2016/06/25

三重と京都

 日曜日、三重に帰郷する。鈴鹿に滞在中、二日で三回、港屋珈琲に行く。
 朝七時すぎに起き、午前八時にモーニング(コーヒー+トースト+ゆでたまごのセットが三百九十円)。家の近所を散歩し、市役所や銀行などをまわったのだが、まだ午前中だ。一日が長い。
 ひさしぶり——三十年ぶりくらいに椿大神社にも行った(最近、パワースポットとしても有名らしい)。椿会館で天ぷら定食を食べ、土産にとりめしを買った。
 鈴鹿に帰ったら、椿会館のとりめしとゑびすやのうどんは食いたいとおもう。ゑびすやはかやくうどんを復活させてほしい。 

 わたしが上京した年に、両親は隣の駅に引っ越した。近所を散歩していても、「こんなところがあったんだ」という発見がいろいろある。今回、自分が通っていた小学校がけっこう近いことを知った。徒歩圏内に喫茶店やコンビニができたのもありがたい。

 三重に帰る前にメリーゴーランド京都の店長の鈴木潤さんの『絵本といっしょにまっすぐまっすぐ』(アノニマ・スタジオ)を読んだ。ふだんの生活を綴りながら絵本を紹介する日記のようなエッセイである。
 メリーゴーランドは一九七六年にオープンした三重の四日市にある子どもの本専門店。メリーゴーランドの京都店がオープンしたのは二〇〇七年。わたしも何度か古本市に参加し、鈴木さんにはお世話になっている。
 三重から京都に移ってから鈴木さんは結婚して二児の母になる。そんな大きな変化を経験しているにもかかわらず、絵本が好きというおもいは変わらない。

 四日市の人は語尾に「〜やに」と付く。わたしは鈴鹿出身なので「やに」はあんまりいわない。どちらかといえば「〜やん」が多い……とおもっていたのだが、帰省したら母が「やにやに、やにやに」いっていた。単にあまりにも聞きなれていて、自覚がなかっただけだった。『絵本といっしょにまっすぐまっすぐ』にも、ところどころ三重弁が出てくる。ちなみに、鈴木さんも「〜やに」をすごくいう。

 鈴鹿での用事をすませ、京都に行く。五条のcafeすずなりで『些末事研究』の福田賢治さん、東賢次郎さんと会う。途中から扉野良人さんも合流した(高円寺にいる気分になる)。
 鈴鹿にいるあいだは一滴も酒を飲んでなかったのでつい飲みすぎてしまう。

《かつて或る研究書の翻訳のなかで、ミクロロギーという言葉に「些末事研究」という訳語があてられているのを見て、なるほどと思ったことがある》(市村弘正著『[増補]小さなものの諸形態』平凡社ライブラリー)

 福田さんが中央線沿線に住んでいたころ、市村弘正さんの本をすすめられて、この本を読んだ。ミニコミの『些末事研究』は、市村さんのこの文章からとった。
 身近なこと、些細なことを同世代の友人と話す。福田さんもわたしもずっとフリーランスなので、世事に疎い(福田さんはいっしょにするなとおもっているかもしれないが)。
 東さんも福田さんも以前は中央線沿線に住んでいて、今は京都と高松にいる。

 今、自分がいる場所で何ができるだろうということを考えたが、まとまりそうにない。

2016/06/19

ライクロフトの暮らし

 ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの私記』が刊行されたのは一九〇三年。この小説は、ライクロフトが残した私記を季節ごとに分け、それをギッシングが編集したという体裁をとっている。

 いわば、架空の人物の架空のエッセイもしくは日記である。
 百年以上前に書かれた『ヘンリー・ライクロフトの私記』は、今でも読み継がれている。

 ライクロフトは十代のころから文筆の世界に生きてきた。生活はずっと苦しかった。ところが、五十歳のときに、友人から一生働かなくても暮らせるくらいの額の年金を相続し、彼は風光明媚なイングランドの田舎に家を建て、悠々自適の生活を送る。

