の一駅分くらいの区間には松屋、はま寿司、スパゲッチハウスボルカノ、あみやき亭、スターバックス(ケーズデンキ鈴鹿店)、丸源ラーメン、快活CLUB、かつや、サイゼリア、吉野家、支留比亜珈琲店、マクドナルド、かっぱ寿司などがあり、そのすこし先にコメダ珈琲店もある。
 ちょっとしたチェーン店街である。車だとあっという間だが、歩くと二十分くらいかかる。

 ぎゅーとらラブリー、鈴鹿ハンター、マックスバリュなどの商業施設、宿泊施設、衣料品店、リサイクルショップ、キャンプ用品店、スポーツ用品店、自動車用品店なども鈴鹿中央通り沿いにある。
 高円寺に三十三年暮らしているが、靴下、下着、タオルなどは地方のスーパーの衣料品店で買うことが多い。東京より安くて丈夫なものが入手できる。

 街道歩きをしていてもスーパー+衣料品の商業施設があるとよく立ち寄る。

 東海道関連の本でJR関西本線の周辺を歩いた人が「駅のまわりに何もない」と書いたものをたまに見かける。鈴鹿市内は近鉄の駅周辺のほうが人口密度が高く、県道沿いに店が集中している。鈴鹿は人口十九万人の市(山梨県の甲府市、東京の三鷹市と同じくらい)である。
 わたしも鉄道旅行が中心なので(鈴鹿市以外の)地方の町のロードサイド文化に疎い。

 生まれた町のもより駅から数分のところに旭化成、鐘紡、本田技研の工場があった。鐘紡は今はなく、その跡地にイオンモール鈴鹿(当初は「ベルシティ」という名前だった)ができた。休日に行ったら都内のターミナル駅くらい混雑していた。

 本田技研と旭化成の間の坂道をのぼった先に鈴鹿サーキットがある。その周辺には自動車の部品を作る小さな工場が無数にあり、父は自動車関係のプレス工場で働いていた。

 伊勢鉄道沿いには味の素(AGF鈴鹿)もあり、隣にAGF陸上競技場、野球場がある。近辺に石垣池、浄土池、祓川池……地図を見ると、今さらながら池の多い町だったことに気づく。中学生のとき、釣りが好きな友人と名前のわからない謎の池に行った。友人はブラックバスが釣れるといっていたが、そのときは何も釣れなかった。

(……続く)

2022/11/11

帰省 その二

 今おもうと郷里で暮らしていたころのわたしは地元の学区内のことさえよく知らなかった。自分の生まれた町に興味がなかった。あちこち歩きまわっているうちに、これまで知らなかった町が面白くなってきた。退屈なところだとおもっていたのは、自分の関心のなさ、行動範囲の狭さに起因していたにすぎない。

 鈴鹿市内は近鉄、JR関西本線、第三セクターの伊勢鉄道(伊勢線)が通っている。わたしが十九歳まで住んでいたのは近鉄鈴鹿線の終着駅の町である。家は長屋(いわゆる隣と接している二軒長屋)だった。
 駅からは関西本線の亀山駅、加佐登駅行きなどのバスもある。加佐登駅は東海道の庄野宿が近い。以前、母の弟(わたしのおじ)に亀山駅まで車で送ってもらい、JR関西本線、草津線で滋賀県の草津経由で京都に行ったら運賃が千三百四十円で近鉄よりかなり安かった。もっと早く知りたかったとおもった。近鉄の特急で京都に行くと三千五百円くらいかかる。時間もJRのほうが三十分くらい早い(電車の本数は近鉄のほうが多い)。
 ただ、わたしは近鉄の特急が好きで何の用がなくても乗りたい。名張から奈良に入るあたりの景色が好きなのだ。とくに紅葉のシーズンは素晴らしい。

 わたしが上京した年——一九八九年に親も市内で引っ越した。もより駅もちがう。
 もより駅の南のほうから神戸公園(神戸城趾)まで続く遊歩道があり、帰省するたびに散歩する。神戸公園は伊勢鉄道の鈴鹿駅、近鉄の鈴鹿市駅から近い。この周辺が伊勢街道の神戸宿である。
「筆は一本也、箸は二本也」の斎藤緑雨が生まれたのも神戸だ。

 父が生きていたころは青春18きっぷで東京に帰るときは伊勢鉄道の鈴鹿駅まで車でよく送ってもらっていた。伊勢鉄道は18きっぷの対象区間ではなく、一駅先の河原田駅(四日市市)までの乗車賃が必要になる。わたしの母は五十年以上鈴鹿に暮らしているが、伊勢鉄道の鈴鹿駅を利用したことがないといっていた。

(……続く)

2022/11/09

帰省 その一

 先週、金券ショップで新幹線の切符を買った。日程変更が必要な切符で、高円寺駅(阿佐ケ谷駅も)にみどりの窓口がないので中野駅か荻窪駅まで行かなくてならない。どちらも散歩圏内だが、世の中はすこしずつ便利になるかとおもえば、こんなふうに不便になることもある。

 四日、金曜の昼すぎ東京駅へ。名古屋駅まで自由席——なるべく混んでなさそうな新幹線に乗ろうと新大阪行きのひかりに乗る。ひかりは自由席の車両が多いので座れる確率が高い。途中の停車駅は小田原駅が一つ増えるくらいで時間もそんなに変わらない。
 出発十五分前くらいに着いたら、新幹線の到着ホームの先頭だった。

 前は郷里に帰るさい、ノートパソコンを持参することがあったが、今はキンドルでだいたいすむ(何度も書いていることだが、携帯電話やスマホを持っていない)。ところがわたしはキンドルのタッチパネルで文字を打つのが苦手で、ちょっとしたメールを送るのにものすごく時間がかかる。悪戦苦闘の末、F社のHさんに改行なしのメールを送ってしまう。

 名古屋駅のエスカの寿がきやで白ラーメン、とうとう六百円台に。エスカの寿がきやは高級(?)路線で、通常店のラーメンはまだ三百円台だったはず。さくっと食べて近鉄へ。まだ明るかったので鈴鹿市駅で降り、旧伊勢街道(神戸宿)を歩く。ほんのちょっと宿場町の雰囲気が残っている。

 郷里の商業施設事情もずいぶん変わった。ハローベルベル(地元ではベルベルと呼んでいた)、アイリスがなくなった。鈴鹿ハンター内のフードコートのスガキヤも三年くらい前になくなった。アイリスにもスガキヤがあった。中学時代のたまり場だった。
 近鉄の鈴鹿市駅にはキング観光鈴鹿店(パチンコ屋)に寿がきや(高級なほう)がある。

 そのまま歩いて母が暮らす家に向かうが、その前に港屋珈琲で休憩する。机が広くて快適である。喫煙席は電子タバコ専用になっている。わたしも三年前からアイコスに変えた。
 地元、夜間も営業している喫茶店が増えた。夜の避難所になっている。助かる。

 東京から掃除グッズ(スキマブラシ、化学スポンジなど)を持ちこみ、家の掃除する。袋の数がすごい。賞味期限のチェックもした(高齢の親と離れて暮らしている人はやったほうがいいとおもう)。
 郷里で過ごしているうちに、子どものころ、家を出たかった理由をおもいだす。たとえば、夜、起きて本を読んでいると、いきなり家中の電気を消される。まさか五十代になっても、こんな経験をするとはおもわなかった。「電気代を払う」といっても無駄である。この日、鞄からLEDのヘッドライトを出し、「ここは洞窟だ」と言い聞かせながら本を読み続けた。街道歩きのために常備しているライトがおもわぬところで役に立った。

(……続く)

2022/11/07

歳月

 十一月、今年もあと二ヶ月。いろいろやることが残っているが、一つ一つ片付けていくほかない(いちばんやりたいのは仕事部屋の蔵書減らし)。一年の経つ早さ(体感)を考えると、当然、五年十年なんてあっという間に過ぎていく気がする。そうやって老いていく。テレビを見ても知らない人ばかりになる。知らない人を覚えられないまま新しい人が出てくる。

 三日の祝日。高円寺は馬橋盆踊りの日だったのだが、夜まで仕事で神保町。途中、神田古本まつりに寄る。喫茶店、店の外まで人が並んでいる。均一で街道関係の資料を買う。いちばん混雑していたのは岩波ホールの裏の路地だった。『特別展 漂流 江戸時代の異国情報』(仙台市博物館、一九九八年)を見つけ、心の中で「値段がいくらでも買う」と決意し、値札を見る。良心価格でほっとする。大黒屋光太夫が書いたロシア文字と数字も収録している。古書ニイロクの出品。古書ニイロク、このあいだの西部古書会館の古書展でも面白そうな見たことのない本をいっぱい並べていた。

 大黒屋光太夫は伊勢しかも鈴鹿の人である。わたしの郷里には大黒屋光太夫記念館があり、地元のスーパーでは「大黒屋光太夫あられ」というあられも売っている(わたしの大好物。特に「味三色」がお気に入り)。

 来年の大河ドラマ絡みで徳川家康関連書籍の刊行予定がすごい。年内だけで何冊出るのか。どうなるんだろう。

 竹橋方面を歩いていると神田共立講堂で「グレープ50周年」のお祝いの花が飾られていた。わたしは会場の前を通り過ぎただけ。さだまさしは今年七十歳。グレープはさだまさしと吉田正美(政美)のフォーク・デュオ。代表曲「精霊流し」は一九七四年。さだまさし、二十二歳。わたしはグレープのころの記憶はなく、小学生のころ「関白宣言」や「親父の一番長い日」あたりで知った。そのころ、さだまさしはまだ二十代だったんだなと今さらながら気づく。自分と十七歳しか年が離れてなかったんだな。子どものころから知っている有名人は、ずっと年上のようにおもえる。

……と、ここまで旅行前に書いていたのだが、先週の金曜から光太夫の地元に帰省し、光太夫あられを二袋、コーミソースを二本買い、大阪に行って、今日の昼すぎに東京に帰ってきて洗濯して寝て、今、起きた。

2022/10/29

都営交通

 土曜日、高円寺フェス。北口の広場でアイドルグループが歌って踊っていた。南口の公園のカレーのイベントをちら見して、西部古書会館。吉田初三郎の鳥瞰図など、珍しいものがいろいろ出ていた。この分野は手を出すのは怖い。『南木曽の歴史』(南木曽町博物館、一九九六年)、『大津市歴史博物館 展示案内』(大津市歴史博物館、一九九一年)、『都営交通100年のあゆみ』(東京都交通局、二〇一一年)など。

『都営交通100年のあゆみ』はカラーで百二十頁、税込千六百円(東京大江戸博物館の都営交通100周年記念特別展「東京の交通100年博」の公式ガイドブックだったようだ)。

 一九一一(明治四十四)年八月一日、東京市電気局がスタート。今でも多摩川第一発電所など、電気事業も行われている。

 Tカードという言葉をひさしぶりに見た。懐かしい。都電と都バスで使えるプリペイドカードだ。九三年十一月一日に発売開始とのこと。
 当時、わたしは二十三、四歳。Tカードは発売してすぐ使いはじめている(新宿〜神保町の行き来で都営新宿線に乗ることが多かった)。神保町で仕事して、そのあと飲みに行くのは新宿だったのだ。といっても、三十歳くらいまで。

 営団(現・東京メトロ)との共通化は九六年三月二十六日、パスネットの導入は二〇〇〇年十月十四日。Tカードもパスネットも地下鉄の路線図が印刷されたカードを買っていた。二〇〇八年一月にTカード(パスネット)の発売終了、同年三月十五日に、パスネットの自動改札機での使用終了とある。

 わりと最近までパスネットを買っていた気がするのだが、十四年前か。年表を見ているだけでも面白い。

 この秋、初の角のお湯割り。年々、ウイスキーのお湯割りが好きになっている。

2022/10/27

書きかけ

 有志舎の季刊のフリーペーパー『CROSS ROAD』(VOL.14)が届く。「追分道中記」(全四回)は最終回——近江路・草津宿について。自分から頼んで書かせてもらった連載だった。
 街道や宿場町の本を集めているうちに興味が拡散し、迷走していた。何か一つに絞って書きたい。それで街道の中でも合流点であり岐路でもある「追分」に照準を定めた。

 今週の日曜日は多摩川を歩きに行った。行きは新宿から小田急線、帰りは京王線。『フライの雑誌』の取材という名目だが、とにかく川沿いの道が歩きたくてたまらなかった。水辺が見たかった。
 今まで降りたことのなかった駅で下車し、川沿いの遊歩道というかサイクリングコースを散策した。

 新刊の『故郷へ、友へ、恩師へ、風の便り 山田風太郎書簡集』(有本倶子編、講談社)の帯を見て、今年、山田風太郎が生誕百年だったことに気づく。同書は色川武大、筒井康隆らの手紙も所収——。

 二〇〇四年に『山田風太郎疾風迅雷書簡集 昭和14年〜昭和20年』(有本倶子編、神戸新聞総合センター)も刊行されている。昭和二十年十月十日の友人宛の手紙がいい。
 戦中の風太郎は日本精神に深い懐疑を抱き、奇怪かつ滑稽と感じていた。ところが、戦後、「こう云う日本精神に対する懐疑とか、合理的とか云う言葉は、今度は杓子も猫も口にする時勢となって、如何にも迎合的であるが、僕のは借物ではない。然るに米国から高圧的に日本の神秘主義粉砕の弾圧が下って来ると却って何糞と云う反抗心に駆られて、日本の偉大なる神秘の炬火を自分の魂と他人の魂に昂揚させたい欲望を感ずる」と書く。風太郎、二十三歳。

2022/10/23

平穏

  金曜日、午前中にちょっと仕事して、午後、コタツ布団を洗濯する。毎年だいたい十一月初旬からコタツ生活に入る(翌年の五月の連休くらいまで)。コタツ布団を出し、押入の空いたスペースに扇風機をしまう。急に寒くなったり、暑くなったり、気温の差の激しい四月、十月はしんどい。
 晴れの日一万歩、雨の日五千歩を目標にしていたが、天気は関係なく五千歩にした。万歩計は外出時にしか持ち歩かない。雨の日でも外に出て歩く。家にこもらないことに意味がある。

 この日、中野まで散歩した。中野〜高円寺間の線路沿い(北)の駐輪場がなくなり、道の雰囲気が変わる。中野も高円寺も工事中だらけ。

 前日のプロ野球のドラフト会議、新入団の選手のことなどを調べているうちに日付が変わる。
 阪神ファンの知り合いに「ヤクルトのドラフト二位の選手はいいですよ」と教えてもらう。

 土曜日、昼、西部古書会館。古本案内処の本(小沢信男、高木護の署名本)を買う。小沢信男と高木護の二人は一九二七年生まれ。高木さんは九十二歳、小沢さんは九十三歳で亡くなっている。
 家に帰って部屋の掃除をしてコタツ布団をセットする。薬局で貼るカイロを一箱(三十枚入り)買う。

《私には私だけのことしか言えないが、私は普通で、平穏で、適当にろくでもなく、適当に人を愛せば、それでよく、それができればありがたいことだと思っている》

《平穏は運に恵まれないと維持できない》

 古山高麗雄の「運のまにまに」の言葉(『反時代的、反教養的、反叙情的』ベスト新書、二〇〇一年)。

 平穏とは何か。運とは何か。そんなことを考えているうちに一日が過ぎる。いい一日だった。

2022/10/19

不参加講演会

……十一月五日(土)、大阪府茨木市立中央図書館の富士正晴記念館特別講演会「竹林の隠者、富士正晴の不参加ぐらし〜荻原魚雷に聞く、隠居生活のススメ〜」という会に出ます。

講師:荻原魚雷(エッセイスト、フリーライター)
日時:令和4年11月5日(土曜日)午後2時から3時30分(午後1時30分開場)
場所:中央図書館2階多目的室
定員:先着40名、事前申込制(入場無料)
申込:10月13日(木曜日)午前9時30分から
申込先:中央図書館カウンター・または電話(072-627-4129)

●中央図書館(総合窓口)
所在地:〒567-0028 大阪府茨木市畑田町1番51号
メール:cyuotosyokan@city.ibaraki.lg.jp
もより駅はJR京都線の茨木駅もしくは総持寺駅、阪急京都線茨木市駅。

 二十代のころから富士正晴を愛読していた。隠居の話もそうだが、世の中との距離のとり方、時勢に乗らない生き方、用心深さみたいなものを学びたいという気持があった。ここ数年、富士正晴をよく読み返している。

《還暦もすぎれば少しは自分およびこの世が判ってくるかと若い頃には思っていないでもなかったが、その年になってみると、自分およびこの世が一つ判れば二つ判らないことが出て来るという有様で、これでは死ぬまで、自分およびこの世について茫漠とした認識を持ちつづけるばかりだなという感じがする》(「憂き世」/『不参加ぐらし』六興出版)

 これまで対談や座談形式のトークショーはあったが、ひとりで喋る機会はほとんどなかった(一度だけコクテイル書房で喋ったかも)。あと二週間ちょっと。奮ってご参加ください——といいにくい演題にしてしまったことをちょっと悔やんでいる。

2022/10/18

地味な記録

 九〇年代の雑誌を読んでいたら、某駅ではイオカードがまだ使えない——みたいな記述があった。イオカード、忘れていた。
 ICカードのスイカが普及する前、磁気式プリペイドカードのオレンジカードやイオカードがあった。イオカードは自動改札も通すことができた(オレンジカードは通せない)。他にも私鉄や地下鉄で使えるパスネットもあった。
 イオカードは二〇〇六年二月、パスネットは二〇〇八年三月で自動改札での使用が終了した。数年前までわたしは関西方面を旅行するときは「スルッとKANSAI」を利用していた。

 今年九月末、JRの普通回数券の発売が終了した。
 九〇年代半ばから四半世紀以上にわたり、JRの普通回数券の中野駅から阿佐ケ谷駅の回数券を買い続けてきた。途中で普通の切符の大きさから、新幹線の回数券サイズに変わった。

2022/10/15

三度寝の日々

 朝寝て昼寝て夜寝て……三度寝くらいしてしまう日が続いた。そのせいかどうか、しょうもない夢もたくさん見た。ベルトがちゃんとズボンを通っていないことに気づく夢とか冷凍庫から見覚えのない肉が出てくる夢とかトイレの電球が切れている夢とか……現実感がありすぎて起きたときに変な気分になった。

『本の雑誌』十一月号の特集「やっぱり神保町が好き!」。わたしは岡崎武志さんと「神保町を歩こう対談!」という対談をしました。小諸そばの話はカットされるとおもっていたが残っていた。
 学生時代から御茶ノ水・神保町界隈に通っている。古本屋めぐりのために上京した……といっても過言ではない。しかしずっと古本に夢中だったわけでもない。どんなに好きなものでも熱は冷めてくる。それでも惰性や習慣で本を買う。何でもいいから買う。読みたい本が見つからないときはこれまで読んでこなかった分野の本を買う。
 文学一筋、歴史一筋みたいな人生に憧れもあるが、自分はそうではない。漫画、野球、将棋、釣り、街道……と時期によって集めている本はバラバラである。古本屋に行って、家でごろごろしながら読んでも読まなくてもいい本を読む。十年、二十年前に読んだ本が今の自分の考え方につながっている……ことはよくある。

 そのときどきの状況や体調によって読書の面白さも変わる。生活が不安定のときのほうが真剣に本を読んでいる気がする。読んでいるときは、それが後の自分にどんな影響を及ぼすのかわからないことのほうが多い。

 四十歳前後に川の本を集め出したことが、街道への興味につながっている。街道から地理や歴史のことを知りたくなる。一つの関心を掘り下げていけば、いろいろなことにつながっていく。どこに向かっているのかわからなくなることもよくあるが、それはそれで楽しい。

2022/10/10

寒暖差疲労

 六日(木)、急に気温が下がる。十二、三度だったか。前日までは半袖の人をけっこう見かけた。冷えと疲れが、心身に及ぼす影響は個人差がある。「寒暖差疲労」と呼ばれる症状も千差万別だが、気温の変化によって体調だけでなく情緒が不安定になることもある。
 日付が変わる深夜〇時、頭がまったく回らなくなり、貼るカイロの力を借りた。十月上旬にカイロを貼ったのはじめてかもしれない。夏用の肌掛けではなく、掛け布団を出す。

 心や体は天候にわりと左右される。
 日々の食事も細かく検証していけば、自分のコンディションとの関連が見えてくるかもしれない。肉を食ったら元気になったみたいなことは誰にでもあるだろう。様々な過不足が不調の原因につながっている。アルコールやカフェインの摂りすぎ、ビタミンや鉄分が足りない——栄養学が万能とはおもっていないが、バランスのいい食事の効能はあなどれない。不調がやや不調くらいにはなる。不調とやや不調の差を言語化するはむずかしい。

