2022/02/28

世界をどう見るか

 鮎川信夫著『私のなかのアメリカ』大和書房、一九八四年)所収の「世界をどう見るか」はインタビュー形式の論考で、他の時評と比べると、やや緻密さに欠ける(言葉も荒っぽい)ところがあるのだが、その分、彼の本心にちかいとおもわれる表現が多い……ように見える。

《僕なんかすぐ反共といわれるけど、そうじゃない。いつか吉本隆明との対談でもいったけど、ソルジェニーツィンのグラッグ(『収容所群島』)、あれに対してだって、かりにもコミュニストという自覚のある人だったら、真正面から取り上げて、きちんと克服しなきゃ駄目だと言った。しかも、それができるはずだと僕は思ってるんです。ソルジェニーツィンは超人的な努力であれを書いたんだろうけど、それにはやはり同じ超人的な努力を払わなければいけない。(中略)知らん顔をしたり、無視したりね。なっちゃいない》

 つまりソルジェニーツィンが提示した問題を克服することは、共産主義社会にとっても有用なのだと……。それをしないコミュニストにたいする苛立ちを隠さない。

《第二次世界大戦の誘因をつくったのは、つまりヒットラーに侵略の野望を抱かせたのは、タカ派ではなくて、ハト派だからね。英、米、仏の共産党なんか、ヒットラーが侵略を開始しても、まだ、それと戦うことに反対してたんだ。かれらの平和主義は、ヒットラーやスターリンに勝手なことをさせよう、ということだったんだよ》(「世界をどう見るか」/同書)

 現在のロシアのウクライナ侵攻でヨーロッパ各国が、予想を上回る迅速さでウクライナへの支援を表明し、ロシアにたいする厳しい経済制裁に動き出したのも第二次世界大戦のときの平和主義という名の傍観主義が招いた悲劇をくりかえすまいとしたからだろう。

《W・H・オーデンの詩に、アメリカの中立主義を歯痒がって、それをなじっているような詩があります。ヒットラーがスターリンのロシアと共謀してポーランドを分割し、欧州大戦が始まっているのに、アメリカはまだ中立宣言をしてたからね》(「世界をどう見るか」/同書)

 イギリスはアメリカに武器の援助を求めたが、アメリカは「現金と引き換え」でないと応じなかった。戦後のヨーロッパの「反米感情」はアメリカの中立主義に根ざしている——と四十年ほど前に鮎川信夫は分析していた。

2022/02/26

鮎川信夫とソルジェニーツィン

 鮎川信夫著『時代を読む』(文藝春秋、一九八五年)は、一九八二年~八五年のコラム集である。「ソルジェニーツィン来日の意味」にはじまり「『現代ロシア』を知る」で終わる。

《ソルジェニーツィンは愛国者である。れっきとしたロシア文学の伝統の保持者であり、そのために、ソ連当局の忌諱にふれ、国外追放されたようなものである》(「ソルジェニーツィン来日の意味」)

 ソルジェニーツィンがヨーロッパ、アメリカ、日本を訪れたのは「ロシアを顧みるためだった」と鮎川信夫は指摘する。

 この本の「ソルジェニーツィンの警告」(初出は八三年四月)は、来日したソルジェニーツィンの滞在中の記録『日本よ何処へ行く』(原書房)の書評兼時評——鮎川信夫は共産主義体制下で人々が生きる希望を失い、地下資源と武器しか売るものがなくなったソ連の現状を語りつつ、こう続ける。

《ソルジェニーツィンは、個人の幸福の追求に基礎をおく西欧社会の在り方に、かなり失望感を抱いているようである。それゆえ、自由な体制がいいとは言わず、もっぱら、伝統的な宗教や道徳の重要性を強調し、自己抑制の必要を説いたのであろう》

 そんなコラムを読んだあと、土曜日、西部古書会館。『ソルジェニーツィン・アルバム』(江川卓訳、新潮社、一九七七年)を買う。赤い表紙の正方形の写真集。はじめて見た。

《ソルジェニーツィンにおいて何より私を感嘆させるのは、地上のだれにもまさる脅威にさらされ、だれにもまさる闘いをたたかってきた人間——この人間にそなわる平静そのもののたたずまいである。何物も彼の心の平衡を破ることはできまい》(ハインリヒ・ベル)

 この写真集の冒頭にはそんな賛辞もそえられている。

 八〇年代、鮎川信夫は時評で何度もソルジェニーツィンを取り上げた。鮎川信夫の時評に触発され、『ソルジェニーツィン短篇集』(木村浩編訳、岩波文庫、一九八七年)を読んだが、二十代の自分はピンとこなかった。

《私は自分の書いたものがたとえ一行でも生存中に活字になることはけっしてないだろうと確信していたばかりでなく、相手が口外することを恐れて、身近な友人たちのほとんどだれにも自分の作品を読ませようとしなかった》(『ソルジェニーツィン・アルバム』)