 羨ましい……とおもったが、ちょっと待てよ。
 二一世紀の日本であれば、ライクロフトのような生活は、莫大な遺産を相続したり、宝くじに当たったりしなくてもできる。
 五十歳のライクロフトはひとり身である。妻はすでに他界し、子どもは独立している。
 田舎に引っ越す前は、ロンドンにいた。
 都会を離れ、田舎でひとり暮らしをするのであれば、別に大きな屋敷に住む必要はない。小さな山小屋で十分だ。
 ライクロフトは、身のまわりの世話をさせるため、優秀なハウスキーパーを雇うが、それだって自分で家事をすれば、その分、金が浮く。
 ライクラフトは金のかかる趣味はしていない。草花を愛で、古典を読む。散歩と読書の日々だ。

 さて、そう考えると、どうでしょう。

 田舎だと、ひとり暮らし用の部屋を探すのはむずかしいかもしれないが、すこし不便なところなら、格安で一軒家が売っている。都内の家賃二、三年分でそこそこいい家を手にいれることもできるだろう。
 あと必要なのは毎月の食費や光熱費。収入がほとんどなければ、税金や保険料だってかからない。完全に仕事をやめるのではなく、「半隠居」くらいの感覚なら、何とかやっていけそうである。
 月十万円くらいの収入があれば、余裕かもしれない(病気やケガをしないという前提だけど)。
 夢物語とおもって読んでいた『ヘンリー・ライクロフトの私記』だが、暖炉のある家とハウスキーパーさえ諦めたら、ライクロフトのようなのんびりした田舎暮らしは不可能ではない。

……都会の暮らしに行き詰まったときの選択肢としてはありだ。

2016/06/14

金は時なり

 ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの私記』の中に「時は金なり」の格言を「金は時なり」と言い換える文章がある。冬の章——けっこう最後のほうだ。

 岩波文庫の平井正穂訳では次のように綴られている。

《金こそが時間なのだと思う。金があれば、私は時間を好きなように買うこともできる。もし金がなければ、その時間もいかなる意味においても私のものとはならないだろう。いや、むしろ私はその憐れな奴隷とならざるえないだろう》

 光文社古典新訳文庫の池央耿訳は以下の通りだ。

《金は時なり。金さえあれば自由に使える楽しい時間を買うことができる。貧しくてはとうてい買えないどころか、その自由にならない時間の惨めな奴隷に成り下がるだろうではないか》

 冬の章の「金は時なり」の話にかぎっていえば、平井正穂訳のほうがしっくりくる。
 さらにこのあと「われわれが生涯を通じてやっていることも、要するに時間を買う、もしくは買おうとする努力にほかならないといえないだろうか」(平井訳)というライクロフトの問いかけがある。

 古典新訳文庫は「ただ時間を買うことに、あるいは時間を買おうと齷齪することに生涯を費やして何になろう」となっている。

 ちなみに、原文は《What are we doing all our lives but purchasing,or trying to purchase,time?》——である。

 冬の章を読むかぎり、ギッシングおよびライクロフトは「(お金で)時間を買うこと」を肯定しているような気がする。「金は時なり」は、貴重な真理なのだから。
 お金で自分の時間を買う。自分の時間はわずかなお金で買うことができる。逆にいえば、必要以上の金を稼ぐために自分の時間を失い続けるのは愚かなことなのではないか。

 定年まで働き続け、年金がもらえる齢になれば、自由な時間が得られる。しかし、齢をとって自由な時間を得たとしても、たぶん若いころと同じような時間の使い方はできない。
 わたしは二十代のころ、あまり仕事をしていなかった。もったいない時間の使い方をしたとおもっている。もっと働けばよかったとはおもっていない。もっと読んでおけばよかったとおもう本がたくさんある。
 金をとるか時間をとるかでいえば、できるかぎり時間をとりたい。やりたくないこと、したくないことをする時間を減らしたい。仕事そのものが好きでやりたいことであれば申し分ない。それはそれで容易なことではない。