 八日(土)、プロ野球のCS(クライマックスシリーズ)がはじまる。

 夕方、西部古書会館。木曜から開催だった。前の週の古書展が三日前くらいに感じる。しかし週一回のビンや缶のゴミの日はそんなふうに感じない。不思議である。九〇年代の『東京人』のバックナンバーなどを買う。ここのところ、古書会館に行くたびに昔の雑誌を二、三冊ずつ買っている。すこし前に九〇年代の『シティロード』も何冊か買った(文字が小さくて読むのに苦労した)。
 自分が生まれる前の明治・大正・昭和の写真集などもたまに買う。昔の街道や川の写真を見ていると、今はどうなっているのか確かめに行きたくなる。

 弱っているときは自分の過去や現在より、自分の知らない世界に浸るほうが精神衛生によい——と中年以降に学んだ。現実逃避ともいう。

2022/10/02

電話のこと

 金曜夕方、古着屋で秋用のシャツ(千円)を買い、そのあと西部古書会館に行く。古書展、平日の開催を忘れていたのだが、散歩中に気づく。夕方で人も少なく、ゆっくり目次や奥付を見て本を選ぶことができた。草柳大蔵著『ルポルタージュ ああ電話 山村のできごとからその未来像まで』(ダイヤル社、一九六七年)などを買う。昭和の電信電話事業のルポ。「申込んでもつかない電話」「つながらない市外電話」——五十数年前までは電話をかけるのも大変だった。
 たとえば滋賀県の彦根市から市外電話をかけようとすると、つながるまでに「京都が四時間四十分、東京まで七時間」。電車のほうが早い。

 わたしは一九六九年生まれで家(長屋だった)に電話がついたのは一九七四、五年ごろだった。自分の親は三十歳過ぎまで電話のない生活を送っていたのか。当時、近所には電話のない家はいくらでもあった。

 上京して半年くらいは電話なしで過ごした。住んでいた寮の玄関に十円を入れるピンク色の電話があった。十円玉を何枚も用意するのは面倒だったから、こちらから電話をかけるときは近所の銭湯の公衆電話を利用した。金券ショップでテレフォンカードを買っていた。千円のカードが九百五十円くらいだったか。

 部屋に電話をひいたのは高円寺に引っ越してきてからだ。権利だかなんだかのお金が七万円くらいした。郷里の家の電話はダイヤル式の黒電話だったので、東京に来てから留守電機能のついた電話をつかうようになった。道具が増えると楽になる。楽だとおもうのは最初のうちで、すぐ日常になる。

 今や電話といえば、スマホや携帯電話を指し、自宅の電話を「家(いえ)電」と呼ぶようになった。

2022/09/29

微調整

 九月中旬あたりからすこしずつ衣替え、急に寒くなる日に備え、布団カバーを洗濯する。

 三月末にプロ野球のペナントレースがはじまって半年間、毎日毎日飽きもせず、勝ったり負けたり、打ったり打たれたりに一喜一憂してきた。二軍の選手やドラフトのことも調べる。野球の本を手あたり次第に読む。その労力を仕事に向けていれば……とおもうこともあるが、野球の時間は自分の精神安定のためには欠かせない。

 今年のペナントレースで印象に残った選手はヤクルトの小澤怜史投手である。小澤は「こざわ」と読む。育成時代の背番号は「014」。名前の「れいじ」の数字読みになっていたことに気づく。ソフトバンクを戦力外になり、ヤクルトに育成選手として入団し、投球フォームをサイドスローに変えた。今年のシーズン途中に支配下登録され、いきなりノーアウト満塁の場面で登板し、無失点でおさえた。その次の試合でプロ初先発、初勝利。野村克也さんが監督だったころの“野村再生工場”を思い出した。

 ペナントレースの終盤になると、ドラフトや戦力外のことで頭がいっぱいになる。引退を表明した他球団の選手のことも気になる。小澤投手のように戦力外から復活するのは稀な例といっていい。
 プロ野球の世界はどんなに活躍した選手でも現役でいられる年数は二十年ちょっと。平均すれば、十年未満といったところだろう。
 ピッチャーがオーバースローからサイドスローに変える。このままだとプロでは通用しない。投手にとってサイド転向は「これでダメなら引退」という最後の賭けみたいなところがある。

 野手は野手で毎年のようにフォームを変える。シーズン中に変える選手もいる。同じフォームではどんどん研究され、苦手なコース、球種を分析される。苦手なコースに対応するため、バッティングフォームを変えると前に得意だったコースが打てなくなる……こともある。微調整をし続けないとプロの世界では生き残れない。

 文章の場合、文体を変えたり、これまで書いてなかったテーマに取り組んだりすることもフォームの変更に近いかもしれない。昔の自分の文章を読み返すと句点(、)が多い。雑誌の三段組、四段組など、一行あたりの文字数が少ないレイアウトで書いていたころの癖だ。なるべく固有名詞が行をまたがないよう、句点で調整をしていた。

 最近、微調整の必要を痛感している。

2022/09/26

昔と今

 日曜日、西部古書会館。澤壽次、瀬沼茂樹著『旅行100年 駕籠から新幹線まで』(日本交通公社、一九六八年)、矢守一彦著『古地図と風景』(筑摩書房、一九八四年)など、カゴ半分くらい買う。『旅行100年』が刊行された一九六八年は「明治百年」の年でもあった。瀬沼茂樹は『本の百年史 ベスト・セラーの今昔』(出版ニュース社、一九六五年)という著作もある。『本の百年史』は昔の出版社の社屋の写真(絵)、書影が多数収録されていて、ちょくちょく読み返す。奥付には「中野区桃園町」の瀬沼茂樹の自宅の住所も記されていた。桃園町は、作家、評論家がけっこう住んでいた。

 テレビで全国各地の水害のニュースを見る。ここ数年歩いた宿場町も被害に遭っている。わたしは街道を通して日本の地理や歴史を勉強中である。五十数年生きてきて、知らない町や川がたくさんある。

 すこし前に夜、中野から高円寺まで歩いていたら、途中、環七沿いに肉(冷凍)の無人販売所ができていた。

 高円寺と阿佐ケ谷の間のガード下も冷凍食品の自販機がずらっと並ぶコーナーがまもなくオープンする。これから無人の店がどんどん増えていくのかもしれない。そういえば駅前の空店舗がガチャガチャコーナーになっていた。小さな男の子が(けっこうリアルな)昆虫のおもちゃを買っていた。

 インターネットが普及する以前は、演劇映画ライブの情報を載せれば雑誌が売れた(九〇年代前半くらいまで)。FM雑誌が四誌あり、すべて合わせると百五十万部以上という時代もあった。通勤通学の電車に乗れば、網棚に雑誌(週刊誌、漫画誌)や新聞がいっぱい落ちていた。これだけ活字を読む人がいるなら、この先、自分も細々と暮らしていけるのではないか。家賃と食費と光熱費その他を払い、本や雑誌が買えて、週二日くらい飲み屋や喫茶店に行けて、年に一、二回国内旅行ができる——そういう生活が送れたら文句はないとおもっていた。

 新宿や渋谷に行ったときの人の多さを見て「こんなに人がいるなら自分一人くらい生きていける隙間がどこかにあるだろう」ともよくおもった。

2022/09/19

連休中

 西部古書会館の古書展なしの週末——また昼寝夜起になる。日曜日、雨。温度計と湿度計のついた時計を見ると、湿度八〇%という数字だった。はじめて見た。
 日中、散歩できなかったので、夜、早稲田通りを阿佐ケ谷方面に向って歩く。二十四時間営業のコインランドリーが増えている。夜間も営業しているスーパーをのぞいたら、栗のお菓子のコーナーがあった。栗ブーム? 散歩中「杉並区区制施行90周年」のポスターを見かけた。「90周年記念誌」が十月に発行されるらしいのだが、家に届くのか。最近、忘れてしまいそうなどうでもいいことを書き残したい欲が芽生えた。

 休み中、田島列島『水は海に向かって流れる』(講談社、全三巻)を再読した。一巻が出たのが二〇一九年だから、(自分の感覚としては)つい最近の作品である。前作もよかった。
「会社は?」
「やめた! おじちゃんは現代人に向いてないし 風邪でも休めない現代人が大嫌い!」
 主人公(高校生男子)と漫画家のおじ(母方の弟)の会話。物語の中を流れている時間が楽しく心地よく、登場人物たちの掛け合いも秀逸で頁をめくる手が止まらない。主人公はおじと同じシェアハウスに下宿し、学校に通う。シェアハウスには、主人公の過去と関わりのある年上の女性、主人公と同じ学校に通う女の子の兄(占い師)なども住んでいる。

 もより駅の名前、店の名前(動物病院、中華屋、居酒屋)が、駄洒落になっていたことに気づく。焼き鳥を出す居酒屋の店名は「トリレンマ」。知らない言葉だったので、つい検索してしまった。商店街の激安店の名前は「ロシナンテ」。絵の中にちょこちょこ遊びがある
 初読のときに読み飛ばしていたのは「福江のおばさん」という言葉——占い師の兄妹のおばで、妹のほうはたまに九州の方言っぽい言葉が出る。福江は長崎の五島列島の町の名で、作中に「五島うどん」の袋も描かれている。

 主人公たちが暮らしている町は、都会(東京)っぽいが、それなりに自然もあり、電車は高架を走っていて、大きな川がある。川の名前というか、主人公たちが暮らす町のもより駅は部妻川駅(別冊マガジン=別マガの連載だったことからきている)なのだが、なんとなく多摩川に似ている気がする。

 昔からわたしは漫画の中で川沿いを歩くシーンが好きで『水は海に向かって流れる』も堪能した。

2022/09/13

意識の変化

 日曜日、昼はプロ野球(ひいきの球団の一軍と二軍の試合を追いかける)、夜は仕事したり、漫画を読んだりしていて、気がつくと家から出ないまま午後十一時すぎになっていた。

 昔は気にならなかったけど、時代や自分の感覚の変化によって、引っかかるようになったことがいろいろある。

 野球のヤジもそうだ。
 球場に行く。外野の自由席で酔っ払いが敵味方関係なく選手を罵る。十年くらい前までは「これも野球の風物詩だな」くらいにおもっていた。もっとも昔から好きではなかったが。

 客席だけでなく、ベンチのヤジも同様である。おそらく若い野球ファンは、そのあたりはもっと過敏かもしれない。いちおう、わたしは今よりもっとひどかった時代を知っていて、それなりに免疫がある。それでも好きな選手が罵倒されたら、気分はよくない。

 昨日、ひいきの球団の某コーチが主力選手が受けたデッドボールにたいし、報復をうながすようなヤジを飛ばし、試合後、そのことを謝罪した。昔ならそれほど問題にならなかっただろう。

 新型コロナの流行以降、球場で声を出しての応援を自粛するようになり、その分、ベンチの声がよく聞えるようになった。某コーチのヤジは今回の謝罪の前からインターネット上ではたびたび批判の声があがっていた。

 こうした変化にたいし、敏感な人もいれば、そうでない人もいるだろう。個人の受け止め方にも時間差がある。むずかしい問題だ。

2022/09/05

例大祭

 土曜日、昼、西部古書会館。あいかわらず、文学展パンフと街道本。ずっと探していて見つからず、定価の何倍で買った本が、その後、格安の値段で何度も見かけるようになる。よくあることだけど、たぶん、安く買っていたら、棚に並んでいても気にせず通りすぎて記憶に残らない。たまに高摑みしてしまうのもわるくない。
 今回、CDも並んでいた。RCサクセション『シングルマン』のCDなどを買う。「甲州街道はもう秋なのさ」を聴く。

 夕方、散歩。青梅街道のいなげやに行った後、住宅地を歩いていたら、神輿に出くわす。馬橋稲荷神社で例大祭。出店もいろいろあって、大にぎわい。子どもがいっぱいいる。生ビールを飲む。翌日も午後六時すぎに行き、神楽を観る。五日市街道沿いのスペイン料理の店のパエリヤは売り切れ。ケバブの出店もあった。
 若いころは祭なんて、まったく興味がなかった(古本祭は例外)。年々、花見とか祭とか、季節の行事みたいなものが好きになっている。
 いつまで元気に歩きまわれるかわからない。酒も飲めなくなるかもしれない。
 この先、何ができて何ができないか、そういうことを考えることが多くなった。

2022/09/01

意欲

 すこし前にミシマ社の小田嶋隆さんの新刊が届いたので、同社の既刊の『小田嶋隆のコラム道』『小田嶋隆のコラムの切り口』を読み返した。『小田嶋隆のコラム道』は小田嶋本で一番読み返しているかもしれない。本に三省堂書店のレシートが挟まっていた。日付は二〇一二年の五月二十四日。最近の本だとおもっていたのだが、十年以上前か。『コラム道』の第五回「モチベーションこそ才能なり」にこんな一節がある。

《技巧のない書き手は、どんなに良い話を持っていてもそれを良質のテキストとして結実させることはできないし、意欲を高く保ち続けることのできない書き手は、最終的に、原稿を読める水準の作品として着地させることができない》

 この話と新刊の『小田嶋隆のコラムの向こう側』の二〇二二年三月の「思い上がりがもたらす自縄自縛」はつながる。

 文章にかぎった話ではないが、意欲の持続ができるかどうか、それができないとあらゆる作品は未完成になる。
 技巧に関しては百人いれば百通りの手法があるだろう。「ヘタウマ」だって立派な技巧といえる。ただ、その人の技巧や作風が、広く(狭くてもいい)知られるまでには積み重ねが必要だ。しかし書いても書いても「くだらない」「つまらない」と貶され続けたら、よっぽど強靭な精神力の持ち主以外はいやになる。

 編集者の仕事の七割くらいは書き手の意欲をそがないことではないか——というのがわたしの持論だ。

 インターネットの普及以降、プロアマ関係なく、何かを発表するたび、批判にさらされる(賞讃されることは滅多にない)。

 他の書き手はどうだか知らないが、わたしは日々書きかけで終わってしまう原稿を量産している。「読みかけていた本が行方不明になってしまった」「返事に時間がかかりそうなメールが届いた」くらいの理由で書きかけの原稿が頓挫してしまうこともよくある。

 途中で資料を探さなくてもいいようにはじめから机のそばに揃えておく。仕事中はなるべく外からの情報を遮断する。それだけで文章を最後まで書き上げる率は三割くらい増す(とおもう)。

……もうすこし長く書く予定だったが、急な予定が入ったのでこれにて終了する。

2022/08/31

やり直し

 睡眠は充分とれていてるのだが、どうもやる気が出ない。家でごろごろしていたい欲が強すぎるのかもしれない。
 気晴らしにライトノベル原作のファンタジー漫画を何冊か読む(自由研究)。ここ数年、「やり直し」というジャンルが流行っている。「悪役令嬢」ものにその系譜が多い。

 ヒロイン(だいたい名家のお嬢様)は過去の悪逆非道な行為によって処刑される。あるいは婚約者や身内に裏切られ、命を落としそうになったり、国外に追放されたりする。気がつくと記憶を持ったまま子ども(〇歳から十五歳くらい)に戻っている。また何かのきっかけで転生前の記憶を思い出し、「ここはゲーム(小説、アニメ)の世界だ」と気づき、ゲームの世界で自分は悪役だったことを自覚する。そして破滅ルートに乗らないよう、稼ぐ手段を身につけたり、友好な人間関係を築こうとしたり、真面目に(約)二度目の人生を「やり直す」。

 近い将来、家の没落や身の破滅に追い込まれるかもしれない主人公がどうやってピンチを回避するか。
 あるヒロインは一度目の人生で婚約破棄された王子様ではなく、隣国の王子の元に行く。財政や教育など、領地改革に取り組み、家の没落を回避しようとするヒロインもいる。

 あのときこうしておけば、もっといい人生になったかもしれない。子どものころに戻って、正しい選択をする、人並外れた努力をする。そうすれば……。そういう作品が数え切れないくらい刊行されているのは、多くの人が今の人生や境遇にたいし、どうにか軌道修正したいと願っているからだろう。

 年をとればとるほど修正はむずかしくなる。「やり直し」系の主人公たちは未来を知っている。フィクションではなく、現実の世界であっても、未来予測は可能である。今の自分が望まない未来を変えることもできる……と考えながら、一日中だらだらしていた。

2022/08/29

余地

 夜、涼しくなってきたが、湿度がきつい。なんとなく「八月中に」とおもっていた仕事がたまっている。昼寝夜起生活を数日かけてどうにか調整する。

 金曜日、午前中、郵便局に行って、そのまま散歩していたら西部古書会館の赤いのぼりがちらっと見えた。高円寺の古書展はだいたい土日なので、平日開催の日はよく忘れてしまう。寄ってよかった。
『水木しげる 妖怪道五十三次』(YANOMAN、二〇〇四年)を買う。新装改訂版ではなく、元のほう。地方の文学館や記念館のパンフもいろいろあった。それにしても正岡子規関連のパンフレットは何種類(何十種類)あるのか。この日も二冊買った。
 書画、原稿、手紙、初版本。一読者としてはありがたいが、文学展のパンフレットを一冊作るのにどれだけの時間と労力がかかるか(とくに年譜を作るのは大変だ)。
 自分がふだん読まない作家、ジャンルでも文学展パンフは面白い。一人の作家が生きた時代や交遊がすこしでも知れたら、それでいい。

 午後、本の雑誌社へ。対談。いちおう話すことに困ったとき用のメモを作って鞄に入れていたのだが、一度も出さずにすんだ。夜、tvk(テレビ神奈川)でナイターのヤクルト対横浜戦を観る。今年のペナントレースは、中盤あたりまでヤクルトが首位を独走していたが、横浜が猛追——。すこし前に燕党の知り合いと「九七年のシーズンを思い出すねえ」といった話をした。「あのときは石井一久のノーヒットノーランで……」。

 何十年もファンをやっていると様々な記憶の堆積がある。野球もそうだし、本を読んだり、音楽を聴いたりしていても、気がつくと過去と対話している。その分、新しいこと、守備範囲外のことを受け容れる余地が減る。興味の持てないことに労力や時間をつかえなくなっている。そのあたりが五十代の課題か。むずかしい。

2022/08/25

掃除中

 七月半ばごろ、高円寺駅北口の広場に新型コロナの無料のPCR検査をするテントが設置され、南口の商店街の7DAYSの店舗にも検査場ができた。忘れてしまいそうな気がしたので書き残しておく。

 ここ数日、昼寝夜起の生活になり、夜の十時すぎくらいに、家から一、二キロ先まで散歩する。夜風が涼しく快適だが、陽にまったく当たらない日が続いたせいか、なんとなく気分がすぐれない。

 気がつくとコタツのまわりに本と資料の山ができている。身のまわりを整理整頓する時間がほしい。

 自由といえる状態は不安定と直結している。生活の基盤を築くことを優先し、それから自分のやりたいことに注力したほうがよかったのではないか。そんな考えがしょっちゅうよぎる。将来の不安と向き合うにも気力や体力がいる。不調時にそういうことを考えると、あまりよくない状態の延長線上の未来ばかり浮んでくる。

 そこそこ調子のいい時ですら何もかもうまくいっているわけではない。細かいミスはいっぱいしている。すぐ切り替え、気持を立て直し、なんとなく帳尻を合わせているにすぎない。

 その切り換え作業がすんなりできるかできないか——それも好不調のバロメーターかなと。

2022/08/18

大きな賭け

 土曜日、台風接近。小雨になった隙に西部古書会館。佐藤正午著『象を洗う』(岩波書店、二〇〇一年)の署名本かもしれない本を買う(アルファベットの「S」の字以外は解読できず。本人の直筆かどうかわからない。日付入り)。収録作は九〇年代前半の随筆が多め。文庫は持っていたが、単行本で読むと味わいがちょっとちがう。

『象を洗う』に「賭ける」という随筆がある。初出は『図書』二〇〇一年十月号——。

 二十代後半の二年間、後のデビュー作となる小説の執筆に捧げた。その行為は「大きな賭け」だった。
 しかし四十六歳の佐藤正午は、当時の気分を「忘れかけている」。

《若い僕は大きな賭けをして小説家になった。
 それは認めようと思う。ただ、そこから先の長い長い道のりもいまの僕は知っている。勝利の自信を持って歩き始めたはずの道が、勝ち負けの見えない深い森へとつながっていたことも知っている》

 二〇〇〇年代の前半に刊行された佐藤正午の随筆『ありのすさび』『象を洗う』『豚を盗む』(いずれも光文社文庫)は再読頻度の高い本になっている。
 わたしが電子書籍の端末を買ったのは二〇一三年一月(生まれてはじめてクレジットカードを作った)。そのころ日本のエッセイ集の電子書籍はまだ千冊あるかどうかといった感じだった。
 それでなんとなく佐藤正午の随筆を買った。そしてすぐ紙の文庫で買い直した。

 現在、電子書籍の端末は三台目である(前の二台も用途別に現役活用中)。電子書籍で買うのはほとんど漫画だ。一冊の本の中のどのあたりに何が書いてあったか。紙の本だと手にとって、パラパラ頁をめくっているうちにおもいだせる。電子書籍だと頭と手の連動がうまくいかず、記憶が作動しない。
 もっとも近年は紙の本でも記憶は怪しくなっている。たぶん読書の集中力が落ちているのだろう。