 戦時下や圧政下に詩人や文学者は何ができるのか——は鮎川信夫の長年のテーマだった。
 わたしにできるのはせいぜい気晴らしや気休めの提供くらいだろう。そういうものが書ける場所を守ることも平和につながる……のではないか。常時非常時問わず、「平静」と「心の平衡」を保つことは有用だと信じている。

2022/02/22

新編 閑な老人

 二月二十二日、尾崎一雄著『新編 閑な老人』(中公文庫)が発売になりました。旧版の『閑な老人』(中公文庫)とは収録作を大きく変え、尾崎一雄が“閑な老人”になるまでの歩みがわかるように編んだ。それから元の『閑の老人』を愛する尾崎一雄ファン(わたしも)に向け、旧版の解説で高井有一が書いている「生存五ヶ年計画」関係の作品も収録した。
 編集方針としては、尾崎一雄の「生きる」と「歩きたい」を軸に短篇、随筆を選んだ。「生きる」を最初にするか最後にするか。「歩きたい」をどこに入れるか。それによって他の作品の並べ方も変わる。
「生きる」は三十代のはじめから数え切れないくらい読み返している。「歩きたい」は五十歳前後に再読し、もっとも感銘を受けた作品だ。
 カフェ昔日の客の関口直人さんに教えてもらった「狸の説」という小説も収録した。山王書房の関口良雄さんがモデルの古本屋さんが登場する。

 病苦や貧困に陥るもそこから日常の小さな喜びを見いだす。尾崎一雄の小説はだいたいそういう話である。
 大小様々な困難に直面するたびにわたしは尾崎一雄を読む。読んで問題がすぐに解決するわけではない。でも心構えみたいなものは学べる。

《私の中に自動制御器のようなものが取りつけられたのは、敗戦前後の長患いを経てからである。その器械の働きによって、私はあらゆる面で、やりすぎ、エクセスというものと縁が遠くなった》(「上高地行」/『新編 閑な老人』)

 エクセスは過剰、超過の意。四十代半ば以降、尾崎一雄は無理をしないことに徹した。若い人にも読んでほしいが、すこし退屈かもしれない。
 わたしは生老病死についてまだ今ほど切実ではなかったころ、尾崎一雄を読み、わからないことがたくさんあった。年をとるつれ、すこしずつわかってくる。そういう読書の楽しみ方もある。
 文学でも音楽でも絵でも何でもいい。何かを表現し、あがいている人には本書収録の「気の弱さ、強さ」を読んでほしい。たぶん得るものがあるだろう。

 (追記)二〇二二年二月二十二日午前二時二分に公開しようと準備していたら寝てしまった。午後二時二十二分に公開した。

2022/02/20

日常の釣り

 十二月一月二月——この三ヶ月は無理をしないことを心がけている。からだを冷やさず、疲れをためず、休み休み仕事する。冬のあいだ、毎日ほぼ欠かさず腰のあたりに貼るカイロをつけている。つらいときはおなかと腰の両面につける。
 三十個入りで四百円、一個十円ちょっとだが、両面貼りが当たり前になると、ますます寒さにたいする防御力が弱まりそうな気がする。だからなるべくしないようにしている。

『フライの雑誌』の最新号は「3、4、5月は春祭り」。表紙も春っぽい。わたしはこの号で「荷風散人が歩いた川」というエッセイを書いた。晩年の荷風が暮らした千葉県市川市の菅野、八幡あたりを散策した。途中、遊歩道に市川にまつわる文人の案内板があって山本夏彦も八幡に住んでいたことがわかった。いいところだった。

 この号、北海道から沖縄まで日本各地の春の川の様子をいろいろな人が書いていて旅がしたくなる。なぜか温泉に行きたくなる。知らない場所を地図で確かめながら、一本一本ゆっくり読む。弾むような踊るような文章ばかり。どの文章も春を待ち望む気持がこもっている。
 鹿児島の伊佐市の釣人の文章の中に「日常の釣り」という言葉があった。
 ここ数年の大水害やコロナ禍の現状を述べつつ、「今年は少しでも多く日常の釣りができなたらなぁ、と思っています」。そのあとの言葉も心を打たれた。

 伊佐市(旧・大口市)は父方の祖父母が暮らしていた。祖父は食品や日用雑貨を扱う小さな商店を営んでいた。三十年以上前の話である。
 中学の卒業式の後か前だったから一九八五年の春、祖母の葬式のときに父と三重から大阪に出てブルートレインで熊本まで行き、水俣から山野線に乗って薩摩大口駅で降りた。山野線は鉄道好きの間ではループ線で有名だった。八八年二月に廃線——その年、祖父が亡くなった。 

