2022/02/04

メガネ橋

《——ちょっと汽車に乗って、どこか田舎に出かけないか。ふと出かけるという気持だ。甲州はどうだろう》

 井伏鱒二の「鹽の山・差出の磯」(一九五四年)はこんなふうにはじまる。『場面の効果』(大和書房、一九六六年)所収。「鹽の山」の「鹽」は「塩」の旧字。老眼にはつらい。

 井伏鱒二は山梨が好きだった。ここ数年、わたしも好きになった。JR中央線を西へ西へ、トンネルを抜け、盆地が見えてくる。特急は快適だが、快速でもそれほど時間は変わらない。

《塩山の方から甲府に向けて行く街道が、ここで笛吹川を越え、丘陵の裾に沿うて続いている。汽車の窓から見ていると、橋がちらりと目に入る》

 橋の名はメガネ橋。井伏鱒二のかつての釣場である。

《以前、私はこの附近に疎開していたが、鮎釣の季節には毎日のようにメガネ橋の下の淵に出かけていた》

 疎開中、井伏鱒二はこの土地の漁業組合の組合員になり、釣りばかりしていた。

「鹽の山・差出の磯」は山梨の疎開時代の十年後に書いた短篇である。十年の間に川の流れ、釣場の景色がすっかり変わってしまったそうだ。