 久々に「賭ける」を読み、これまで自分は「大きな賭け」をしてきたかと考える。大学を中退し、フリーで生きていこうと決めたときは人生を賭けてその道を選んだつもりだった。でも不安定な生活も続けていれば、いつかは日常になる。賭けに負けることもあれば、賭けを避け続けて行き詰まることもある。恋愛やら結婚やら転職やらどこに住むかやら、大小さまざまな賭けがある。

……ここまで書いて筆が止まり、二駅分くらい散歩してきた。

2022/08/12

一区切り

 五十代になる——そのすこし前から大きな目標とかゴールとかではなく、一区切りを目指して日々を過ごすようになった。
 週の仕事が終わったら一区切り、月の仕事が終わったら一区切り。区切りながら続ける。

 十一日、休日(山の日)。夕方神保町、小諸そば、神田伯剌西爾。小諸そばでは季節メニューの「健康オ野菜ぶっかけそば」。ここのところ、神保町から足が遠のいていて伯剌西爾のコーヒーも三週間ぶり。うまい。

 この日、均一で『週刊日本の街道』(講談社)の「甲州道中」の「1」を見つける。「甲州道中」の「2」は西部古書会館ですでに買っていたのだが、なぜかそのとき「1」がなかった。他にも『日本の町並み 宿場町を満喫する』(学研、二〇〇五年)も同じ店の均一にあった(『週刊パーゴルフ』の別冊)。『日本の町並み』は全三十巻のシリーズだが、ほしかったのはこの巻のみ。東海道の関宿(三重)、北国街道の海野宿(長野)も大きく紹介している。
『日本近代文学の巨星 漱石と子規展』(サンケイ新聞社、一九八四年)はなんとなく家にあるような気がしたけど、買った。やっぱり、あった。この数年、文学展パンフの重複買いは何冊目だろう。これも勉強である。

 帰り九段下方面、昨年十二月にオープンした「BOOK HOTEL 神保町」をちらっとのぞく。南(東南)からの風がちょっと気持いい。

 話は変わるが、今月、高円寺駅北口の日高屋が閉店した(新高円寺店はまだある)。深夜、店の前で工事の貼り紙を読んでいたら、近くを歩いていた二十代前半くらいのカップルも立ち止まり、男性のほうが「マジか」と声を出した。北口の日高屋、けっこう繁盛していたのだが……。
 翌日、新高円寺を散歩していたとき、青梅街道をはさんだ向いのドトールのシャッターが下りていて、貼り紙のようなものが見えた。日高屋の件もあったから、ちょっと不安になったが、お盆休みだった。よかった。

 高円寺の喫茶店でいうと、北口の琥珀が閉店して以降、いわゆる行きつけの店を失った。打ち合わせや取材で利用する店はいくつかある。散歩のついでにふらっと入って、好きな味のコーヒーが飲めて、一服できて、文庫本を数十頁読み、気分転換できる店——高円寺だとグッディグッディ、ちびくろサンボ、琥珀だった。

 このブログは二〇〇六年八月にはじめた。最初は十年くらい続けようとおもったが、いつの間にか十六年になった。まだ続ける。

2022/08/03

街道その他

 月末、有志舎の季刊フリーペーパー『CROSS ROAD』(VOL.13)が届いた。連載「追分道中記」は三回目。今回は長野の追分の話を書いた。残り一回。街道に興味を持ちはじめころ、これまで通り過ぎてきた町を知りたいという気持が芽生えた。
 通り過ぎていたのは町だけでなく、歴史や地理に関してもそうだ。知らない町を訪れ、その土地をすこしずつ知る。知識を得た後、その町を再訪するとまた見方もすこしずつ変わる。その体験が楽しい。

「中央公論.jp」の「私の好きな中公文庫」で「街道をめぐる3冊」というエッセイを書いた。武田泰淳『新・東海道五十三次』ほか——『新・東海道』の話はこの五、六年の間にあちこちで書きまくっている。まちがいなく中年以降の自分の人生を変えた本だ。
 日本橋から品川、川崎と宿場町を順に旅をするのではなく、どんどん脱線していくのもいい。

 新刊、佐野亨さんの『ディープヨコハマをあるく』(辰巳出版)が素晴らしい。横浜、町ごとに土地の雰囲気がちがい、一括りにできない。それぞれの町を掘り下げていけば、どこもすごく面白い。名著だ。街道と川の話が出てくると付箋を貼る。

『フライの雑誌』の最新号で横浜の大岡川の話を書いた。真金町(桂歌丸の生まれ故郷)から弘明寺あたりまで歩いた。真金町近辺、昔は運河が流れていたという話を桂歌丸の本で読み、それで歩きに行ったのである。

『ディープヨコハマをあるく』の第1章も大岡川の話だった。町と川の結びつきについてもいろいろ勉強になった。佐野さんも弘明寺駅の近辺に住んでいたことがあると書いてあった。川歩きの取材を通して、弘明寺は好きになった土地の一つだ。小さな商店街もよかった。旧鎌倉街道も近くを通っている。

 第9章「神奈川をあるく」の子安・大口のところで足洗川(入江川の支流。現在は暗渠)の話も出てくる。浦島太郎が足を洗ったという伝承が残っている川なのだが、何度かこのあたりは歩いているのに気づかなかった。

 七月三十日から尾道、倉敷、高松を旅行して昨晩帰京——。瀬戸内の旅の話はまた今度。

2022/07/28

文と本と旅と

 毎日ものを探してばかりだ。スクラップするためにとっておいた雑誌がない。読みかけの本が見当たらない。この時間をもっと有意義なことにつかいたい。

『文と本と旅と 上林曉精選随筆集』(山本善行編、中公文庫)は喫茶店に入ったときにすこしずつ読んでいた。ところが二日前から行方不明になり、今日ようやく見つけた(ふだんつかっていない鞄に入れっ放しになっていた)。「古木さん」を読む。
 古木さんは古木鐵太郎。編集者時代の上林曉の先輩で、高円寺、野方あたりに長く住んでいた。葛西善蔵「湖畔手記」の口述筆記を行ったのも古木である。上林は古木を「美しい市民」と評した。酒を「うまそうに飲む」とも。

 上林曉と古木鐵太郎は『現代作家印象記』(赤塚書房、一九三九年)という共著もある(けっこう入手難の本だ)。

 上林曉の随筆を読んでいると、文学にたいする真面目さに胸を打たれる。

《生命の通った小説を書けるようになるためには、生涯の精進を必要とするのだと覚悟を決めている》(「私の小説勉強」/同書)

 生涯の精進——わたしもそういう気持で何かに取り組みたい……とおもうのだが、すぐ楽なほうに流される。つい手間と時間のかかることを先送りしてしまう。

2022/07/27

週末

 土曜日、昼すぎ西部古書会館。下村栄安著『町田街道』(武相新聞、一九七二年)、『企画展示 江戸の旅から鉄道旅行へ』(国立歴史民俗博物館、二〇〇八年)など、街道本、図録が充実していた。芭蕉展のパンフ、「奥の細道」関係の図録も何冊か買った。芭蕉の図録、何種類あるのか。

 日曜日、夕方、新宿へ。西口の金券ショップで新幹線のチケットを買う。数日前に中央線沿線の金券ショップをまわったときは新大阪までのチケットしかなかった。今回はもうすこし先までのチケットが買いたくて新宿に行った。ほとんどの店が新大阪か新神戸まで。駅からすこし離れた店でようやく目当の行き先のチケットを入手した。

 帰りは新宿駅西口から青梅街道を歩いて、西新宿の成子天神社に寄る。しばらく歩くと神田川。淀橋から東中野に向かって遊歩道を歩く。神田川の遊歩道を北に向うと大久保通りの手前に桃園川緑道がある。そのまま緑道を通り、高円寺に帰るかどうか迷ったが、暑さにやられそうだったのでそのまま神田川沿いを歩いて東中野駅から電車に乗った。車の通らない遊歩道を歩くのはいい気分転換になる。

 金券ショップで買ったJRの乗車券は日程変更が必要なタイプだった。高円寺駅は今年三月十八日にみどりの窓口がなくなり、もより駅だと中野駅か荻窪駅に行って手続きをしないといけない。自動券売機で変更できないのはちょっと不便である。

2022/07/23

歩きながら

 神保町の書店めぐり。新刊書店の棚を見ていると、今の自分の興味、関心がどんな感じなのかなんとなくわかるような気がする。
 移動、移住、住まい、地理、川、街道——。すこし前まで老いや余生に関する本をよく手にとっていたが「もうちょっと先でいいかな」とおもうようになった(ちょこちょこ集めてはいる)。

 今月ちくま文庫のラインナップがいい。ぱっと見ただけで読みたいとおもった本が何冊もある。橋本倫史『ドライブイン探訪』、宇田智子『増補 本屋になりたい この島の本を売る』、横田順彌『平成古書奇談』、今和次郎『ジャンパーを着て四十年』が同じ月に出るのとは……。

 家に帰ると『フライの雑誌』の最新号が届いていた。特集は「子供とフライフィッシング」。特集ではないが、樋口明雄さんの「ウラヤマ効果」は心身のメンテナンスの仕方、都会型の孤独と自然型の孤独に関する思索、それから歩くことの効用など、「こういう文章が読みたかったのだ」と興奮する。

 もともとわたしはインドア派で家でごろごろだらだらするのが大好きだったはずなのに、三十代後半、四十歳前後から体力や気力の低下にともない、自分が楽しいとおもえることすら疲れてつらくおもうようになった。これはいかん、何とかせねばと試行錯誤を経て、川歩きや街道歩きにたどりついた。

 二十代のころ、ある評論家と飲んでいたとき、「人間というのは足が弱ると頭も弱る」といっていた。その人はわたしの父と同い年だったから、当時、五十二、三歳だったか。結局、文章を書くのも体力が必要で、四十代、五十代あたりで躓く人が多い(わたしもしょっちゅう転んでいる)。今まで通り、ふだん通りというのがだんだん難しくなり、適度に休みながら、ごまかしごまかし生きている感じだ。

2022/07/19

オレンジ色の電車

 高円寺駅百周年(七月十五日)に合わせて、三好好三、三宅俊彦、塚本雅啓、山口雅人『中央線 オレンジ色の電車今昔50年』(JTBパブリッシング、二〇〇八年)を読む。高円寺駅、阿佐ケ谷駅、西荻窪駅(杉並三駅)はいずれも一九二二年七月十五日開業(中野〜三鷹間で土日祝に快速が止まらない駅でもある)。雨の週末、高円寺と阿佐ケ谷間のガード下を歩いていたら、JRの制服を着た人たちと立て続けにすれちがい、「何だろう」とおもったら倉庫みたいなスペースでイベントを開催していた。子ども連れの家族がけっこういた。

 一九六二年、高円寺駅の高架化の工事がはじまり、一九六六年四月二十八日に高架駅になった(同時期に営団地下鉄の東西線の乗り入れも開始)。
 高円寺に引っ越してきたころ、高円寺駅が高架になる前の話をカウンターだけのバーで聞いたことがあった。遠い昔のことのようにおもえたが、その当時から計算すると二十四、五年くらい前の話だ。五十歳すぎた自分も二十四、五年前の一九九〇年代のことをつい最近の話みたいな感覚で喋りがちである。二十代前半くらいの人からすれば、変な感じがするだろう。

 この本、高円寺駅の高架工事中の写真(鉄道写真家の荻原二郎が撮影)なども収録されている。戦後の仮駅舎の写真もある。荻原二郎は戦前からずっと鉄道写真を撮り続けてきた。写真集も出ている。

 わたしは上京したころ、高円寺駅は自動改札ではなく駅員さんが切符をきっていた。土曜日に快速が停車した(一九九四年十二月から土曜も通過するようになった)。
 小島麻由美の「恋の極楽特急」(一九九五年)にオレンジ色の特急に乗って彼に会いに行くという歌詞がある。MVには中央線の駅、ホームの喫煙所、路線図、全面がオレンジの中央線の車両が出てくる。すべてが懐かしい。でも「恋の極楽特急」はそんなに昔の曲とはおもえない。

2022/07/13

東高円寺

 日曜日、昼すぎ、参院選。そのあと散歩、東高円寺まで歩く。ニコニコロードのオオゼキ(スーパー)で富山県のあられを買う。

 高円寺に三十年以上暮らしているが、コロナ禍以前は、東京メトロ丸ノ内線の東高円寺駅界隈はそんなに歩いてなかった。今はしょっちゅう散歩している。この日、かえる公園という小さな児童遊園に寄った。アニメ『輪るピングドラム』にも登場する公園らしい。TV放映時(二〇一一年)に観たが、公園のシーンは忘れていた(当時、かえる公園を知らなかった)。登場人物は丸ノ内線を利用する。主人公一家が荻窪、ヒロインの住まいが東高円寺にある。「生存戦略」「何者にもなれない」といったキーワードが印象に残っている。

 本を読んでいて、中央線沿線の中野、高円寺、阿佐ケ谷あたりの散歩エリアの話が出てくると、なるべく付箋を貼っておこうとおもうのだが、忘れてしまう。あと街道関連も付箋を心がけている。

 すこし前に都内を電車で移動中、白石公子著『ブルー・ブルー・ブルー』(新潮文庫、一九九五年、単行本は世界文化社、一九九二年)を読んだ。文庫の解説は坪内祐三(坪内さんが最初の単行本を出す前に書いた解説である)。わたしが坪内さんと知り合ったのは、そのちょっと後くらい。五反田の古書会館だったか『彷書月刊』の忘年会だったか。

《化粧して丸ノ内線の車内にて、本日の試写会のスケジュールを確かめる。(中略)そう決めると安心して東高円寺あたりから四谷三丁目までぐっすり眠る》(「不倫のカレー」/同書)

 白石さんは試写会の会場まで地下鉄の丸ノ内線で向う。荻窪はJR中央線、総武線だけでなく、丸ノ内線の駅(始発駅)もある。『ブルー・ブルー・ブルー』を読んでいると、丸ノ内線以外に東西線も出てくる。地下鉄の東西線はJR総武線直通の便が一時間に四本くらいある。
 この本に収録されたエッセイは一九九一年の秋から翌年の春までの連載。荻窪の話もよく出てくる。

2022/07/09

無題

 八日昼すぎ、ヤクルトの二軍情報(コーチ、選手に新型コロナの感染者が出た)を調べようと野球関係のサイトを見ていたら、奈良で選挙の応援中の安倍元総理が銃撃されたニュースを知る。

 夕方、遠方より来たる友と高円寺で待ち合わせ。夜、近所の店で飲む約束をして自宅に戻る。牛丼を作る。

 翌日やや二日酔い。昼前、西部古書会館。『文学のある風景・隅田川』(東京近代文学博物館、一九九三年)、『サライ』(一九九四年四月二十一日号)——特集「今も残る街道の名物料理 東海道五十三次食べ物語」などを買う。九〇年代の雑誌がけっこうあった。

『文学のある風景・隅田川』はところどころコラムが入っている。執筆陣は吉村昭、杉本章子、増田みず子、木の実ナナ、小沢昭一、永六輔、河竹登志夫、川本三郎、森田誠吾、吉本隆明。千住や向島や浅草などの文学地図もありがたい。川歩きのさい、地図の頁だけコピーして持っていきたい。

『サライ』の特集、鞠子のとろろ汁、藤枝の染め飯、桑名の焼き蛤などが紹介されていて、東海道双六、浮世絵などの図版も充実している。左頁の左上の角に鉄道の路線図っぽい図案で宿場町が並んでいる。『サライ』のデザイン、ちょこちょこ遊びがあって面白い。取材・文は鹿熊勤、塙ちと、野村麻里。鹿熊勤は「かくまつとむ」名義のほうがわかりやすいか。

 神宮のナイター、ヤクルト対阪神戦が中止になる。ラーメンを作る。

2022/07/06

大均一祭

 カレンダーが六月のまま五日ほど過ぎてしまった。あやうく人と会う予定の曜日をまちがえるところだった。ここのところ日中は暑いので深夜に散歩する。町が明るくなった。人も多い。最近というわけではないが、酔っぱらうと喋るのが止まらなくなる。

 安いから買うのではなく、読みたいから買うのだ——と自分に言い聞かせ、土曜日、西部古書会館。大均一祭。初日は全品二百円。伊藤俊一著『鈴鹿の地名』(中部経済新聞社、一九九五年)など。『鈴鹿の地名』の表紙と裏表紙は広重の「庄野の白雨」。ミニコミ新聞「鈴鹿ホームニュース」の連載をまとめた本のようだ。生まれ育った近鉄沿線の土地以外は知らないことばかり。

 東海道庄野宿の名物「焼き米」は茶わんなどにお湯を注いで食べた。鈴鹿あられはお茶漬けみたいに食べることもあるのだが「焼き米」のころからの名残なのか。

 日曜日、大均一祭二日目。全品百円。カゴ山盛り買う。なぜか滋賀、岐阜、長野の街道関係の本が大量にあった。書き込みから推測すると同じ持ち主の本か(巻末に鉛筆で購入日か読了日の日付あり)。街道に関していうと、わたしもこの三県に興味がある。小さな川や水路のある町を歩きたい。

 たまにインターネットの古本屋などで買ったときの注文履歴書がはさまったまま売られている本がある。本を売るときはそういったことにも気をつけないといけない(わたしも本にはさんだままにしてしまうことがよくある)。しかし売る側も注文書のような個人情報を含むものはチェックして処分してほしい。

 かつて高円寺のガード下の都丸書店の分店の均一棚に「S」という人(フルネームで記されていた)の蔵書がよく並んでいた。尾崎一雄や上林暁の文庫など何冊か買った。

 二日目に買った中部日本新聞社編『日本の街道』(新人物往来社、一九六七年)は歴史選書の一冊で「神戸元町 こばると書房」のシールが貼られていた。こばると書房の名前は知っていたが、シールははじめて見た。野村恒彦著『神戸70s青春古書街図』(神戸新聞総合出版センター、二〇〇九年刊)にも思い出で古本屋として紹介されていた。中部日本新聞社編『日本の街道』は黒の函入の版(一九六三年)もあり、すでに入手済。街道本、装丁ちがいの同じ本が多い。歴史選書版、函入いずれも定価は四百九十円。よく読み返す街道本なので二冊あっても困らない。この本、中日新聞の連載だったようだ。旧道、峠などの難路も訪れていて、取材費も相当かかっている。

 街道と文学、あるいは古本の話をどうからめていけるか。「それはそれ」と分けて考えるのもありだろうが、わたしはそうしたくない。たとえば純文学の作家にも中年以降に歴史小説や紀行文を書く人はけっこういる。中年は中年で問題は山積みなのだが、それより五十数年この世に生きてきて、見落としてきたこと、通りすぎてきた場所を知りたい。今はそういう心境だ。そのうち気が変わるかもしれない。

2022/06/28

高円寺駅百年

 東京都心、今年初の猛暑日。昼すぎ、西部古書会館——出品少なめ(会場右の棚に本がなかった)。百円、二百円の本から息抜き用の雑本を探す。

 深夜、商店街を散歩中、「祝JR高円寺駅100周年」と記されたポスターを見かけた。
 今年七月十五日、高円寺駅は開業百年を迎える。百年前は一九二二年。翌年九月、関東大震災。新宿以西の中央線沿線の町も震災後に発展した。
 東京メトロ丸ノ内線の新高円寺駅は一九六一年十一月に開業。当時、丸ノ内線は帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の荻窪線だった(丸ノ内線に改称したのは一九七二年)。

 高円寺に駅ができる前から町はあった。江戸時代の地図にも高円寺村、馬橋村の名はある。そのころはJR側ではなく、丸ノ内線側の青梅街道沿いのほうが人口が多かった。

 高円寺に引っ越してきたのは一九八九年の秋。かれこれ三十三年になる。高円寺駅ができて百年——その三分の一くらいの期間をこの町で暮らしてきたことになる。町の歴史の一部と自分の半生も重なっている。

 大正の末に駅ができ、昭和のはじめごろから文人が住みはじめた。彼らが中央線沿線に移り住んだのは駅ができてそれほど時間が経っていなかった。

 深夜の高円寺駅前を歩いていると南口、北口両方の駅前広場で酒を飲んでいる若者がいる。ギターを弾きながら歌う人もいれば、ハーモニカを吹いている人もいる。わたしはこんな日々が続けばいいなとおもいながら酔っぱらって通り過ぎる。

2022/06/21

過日

 朝寝昼起が昼寝夜起になり夜寝朝起になる。調子が出ない。

 ここのところ、晴れの日一万歩、雨の日五千歩の日課の散歩も達成できないことが多かった。一万歩をこえる日は週一日あるかどうか。ただし五千歩以下の日はない。ひょっとしたら天気に関係なく、五千歩でいいと(無意識下で)おもっているのかもしれない。

 日曜日、杉並区長選挙と杉並区議の補欠選挙で近所の小学校に行った後、東京メトロ丸ノ内線の東高円寺駅方面に散歩する。オオゼキ(スーパー)でイチビキの八丁赤だしを買う。イチビキの味噌、高円寺でもよく見かけるようになった。近所のスーパーに無添加の八丁味噌も売っている。