 時間を買うことに生涯を費やして何になるか。時間を買うことで、憐れ、そして惨めな奴隷にならないですむ。

2016/06/13

ライクロフト

 先月末、『ギッシング初期短篇集 「親の因果が子に報う」他8篇』(松岡光治編訳、アティーナプレス)が新刊で出ていることを知り、注文した。ギッシングが生前刊行した本は一冊だけ……とおもいこんでいたのだが、勘違いだった。記憶はあてにならない。

 光文社古典新訳文庫の『ヘンリー・ライクロフトの私記』(池央耿訳)も読みたくなった。新訳のライクロフトさんのほうが難しい言葉をたくさん使っている。百年以上前の作品であるが、本を買うために食事を減らしたり、コートを売っても悔いはないと考えたりしていた貧乏時代のライクロフトの生活は、今の古本好きにも通じるところがある。途中、アイザック・ウォルトンの名前が出てくる。『釣魚大全』の作家である。ライクロフトはウォルトンの『フッカー伝』を激賞している。百年以上前の小説の中に、すこし前に自分が読んだ作家の名前と出くわすのは不思議な気分だ。

 主人公のライクロフトは、売れない作家で新聞、雑誌に雑文を書いていた(旧訳では書評の執筆もしている)。
 五十歳になって友人の個人年金を相続し、悠々自適の田舎暮らしをはじめる。ところが、ギッシング自身は四十六歳で亡くなっているし、晩年まで貧しかった。だから『ヘンリー・ライクロフトの私記』は、架空のライクロフトなる人物にギッシングが自分の理想を託した小説ともいわれている。いっぽう生活の心配のなくなったライクロフトは、すこし偏屈で融通の効かないところもある。また彼の晩年の幸福は、作家として成功して得たものではなく、ただの偶然、運の産物だ。だから「私記」の中で、どんなに同時代の作家や評論家や出版人を批判しても、ちょっと説得力がない。

 ライクロフトの私記は、晩年のギッシングの理想を綴った小説、巧みな自然描写が魅力の小説という形で読んでいいのかどうか。苦労人の作家が、生活の心配がなくなったあとの心境の変化を綴った小説のようにもおもえる。
 そんなふうに自分の読みが問われるところも含めて、この小説をおもしろい。

 またこの「私記」の中には、ライクロフトの理想も綴られている。

《いつの場合も常識を標に人生の階梯を着実に登り、行い正しく、分別があって奇矯なふるまいはせず、自ずから周囲の尊敬を集め、めったなことでは他力を仰がず、自身は人を助けて、人格円満な上に思慮深く、幸せな人生を送っている人々。何と羨ましいことだろう》

 ライクロフトはそうでなかった。子どものころから、苦い失敗を繰り返してきた。まわりからも「要領が悪い」「間抜け」と叩かれた。自身の「平衡感覚」の欠落を自覚している。

 この一節を綴った文章のすこしあとにゲーテの言葉が引用されている。

《人は青春時代に憧れたものを晩年になって手に入れる》

 たしかにライクロフトはそのとおりになった。彼は好きなだけ本が読める生活に憧れていた。これはギッシングの願いだったかもしれない。

2016/06/08

境遇の犠牲者

 ジョージ・ギッシングは一八五七年十一月二十二日生まれ。一九〇三年十二月二十八日、四十六歳のときに肺病で死んだ。その境遇は悲惨だった……という話は、山田稔著『特別な一日 読書漫録』(平凡社ライブラリー)の「ヘンリ・ライクロフト または老いの先取り」で知った。

 昨年の秋、わたしは四十六歳になった。ギッシングと誕生日が近い(一日ちがい)。ギッシングは二十代のころから名前だけは知っていた。最初に読んだのは『ギッシング短編集』(小池滋訳、岩波文庫、一九九七年刊)だった。
 才能のない画家の悲劇を描いた「境遇の犠牲者」、落ちぶれた古本狂の「クリストファーソン」の二作が読んでいてつらかった。もちろん、つらいけど、おもしろい。どちらも言い訳ばかりしているダメ男の話だ。「境遇の犠牲者」の売れない画家は、田舎の家の二階の小さなアトリエで宗教画の大作を描こうとしている。
 そこに放浪中の高名な画家が、たまたま売れない画家の家を訪れる。彼が制作中の未完の大作には見るべきものが何もなく、言葉を失う。ところが、アトリエにあった地元の自然を描いた小さな水彩画には非凡なものがある。高名な画家は、彼が描こうとしている大作ではなく、水彩画を絶讃するのだが、売れない画家はその価値にまったく気づいていない。それもそのはず……。