 その後、鹿児島は仕事と旅行で三回くらい訪れているが、伊佐市には寄っていない。

2022/02/14

そうとはかぎらない

 山田風太郎著『あと千回の晩飯』(朝日文庫)の「中途半端な小説」で「あるとき、ふと自分の小説は主人公が立往生するところでラストになるものが意外に多いようだと気がついた」と述懐している。

《立往生とは、自分のやった行為が果してまちがいなかったかどうか、相手の正邪を裁断したことが正しかったかどうか、判断停止の状態になる、という意味である》

 娯楽小説にもかかわらず、主人公が立往生するせいで勧善懲悪の明快さがなく、吹っ切れない。そこに自分の本性があるのではないかと考える。
 山田風太郎は主人公が立往生しがちな作品を書いてしまう理由を次のように分析する。

《つまり私の頭には、この世に存在するもの、起こったあらゆる事件についての解釈に対して「そうとはかぎらない」という疑念がしつこく揺曳(ようえい)しているのだ》

 揺曳は「ゆらゆらと漂う」「長く尾をひくこと」といった意味である。山田風太郎の随筆を読んでいると「だろう」「だろうか」という言い回しが多いことに気づく。自分の意見を強く主張しない。
『あと千回の晩飯』の冒頭の一文も「いろいろな兆候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う」である。わたしも「だろう」や「おもう」をよくつかうので、こういう文章を読むと嬉しくなる。

 コロナ禍以降にかぎっても賛否のわかれる議論は枚挙に暇がない。ワクチンを打つか打たないか自粛するかしないか。常にきっぱりとした意見をもとにした行動する人もいるが、迷い、立往生しながら、どちらかを選択した人もけっこういたのではないか。
 ある立場の人が別の立場の意見を罵倒まじりに否定する。そうした言説を目にするたびに「そうとはかぎらない」とわたしも考えてしまう。賛成にも反対にもうまくのれない。もちろん素早い決断や選択が必要な局面もある。そういうときに「そうとはかぎらない」派は足手まといになる。迷っているうちに機会を失ってしまうこともよくある。

 それでもわたしはこんなふうに迷っています、悩んでいますという意見が知りたいし、半信半疑の人の意見を知りたい。そういう言葉を参考にしながら考え、答えを出すのが自分には合っているようにおもう。

2022/02/08

久七と伊勢信仰

 高円寺の天祖神社の話を書いたが、同じ日、西部古書会館で『社寺参詣と代参講』(世田谷区立郷土資料館、一九九二年)というパンフレットも買っていた。

『文化財シリーズ24 杉並の神社』(杉並区教育委員会)には、小沢村(高円寺)の郷土民の山下久七が寛治元年に今の東高円寺に天祖神社を建てた——という伝承が残っているが「創建の由来については、寛治元(一〇八七年)と伝えられているが詳かでない」とある。

『社寺参詣と代参講』の「伊勢信仰」によれば「古代の伊勢神宮は、私的な奉幣は禁じられていたが、中世になると頼朝が御厨を寄進し『行私』の祈願を行っていたように、私的な祈願も観られるようになった」。
 古代の伊勢神宮は皇室以外の祈祷や奉納は禁止されていた。

《私的に伊勢神宮へ参詣した記録は、鎌倉後期になって現れる。弘安頃の権僧正通海の『通海参詣記』、同じ頃の後深草院二条の『とはすかたり』、弘長年間の無住の『沙石集』などに、参詣の記述がある》

 弘安は一二七八年から一二八八年。山下久七が高円寺と伊勢を行き来していたのはその二百年くらい前といわれているが「記録」はない。ただし伊勢神宮の「私幣禁断」がゆるんだのは平安時代の後期(諸説あり)らしいので、そうすると山下久七が毎年伊勢神宮に行っていた可能性もゼロではない。
 宗教史——ほとんど勉強していないのだが、街道とも密接な分野である。多くの人が神社仏閣を訪れることで整備されていった道はけっこうある。どこまで調べるか、どこまで歩くかも絞っていかないとキリがない。

 何事も動きながら考えるのがいいのだろう。それしかない。しかし寒くて外に出られない。

2022/02/06

山下久七

 土曜夕方、西部古書会館。ブック&Aは木曜から開催だったのだが忘れてた。三日目でも郷土史関係のいい図録がいっぱいあって、財布と相談しながら棚から出したり戻したり。
『文化財シリーズ24 杉並の神社』(杉並区教育委員会、一九八〇年)は、迷わず買った一冊。コロナ禍以降、散歩の範囲が広がり、これまで行ったことのなかった杉並区内の神社をけっこう訪れた。
 高円寺に三十年以上住んでいるのに昨年秋まで東京メトロの東高円寺駅近くの高円寺天祖神社を知らなかった。二〇二一年九月七日のブログ「秋の声」にも天祖神社の話をちょっとだけ書いている。こんなところにって感じの場所にある。今は東高円寺方面に行ったときはかならず寄る。