 野上照代著『蜥蜴の尻っぽ とっておき映画の話』(草思社文庫、二〇二一年)、帯に井伏鱒二、太宰治などの名があり、手にとる。インタビューとエッセイの二部構成。巻末の自筆年譜を見ると、野上さんは一九二七年東京・中野生まれ。三一年、父(野上巖、ペンネーム・新島繁)が日本大学を解雇され、「高円寺に古書店『大衆書房』」を開いたとある。

 野上さんは杉並区立第四尋小学校に通っていた。その後の杉並第四小学校。一九二五年に開校。二〇二〇年三月末に閉校になった。わたしは「杉並第四小」の目の前に住んでいたことがある。二十年ちょっと前の話だ。

 野上さんは映画関係では黒澤明の作品に深く関わっていた人だが、編集者時代に八雲書店にいて「井伏鱒二、坂口安吾、椎名麟三、石川淳、内田百閒さんといった先生たちのところへ行きました」と語っている。八雲書店は太宰治の全集を刊行していて、戸石泰一もいた。

 第二部の「三鷹町下連雀」と題したエッセイで太宰治、戸石泰一の話も書いている。「井伏先生とスニーカー」というエッセイもある。

2022/06/10

乗り継ぎ旅 その四

 年をとると筋肉痛もそうだが、旅の疲れも二日後あたりにどっと出る。二〇二〇年のはじめごろから、新型コロナの影響もあって、どこかに行ってもなかなか遊んだ気分になれなかった。移動の疲れが回復し、日常に戻るまでのふわふわした感覚は心地いい。

 五日(日)の夜はホテルに戻ってすぐ熟睡した(帰り道の記憶がおぼろげだ)。六日(月)、午前六時すぎに目がさめる。午前六時四十分、京阪三条駅から地下鉄の東西線、京阪京津線を乗り継ぎ、びわこ浜大津駅へ。駅の近くで路面電車になる。京津線に追分駅がある。山科追分(大津追分)は東海道と伏見街道(大津街道)の追分。山科追分は髭茶屋追分という呼び名もある。街道関係は名称がいろいろあってややこしい。

 午前七時十三分、びわこ浜大津駅から京阪石山駅へ。ここでJRの石山駅に乗り換え、米原駅へ。雨は大降りと小降りをくりかえす。米原市内に行きたい宿場がいろいろあるのだが、雨の街道歩きは危険と考え、電車での移動を楽しむことにする。
 米原から大垣を経て午前九時二十二分岐阜駅着。名鉄に乗り換え、名鉄岐阜駅から豊橋まで行く。雨だけでなく、風も強くなってくる。天気がよければ、途中下車して東海道の赤坂宿か御油宿あたりを散策しようとおもっていたのだが……。

 二十代のころは新幹線にほとんど乗らず、在来線や私鉄を乗り継ぎながら移動することが多かった。移動そのものが楽しかった。そのころの感覚をちょっと思い出す。

 午前十一時すぎ、豊橋駅に到着。雨は小雨だが、すごい風だ。たまたま歩いた商店街が「雨の日商店街」だった(後で知った)。豊鉄の札木駅あたりの田原街道を歩く。豊川を見て、吉田城のあった豊橋公園を通り抜け、豊橋駅に戻る。
 JRで豊橋から浜松へ。浜松の金券ショップで小田原までの新幹線の回数券を買う。浜松も雨と強風で歩く気になれなかった。こだまの乗車時間まで駅の構内をうろつく。

 こだまで小田原へ。小田急の小田原駅に着いたら特急メトロはこね(北千住行)が止まっていた。メトロはこねは乗ったことがなかったので町田駅までの特急券を買う。座席がゆったりしていて快適だったが、急行と時間がほとんど変わらない(特急料金は六百三十円)。町田駅で途中下車してドトールでアイスコーヒーを飲む。
 町田は八王子と横浜を結ぶ街道(絹の道)の宿場町である。昨年の秋にすこし歩いている。

 町田駅から新宿駅までの電車、下校時間と重なったのか、学生(高校生?)がたくさん乗っていた。東京から京都の行き来でずっと空いている電車に乗っていたので、それはそれで新鮮だった。

2022/06/08

乗り継ぎ旅 その三

 五日(日)、午前十時すぎに郷里の家を出る。亀山駅まで行ってJRで京都に行くか、近鉄特急で行くか。悩んだ末、近鉄にした。

 近鉄特急は白子駅(鈴鹿市)からも乗れるが、津のあたりまでは急行とそんなに時間が変わらない。伊勢中川駅(松阪市)まで急行で行って途中下車し、すこし町を歩く。コロナ禍前までは鈴鹿と京都の間の旧街道をあちこち歩いていた。何年か前に伊勢中川駅を散策したときは、旧初瀬街道を歩いた。わたしが郷里にいたころ、伊勢中川近辺は一志郡だったが、二〇〇五年一月に松阪市に合併——。三重県内の市町村合併事情に追いつけていない。

 伊勢中川駅から近鉄丹波橋まで特急で行く。丹波橋で京阪電車に乗り換える前に駅のまわりを三十分くらい散歩した。財布の中身が二千円くらいになっていたので近鉄の丹波橋駅構内のゆうちょのキャッシュディスペンサーでお金をおろす。古書善行堂に行けば、先月の古本市の売り上げを受け取れる予定だが、さすがに二千円では心もとない。
 古本市には大きめのダンボールで二箱出品したが、部屋の本が減った感じがしない。仕事部屋の床積みの本をあと三列ほど減らしたい。

 三重と京都の行き来するさい、近鉄と京阪の丹波橋駅でしょっちゅう乗り換えているのだが、よく知らない町である。乗り換え駅で駅の外に出るのは面白い。
 午後三時ちょっと前に京阪三条駅に到着する。宿に行く前に六曜社の地下で珈琲を飲む。そのあと三条のホテルにチェックインし、一休みする。当日になるまでどんな部屋になるかわからない訳ありプランだが、三千円台(京都駅前でもそのくらいの値段のホテルがたくさんあった)。三重への帰省を考えていたとき、『些末事研究』の福田賢治さんが京都に行くと聞き、「だったら夜飲もう」と……。

 夕方四時半くらい、三条からバスで錦林車庫、ホホホ座の浄土寺店に寄り、古書善行堂へ。“古本”の自著にサインする。『岡田睦作品集』(第二版、宮内書房)を購入する。京都に行ったとき、善行堂で買いたいとおもっていたら、初版はあっという間に売り切れ。今年三月に増刷された。
「一月十日」(『群像』一九九七年二月号)という短篇の冒頭の文章がよかった。

《“序論”のボク、といわれている。
 自分でも承知しているつもりだが、ジンム、スイゼイから始めないと気がすまない。
 いきなり、結論をいう。そうして、あとからいきさつを述べる。このタイプが大方には好まれているようだ。
 だが、私にはできない。性分なのだろうか。それでいて、“本論”はたったの二、三行ですんでしまう》

 二十五年前の文章だが、そのころから結論を先に書けという風潮はあったのか。わたしも書き出しだらだら派なので編集者によくそのことを指摘されていた。“序論”というか、書き出だしでどうでもいいことを書く作家が好きなのだが……。梅崎春生や古山高麗雄の短篇や随筆も朝起きるのがつらいとか寒いとか、愚痴からはじまる作品がけっこうある。

 善行堂でいろいろ話をしたあと、歩いてまほろばへ。この日、恵文社一乗寺店で山田稔さんと黒川創さんのトークイベントがあり、その打ち上げの会場がまほろばだった。福田賢治さん、扉野良人さんもイベントに行っていた。打ち上げ後にどこかで合流しようとおもっていたのだが、わたしが携帯を持っていないこともあって、混ぜてもらうことになった。数年ぶりに会う人がたくさんいて顔を出してよかった。

 夜九時ごろ、大阪に行っていた世田谷ピンポンズさんと六曜社(この日二度目)で福田さんといっしょに待ち合わせ。世田谷さんとは先週高円寺のコクテイルとペリカン時代で飲んだばかり(酔っぱらって喋りすぎた)。扉野さんは銭湯に行った。

2022/06/07

乗り継ぎ旅 その二

 土曜日、朝九時ごろ、高円寺を出て、あれこれ電車を乗り継いで名鉄の東岡崎に着いたのは十三時四十五分。モダン道路から伝馬通りを歩いていると朝鮮通信使のことを紹介する標石(けっこう新しい)があった。朝鮮通信使関連の本、図録を集めているが、ちゃんと読み込めていない。御馳走屋敷(朝鮮通信使が泊った)の標石もあった。

 岡崎公園の手前あたりで万歩計の電池が切れる。あとすこしで一万歩くらいだった。公園で電池を交換する。

 岡崎公園駅から名鉄で名古屋に出た。名鉄から近鉄に乗り換え途中にある北野エース(食料品店)が、成城石井になっていた。インターネット上には北野エースは二〇二一年八月十五日に閉店とある。昨年は一度も三重に帰ってなかった。

 三重に行って名古屋から東京に帰るときは、かならず北野エースで買物していたのだが……。

 夕方、名古屋から近鉄で鈴鹿へ。ここまでおにぎり一個だけ。空腹でふらふら。桑名に寄るか、それとも鈴鹿の平田町まで行って鈴鹿ハンターでうどんを食うか。迷ったあげく、ハンターのうどんに決めた。ハンターの二階で夏用の靴下も買う。

 ハンターの近所のスーパーのぎゅーとらが「ぎゅーとら ラブリー平田店」に名前が変わっていた。酒とあられを買う。

 わたしが生まれ育った長屋は平田町にあった。今、母は別の町に住んでいる。生家から一番近い宿場町は東海道の庄野宿だったが、今は伊勢街道の神戸(かんべ)宿のほうが近い。
 十九歳まで鈴鹿にいたが、町の歴史に何の関心もなかった。

 愛知県の岡崎によく泊っていた色川武大は三重にも何度か来ている。

《私は面倒臭がりやのわりに方々を旅して歩いている。昔、ばくち場を伝わって歩いたからで、乞食旅だし、そのぶん巣造りをおろそかにしているが、だからこの近鉄鳥羽線もよく利用していた。公営の賭場だけをあげても沿線に、四日市のはずれの霞ケ浦競輪場、津競艇、松阪競輪場、がある》(「暴飲暴食」/『引越貧乏』新潮文庫)

 わたしは四日市、松阪の競輪場は行ったことがない。色川武大は近鉄鳥羽線と書いているが、霞ヶ浦駅(四日市市)は近鉄名古屋線(名古屋〜伊勢中川駅)、松阪駅(松阪市)は近鉄山田線(伊勢中川駅から宇治山田駅)。近鉄鳥羽線は宇治山田駅(伊勢市)から鳥羽駅(鳥羽市)までの区間である。三重県民でも近鉄の路線名を知らない人は多いとおもう。
 さらに鳥羽駅から賢島駅まで近鉄志摩線が走っている。わたしの母の郷里は志摩線の鵜方駅からバスで数十分のところにある浜島町。「暴飲暴食」で色川武大といっしょに三重を旅する逐琢(山際素男)は大王町の船越の出身である。二〇〇四年十月に浜島町も大王町も志摩市になった。

《私たちは車をチャーターして、逐琢の生まれである奥志摩に向かった》

 初老の運転手は「昔は船でしか行けんかった一帯ですがね」といった。

《船越は、入江のかげに人々が集まってひっそりしゃがんでいるような感じの村で、防波堤に波がくだけ散っており、清涼飲料水のポスターが濡れてはりついている》

 わたしは大王町には行ったことがない。船に乗ったとき、大王町の灯台を見たような気がするが、その記憶もかなりあやふやだ。

乗り継ぎ旅 その一

  週末、三重と京都へ。行きは小田急で新宿から小田原まで行き、小田原からこだまで浜松、在来線で浜松から豊橋、名鉄で豊橋から東岡崎というルート。岡崎宿を散策して名鉄の岡崎公園駅から名古屋へ。名古屋から近鉄で鈴鹿に帰った。

 小田急だと新宿駅から小田原駅まで九百円。小田原から浜松の新幹線の切符は金券ショップで五千二〜三百円くらい。浜松と豊橋は在来線の本数も多く、三十分くらいで着く。六百八十円。この区間は在来線のほうが海が近くて楽しい。弁天島、素晴らしい。

 名鉄で豊橋から名鉄名古屋駅は千百四十円(わたしは東岡崎で途中下車したが)。
 新幹線より二千円ちょっと安い。乗り換えのたびに駅の外に出て軽く散歩したり、コーヒーを飲んだりもできる。

 東岡崎は、はじめて来た……つもりだったが、なんとなく商店街に見覚えがある。いろいろ街道関係の本を読んだせいかなとおもったが、歩いているうちにやっぱり来たことがあると……。予備校時代に一度何の予備知識もなく行った。完全に忘れていた。

 岡崎宿は東海道の宿場町で「岡崎二十七曲り」が有名である。冠木門から岡崎城までの道が曲りくねっている。旅籠は百軒以上あったが、戦災で残っていない。
 このあたりから足助街道(塩街道)ともつながっている(東岡崎から足助行きのバスあり)。岡崎から足助までは二十七キロ。頑張れば一日で歩けそうだが、途中、バスを利用したほうが無難か。

 色川武大が時々岡崎のビジネスホテルで仕事(逃避)をしていた話を書いている。名古屋でも豊橋でもなく、岡崎というのが気になっていた。JRの岡崎駅、名鉄の東岡崎駅ではなく、岡崎公園駅の板屋町のあたりの気がするが、わからない。名鉄の岡崎公園の旧東海道沿いに小さな旅館やホテルがいくつかあった。

《愛知県岡崎市の片隅に、これは完全な商人宿ふうだが、好きな宿がある。一泊朝食付三千円。古びた色町と寺町がまざりあったようなところにあって、ここの二階の六畳で炬燵に入って仕事したり酒を呑んだりしている》(「私の日本三景」/『いずれ我が身も』中公文庫)

 名鉄といえば、色川武大は豊橋にも行っている。

《豊橋競輪場の中の売店で、この地の名産の小ぶりの竹輪に醤油をかけて飯を喰った。あれはオツな昼飯になった》(「駄喰い三昧」/阿佐田哲也著『三博四食五眠』幻戯書房)

「駄喰い三昧」と題した随筆は、色川武大著『喰いたい放題』(集英社文庫)にも入っているが、『三博四食五眠』の収録作とは別である(さっき気づいた)。

 名鉄の沿線は知らない町ばかり。三重に帰る途中、どこかしらの駅で降りたい。岡崎は一度宿に泊ってみたい。

2022/06/03

暑熱順化

 先週の日曜日、東京都心で今年初の真夏日(最高気温三十度以上)、群馬県高崎市は猛暑日(三十五度以上)を記録した。

 すこし前の夕方のニュースで「暑熱順化」という言葉を知った。軽く運動したり、湯船にゆっくりつかったりして、夏の暑さに備え、体を慣らしていくといいようだ。冬は「寒冷順化」という。
 晴れの日一万歩(だいたい六キロ)、雨の日五千歩(だいたい三キロ)の散歩をするようになって、以前と比べ、気温の変化への耐性がついた——気がする。

 わたしの場合、家にずっとこもっていると、面白そうなこと、楽しそうなことへの反応が鈍くなる。
 夜、近所の飲み屋に行こうかなとおもっても「今日はいいか」となる。翌日、顔を出すと「昨日は誰それさんが来ていて盛り上がったよ」と教えられる。
 東京近郊で気になる文学展があっても、ずるずると行くのをためらっているうちに期間が過ぎてしまうことも多い。
 行こうとおもったら、さっと体が動くようになりたい。こういうことは精神論よりも慣れである。

 とりあえず家を出て歩きはじめる。散歩中、「そういえば、誰それの個展は明日までだったな」と思い出し、そのまま会場に向う。電車で帰る途中、適当な駅で降りて知らない町を散歩する。そんな感じで自分の動きを軽くできたらいいなと……。

2022/06/01

ここにいる理由

 先週、近所の青果店に行ったらジャガイモとタマネギが一袋百円台(小ぶりのジャガイモ十個、小ぶりのタマネギ五個)で買えた。高騰していた野菜の値段も落ち着いてきたか。
 高円寺は北口南口ガード下と縦横無尽に商店街がある。わたしの家からはすこし離れているが、東高円寺(東京メトロ丸の内線)界隈のニコニコロードもたまに散歩する。昔——明治以前は中央線の駅周辺より青梅街道沿いの東高円寺のほうが栄えていた。中野もそう。

 一九八九年、十九歳十一ヶ月——二十歳になる直前、東武東上線沿線の下赤塚駅から高円寺のアパートに移り住んだ。二十代の十年は更新のたびに高円寺内を引っ越した。三十代は二度、高円寺内で引っ越した。四十代以降は自宅の引っ越しをしていない。ただし仕事部屋として借りていた風呂なしアパートが取り壊しになり、引っ越した。
 引っ越し回数は年を経るにつれ、少なくなっている。

 同じ町に住み続ける人生、転々といろいろな町に移り住む人生——どちらかしか選べない。

 最初はなんとなく三十歳くらいまで高円寺で暮らしたいとおもっていた。三十歳になるかならないかの時期、京都に引っ越そうと考えたこともあった。結局、高円寺に住み続けた。どこにいても似たような生活をしていた気もする。一つの町にいることは自分の思考にも少なからぬ影響を及ぼしている。二十代のころは高円寺が自分の町という気持は希薄だった。三重から上京して様々な偶然が重なってここにいるにすぎない。三十年以上、同じ町に住んでいると自分が選んだ、選び続けてきた結果ここにいると受け容れるほかない。

 京都とまではいかなくても三十代のころに都内のどこか別の町に移り住んでいたら自分の書くものも変わっていたかもしれない。人間関係も変わっただろう。こんなに長く高円寺に住むとわかっていれば、リーマンショックの後くらいに中古のマンションを買っていれば……といった考えが、頭によぎる。これまで払ってきた家賃を計算するとむなしくなる。

 五十代、終の住み処について考えてもおかしくない年頃である。この先も同じ町に住み続けるのか、それともどこか別の町に引っ越すのか。わからないから先送り。

2022/05/25

社会建設 その四

 橋本治著『父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない』(朝日新書、二〇一九年)は没後刊行された新書である。

《明治維新から太平洋戦争終結まで七十七年である。「まだ近代ではない」その期間を「もう近代だ」と思い込んでいた結果、一九四五年以後の日本の近代にはいろいろな歪みや思い違いが多い》(「誰も経験したことがない世界」/同書)

 今年は太平洋戦争終結から七十七年である。明治維新から敗戦までと「戦後」は同じ期間になった——「未来」について考える上ではそういう時間の感覚もあったほうがいい。

 この七十七年の社会のあり方を考えると軍事力から経済力に転換した流れがある。そして健康——長寿の国になった。高度経済成長は、公害問題をはじめ、国民の健康を犠牲に達成した一面がある。

 橋本治は『たとえ世界が終わっても』でバブル崩壊以降「『食』しか豊かにならなかった日本」とも指摘している。

 健康と食——あと何だろう。治安のよさもあるか。交通網の整備にしても世界有数の国である。

 地理環境の要因もあるが、水にも恵まれている。うまいものが食えて、ほどほどに健康で安全かつ便利に暮らせたら、それでいいんじゃないかというのが(漠然とした)国民の総意なのかもしれない。

 医療と食の充実した長寿国になった日本。この三十年の経済の低迷を考えると国力の配分がちょっとおかしい気がする。もっとも誰にとっても「正しい配分」なんてものはこの世に存在しない。

『知性の顛覆』(朝日新書)の第四章は「知の中央集権」にこんな一節がある。

《近代の日本人は、長い間「西洋的=進んでいてオシャレ」と考えて、西洋化の方向に突き進んで来た。西洋化する上で邪魔になるのは、長い時間をかけて積み上げられてしまった「日本的なもの」で、近代化する日本人は、それを古い土俗や因習と考えて切り捨て脱却することをもっぱらに考えた》

 軍事にしても経済にしても文化にしても、近代の日本は「西洋的なもの」を追いかけてきた。「その先の日本」 はどんな社会を目指すのか。すくなくとも「西洋的なもの」ではない。「東京的なもの」という言葉が浮んだが、話がややこしくなりそうなのでちょっと休む。

(……しばし中断)

2022/05/23

社会建設 その三

 橋本治の『たとえ世界が終わっても』は「その先の日本を生きる君たちへ」という副題が付いている。

『たとえ世界が終わっても』の刊行日は二〇一七年二月二十二日。この本が出た三ヶ月後に『知性の顛覆 日本人がバカになってしまう構造』(朝日新書)が刊行されている。

 ほぼ同時期に出た二冊の新書で「大きなものの終焉」(『たとえ世界が終わっても』)、「『大きいもの』はいつまでもつか」(『知性の顛覆』)と同じテーマが語られている。

 経済圏は大きければ大きいほどいいという時代は終わった。国土だって大きればいいというものではない。

《「でかけりゃいい、なんとしてでもでかくありたい」という、揉め事を惹き起こすだけの厄介な考え方は今でもまだ生きていて、ソ連邦を消滅させてしまったゴルバチョフは今のロシアではまったく人気がなく、「どういう手を使っても大国ロシアの威勢を復活させる」という独善的な大統領プーチンの人気は高いという》