 絵のことはわからないが、一足飛びに超大作を目指そうとすれば、挫折する可能性が高い(天才は別だ)。
 凡人は完成させる経験——形にする経験をたくさん積んだほうがいいのではないか。技術は使わないと衰える。条件が整うのを待っていたら、いつまで経っても形にならない。自分の力量を無視した大作に挑み続けるより、小さなスケッチをたくさん描いたほうがいい。

 ギッシング自身、生活に追われ、なかなか大作を書けなかった。

 山田稔の「ヘンリ・ライクロフト」に「精神の脂肪ぶくれ」という言葉が出てくる。恵まれた境遇にいる若い作家にたいする批判の文句だ。もうひとつ「平衡感覚の欠如」という言葉も印象に残っている。

『特別な一日 読書漫録』の平凡社ライブラリー版は一九九九年十一月に刊行されている。新刊ですぐ手にとった記憶がある。わたしは三十歳になったばかりだった。ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』のライクロフトは無名の文士である。ずっとロンドンで貧乏生活を送っていたが、五十歳のときにある幸運に恵まれ、田舎に家を建て隠棲する。

 生活に追われることなく、創作に打ち込みたい。しかしそんな日は来ないこともわかっている。それでも仕事の合間に、すこしずつでもいいから未完の大作に取り組みたい……という気持はあるのだが、おもうようにはいかない。愚痴です。

2016/06/04

足りない二分

 三重から東京に帰ってきて、杉浦日向子著『江戸におかえりなさいませ』(河出書房新社)を読んだ。
 杉浦日向子が亡くなったのは二〇〇五年七月——享年四十六。

 以前から杉浦日向子の作品を愛読していたが、四十代に入ってから再読する回数が増えた。『江戸におかえりなさいませ』に「日本人のスピリット」というエッセイがある。

《江戸の人達に共通に言えることは、私たちよりはるかに楽に生きて、楽に死んでいったのではないかということです。背負うものがとても少なく、必要最小限のもので暮らし、ものを持ち過ぎない。交遊関係もごく狭い範囲で少数の大切な人達に囲まれて一生を過ごす。病や死を恐れず受け入れて、病むべきときは病むが良き、死ぬべきときは死ぬが良きという死生観。衣食住、すべてが八分目。足りない二分をどう工面するかに頭を働かせ、他から借りたり、代用品で済ませたり、我慢したり。こうして二分の足りないところを毎日補っていたのです》

 書き写してから、この文章がそのまま帯文につかわれていることに気づいた。
 常々、わたしはそういう生活、生き方がしたいとおもっている。背負うものが少なく、ものを持ち過ぎない小さな暮らしに憧れる。

 杉浦さんは「江戸は丸腰、現代は過武装時代」だという。「日本人のスピリット」の初出は二〇〇二年である。

 江戸時代の人がみな身軽で気楽に生きていたかどうかはわからないが、すくなくともその傾向はあった。
 わたしも上京して、風呂なしアパートに住んでいたころ、テレビもエアコンも電子レンジもない暮らしをしていた。それで不便だったかといえば、最初からないと不便におもわない。ないならないで、それでやっていくしかない。

 今のわたしはほしいものがそんなにない。それより何もせずのんびりすごしたい。仕事と関係ない本をだらだら読みたい。天気のいい日にふらっと釣りに行きたい。
 ものよりも時間がほしい。
 時間さえあれば、足りない二分はいくらでも補える。

2016/06/03

大口の話

……『新潮45』6月号の髙山文彦の「石牟礼さん、渡辺さん、ご無事でしたか」を読む。
 熊本の大地震のあと、熊本市内に暮らす石牟礼道子、渡辺京二を訪ねたレポートだ。この記事の終わりのほうで石牟礼道子が鹿児島の大口のことを語っていた。