『杉並の神社』の「高円寺天祖神社」の解説の頁を読む。

《寛永十(一六三三)年の『曹洞宗通幻派本末記』に「武州多東郡小沢之村高円寺」とあるので、高円寺村は小沢村と呼ばれていたことがわかる。天祖神社の鎮座地である小字小沢はかっての小沢村の中心地で、したがって村の鎮守であったのであろう》

《創建の由来については、寛治元(一〇八七年)と伝えられているが詳かでない》

《現宮司が著わした『由緒書』によれば、「本社は寛治元年の創立と伝えられ、その始めは当時の郷土民山下久七と云ふ人ありて、極めて敬神の念厚く毎年伊勢参宮をなせしが、或る夜霊夢に曰く「汝等吾れを敬する事甚だ深し、汝吾れを近く斎らば家運繁栄を守るべし」と》

 久七は高円寺村の草分けの家柄で八町八反を所有していた地主であり、道の整備をするなど、地元の民衆の利便を計るのに熱心な人物だったらしい。

 平安時代に毎年高円寺と伊勢を行き来していた人がいた(かもしれない)と知って嬉しくなる。

2022/02/04

メガネ橋

《——ちょっと汽車に乗って、どこか田舎に出かけないか。ふと出かけるという気持だ。甲州はどうだろう》

 井伏鱒二の「鹽の山・差出の磯」(一九五四年)はこんなふうにはじまる。『場面の効果』(大和書房、一九六六年)所収。「鹽の山」の「鹽」は「塩」の旧字。老眼にはつらい。

 井伏鱒二は山梨が好きだった。ここ数年、わたしも好きになった。JR中央線を西へ西へ、トンネルを抜け、盆地が見えてくる。特急は快適だが、快速でもそれほど時間は変わらない。

《塩山の方から甲府に向けて行く街道が、ここで笛吹川を越え、丘陵の裾に沿うて続いている。汽車の窓から見ていると、橋がちらりと目に入る》

 橋の名はメガネ橋。井伏鱒二のかつての釣場である。

《以前、私はこの附近に疎開していたが、鮎釣の季節には毎日のようにメガネ橋の下の淵に出かけていた》

 疎開中、井伏鱒二はこの土地の漁業組合の組合員になり、釣りばかりしていた。

「鹽の山・差出の磯」は山梨の疎開時代の十年後に書いた短篇である。十年の間に川の流れ、釣場の景色がすっかり変わってしまったそうだ。

2022/02/01

井伏鱒二年譜考

  二週間ほど前、神保町の田村書店の半額セールで松本武夫著『井伏鱒二年譜考』(新典社、一九九九年)を買った。昨年の九月ごろから、神保町の何軒かの店でこの本を見つけていたのだが、値段が七千円前後だったので購入を躊躇っていた。田村書店で会計をすませると、五十肩の痛みを楽にする方法を教えてくれた編集者とばったり会い、近くの喫茶店で珈琲を飲む。新型コロナの流行前は古本屋で友人と会って、そのまま喫茶店に流れることがよくあった。
 古本好きは行動パターンが似ている。その人その人の巡回コースがあり、それが重なる人とはしょっちゅう出くわす。

『井伏鱒二年譜考』を読む。「井伏家 略系図」を見ると、嘉吉年間(一四四一年頃)までさかのぼる家系の記録が残っている。一四四九年頃、「井」姓から「井伏」姓になった。

 一四四一年——室町時代の日本はどんな世の中だったのか。今谷明著『土民嗷々 一四四一年の社会史』(創元ライブラリ、二〇〇一年刊)という本があるようだ。読んでみたい。

『井伏鱒二年譜考』を読みたかったのは、戦中、山梨の疎開時代について知りたかったからだ。

 一九四四年——井伏鱒二、四十六歳。

《五月、山梨県甲運村で瓦工場を営む岩月由太郎家の離れにある、祖母岩月久満(くま)の隠居所の一階に、節代夫人と四人の子どもが疎開する》

《七月、井伏鱒二も山梨県甲運村の岩月家に疎開する》

 井伏鱒二の年譜、聞き書きを読んでいると疎開の時期が一九四四年五月〜七月とばらつきがあった。そのことがずっと気になっていたのだが、五月に家族が山梨に移り住み、そのあと井伏鱒二が疎開した。その間、井伏鱒二は荻窪と山梨を何度か行き来していたのだろう。年譜には六月二十五日に太宰治が「疎開中の井伏鱒二を訪ねてくる」との記述もあった。
 甲運村に疎開した後も井伏鱒二は「防空演習」のため、何度となく一人で東京に帰っていた。