 現在の価値観では「大国」の条件は「経済力」と切っても切り離せないが、「ロシアでは、このことがよく分からないらしい」。

《大昔の「大国」は、領土の広さで表された。やがてそれが、広い領土を獲得し維持するだけの強さ——軍事力の大きさが指標になり、その先で「経済力の大きさ」に取って代わられる》

 ソ連が崩壊した時期(一九九一年末)にEUが結成されるのも時代の指標が「経済力の大きさ」に変わったことと関係する。
 そして日本は後に「バブル」と呼ばれる時代が終焉を迎えた。

 この問題、ちょっと自分の手に負えない感じがしているのだが、ざっくりと書き残しておくと、いちおう日本は軍事と経済で世界有数の国になり、いずれも挫折した。
 高度経済成長は、国土を削り、海、川、大気を汚染し、劣悪な労働環境によって成し遂げた一面もある。
 逆に「失われた三十年」は環境や健康が改善された時代でもある。

 戦後は軍事から経済へ。バブル崩壊後は経済から健康に目標が変わったと考えると今の状況は(不本意な面はあるにせよ)理想通りといえなくもない。軍事も経済もアメリカに敵わないが、健康なら負けていない。

 日本のわるい癖はやりすぎてしまうことでほどほどにおさまらない。

「その先の日本」について考えるのであれば、「健康大国」の次——気楽に生きられる社会の建設ではないか。豊かさの質も時代とともに変わる。もちろん健康を損なわなくてすむためには経済力が必要であることはいうまでもない。

(……続く)

2022/05/19

社会建設 その二

 橋本治の『たとえ世界が終わっても』(集英社新書)の刊行は五年前。
 今回読み返して「まえがき」の「人は、若いと『未来』を考えます」という言葉が印象に残った。

 自分のため、社会のため、あるいは家族のため——その比率は人によってちがうだろう。
 わたしは「自分のため」ばかり考えて生きてきた。子どものころから社会に適応しづらい気質で、いつも周囲とズレていた。そのズレから生じる摩擦をどう避けるかということが、大きな関心事だった。大人になって以降も「社会のため」という発想が欠落していた。

 わたしの親は「社会のため」「家族のため」の比率が高い。基本、自分のことは後まわしだったのではないか。

《二十世紀が終わる二〇〇〇年に、私は五二歳でしたが、「二十一世紀になると同時に出そう」と思って、一九〇〇年から二〇〇〇年までの百年を一年刻みで語っていく『二十世紀』(ちくま文庫)という本をまとめました。説明抜きで言ってしまえば、この『たとえ世界が終わっても』という本は、その『二十世紀』の完結篇みたいなものですが、なんであれ、四十一歳や五十二歳の私はまだ若くて、「これから自分の進むべき方向」を考えていたのです》

 橋本治が四十一歳のときに書いたのは『'89』(マドラ出版)である。

『たとえ世界が終わっても』が刊行されたころ、イギリスのEU離脱、アメリカではドナルド・トランプが大統領になった。
 その二つの衝撃にたいし、橋本治は「今までの世界のあり方はもうおかしくなっていたのかもしれない」と語る。

 未来は若い人にまかせよう、世界のことはそれぞれの専門家にまかせよう——とわたしは考えがちである。中途半端な知識で余計なことをいうのはやめようと書いては消してをくりかえしている(わたしは書かないと考えられないのだ)。

 かつてのソ連は「社会建設」に失敗した国である。人民は「社会のため」に生きることを強制されたが、ソ連は“赤い貴族”と呼ばれる人たち以外は貧しい国のままだった。
 物資その他を運搬すると、途中でどこかへ消えてしまう。ソ連が崩壊し、ロシアになっても変わらない。

 今回のウクライナ侵攻でロシア兵による“略奪”のニュースを見て「ひどい」とおもう(いうまでもないが“武力侵攻”もひどい)。いっぽう自分はロシアを「ひどい」とおもえるような恵まれた国に生まれ育ったことについても考えてしまう。
 命がけの戦場から家電や農機具を持ち去ろうとする。バカげている。

 世界には“略奪”を「バカげている」とおもう国とおもわない国がある。独裁体制の国がある。民主主義が根づいていない国はいくらでもある。

 民主主義は、現状に不満をおぼえる国民が多数を占めると為政者が変わるシステムである。
 貧しい国では教育や医療やインフラの不備があるのが当たり前で、どんなに優秀な為政者であっても、その不満を解消することはむずかしい。

「社会建設」の前に国民の不満を抑え込まないと為政者は自分たちの安全を確保できない。クーデターその他で独裁者を引きずり下ろしたとしても、一足飛びに民主主義の社会にはならない。

(……続く)

2022/05/18

社会建設 その一

 橋本治著『'89』の単行本(マドラ出版、一九九〇年)と文庫(河出文庫、一九九四年)の古書価が上がっている。河出文庫は上下巻に分かれているのだが、揃いで買うと四千円以上だ。

 すこし前に橋本治著『たとえ世界が終わっても』(集英社新書、二〇一七年)を読み返した。「まえがき」にこんな一節があった。

《人は、若いと「未来」を考えます。「この先どう生きていったらいいのかがよく分からない」という状況にあったら、どうしたって「未来」を考えます。「未来」を考える限り、その人は若い。「未来」を考えなくなった、その人はもう若くない》

 もちろん「未来」を考えることだけが、若さではない。また「未来」を考えるためには「過去」も考える必要があると——。

《過去とは、未来を考えるためのデータの山だからです》

 わたしは「過去」をふりかえってばかりいる。もう若くない。ただ、「過去」の中に「今」や「未来」を考えるヒントになるようなものは探したい。

《社会というのは、毎日ちょっとずつ動いてる。ちょっとずつ新しくなれば、その分だけ「古くなった」ってところが生まれて、それを変化に応じて毎日調整していくのが必要だってこと。そういう方向を考えながら生きていけば、自分の生きていることが「社会建設」につながるでしょ。「自分が生きて働いてるのは、社会を支える行為だ」って。そうすりゃ「どう生きてったらいいんだろう」とか、「自分の存在に意味なんかあるんだろうか」なんてことを考えなくてもいいでしょ》(「バブルを経て『社会』が消えた」/同書)

 戦後——昭和の日本がまだ貧しかったころは、家を建てることも道路を工事することも社会の復興につながった。あらゆる仕事がそのまま社会の向上につながっていると実感できた。
 しかしすでに豊かになった社会に生まれ育った人たちは「自分たちが汗水垂らして社会を作ろうなんて意識はなくなる」。社会は自分のためにある。社会のために自分が犠牲になることを嫌がる。

 給料を上げろといっても、会社を作って社員にたくさん給料をあげようと考える人は稀である。わたしも考えないし、やろうとおもわない。社会が貧しくなっても、自分が食っていけるうちは関係ない。

《硬直した過去の思考習慣の中に含まれていた、「真面目」という有効成分が、バカに覆い尽くされて埋もれちゃったのよ。「ダサいんだから問題にしなくてもいい」という形でね。「社会建設」も、そうやって埋められちゃったんだ》

 そうした変化は「八〇年代」に起こった——というのが橋本治の持論である。

《復興をずっとやってきた人たちはね、「生活を守る」というところを基盤にしてたのよ。下手に動いて守るべきものが壊れたら困ると思ってたから、慎重だったのよ》

 若い人には「守るべきもの」がない。消費で欲望を充足させ、親は子どもに「『先の豊かさ』が保証された道」を歩ませようとする。子どもはいわれるままにその道を目指す。しかしその道の先もずっと競争は続く。バブル崩壊後、貧しくなる社会で縮小するパイの奪い合いになった。結果、社会はどんどん痩せ細っていった。

 この先の「未来」に必要なのは「社会建設」や「復興」という意識なのかもしれない。

(……続く)

2022/05/15

工事中

 昨年から高円寺の高架下(高円寺ストリート2番街)が工事中。ガード下のケンタッキーフライドチキンの高円寺店は今年一月に閉店になった(自分のためのメモ)。
 一週間くらい前、近所の飲み屋で、長年、高円寺に住んでいる知り合いに「ケンタッキー、なくなったね」という話をしたら、まったく知らなかったようで驚いていた。駅のすぐ近くだし、何だったらその日飲んでいた店までの通り道にある。そういうこともあるのだなと……。

 閉店といえば、五月八日に神保町の三省堂書店の営業が終了した。仮店舗での営業は六月一日から。
 慣れもあるが、書店の検索の機械は三省堂が一番使いやすい(わたしには)。「ぁ」「っ」「ゃ」など、小さい平仮名(小書き文字)に切り替える必要がある検索機械にはいつも苦労している。面倒くさいというより、脳が混乱する。

 土曜日、中野まで散歩。中野セントラルパークで「四川フェス」が開催していた。麻婆豆腐の出店がずらっと並んでいる。人がたくさんいて活気があった(ただし、わたしは辛いものが苦手で店の前を通っただけで汗だくになった)。

 現在、中野駅も工事中。橋上駅舎(+商業施設)と西口改札ができるらしいのだが、完成は二〇二六年十二月——まだまだ先の話だ。四年半後、どうなっていることやら。

 阿佐ケ谷界隈のガード下もずいぶん変わった。薬局ができたり、青果店ができたり、ゴールド街のころの面影はもはやない。阿佐ケ谷には野菜を買いに行く。ジャガイモ、玉ねぎは高い(スーパーで新ジャガは一個百円、玉ねぎは一個二百円くらいだった)。麺類その他もちょっとずつ値上げしている。

 晴れの日一万歩、雨の日五千歩の散歩は継続中。よく歩いた日は、なんとなく気持が落ち着く。

2022/05/11

場所と私

 わたしは慎重な性格である。疲労に敏感である。寝ることを最優先して、ちょっとでも疲れを感じたらすぐ休む。
 ところが、中年になると日々の仕事や家事をのんびりやっているつもりでも気づかないうちに疲れがたまっていることがよくある。

 不調時は大小さまざまなミスを頻発する(文章に関していうと、誤字脱字が増える)。どうすれば修正能力みたいなものは身につくのか。

 高松の福田賢治さんから『些末事研究』(vol.7)が届いた。特集は「場所と私 −私のテンポ−」。同号は福田さんの色がよく出ている。わたしは福田さん、南陀楼綾繁さんとの座談会に参加した。わたしは(創刊号のころからずっと)同じようなことばかり喋っている。でもとりとめもなく考えていたことが、すこしずつ言葉になっていく。言葉にすることで忘れていたことをおもいだしたり、足りないもの、欠けているものが見えてきたりする。

 中村勇亮さん(本屋ルヌガンガ店主)の「日々おなじ場所から」の「そんな風に僕は、歩くことで、その土地を好きになることを覚えたように思う」という文章を読み、いろいろなことの学び方に通じるのではないかとおもったが、今は考えがまとまらない。

「移住」できる人、できない人。「同じ場所」にずっと居続けることができる人、できない人。その違いは何か。

 人と人もそうだが、人と土地にも相性のようなものがある。

2022/05/09

雑記

 八日、コタツ布団とカバーを洗って押入にしまう。一年の区切り。コタツのまわりに散乱していた本やら資料やらも片付ける。すっきりする。今年の連休は掃除週間だった。

 散歩して本読んで——そのくりかえし。とはいえ、五年十年と時間が経つといろいろな変化がある。年もとる。考え方も変わる。
 雨の日の散歩は高円寺阿佐ケ谷間のガード下を歩くことが多かったが、最近、桃園川緑道を通ることが増えた。桃園川といっても暗渠である。雨の日は人通りが少なく、快適に歩ける。

『Too Late magazine』の創刊号が届く。カラー頁でデザインも凝った雑誌だ。特集は写真家の宇壽山貴久子さん。わたしは「母川回帰」というエッセイを書いた。尾崎一雄著『虫のいろいろ』(新潮文庫)所収の「踏切」から三重の話をつらつらと……。

 尾崎一雄は小田原の人の印象が強いが、生まれは三重県の宇治山田である。父は神宮皇學館の先生だった。子どものころ、明倫小学校(現・伊勢市)に通っていた。
 二十三歳で戦死した詩人の竹内浩三も同校の卒業生である(竹内浩三は高円寺に住んでいたこともある)。

 同誌には南陀楼綾繁さんも執筆していて、郷里の出雲の話だった。

 上京して三十三年。東京と三重を何度往復したか。大阪や京都に行ったついでに三重に寄る。徳川時代なら江戸と伊勢の行き来なんて一生に一度あるかどうかだろう(庶民は)。

 東京から三重には東海道線だけではなく中央本線でも行ける。渥美半島の伊良湖から船で鳥羽に渡ることもできる。まだまだ通ったことのないルートがいろいろある。三重県内で一度も乗ったことのない鉄道が残っている。伊賀鉄道——桑町駅と四十九駅あたりを歩いてみたい。忍者列車というのもあるらしい。

2022/05/04

函と帯

 連休——四月二十九日は西部古書会館、三十日は不忍ブックストリートの一箱古本市に行く。不忍の一箱は三年ぶり。
 新型コロナ対策で二ヶ所の会場で入場制限があった。
 西部の古書展はコロナ禍前の雰囲気に戻りつつある。深夜の高円寺も酔っ払いをたくさん見かけるようになった。

 京都では古書善行堂の一箱古本市。わたしは二箱送った。古本に値段をつけるのも三年ぶり。ひさしぶりだったので本を選ぶのが楽しかった。

 三十代半ばごろ、昭和一桁に刊行されたある詩集を探していた。当時、インターネットの古書店で函付で数万円、函なしの裸本だと四、五千円。函なしでもいいような気もするが、いずれ函付がほしくなるだろう。結局、買わなかった。そのうちどうしてそんなに欲しかったのか忘れた。

 もともと「函が、帯が」と古本を買うタイプではない。単行本が文庫化されると、本の置き場をすこしでも増やすため、文庫を買い直してきた。しかし四十代後半あたりから何度も読み返すであろう好きな本はなるべく良好な状態かつ元の形の本を所有したいとおもうようになった。
 尾崎一雄の『閑な老人』(中央公論社、一九七二年)は旧版の単行本は函付なのだが、函の表裏両面に「山川草木」と印刷されている(装丁は芝本善彦)。そのことに気づいたのはわりと最近である。それまで持っていた本は函がボロボロでパラフィンで補強されていたので、函とほとんど同じ色の薄い緑の字が見えなかった。中の表紙にも「山川草木 一雄」とある。これもよく見ないとわからない(布と同じ色の文字の部分がすこしくぼんでいる)。「山川草木」は尾崎一雄が色紙によく書いていた言葉である。

 読書は知識を増やす、情報を得ること以外に心の均衡や平穏を保つ効果がある。精神衛生のための読書の比重が大きくなるにつれ、美本の所有欲が増した。……同じ本を何冊も買ってしまうことへの言い訳かもしれない。

2022/04/26

鹿児島の北海道

 四月下旬、ゴールデンウィーク目前。月日が経つのが早すぎる。気分はまだ三月くらいだ。先週末から部屋の掃除ばかりしている。蔵書を減らしたいのだが、「もう読み返さないかな」とおもう本でも「いや、この本を読んで、あの本を買ったんだっけ」とか「これは旅先で買った本だ」といった記憶が甦り、棚から出しては引っ込める。

 第26回手塚治虫文化賞の漫画大賞は、魚豊『チ。−地球の運動について−』(小学館、現在七巻)が選ばれた。いつだったか「星野源のオールナイトニッポン」でこの漫画の話をしていて、すぐに全巻揃えた。地動説を追い求める人々の執念を描くいっぽう、“異端”を排除しようとする真面目な狂信者たちの底知れぬ怖さを訴えかけてくる物語でもある。

 話はまったくつながらないが、子どものころ「鹿児島の北海道」という言葉を何度か耳にした。父の郷里の伊佐盆地あたりがそう呼ばれている。宮崎県と熊本県と県境が接する盆地で冬はかなり寒い。雪も降るし、氷点下になることもある。

 玉村豊男著『雑文王 玉村飯店』(文藝春秋、一九九〇年)を読んでいたら「鹿児島の“北海道”は春遠く」という紀行文があった。この本、文庫化されているが、わたしは単行本しか持っていない。

 文中、今年の秋で四十一歳とある。玉村氏は一九四五年生まれだから、一九八六年の春先の話である。
 鹿児島を訪れた玉村氏は川内市内の商店街の定食屋でこんな会話をかわす。

《「お客さん、どちらへ行きなさると」
「ん? 薩摩大口のほうへ行ってみようかと思ってね。あっちのほう、まだ行ったことがないから」
「寒かよ、大口は。鹿児島の北海道いうごつある」》

 店を出て大口行きの電車(一両編成)に乗る。駅を降りた玉村氏はこんな感慨をもらす。

《なにもない町だ》 

 玉村氏は一九八六年の春に大口を訪れているのだが、薩摩大口駅はその二年後の一九八八年二月に水俣起点の山野線と川内起点の宮之城線の廃線にともない廃駅になる。
 玉村氏は丸屋という旅館に泊り、小料理・ささ舟で飲む。店は老婆が一人。夫は亡くなったばかり。店を手伝ってくれていた若い女性は工場で手を潰してやめた。他の客が来るまで焼酎を飲み続ける。

 わたしの父は無口でほとんど郷里のことを話さなかった。父は高校時代、うどん屋で働きながら学校に通っていた話は何度か聞いた。旅館や小料理屋があったことは玉村氏の紀行文で知った。

2022/04/24

積ん読生活

 気温の変化が激しい。一昨日(二十二日)、昨日(二十三日)と都内は二日連続の夏日だった。そろそろコタツ蒲団をしまいたい。

 高円寺の出版社・有志舎のフリーペーパー『CROSS ROAD』(vol.12)ができました。わたしの連載「追分道中記」は「内藤新宿と酒折」——甲州街道と青梅街道の話を書いた。ここ数年、山梨が好きになって、酒折から石和温泉あたりはよく歩いている。

 長年、文学(主に随筆)に偏った読書をしてきたけど、四十代後半から歴史や地理の本を読むのが楽しくなった。歴史にせよ地理にせよ、本を読んでいるだけではなかなかわからない。一つ知ると三つ知らないことが浮上する。そのくりかえしである。街道の場合、きちんと調べはじめると記紀神話や古代史の時代まで遡ってしまう。「東京」なんて江戸以前は何もなかったくらいの印象(偏見)だった。でもちょっと近所を歩いているだけでも鎌倉、平安どころか、縄文の史跡がある。時間がいくらあっても足りない。キリのない世界のどこを切り取り、焦点を当てるか。そろそろその絞り込みの作業をしたほうがいいのかもしれないが、あと五年か十年は闇雲にやりたい気持もある。

 土曜午後三時ごろ、西部古書会館。寝起きで頭がぼーっとしていたが、古書案内処の棚でスイッチが入る。『井伏鱒二文学碑序幕記念 井伏鱒二郷土風物誌』(井伏鱒二在所の会、一九九五年)、『特別展示 追悼井伏鱒二』(早稲田大学、一九九四年)、『高知県立文学館開館10周年記念特別企画 清岡卓行追悼展』(高知県立文学館、二〇〇七年)など、文学展パンフを十数冊。おそらく元の持ち主は同じ人(井伏鱒二と付き合いのあった文芸誌の編集者)かもしれない(招待状のハガキもはさまっていた)。

 二週間前の大均一祭で買った本もそのままになっている。未読の本がたまりまくる。

2022/04/20

新刊二冊

 本日、梅崎春生著『カロや 愛猫作品集』(中公文庫)刊行。わたしは解説を担当しました。「猫の話」「カロ三代」など、梅崎春生の猫小説、猫随筆を収録(巻頭にはカロといっしょの梅崎春生の写真あり)。「カロ三代」は“猫叩き”の描写で読者からの批判が殺到した問題作でもある。文庫オリジナル。

 長年、小説や随筆を読むとき、作品の時系列を気にせず読んできた。初出の時期を調べながら読むようになったのはここ数年のことだ。
 作家によっては同じ文体で書き続ける人もいるが、梅崎春生は時期によって大きく変わる。『カロや』はその文体の変化も楽しめる作品集ではないかと……。

 中公文庫は吉行淳之介編『ネコ・ロマンチスム』も発売。青銅社版の原本に内田百閒の「ネコ・ロマンチシズム」を増補。福永信さんの解説は「編者としての吉行淳之介」に言及していて読みごたえがあった。作品の並べ方にも編者の意志がある。この着眼点の吉行論は、はじめて読んだかもしれない。