《石牟礼さんは、鹿児島県大口市まで水俣駅から山野線に乗って行き、自分でつくった鯵や鰯の一夜干しを米と交換してもらっていた戦後の話に移る》

 石牟礼さんは「大口にも水俣病が出とっとです」という。知らなった。

 鹿児島県大口市は、わたしの父が育った町だ。熊本の県境にある。今は伊佐市と名称が変っている。
 父方の祖父は、戦前戦中に台湾の新竹の製糖工場で働いていた。戦後、鹿児島に引きあげ、大口市で小さな商店を営んでいた。アイスクリームやお菓子、インスタントラーメン、生活雑貨などを扱うコンビニエンスストアみたいなかんじの店だった。二十四時間営業ではなかったが。

 中学の卒業後、高校入学前——一九八五年の春、かれこれ三十年以上前の話だが、わたしは父といっしょに祖母の葬儀に出席するため、大口に行った。近鉄で三重から大阪に出て、そこから熊本の水俣駅まではブルートレイン、水俣から山野線に乗った。山野線は鉄道好きにはループ線としても有名だった。すでに廃線になっている。
 伊佐美の甲斐商店も大口にある。年に一回、伊佐美は三重の家に送られてきた。父は大口酒造の黒伊佐錦が好きだった。

 父は四人兄弟の三番目、姉と兄、弟がいる。父の弟は岐阜で板前をしていて何度か三重の家に来たことがある。親戚付き合いはほとんどなく、父方の従兄弟たちと会ったのもこのときがはじめてだった(名前しか覚えていない)。

 祖母の葬儀のあと、曽木の滝を見に行った。行ったのはおぼえているが、景色は忘れてしまった。
 父とふたりで旅行したのは後にも先にもこのときだけだ。鹿児島弁が、まったく聞き取れず、外国にいる気分だった。
「何いっているかわからんやろ」と父がいった。
 家にいるときの父は鹿児島弁を喋らなかった。父が無口だったのは方言のせいもあったかもしれない。

(追記)
 父は四人兄弟と書いたが、父が生まれる前に姉がひとり亡くなっている。父が生まれたのは台湾の新竹だが、そのすこし前まで祖父は台南にいたこともあった。

2016/06/02

親と子

 月末、三重に帰省した。駅を降りた途端、秋の花粉症みたいなかんじになった。線路脇や空き地をよく見ると、ブタクサがけっこう生えている。
 五月に秋の花粉症はない……とおもっていたのだが、ブタクサの花粉の飛散時期は五月〜十一月らしい。

 ひさしぶりに母方のおばとおじと会った。母の妹と弟だ。子どものころ、ずいぶん可愛がってもらっていたのだが、上京してからはほとんど会っていなかった。
 わたしは東京にいて親の面倒をみることができない。おばとおじは車の運転できない母を買物に連れていってくれたり、父を病院に運んでくれたりしていた。世の中には親切でやさしい人がいる。

 八ヶ月ぶりに見た父の本棚には石塚真一の『BLUE GIANT』が八巻まで並んでいた。同じ作者の『岳』も全巻揃えている。

 子どものころのわたしは母親似だった。顔も性格も体質も。
 大人になるにつれ、父と似た部分が増えた。上京したとき、父が一九六〇年代に買ったスーツをもらった。採寸したかのように肩幅も足の長さもまったく同じだった。
 酒好きは父に似た。母はまったく酒が飲めない。
 両親の長所や短所が自分の中でごちゃまぜになっている。わたしと母は寝起きがよくない。基本夜更かしだ。父は決まった時間に起き、決まった時間に寝る。

 若いころの父は英米文学が好きだった。あと開高健と山口瞳。母は歴史小説ばかり読んでいる。母は歴史小説を読むときは年表や家系図を作り、知らない言葉をすべて辞書で調べる。

 離れた土地に暮らす親の老後の問題は厄介である。わたしはひとりっ子で頼れる兄弟姉妹はいない。田舎に帰れば、大半の仕事を失う。といって、東京に親を呼ぶのはむずかしい。田舎にいるときよりも生活は苦しくなるだろう。

 みんなどうしているのか。