ついこの前、三月になったとおもったらもう下旬。時は流れ、仕事は進まず、昨晩、ひさしぶりに日付が変わる時間に飲みに行く。日常が戻りつつある。
南陀楼綾繁編『中央線小説傑作選』(中公文庫)——黒井千次の「たまらん坂」を読み出した途端、引き込まれる。黒井千次は高円寺生まれと知る。「たまらん坂」所収の福武文庫、講談社文芸文庫はいずれも品切。文芸文庫は電子書籍で読めるが、気長に紙の本を探すか。
一九八二年、作者五十歳前後の小説である。主人公の要助が地元の「たまらん坂」に興味を持ち、その歴史を調べはじめる。場所は国立市と国分寺市の境。漢字で書くと「多摩蘭坂」。文中「RCサクセション」「忌野清志郎」の名も出てくる。分倍河原の戦い、小手指の戦いといった言葉も出てくる。かつて鎌倉街道(古道)といわれた道が通っているあたり。中央線小説でもあるし、街道小説でもある。
『中央線小説傑作選』は、井伏鱒二、上林曉といった“中央線文士”の作品だけでなく、中央線沿線を舞台にしたミステリー、物語風の作品も収録している。
上京して三十三年になるのに知らないところだらけだなと……。中央線以外はもっと知らない。行く場所はほとんど決まっていて、巡回しているだけだ。ここ数年、地図を見る時間が増えた。いろんな町を知りたい、歩きたい気持はある。なのに、時間はあってもだらだらと過ごしてしまう。
近所の散歩はできても電車に乗るのが億劫というか、これといった用もないのにどこかへ行くのは意外とむずかしい。ふらっと自然に体が動くようになるには何らかの訓練が必要なのかもしれない。
家を出る。駅に向かう。ホームに着くまでの間に東に行くか西に行くかを決める。電車に乗ったら適当な駅で降りて散歩する。
……と、ここまで書いてから電車に乗って荻窪へ。古書ワルツで福原麟太郎著『春のてまり』(三月書房、一九六六年)、芝木好子著『春の散歩』(講談社、一九八六年)を買う。どちらもタイトルに「春」の字が入っている。『春の散歩』は文庫を持っていたが、署名本だったので買った。『春のてまり』も署名本である。
福原麟太郎は野方、芝木好子は高円寺に住んでいた。