2022/04/17

自信と配慮

 吉行淳之介著『人工水晶体』(講談社文庫、一九八八年)は巻末に第二回講談社エッセイ賞の「選評」と「受賞のことば」を収録——。
 井上ひさしの選評に「『エッセイとは、つまるところ自慢話をどう語るかにあるのではないか』と気付いた。(中略)もとより読者は一般に明け透けな自慢話を好まない。そこで書き手は自慢話を別のなにものかに化けさせ、ついには文学にまで昇華させなくてはならない」とある。
 他の選評は大岡信、丸谷才一、山口瞳である。

 吉行氏の「受賞のことば」もいい。

《ひとのために役立とうとおもって、私は文章を書いたことがない。しかし、「人工水晶体」は白内障で悩んでいる人たちのために書いた。これは珍しいことだったが、そのために愚痴がすくなくなって、そこが良かったかもしれない》

『人工水晶体』(講談社文庫)の「人工水晶体」と「淳之介『養生訓』」は『淳之介養生訓』(中公文庫、二〇〇三年)でも読める(その他の収録作はちがう)。

 あらためて「人工水晶体」を読むと、冒頭は一九七六(昭和五十一)年十月からはじまる。吉行淳之介五十二歳。
 すでに眼の具合に違和感があり、病院で診察を受けたところ、両眼とも白内障といわれる。しかし本人はただの眼精疲労だとおもっていた。

《眼の医学は毎日のように進歩していて、間もなく新しい手術の噂が微かにきこえてきた。
 その新式の手術についての記事が、昭和五十二年の春に新聞に出た。今にしておもえば、丁度アメリカの政府が「人工水晶体」を許可した時期に当っている》

 吉行氏は自分の眼の様子をみながら、新しい治療法について調べはじめる。
 厚生省が日本での人工水晶体の輸入および製造を承認したのは一九八五年三月——。吉行氏が人工水晶体の移植手術をうけたのは一九八四年十二月である。

 病気に関しては早期治療がよいというのが通説だろう。ただし一年か二年の差で医学が格段に進歩する場合もある。もっとも素人にはこの判断はむずかしい。
 吉行氏の医療に関する方針はこんなかんじだ。

《私はいろいろ病気をしてきた。それぞれの病気について、シロウトの理解できる範囲のことはできる限り調べる。そして、信頼できると自分がおもった医師を見付けると、あとはなにも質問せずに身柄をあずけてしまう》

 信頼できる医師かどうかはどう判断するか。吉行氏は「医師としての自信と患者にたいする配慮とのバランスが程よく保たれている」人物を名医と考えていた。どれだけ知識や技術が優れていても、患者の不安がわからない人はよい医師とはいえない。

『人工水晶体』所収の他のエッセイや対談でもこのテーマを語っている。医学にかぎらず、信頼できる専門家を見分けるさいも参考になりそうな意見が頻出する。

2022/04/14

藤子不二雄Ⓐと吉行淳之介

 瀬戸内寂聴著『寂聴コレクション vol.1 くすりになることば』(光文社、二〇一九年)は帯に瀬戸内寂聴と藤子不二雄Ⓐの写真あり。巻頭の「寂聴さん×藤子不二雄Ⓐさんスペシャル対談」が読みたくて買った。当時、瀬戸内寂聴は九十七歳、藤子不二雄Ⓐは八十五歳。対談は三十一頁。
 七百年続いていた富山の光禅寺の住職の家の長男として生まれたが、小学五年生のときに父が急死。その後、新しい住職が来たので高岡に引っ越すことになった。その転校先で藤本弘(藤子・F・不二雄)と出会う。

《つまり、父が死ななかったら僕は絶対に漫画家になっていなかったし、藤本君もおそらく僕に会っていなかったら漫画家になっていなかったと思う》
 
 瀬戸内寂聴が「藤子さんは子どものころから漫画家になろうと決めていらっしゃたんですか」と聞くと、藤子不二雄Ⓐは「いや、どちらかというと文学少年で、志賀直哉とか正宗白鳥とか小説ばかり読んでいました」と答えている。文学だけでなく、映画も好きだった。

 吉行淳之介と知り合ったのは福地泡介の紹介だった。

《当時赤坂に「乃なみ」という3階建ての旅館があって、実はお客さんなんて一人も泊っていなくて、スターとか芸能人とか表立って雀荘に行けないような人が集まって朝から晩まで麻雀をやっていた》

 Ⓐさん(当時は我孫子素雄)が「乃なみ」で吉行淳之介、阿川弘之と麻雀をしたのはいつごろなのか。Ⓐさんは近藤啓太郎、色川武大とも出会っている。『Ⓐの人生』(講談社)では「乃なみ」を「赤坂にあるNという旅館」と綴っている。

 吉行淳之介著『やややの話』(文春文庫、単行本は一九九二年)の「藤子不二雄の1/2について」というエッセイには——。

《我孫子素雄と知り合ったのは、二十年近く前だろう。以来、じつにしばしば会っていて、それも長時間一緒にいる。つまり、マージャンと酒であって、それ以外に会うことはない》

 初出は愛蔵版の『まんが道』(中央公論社)一九八七年五月——。二十年近く前とあるから一九六〇年代後半か。Ⓐさんは三十代のころから赤坂の旅館で麻雀をしたり、銀座で飲んだりしていた。

「藤子不二雄の1/2について」には「私の白内障の右目が見えるようになったのは、我孫子の一言がキッカケになった」という一文も。
 吉行淳之介著『人工水晶体』(講談社文庫)に「我孫子の一言」のことを書いている箇所がある。五十代のはじめ、吉行淳之介は白内障になり、右目がほとんど見えなくなっていた。当時、日本では人工水晶体の手術が普及する前だったこともあり、長いあいだ、治療するかどうか迷っていた。

《その年の夏、友人の我孫子素雄がこう言った。
「ゴルフ仲間がね、といってもずっと年上の人ですが、白内障の手術を日赤でちょっと前にして、もうゴルフをしていますよ」》

 それからしばらくして吉行淳之介は我孫子氏に電話し、ゴルフ仲間の社長を通して、白内障手術の名医を紹介してもらう。一九八三年十一月、吉行淳之介は五十九歳だった。

2022/04/10

Ⓐさんのこと

 木曜日午後三時すぎ、神保町の古本屋をまわって新聞社に寄った。そこで藤子不二雄Ⓐさんの訃報を知った。八十八歳。悲しい気持よりも見事な人生だなと……。

 二〇〇四年に編集した『吉行淳之介エッセイ・コレクション』(ちくま文庫)の一巻「紳士」の解説を藤子不二雄Ⓐさんにお願いした。十八年前。わたしがはじめて作ったアンソロジーである。

『Ⓐの人生』(講談社、二〇〇二年)の「ニンゲン大好き!」に「ぼくは昔文学青年で吉行淳之介サンのファンだった」とある。第三の新人の交遊とトキワ荘の雰囲気はどことなく通じる——とⒶさんは考えていた。ちなみに『まんが道』(中央公論社、一九八七年)の愛蔵版の解説を吉行淳之介が書いている。Ⓐさんの日記には尾崎一雄や梅崎春生の名前も出てくる。

 わたしはⒶさんのエッセイが好きで、一時期、その文章の書き方を勉強した。でもどんなに真似しようとしてもⒶさんのような軽やかな文章は書けないと悟り、諦めた。ふわっとしているが達観している。『まんが道』で過去の自分(たち)を描き切り、ほどよく力が抜けたのか。もともとそういう資質だったのか。

『Ⓐの人生』の「禍福はあざなえる……」というエッセイでは——。

《世の中、良いことがあればわるいこともある。良いことは長くつづかないし、わるいこともそう長くつづかない。
 良いことがあった時は、モチロンその状態にひたりきればいいが、わるいことがあった時はどうするか?
 ぼくはそんな時、なんにも抵抗しない。ただジーッと頭をふせて、わるい風がとおりすぎるのを待つだけだ》

 同書の「休カン日をつくろう」は過去にもこのブログその他で紹介した。休カン日は「休感日」。感覚や神経を休めるため、“なーんにもしない”、“なーんにも考えない”で過ごす日を作ろうという提案である。

 しかしこの“なーんにもしない”がむずかしい。体の疲れよりも神経の疲れは気づきにくい。だから用心しすぎるくらいでちょうどいいのだろう。

 今日はなーんにもしない日にしようとおもう。

2022/04/03

化物

 四月、新生活をはじめた人におすすめしたいのは、自分の住んでいる町で何かひとつだけでもいいから定点観測(記録)をすることだ。惰性だろうが何だろうがとにかく続ける。引っ越したら引っ越し先でも続ける。
 わたしは高円寺駅が自動改札になる前の写真やエスカレーターがなかったころの写真を撮っておけばと悔いている。「あの店はいつまであったっけ」みたいなことをしょっちゅう考える。

 金曜日午後三時すぎ西部古書会館。今週は木曜日が初日だった。忘れていた。西部古書会館は三十三年通っている。わたしの数少ない定点行動のひとつ。でも写真は撮っていない。
 この日、高田保対談集『二つの椅子』(朝日新聞社、一九五〇年)のカバー付を買った。五百円。カバーなしは二十代のころ買っていたのだが、清水崑装丁のカバーははじめて見た。清水は本文中の挿絵も担当している。黄桜のカッパの絵の人ですね。

 高田保と宇野浩二との対談——。

《高田 昔ばなしになるが、あの頃の青年つてみんな傍若無人に生意気でしたね。山高帽をかぶつた佐藤春夫の姿なんぞ、今でもありあり目に浮ぶんだが、生意気の骨頂みたいだつた。あの人なんぞ、当時いくつだつたでしよう。
 宇野 二十三、四……。
 高田 前世代クソ食らえで、みんな大した心臓だつた。
 宇野 文学だけでなしに、演劇だつて、美術だつて、みんな前代クソ食らえ、心臓もクソもなしに暴れてたから、例えば新劇団だつて雨後の筍よりも、カビみたいにぞくぞく出ていた》

 高田保は一八九五(明治二十八)年、宇野浩二は一八九一(明治二十四)年生まれ、佐藤春夫は一八九二(明治二十五)年生まれ。
 宇野と佐藤はほぼ同世代である。

 高田保、宇野浩二は文士のたまり場だった本郷の菊富士ホテルにいた時期もあった。一九二三年(大正十二)年ごろか。そのすこし前に尾崎士郎と藤村千代(後の宇野千代)がいた。多くの文士は勘定を支払わず逃げた(高田保は払ったようだ)。

《高田 とにかくあそこは化物ばかりいましたね。文壇人ばかりでなく、政治家とか、弁護士とか、ほかの世界の連中にしても、みんな化物だった。
 宇野 あの頃、一番若かつたが石川淳。あれも化物でしたね。
 高田 こないだ当人から初めて聞いたんだが、ぼくのいたてつぺんの部屋に坂口安吾が入つていたんだそうです。これだつてやつぱり化物。しかし人間は妖気があるほうが面白い。
 宇野 化物だつただけに、みんな根気がよくつて勉強していた》

 石川淳は一八九九(明治三十二)年、坂口安吾は一九〇六(明治三十九)年生まれ。安吾が菊富士ホテルに入るのは昭和十年代前半である。
 高田、宇野の世代からすると、戦後の作家たちは一様におとなしく見えたようだ。「化物」のままでは生きにくい時代になったともいえる。

 文芸創作誌『ウィッチンケア』(vol.12)に「将棋とわたし」を書いた。「創作」と「実話」の部分が半々の構成。「実話」といっても記憶はどんどん脚色され、あやふやになっていく。何度も同じ話を書いているとあくが抜けてだんだんすっきりしてくる。そうなると実体験とは別の感じになる。

 かつては将棋界も「化物」——妖気の漂う人物がけっこういた。将棋の勉強だけでなく、修羅場を体験し、人生修業を積むことが勝負の決め手になると信じられていた時代もあった。ところが昭和の終わりごろから放蕩無頼の棋士はストイックな棋士に勝てなくなる。羽生善治さんらが登場しはじめた昭和末——一九八〇年代後半あたりから日々の体調管理に気をつかい、研究熱心な棋士が主流になった。

 こうした流れは碁将棋の世界だけではなく、スポーツ界にもいえる。長く活躍する選手はほぼ例外なく練習熱心だし、節制している。

「将棋とわたし」では一九九〇年代半ば、失業して荒んだ日々を送っていた「わたし」が将棋に熱中したことをきっかけに生活を立て直していく話である。

 実話といえば実話なのだが、生活の軌道修正を試みようとおもったきっかけは将棋の影響以外にもいろいろある。すこし書いたけど、削った。

2022/03/28

明るい風

 散歩のついでに古本屋に行く。今のわたしは歩くことのほうが優先度が高い。どこに行くか決めずに歩く。体にまかせる。といいつつ、だいたい同じようなコースを歩いてしまうのだが、それもまたよし。

 先日買った福原麟太郎著『春のてまり』(三月書房、一九六六年)——「三書三様」と題した随筆で河盛好蔵の『明るい風』(彌生書房、一九五八年)を取り上げている。

《河盛さんという人は、まことに話題の豊富な人であるが、こんど出た随想集『明るい風』も文学、政治、社会、流行、フランス、教育、読書、旅行、あらゆる人生の面を語って、しかも、変痴奇論というものが全くなく、静かな有益な座談である。人間修業のできた人の話というか》

 ——初出は日本経済新聞(一九五八年十一月十七日)

『春のてまり』を手にとったのは『明るい風』に導かれたのかもしれない。本を買うときの主体が自分になく、読んだ本に操られているような気分になることがよくある。一九五八年の随筆を今読む意味——なんてないわけだが、すこしずつ自分の知らない時代の断片みたいなものを知る面白さはある。

 四十前後、読書低迷期に陥ったとき、読んでも読まなくてもいいくらいの気持で背表紙の雰囲気だけで本を買っていた。『明るい風』は旅先の盛岡の古本屋で買った。

《私自身は決して明るい人間ではない。性格も気性も、どこか陰にこもったところがある。(中略)私はこの自分の性格を久しく持てあましていた》

《他人の心を明るくするような才覚は、もとより自分には恵まれていないが、せめて自分だけでも鍛え直して、社会や人間をできるだけ意地の悪い、狭い目で見ないように努力しようと志した》

——『明るい風』冒頭の言葉である。

 同書の「進学と就職」ではこんな話を書いている。

 小学六年生のころ、河盛好蔵のクラスに何をやらせても優秀な生徒がいた。しかし家が貧しく、中学に進学することができず、近所の金物屋で丁稚として働くことになった。当時(大正初期)、地方の小都市の中学校への進学率は二割くらいだったとふりかえる。

《自分より何でもよくできる友人が、自分と同じく中学校へ行けないことが、気の毒というより申しわけない気がした》

 河盛好蔵は学問を続けることにたいし、終始、後ろめたさを感じていた。

2022/03/25

春の散歩

 ついこの前、三月になったとおもったらもう下旬。時は流れ、仕事は進まず、昨晩、ひさしぶりに日付が変わる時間に飲みに行く。日常が戻りつつある。

 南陀楼綾繁編『中央線小説傑作選』(中公文庫)——黒井千次の「たまらん坂」を読み出した途端、引き込まれる。黒井千次は高円寺生まれと知る。「たまらん坂」所収の福武文庫、講談社文芸文庫はいずれも品切。文芸文庫は電子書籍で読めるが、気長に紙の本を探すか。
 一九八二年、作者五十歳前後の小説である。主人公の要助が地元の「たまらん坂」に興味を持ち、その歴史を調べはじめる。場所は国立市と国分寺市の境。漢字で書くと「多摩蘭坂」。文中「RCサクセション」「忌野清志郎」の名も出てくる。分倍河原の戦い、小手指の戦いといった言葉も出てくる。かつて鎌倉街道(古道)といわれた道が通っているあたり。中央線小説でもあるし、街道小説でもある。

『中央線小説傑作選』は、井伏鱒二、上林曉といった“中央線文士”の作品だけでなく、中央線沿線を舞台にしたミステリー、物語風の作品も収録している。
 上京して三十三年になるのに知らないところだらけだなと……。中央線以外はもっと知らない。行く場所はほとんど決まっていて、巡回しているだけだ。ここ数年、地図を見る時間が増えた。いろんな町を知りたい、歩きたい気持はある。なのに、時間はあってもだらだらと過ごしてしまう。
 近所の散歩はできても電車に乗るのが億劫というか、これといった用もないのにどこかへ行くのは意外とむずかしい。ふらっと自然に体が動くようになるには何らかの訓練が必要なのかもしれない。

 家を出る。駅に向かう。ホームに着くまでの間に東に行くか西に行くかを決める。電車に乗ったら適当な駅で降りて散歩する。

……と、ここまで書いてから電車に乗って荻窪へ。古書ワルツで福原麟太郎著『春のてまり』(三月書房、一九六六年)、芝木好子著『春の散歩』(講談社、一九八六年)を買う。どちらもタイトルに「春」の字が入っている。『春の散歩』は文庫を持っていたが、署名本だったので買った。『春のてまり』も署名本である。

 福原麟太郎は野方、芝木好子は高円寺に住んでいた。

2022/03/19

現実

 十六日深夜の福島県沖の地震で床に積んでいた本が崩れた。本棚の上に積んでいた本も落ちた。
 東日本大震災の数ヶ月前にマンションが水漏れした時、工事に来た人から「今すぐ本棚を固定しなさい」といわれた。すぐ実行した。二十年ちょっと前、寝る部屋の本棚を腰の高さのものに変えた。阪神・淡路大震災を経験した人に注意された。こちらもすぐ実行した。

 寝床の近くで崩れた本に吉田健一著『甘酸っぱい味』(ちくま学芸文庫、単行本は新潮社、一九五七年)があった。
 一九五七年の熊本日日新聞の連載随筆をまとめた本である。すこし前に紹介した河盛好蔵著『明るい風』(彌生書房、一九五八年)も熊本日日新聞の連載だった(吉田健一の連載の一年後)。吉田健一は一九一二年生まれ。連載時は四十五歳。

《釣りをしている人間を見ると、それが本職の釣り師でなければ、我々はその人間が暇人だと思う》(「現実」/『甘酸っぱい味』)

 釣人を貶しているわけではなく、小説家もそういう風に見られるようになったほうがいい——というのが吉田健一の考えである。

《我々が慌てている時は何も眼に留らず、それで何か一つのことに注意が行くと、もうそれでものを考える余裕がなくなる》

《時間が流れて行くのを乱そうとする時に、我々の心も平静を失う》

 意識した途端、自分が見たい「現実」しか見えなくなる。禅問答というか、哲学というか。

 二十代のころ、経済関係の業界紙で働いていたころ、古本を読んでいたら「現実を見ろ」と説教されたことがある。わたしにはわたしの「現実」がある。だから「何いってんだ、こいつ」としかおもえず、仕事をやめた。当時、上司だった人からすれば、困った部下だったにちがいない。

 会社に勤めている人は会社の、フリーランスはフリーランスの、無職は無職の「現実」がある。あらゆる「現実」は細分化する。だから議論や論争は、お互い、別々の「現実」をすり合わせるところからはじまる。そのすり合わせをすっ飛ばした言い争いになりがちなのも「現実」だ。

『甘酸っぱい味』の「思い出」もよかった。この話もいつか紹介したい。

2022/03/16

白系ロシア人

 季節の変わり目になると寝る時間がズレる。したがって起きる時間もズレる。だいたい五、六時間ずつ後ろにズレる。今日は朝七時起。まだ頭がぼーっとしている。

 河盛好蔵著『人間讀本』(番町書房、一九六六年)——本の間に日本経済新聞(一九八七年一月二十四日)の河盛好蔵のインタビュー記事の切り抜きあり。

《八十四歳にして意気軒高》

《息長い仕事のコツを聞くと、「仕事をしすぎないこと、人生を楽しむこと」と》

 前回『人間讀本』の「永代萬年暦」を紹介したが、「白系ロシア人」というエッセイも入っている。
 河盛好蔵がフランスに遊学中(一九二八年ごろ)、革命を逃れてパリにやってきたロシア人の音楽家や芸人、貴族や金持がたくさんいた。
 フランスの小市民にもロシア国債を持っている人がいて、彼らは帝政の復活を望んでいた。

《当時は日本にも帝政時代のルーブル紙幣が二足三文で売られていたことを記憶してられる方も多いであろう》

 河盛好蔵はパリにいたころ、古本屋の隣のロシア人たちが集まるカフェに一日一度は通っていた。
 いよいよ日本に帰国することになって店に挨拶に行く。シベリア鉄道で帰ると報告すると、ロシア人の客に「半年ぐらいではとても帰れないだろう」といわれる。「冗談言うな。二週間で日本に帰れるよ」と河盛好蔵がいうと、みんな大笑いした。

《パリに亡命していた白系ロシア人たちは、祖国の再建を信じようとはせず、もしくは信じること好まないで、今に、また新しい革命が起こって、自分たちの天下が来るにちがいないと、はかない希望をもちつづけていたのである》

 初出は『風報』一九五八年七月——。

2022/03/14

昼寝の季節

 気温二十三度。寒暖差のせいか体が重い。ロシア・ウクライナ情勢——開戦の直前までいつも通りの日々が続くと考えていた人もいるだろう。ある日突然、日常が崩れる。そうなったらどうしようと考えながら散歩して古本を読む。

 河盛好蔵著『人間讀本』(番町書房、一九六六年)に「永代萬年暦」という随筆がある。初出は『風報』一九六一年六月。
 京都の古本屋で弘化元年(一八四四)から大正九年(一九二〇)までの暦をまとめた本を買い、自分の生まれた日の曜日、大安か仏滅かなどを調べる。

 河盛好蔵は明治三十五年(一九〇三)十月四日生まれ、この日は土曜、大安だった。
 それから——。

《私と同世代の諸家では、まず『風報』の編集同人の両尾崎氏は、
 尾崎士郎 明治三十一年二月五日 土曜、先負
 尾崎一雄 明治三十二年十二月二十五日 月曜、先負
と同じ星である。そのほかでは
 井伏鱒二 明治三十一年二月十五日 火曜、先勝
 丹羽文雄 明治三十七年十一月二十二日 火曜、赤口
となっている》

 わたしも先負で両尾崎氏と同じ星である。尾崎一雄と同じなら文句なしだ。

 尾崎士郎と井伏鱒二は生まれ年と月が同じというのは意外だった。
 河盛好蔵は日柄の吉凶も説明しているのだが、先負は「午前は凶、午後は吉、物事静かにし、急ぐな」とある。

 河盛好蔵著『明るい風』(彌生書房、一九五八年)の「昼寝の季節」も好きな随筆だ。

 フランスの劇作家イヴ・ミランドが「あなたの好きなスポーツはなんですか」と訊かれ、「昼寝だ」と答えた逸話を紹介し、自分も「昼寝の大の愛好者である」と綴る。そして——。

《上林暁君が、『風報』という雑誌に、昼寝について書き、昼寝というものは、うとうととうたた寝するときの気持がいいので、さてこれから昼寝をしようと思って蒲団を敷くと、さっきの快感がどこかへ行ってしまうと書いていたが、同感である》

 上林暁は一九〇二年十月六日生まれ。月曜、先勝。前掲の「永代萬年暦」によれば、先勝は「諸事急ぐ事や願い事吉、午後は控え目のこと」だそうだ。

2022/03/11

善福寺川

 金曜日、西部古書会館。この日、文学展パンフがいろいろあった。『NHK広島放送センターオープン記念「井伏鱒二の世界」展』(一九九五年)を三百円。ただし鉛筆書き込みあり。
 酒、将棋、書画、釣り、旅……。いい人生だなと。
 このパンフレットでも『荻窪風土記』(新潮文庫)の「自分にとって大事なことは、人に迷惑のかからないようにしながら、楽な気持で年をとって行くことである」という言葉を引用していた。どうすればそんなふうに年を重ねられるのか。難題。

『荻窪風土記』の「善福寺川」のところを読む。太宰治が井伏鱒二のところに来ていっしょに善福寺川で釣りをした話のあと——。

《大正の末年頃は、ロシア人の羅紗売の行商人をよく見かけたものだ。落語の色物などのかかる牛込演芸館では、ひところ美貌のロシア女が高座に出て、バラライカを弾きながら「カチューシャ可愛や」という艶歌を歌った。ただ、それだけの芸だが、見物人は結構情緒を湧かしていたようだ》

 ロシア革命後、日本に亡命したロシア人が羅紗(毛織物)の行商をしていた。大正末だから百年くらい前の話である。当時、ロシアから多くの職人、技術者が日本に逃れてきた。ロシアパンが日本に広まったのもそのころだ。

2022/03/08

温厚の底

 尾崎一雄の「私の中の日本人 基廣・八束」(『単線の駅』講談社文芸文庫、二〇〇八年)は、祖父と父の話——。初出は一九七四年。
 祖父・基廣は「一口に言えば、頑固爺であった」。孫にたいしても「理不尽な怒り方」をし、雷のような声で怒鳴りちらした。いっぽう父・八束は「模範的封建紳士」でストイックな人だった。

《悪気なしの失敗を頭から叱り飛ばす、ということを父は絶対にしなかった。「今度から気をつけよ」と言った。が、同じ失敗を繰り返すと叱った。叱ると言っても、怒鳴りつけることはなかったし、いわんや手を上げることは決してなかった。「温厚の底に憤りをたたえ」と私は父の表情についてよく書くが、その顔つきで、こっちの眼を直視する。それが実に怖かった》

 子どものころの尾崎一雄は怒鳴る祖父よりも静かに怒る父を怖れた。その後、厳格な父に反発し、文学に傾倒した。尾崎一雄の父は一九二〇年二月に満四十七で亡くなったが「七十四の私は、自分より『大人』だったという感じを未だに持ち続けている」と綴る。

《私は、基廣とも八束とも違った人間になった》

 理不尽に怒る人にはなりたくないとおもいつつ、「温厚の底に憤りをたたえ」という人も近くにいると息苦しくなる。たぶん、ほどよくいい加減に生きるというのがよいのだろう。

2022/03/03

これだけの者

 三月。水曜日夕方神保町。小諸そばで天ぷらうどん、神田伯剌西爾。東京堂書店の週間ベストセラーの文庫、尾崎一雄著『新編 閑な老人』(中公文庫)が二位だった。

 先月、荻窪の古書ワルツの新書の棚で尾崎一雄著『末っ子物語』(講談社ロマン・ブックス、一九六四年)を見つける。新書版は持ってなかった。

 この作品でも尾崎一雄おなじみの壮大な自問自答が見られる。

《広大無辺な宇宙のどこかに、地球という微細な星屑が生れたのはいつのことなのか》

《一方、原初以来、いつまでとも知れぬ無限の時の流れの、現在というこの瞬間に、どうして俺は生きているのか。なに故、今生きるべく俺という生命は決められたのか——》

 たまたまこの時代のこの場所に生まれ、暮らし、いつの日かこの世を去る。そんな貴重な時間を生きているとおもいつつ、無為な時間を過ごすことも楽しい。人生とは何だろう。

 尾崎一雄といえば、インターネット上に次のような“名言”がよく出回っている。

《一切の気取りと、背のびと、山気を捨て、自分はこれだけの者、という気持でやろう》

 この言葉は「暢気眼鏡」や「虫のいろいろ」ではなく「なめくぢ横丁」(『芳兵衛物語』旺文社文庫などに収録)に出てくる。志賀直哉に憧れ、真似ばかりしていたが、自分流になりふりかまわず小説を書こうと決意したときの気持だ。

 尾崎一雄には「なめくぢ横丁」「もぐら横丁」「ぼうふら横丁」の“横丁三部作”がある。

2022/02/28

世界をどう見るか

 鮎川信夫著『私のなかのアメリカ』大和書房、一九八四年)所収の「世界をどう見るか」はインタビュー形式の論考で、他の時評と比べると、やや緻密さに欠ける(言葉も荒っぽい)ところがあるのだが、その分、彼の本心にちかいとおもわれる表現が多い……ように見える。

《僕なんかすぐ反共といわれるけど、そうじゃない。いつか吉本隆明との対談でもいったけど、ソルジェニーツィンのグラッグ(『収容所群島』)、あれに対してだって、かりにもコミュニストという自覚のある人だったら、真正面から取り上げて、きちんと克服しなきゃ駄目だと言った。しかも、それができるはずだと僕は思ってるんです。ソルジェニーツィンは超人的な努力であれを書いたんだろうけど、それにはやはり同じ超人的な努力を払わなければいけない。(中略)知らん顔をしたり、無視したりね。なっちゃいない》

 つまりソルジェニーツィンが提示した問題を克服することは、共産主義社会にとっても有用なのだと……。それをしないコミュニストにたいする苛立ちを隠さない。

《第二次世界大戦の誘因をつくったのは、つまりヒットラーに侵略の野望を抱かせたのは、タカ派ではなくて、ハト派だからね。英、米、仏の共産党なんか、ヒットラーが侵略を開始しても、まだ、それと戦うことに反対してたんだ。かれらの平和主義は、ヒットラーやスターリンに勝手なことをさせよう、ということだったんだよ》(「世界をどう見るか」/同書)

 現在のロシアのウクライナ侵攻でヨーロッパ各国が、予想を上回る迅速さでウクライナへの支援を表明し、ロシアにたいする厳しい経済制裁に動き出したのも第二次世界大戦のときの平和主義という名の傍観主義が招いた悲劇をくりかえすまいとしたからだろう。

《W・H・オーデンの詩に、アメリカの中立主義を歯痒がって、それをなじっているような詩があります。ヒットラーがスターリンのロシアと共謀してポーランドを分割し、欧州大戦が始まっているのに、アメリカはまだ中立宣言をしてたからね》(「世界をどう見るか」/同書)

 イギリスはアメリカに武器の援助を求めたが、アメリカは「現金と引き換え」でないと応じなかった。戦後のヨーロッパの「反米感情」はアメリカの中立主義に根ざしている——と四十年ほど前に鮎川信夫は分析していた。

2022/02/26

鮎川信夫とソルジェニーツィン

 鮎川信夫著『時代を読む』(文藝春秋、一九八五年)は、一九八二年~八五年のコラム集である。「ソルジェニーツィン来日の意味」にはじまり「『現代ロシア』を知る」で終わる。

《ソルジェニーツィンは愛国者である。れっきとしたロシア文学の伝統の保持者であり、そのために、ソ連当局の忌諱にふれ、国外追放されたようなものである》(「ソルジェニーツィン来日の意味」)

 ソルジェニーツィンがヨーロッパ、アメリカ、日本を訪れたのは「ロシアを顧みるためだった」と鮎川信夫は指摘する。

 この本の「ソルジェニーツィンの警告」(初出は八三年四月)は、来日したソルジェニーツィンの滞在中の記録『日本よ何処へ行く』(原書房)の書評兼時評——鮎川信夫は共産主義体制下で人々が生きる希望を失い、地下資源と武器しか売るものがなくなったソ連の現状を語りつつ、こう続ける。

《ソルジェニーツィンは、個人の幸福の追求に基礎をおく西欧社会の在り方に、かなり失望感を抱いているようである。それゆえ、自由な体制がいいとは言わず、もっぱら、伝統的な宗教や道徳の重要性を強調し、自己抑制の必要を説いたのであろう》

 そんなコラムを読んだあと、土曜日、西部古書会館。『ソルジェニーツィン・アルバム』(江川卓訳、新潮社、一九七七年)を買う。赤い表紙の正方形の写真集。はじめて見た。

《ソルジェニーツィンにおいて何より私を感嘆させるのは、地上のだれにもまさる脅威にさらされ、だれにもまさる闘いをたたかってきた人間——この人間にそなわる平静そのもののたたずまいである。何物も彼の心の平衡を破ることはできまい》(ハインリヒ・ベル)

 この写真集の冒頭にはそんな賛辞もそえられている。

 八〇年代、鮎川信夫は時評で何度もソルジェニーツィンを取り上げた。鮎川信夫の時評に触発され、『ソルジェニーツィン短篇集』(木村浩編訳、岩波文庫、一九八七年)を読んだが、二十代の自分はピンとこなかった。

《私は自分の書いたものがたとえ一行でも生存中に活字になることはけっしてないだろうと確信していたばかりでなく、相手が口外することを恐れて、身近な友人たちのほとんどだれにも自分の作品を読ませようとしなかった》(『ソルジェニーツィン・アルバム』)

 戦時下や圧政下に詩人や文学者は何ができるのか——は鮎川信夫の長年のテーマだった。
 わたしにできるのはせいぜい気晴らしや気休めの提供くらいだろう。そういうものが書ける場所を守ることも平和につながる……のではないか。常時非常時問わず、「平静」と「心の平衡」を保つことは有用だと信じている。

2022/02/22

新編 閑な老人

 二月二十二日、尾崎一雄著『新編 閑な老人』(中公文庫)が発売になりました。旧版の『閑な老人』(中公文庫)とは収録作を大きく変え、尾崎一雄が“閑な老人”になるまでの歩みがわかるように編んだ。それから元の『閑の老人』を愛する尾崎一雄ファン(わたしも)に向け、旧版の解説で高井有一が書いている「生存五ヶ年計画」関係の作品も収録した。
 編集方針としては、尾崎一雄の「生きる」と「歩きたい」を軸に短篇、随筆を選んだ。「生きる」を最初にするか最後にするか。「歩きたい」をどこに入れるか。それによって他の作品の並べ方も変わる。
「生きる」は三十代のはじめから数え切れないくらい読み返している。「歩きたい」は五十歳前後に再読し、もっとも感銘を受けた作品だ。
 カフェ昔日の客の関口直人さんに教えてもらった「狸の説」という小説も収録した。山王書房の関口良雄さんがモデルの古本屋さんが登場する。

 病苦や貧困に陥るもそこから日常の小さな喜びを見いだす。尾崎一雄の小説はだいたいそういう話である。
 大小様々な困難に直面するたびにわたしは尾崎一雄を読む。読んで問題がすぐに解決するわけではない。でも心構えみたいなものは学べる。

《私の中に自動制御器のようなものが取りつけられたのは、敗戦前後の長患いを経てからである。その器械の働きによって、私はあらゆる面で、やりすぎ、エクセスというものと縁が遠くなった》(「上高地行」/『新編 閑な老人』)

 エクセスは過剰、超過の意。四十代半ば以降、尾崎一雄は無理をしないことに徹した。若い人にも読んでほしいが、すこし退屈かもしれない。
 わたしは生老病死についてまだ今ほど切実ではなかったころ、尾崎一雄を読み、わからないことがたくさんあった。年をとるつれ、すこしずつわかってくる。そういう読書の楽しみ方もある。
 文学でも音楽でも絵でも何でもいい。何かを表現し、あがいている人には本書収録の「気の弱さ、強さ」を読んでほしい。たぶん得るものがあるだろう。

 (追記)二〇二二年二月二十二日午前二時二分に公開しようと準備していたら寝てしまった。午後二時二十二分に公開した。

2022/02/20

日常の釣り

 十二月一月二月——この三ヶ月は無理をしないことを心がけている。からだを冷やさず、疲れをためず、休み休み仕事する。冬のあいだ、毎日ほぼ欠かさず腰のあたりに貼るカイロをつけている。つらいときはおなかと腰の両面につける。
 三十個入りで四百円、一個十円ちょっとだが、両面貼りが当たり前になると、ますます寒さにたいする防御力が弱まりそうな気がする。だからなるべくしないようにしている。

『フライの雑誌』の最新号は「3、4、5月は春祭り」。表紙も春っぽい。わたしはこの号で「荷風散人が歩いた川」というエッセイを書いた。晩年の荷風が暮らした千葉県市川市の菅野、八幡あたりを散策した。途中、遊歩道に市川にまつわる文人の案内板があって山本夏彦も八幡に住んでいたことがわかった。いいところだった。

 この号、北海道から沖縄まで日本各地の春の川の様子をいろいろな人が書いていて旅がしたくなる。なぜか温泉に行きたくなる。知らない場所を地図で確かめながら、一本一本ゆっくり読む。弾むような踊るような文章ばかり。どの文章も春を待ち望む気持がこもっている。
 鹿児島の伊佐市の釣人の文章の中に「日常の釣り」という言葉があった。
 ここ数年の大水害やコロナ禍の現状を述べつつ、「今年は少しでも多く日常の釣りができなたらなぁ、と思っています」。そのあとの言葉も心を打たれた。

 伊佐市(旧・大口市)は父方の祖父母が暮らしていた。祖父は食品や日用雑貨を扱う小さな商店を営んでいた。三十年以上前の話である。
 中学の卒業式の後か前だったから一九八五年の春、祖母の葬式のときに父と三重から大阪に出てブルートレインで熊本まで行き、水俣から山野線に乗って薩摩大口駅で降りた。山野線は鉄道好きの間ではループ線で有名だった。八八年二月に廃線——その年、祖父が亡くなった。 

 その後、鹿児島は仕事と旅行で三回くらい訪れているが、伊佐市には寄っていない。

2022/02/14

そうとはかぎらない

 山田風太郎著『あと千回の晩飯』(朝日文庫)の「中途半端な小説」で「あるとき、ふと自分の小説は主人公が立往生するところでラストになるものが意外に多いようだと気がついた」と述懐している。

《立往生とは、自分のやった行為が果してまちがいなかったかどうか、相手の正邪を裁断したことが正しかったかどうか、判断停止の状態になる、という意味である》

 娯楽小説にもかかわらず、主人公が立往生するせいで勧善懲悪の明快さがなく、吹っ切れない。そこに自分の本性があるのではないかと考える。
 山田風太郎は主人公が立往生しがちな作品を書いてしまう理由を次のように分析する。

《つまり私の頭には、この世に存在するもの、起こったあらゆる事件についての解釈に対して「そうとはかぎらない」という疑念がしつこく揺曳(ようえい)しているのだ》

 揺曳は「ゆらゆらと漂う」「長く尾をひくこと」といった意味である。山田風太郎の随筆を読んでいると「だろう」「だろうか」という言い回しが多いことに気づく。自分の意見を強く主張しない。
『あと千回の晩飯』の冒頭の一文も「いろいろな兆候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う」である。わたしも「だろう」や「おもう」をよくつかうので、こういう文章を読むと嬉しくなる。

 コロナ禍以降にかぎっても賛否のわかれる議論は枚挙に暇がない。ワクチンを打つか打たないか自粛するかしないか。常にきっぱりとした意見をもとにした行動する人もいるが、迷い、立往生しながら、どちらかを選択した人もけっこういたのではないか。
 ある立場の人が別の立場の意見を罵倒まじりに否定する。そうした言説を目にするたびに「そうとはかぎらない」とわたしも考えてしまう。賛成にも反対にもうまくのれない。もちろん素早い決断や選択が必要な局面もある。そういうときに「そうとはかぎらない」派は足手まといになる。迷っているうちに機会を失ってしまうこともよくある。

 それでもわたしはこんなふうに迷っています、悩んでいますという意見が知りたいし、半信半疑の人の意見を知りたい。そういう言葉を参考にしながら考え、答えを出すのが自分には合っているようにおもう。

2022/02/08

久七と伊勢信仰

 高円寺の天祖神社の話を書いたが、同じ日、西部古書会館で『社寺参詣と代参講』(世田谷区立郷土資料館、一九九二年)というパンフレットも買っていた。

『文化財シリーズ24 杉並の神社』(杉並区教育委員会)には、小沢村(高円寺)の郷土民の山下久七が寛治元年に今の東高円寺に天祖神社を建てた——という伝承が残っているが「創建の由来については、寛治元(一〇八七年)と伝えられているが詳かでない」とある。

『社寺参詣と代参講』の「伊勢信仰」によれば「古代の伊勢神宮は、私的な奉幣は禁じられていたが、中世になると頼朝が御厨を寄進し『行私』の祈願を行っていたように、私的な祈願も観られるようになった」。
 古代の伊勢神宮は皇室以外の祈祷や奉納は禁止されていた。

《私的に伊勢神宮へ参詣した記録は、鎌倉後期になって現れる。弘安頃の権僧正通海の『通海参詣記』、同じ頃の後深草院二条の『とはすかたり』、弘長年間の無住の『沙石集』などに、参詣の記述がある》

 弘安は一二七八年から一二八八年。山下久七が高円寺と伊勢を行き来していたのはその二百年くらい前といわれているが「記録」はない。ただし伊勢神宮の「私幣禁断」がゆるんだのは平安時代の後期(諸説あり)らしいので、そうすると山下久七が毎年伊勢神宮に行っていた可能性もゼロではない。
 宗教史——ほとんど勉強していないのだが、街道とも密接な分野である。多くの人が神社仏閣を訪れることで整備されていった道はけっこうある。どこまで調べるか、どこまで歩くかも絞っていかないとキリがない。

 何事も動きながら考えるのがいいのだろう。それしかない。しかし寒くて外に出られない。

2022/02/06

山下久七

 土曜夕方、西部古書会館。ブック&Aは木曜から開催だったのだが忘れてた。三日目でも郷土史関係のいい図録がいっぱいあって、財布と相談しながら棚から出したり戻したり。
『文化財シリーズ24 杉並の神社』(杉並区教育委員会、一九八〇年)は、迷わず買った一冊。コロナ禍以降、散歩の範囲が広がり、これまで行ったことのなかった杉並区内の神社をけっこう訪れた。
 高円寺に三十年以上住んでいるのに昨年秋まで東京メトロの東高円寺駅近くの高円寺天祖神社を知らなかった。二〇二一年九月七日のブログ「秋の声」にも天祖神社の話をちょっとだけ書いている。こんなところにって感じの場所にある。今は東高円寺方面に行ったときはかならず寄る。

『杉並の神社』の「高円寺天祖神社」の解説の頁を読む。

《寛永十(一六三三)年の『曹洞宗通幻派本末記』に「武州多東郡小沢之村高円寺」とあるので、高円寺村は小沢村と呼ばれていたことがわかる。天祖神社の鎮座地である小字小沢はかっての小沢村の中心地で、したがって村の鎮守であったのであろう》

《創建の由来については、寛治元(一〇八七年)と伝えられているが詳かでない》

《現宮司が著わした『由緒書』によれば、「本社は寛治元年の創立と伝えられ、その始めは当時の郷土民山下久七と云ふ人ありて、極めて敬神の念厚く毎年伊勢参宮をなせしが、或る夜霊夢に曰く「汝等吾れを敬する事甚だ深し、汝吾れを近く斎らば家運繁栄を守るべし」と》

 久七は高円寺村の草分けの家柄で八町八反を所有していた地主であり、道の整備をするなど、地元の民衆の利便を計るのに熱心な人物だったらしい。

 平安時代に毎年高円寺と伊勢を行き来していた人がいた(かもしれない)と知って嬉しくなる。

2022/02/04

メガネ橋

《——ちょっと汽車に乗って、どこか田舎に出かけないか。ふと出かけるという気持だ。甲州はどうだろう》

 井伏鱒二の「鹽の山・差出の磯」(一九五四年)はこんなふうにはじまる。『場面の効果』(大和書房、一九六六年)所収。「鹽の山」の「鹽」は「塩」の旧字。老眼にはつらい。

 井伏鱒二は山梨が好きだった。ここ数年、わたしも好きになった。JR中央線を西へ西へ、トンネルを抜け、盆地が見えてくる。特急は快適だが、快速でもそれほど時間は変わらない。

《塩山の方から甲府に向けて行く街道が、ここで笛吹川を越え、丘陵の裾に沿うて続いている。汽車の窓から見ていると、橋がちらりと目に入る》

 橋の名はメガネ橋。井伏鱒二のかつての釣場である。

《以前、私はこの附近に疎開していたが、鮎釣の季節には毎日のようにメガネ橋の下の淵に出かけていた》

 疎開中、井伏鱒二はこの土地の漁業組合の組合員になり、釣りばかりしていた。

「鹽の山・差出の磯」は山梨の疎開時代の十年後に書いた短篇である。十年の間に川の流れ、釣場の景色がすっかり変わってしまったそうだ。

2022/02/01

井伏鱒二年譜考

  二週間ほど前、神保町の田村書店の半額セールで松本武夫著『井伏鱒二年譜考』(新典社、一九九九年)を買った。昨年の九月ごろから、神保町の何軒かの店でこの本を見つけていたのだが、値段が七千円前後だったので購入を躊躇っていた。田村書店で会計をすませると、五十肩の痛みを楽にする方法を教えてくれた編集者とばったり会い、近くの喫茶店で珈琲を飲む。新型コロナの流行前は古本屋で友人と会って、そのまま喫茶店に流れることがよくあった。
 古本好きは行動パターンが似ている。その人その人の巡回コースがあり、それが重なる人とはしょっちゅう出くわす。

『井伏鱒二年譜考』を読む。「井伏家 略系図」を見ると、嘉吉年間(一四四一年頃)までさかのぼる家系の記録が残っている。一四四九年頃、「井」姓から「井伏」姓になった。

 一四四一年——室町時代の日本はどんな世の中だったのか。今谷明著『土民嗷々 一四四一年の社会史』(創元ライブラリ、二〇〇一年刊)という本があるようだ。読んでみたい。

『井伏鱒二年譜考』を読みたかったのは、戦中、山梨の疎開時代について知りたかったからだ。

 一九四四年——井伏鱒二、四十六歳。

《五月、山梨県甲運村で瓦工場を営む岩月由太郎家の離れにある、祖母岩月久満(くま)の隠居所の一階に、節代夫人と四人の子どもが疎開する》

《七月、井伏鱒二も山梨県甲運村の岩月家に疎開する》

 井伏鱒二の年譜、聞き書きを読んでいると疎開の時期が一九四四年五月〜七月とばらつきがあった。そのことがずっと気になっていたのだが、五月に家族が山梨に移り住み、そのあと井伏鱒二が疎開した。その間、井伏鱒二は荻窪と山梨を何度か行き来していたのだろう。年譜には六月二十五日に太宰治が「疎開中の井伏鱒二を訪ねてくる」との記述もあった。
 甲運村に疎開した後も井伏鱒二は「防空演習」のため、何度となく一人で東京に帰っていた。

2022/01/31

追分道中記

 土曜と日曜、西部古書会館の大均一祭に行く。初日は昼すぎ、二日目は夕方——頭が回らないまま棚を眺める。どうして冬になると、こんなに頭がぼーっとするのか。体がおもうように動かないのか。みんなどうしているのか。

 高円寺の歴史関係の出版社、有志舎の季刊フリーペーパー『CROSS ROADS』で「追分道中記」というエッセイを連載することになった(計四回の予定)。第一回掲載のVOL.11は一月三十一日刊。五年前に父が亡くなり、それから街道歩きをはじめるようになった——そのあたりの経緯もすこし書いた。
 コクテイル書房で飲んでいたとき、隣の席にいた有志舎の永滝さんに何度か酔っぱらって街道の話をした。しばらくして永滝さんが『街道の日本史』シリーズ(吉川弘文館)の担当編集者だったと知る。このシリーズの刊行開始は二十年ちょっと前。めちゃくちゃ調子にのって喋ってしまったよ。

 本多隆成、酒井一著『街道の日本史30 東海道と伊勢湾』(吉川弘文館、二〇〇四年)は鈴鹿市の神戸(かんべ)と白子(しろこ)のことも詳しく記されている。いずれも伊勢街道の宿場町である。

2022/01/29

別の進路

 昨年あたりから田畑書店が次々と良質な文芸書を刊行している。昨年九月に出た増田みず子著『理系的』(田畑書店)も素晴らしかった。ほとんど初読の随筆だった。

「井伏さん讃歌」はこんな一節からはじまる。

《井伏さんの小説をたくさん読んだ。こんないい方は大変失礼だと思うが、気が滅入ったときなどに井伏さんの文章をゆっくり時間をかけて読むと、元気になれた》

 わたしも元気がないときに井伏鱒二を読むことが多い。尾崎一雄もそうかもしれない。読むと、なんとなくささくれた神経が和らぐ。そして、だらだら、のんびりしていてもいいのではないかと……。

《井伏さんの小説を読むと、生きているのが悪くないことのように思えてくる。それはなぜなのか前々から考えている。
 テレビで井伏さん自身がいっていた。「悪口は書かない。性分が合わないんだ」》

——初出は「ちくま」(一九九三年九月号)

「夢と進路」の中学生のときの校長先生の話もよかった。

《進路を決めたらそれに向かって懸命に努力するのはもちろんだが、それがうまくいかなくても挫折と考えて落ち込んでしまわずに、別の進路にチャレンジしてみる柔軟さも必要だという話だった》

——初出は「旺文社ゼミ『HIGH PERFECT』 高2クラス」(一九九四年十二月号)

 昔から何かに挫折した後に再チャレンジする話を読んだり聞いたりするのが好きだ。なぜそういう話に魅かれるのかというと、年がら年中、食えなくなったら、どうするかということで悩んでいるからである。今もそのことばかり考えている。

2022/01/26

糖衣錠

 ジョージ・ミケシュ(マイクス)の『不機嫌な人のための人生読本』(ダイヤモンド社)の巻頭をかざるエッセイの題は「糖衣錠——良薬は口にも甘し——」。
 ミケシュはユダヤ系のハンガリー人でイギリスに亡命した作家である。
 ナチス時代のドイツとスターリン時代のソ連の迫害を知る彼は書き方も用心深い。そう簡単に尻尾をつかませない。
「糖衣錠」ではそんな自分の文章技法の種明かしをしている。

《こういった表現方法は、臆病に由来しているのである。(中略)ユーモア作家は——道化師たりとも例外ではないが——、まじめなことをいおうと欲し、必死になるときもあるが、あえてそうしようとはしないのである》

《薬とは、ときににがくあるべきである。しかし、錠剤は甘くすることができるのである》

 ミケシュは自身のコラムやエッセイを「糖衣錠」として世に発表することを心がけていた。当然、そんなオブラートに包んだ物言いでは世の中を変えることができないという反論もあるだろう。
 かといって、勇ましい直言であれば、世の中を大きく動かすことができるのかといえば、そうとも限らない。
「何を書くか」と同じかそれ以上に「どう書くか」というのはむずかしい問題だ。

2022/01/24

逆の見方

 ジョージ・ミケシュ(マイクス)の文章は逆説と皮肉が多く、読むのにすこし苦労する。本の原題も「How to〜」ではじまる入門書っぽいものが多い。一見、実用書風のタイトルで読者をひっかける。

『不機嫌な人のための人生読本』(ダイヤモンド社)の「逆の見方」にはこんな一節がある。

《ほとんどの人びとは世の中に対して、自分自身の理想化されたイメージを見せようとする。かれらは他の人たちに対して(実際のところ、自分自身に対しても、よりそうなるのだが)ほんとうの自分ではなく、ほんとうでない自分を見てもらいたいと思っているのである》

——ケチは寛大を装い、怠け者は働き者のフリをする。

《道徳的義憤は、人の感情のなかでもいちばん疑わしいものである》

 もちろんミケシュは「道徳的義憤」そのものを否定しているわけではない。それを大きな声で主張する人々を警戒しているにすぎない。ミケシュにいわせると「うけいれられ、信じられている説にあえて対抗しようとする哲学者」のような人物こそが「ほんとうの英雄」なのだ。おそらくミケシュ自身、そういった人物を「自分の理想化されたイメージ」と重ねていたのかもしれない。

「逆の見方」では、ミケシュと同じユダヤ系ハンガリー人のアーサー・ケストラーの『機械の中の幽霊』の話を紹介している。

《異教徒を拷問にかけたり焼き殺したりしたのは、こうした永遠の魂の捨てがたい善良さであるとも述べている。部族間の戦争は、けっして個人の利益ではなく、部族のため、たとえば共同の利益のために戦われるのである。宗教戦争はどちらがすぐれた神学かを決めるために戦われ、他の世継ぎ争い、王朝の争い、国家内の戦争などは、戦っている人びとにとってみれば、個人的にはなんの興味もないような問題のために、行われているのである。共産主義にはパージとよばれるものがあり、そのことは「社会衛生のための行動」という意味をふくんでいる。ナチスのガス室なども同じ種類の衛生だったのである》

 ミケシュは「逆の見方」をこんな文章で結んでいる。

《宗教や教義をすなおに信奉する人のほうが、すべての時代の堕落した犯罪者を総合したよりも、苦悩と流血の原因となってきたし、現在もその原因となっているのである》

幸せになる方法

 ジョージ・ミケシュ(マイクス)の『不機嫌な人のための人生読本』(ダイヤモンド社)の話の続き。この本に「低俗な幸福について」というエッセイがある。

《とりまく環境がばら色になれば、しあわせになり満足しやすいと考えるのは大まちがいである。われわれの満足は、たいていの場合、とりまく環境とまったく関係ないのだ》

 前回のブログで引用した部分とも重なる内容だ。どんなに恵まれた環境にいたとしても「満足する能力」がなければ、幸せになるのはむずかしい。
 ミケシュは六十代半ばに医者からこのままでは失明すると宣告される。さすがの彼もショックを受けた。

《だがわたしは、目の見えないまま人生をすごしている、勇気ある、賢い人たちがいることに気づきはじめ、だんだん六〇歳代になって目が見えなくなることに、なにがしかの利点を見出しはじめたのである。それは挑戦である、とわたしは考えた》

 ミケシュはたとえ目が見えなくなったとしても、人生にはいろいろな愉しみがあると考える。たとえば、音楽がそう。料理を味わう。体を動かし心地よい汗をかく。季節の移り変わりを肌で感じる。世の中には愉快なこと、新鮮な驚き——まだまだ自分の知らない喜びはいくらでもある。

 あと見たくないものを見なくてすむことは利点といえるかどうか。

2022/01/20

満足する能力

 ジョージ・ミケシュ(マイクス)の本に「幸福は——議論されつくした人びとの夢であるが——、(極端で稀少な場合をのぞき)運命とはあまり関係がない。それは、すべてみなさんの満足する能力によるものなのだ」とある。『不機嫌な人のための人生読本』(加藤秀俊監訳、ダイヤモンド社、一九八六年)の「客観的な目」に出てくる言葉だ。どうすれば「満足する能力」は身につくのか。

 他人と自分を比べない。過去を引きずらず、先のことを心配しすぎない。自分の理想像を高くしすぎない。そんなところか。いや、もっと熟慮したほうがいいテーマかもしれないが、考えすぎると幸せが遠ざかってしまう気もする。

 世の中、不満を探せば無限にある。満足と不満の割合はどのくらいの比率が適切なのか。

2022/01/14

ジャーナリストの倫理規範

 アンディ・ルーニー著『下着は嘘をつかない』(北澤和彦訳、晶文社、一九九〇年)の「ジャーナリストの倫理規範」には取材記者への重要な提言がいくつか記されている。

《*親切な言葉もふくめて、記事に影響を与える意図で差し出された供与は固辞する》

《*いかなるものでも、主義を援助したり信奉する目的で職業的知識を利用しない。また、その主義がいかに価値あるものに思えても、主義を利するために記事を改竄しない》

《*昼食のときは飲まない》

「親切な言葉」も記事に影響を与える。人間、褒められたら嬉しいし、貶されると腹が立つ。ある文章が(一部の人に)褒められる。その結果、そういうものばかり書くようになる。そしておかしくなる。
 何かに賛成したり反対したりする。そのときつい自分が所属する陣営に利するようなデータを集めてしまう。そういうデータは探せばいくらでも出てくるし、なければ作ることも可能である。
 だからこそジャーナリストは特定の主義に加担せず、世の中を見る訓練が必要となるわけだが、こうした「倫理規範」に基づく姿勢でものを書くと、左右両陣営からどっちつかずの態度を責められることがある。

『下着は嘘をつかない』の「ある上院議員の決断」にはこんな一節もある。

《政治家すべてがいかさま師とはいわないが、なかにはいかさま師もいる。大衆はそれがだれかを知る権利をもっている。(中略)みんなおなじ人間で、政治家にもジャーナリストにも、良い人間と悪い人間はだいたいおなじようにいる。どちらにも監視の眼を怠ってはならない》

2022/01/12

二、三歩下がる

 毎日新聞の夕刊「ラジオ交差点」で一月三日放送の「令和に復活!コサキンでワァオ!です、ワァオ!」(TBSラジオ)を紹介した。文字数の関係で番組後半の小堺一機さんと関根勤さんの会話について書き切れなかった。終始くだらない話で盛り上がっている中、六十六歳の小堺さんと六十八歳の関根さんが、自分らくらいの世代は一歩、いや、二、三歩引いたところでやっていかないと——という話をしていた。

 バカバカしいことをやるのが好きだけど、やりすぎると若手の出番を奪う。昔と同じつもりでいても、若い芸人やスタッフからすれば、彼らは芸歴四十数年の大ベテランである。軽いノリでふざけていても相手を萎縮させてしまうこともある。
 それで「二、三歩引いたところで……」という話になる。

 小堺さん、関根さんのような有名人にかぎった話ではなく、年をとるとそういうことも考えないといけなくなる。

 四半世紀以上前の話だが、当時、対談や座談会の構成の仕事をよくしていた。

 仮に六十代のその専門の世界では権威の学者(重鎮先生)と三、四十代の学者(新進先生)の対談があったとする。対談は一時間半。開始早々、重鎮先生の独演会状態になり、新進先生は「はい」と「そうですね」しかいわない——そうした状況に陥ることが度々あった。
 さすがにそれでは記事としてまとめるのがむずかしいから、途中でこちらも「新進先生はどうおもわれますか」「さきほどの件をもうすこし説明してくれますか」と話をふる。ところが新進先生が口を開こうとした途端、重鎮先生が「さっきのあれはね〜」と全部喋ってしまうのである。
 よくあることだが、非常に困る。そういうときどうしたかといえば、一時間半の対談を一時間で無理矢理終わらせ、そのあと新進先生にいくつか質問して、その回答を強引に対談に組み込むという技をつかった。

 ようするに対談や座談会の場で重鎮先生は一歩ではなく、二、三歩(できれば四、五歩)下がり、話の聞き手に徹するくらいでちょうどいいのである。

 五十歳前後の同業者あるいは自営業の人たちと話していると「まだまだわれわれは一兵卒で……」みたいなことをいってたりするし、いまだに若手扱いされたりすることもある。もちろん自分もそうだ。だから二十歳くらい年下の同業者にたいして「ちょっと先輩」くらいの立ち振る舞いをしてしまうことがよくある。当然、相手は困惑の表情を浮かべる。それはよくないことだなと小堺さんと関根さんの話を聞いて反省した。

2022/01/11

昆布の薄皮

 六日、雪がつもる。寝起きから二時間くらい頭がまわらず、手先に力が入らない。この日から三日連続で睡眠時間がズレる。朝寝昼起が昼寝夜起になり夜寝朝起に……。一定の周期で睡眠時間が六時間くらいずつ遅れていく時期がくる。小学校の高学年くらいからそういう傾向があった。

 毎年一月下旬から二月初旬ごろ、「冬の底」と呼んでいる気力体力のどん底期を迎えることが多いのだが、昨日(十日)あたりがそんなかんじ……がした。起きてすこし動いてまた寝て起きてすこし動いてほとんど一日中寝ている。昨年の「冬の底」は一月十八日あたり——一週間くらい早いが、誤差の範囲である。

 伊藤比呂美の『たそがれてゆく子さん』(中公文庫)の「不眠」を読んでいたら「頭のシワに、さば寿司にかかっているような昆布の薄皮がぴったり貼りついた気分である」という記述があった。ここ数日のわたしの状態もそうである。不眠ではなく、寝すぎのせいなのだが。

 以前、知り合いの編集者に「(ブログなどに)体調がよくない話は書かないほうがいいよ」とアドバイスしてもらった。仕事を依頼する側からすれば、不調を訴えている人には頼みづらいのだそうだ。まあそうでしょう。「隠居したい」「冬眠したい」みたいなことを書くのも考えものだ。しかし世の中、みんながみんな元気なわけではないのである。調子がよくないなりに、どうにかこうにか生きている人が大半だろう。

 頭が「昆布の薄皮」みたいなものに包まれているような状態のときは、ふだんと時間の流れ方もちがう。台所に行ってコーヒーをいれて飲む。自分の感覚では四、五分の出来事のような気がするのだが、ふと時計を見ると一時間くらい経っている。夕方起きて、ぐだぐだしているうちに、いつの間にか深夜になっている。そんなことがよくある。

2022/01/04

新春

 三日、氷川神社に初詣。午後三時すぎだったが、神社の外の道まで人が並んでいる。ぺこぺこぱんぱんの謎作法(わたしはしない)のせいでひとりあたりの時間がちょっとずつ長くなっている。
 年末年始は三重に帰省せず。ウイスキーのお湯割りを飲みながら、お笑い番組をだらだら見たり、ラジオを聴いたり、本を読んだり……。

 昨年あたりから営業が三日、四日からのスーパーが増えた(無休の店もある)。
 上京したころ——一九九〇年代のはじめの年末年始の高円寺も店が開いてなくて、ひたすら鍋で過ごした。鍋でうどん、鍋で雑煮、鍋で雑炊……。

 新年の初読書は滝田ゆうの『変調・男の子守唄 下町望郷篇…』(学研、一九八五年)。同書の「師走の日記より……」で滝田ゆうが母に「ポンチ絵なんか描いて世渡りしようなんて了見は道楽者のすることだ!」となじられた話を回想している。

『ぼくの裏町ぶらぶら散歩』(講談社、一九八八年)にも「道楽者」という随筆がある。

《漫画を書くことを、自分自身の生涯のなりわいとして、四六時中、原稿と睨めっこをして、今日までやって来たが、かつて密かにこの世界を志したとき、おふくろはいち早くそれを察知して、おふくろはぼくに“道楽者”の烙印を押し、なにかにつけて“親不孝”を連発して、かなり手厳しくぼくをののしったものだった》

《以来三十余年。売れても売れなくても、ぼくはこの道一本にしがみついて来た》

 滝田ゆうは一九三一年十二月二十六日生まれ。十八、九歳ごろ、田河水泡の内弟子になる。田河水泡の荻窪時代ですね。昨年六月、田河水泡の『少年漫画詩集』(教育評論社)が復刻された。田河水泡の本名は高見澤仲太郎。ペンネームは「田=た、河=か、水泡=みず・あわ(たかみざわ)」からきていることを知る。『少年漫画詩集』が昭和二十二年に“復刊”した時の「復刊によせて」に記されていた。
 小林秀雄の妹は田河水泡と結婚し、高見澤潤子の名で随筆を書いている。滝田ゆうの随筆に敬虔なクリスチャンの高見澤潤子が出てくる話があった。

 ユーラシアがヨーロッパとアジアを掛け合わせた言葉と知ったときも「いわれてみれば……」という気持になったが、田河水泡のペンネームの由来がわかったときの心境もそれに近い。ブランチがブレックファストとランチを合成した「かばん語」と知ったときも「なぜ気づかなかった!」とおもった。

 五十歳すぎると、新年の抱負なんて何も浮ばない。とりあえず一年無事に過ごせたらいいなと……。今年もよろしく。