……『新潮45』6月号の髙山文彦の「石牟礼さん、渡辺さん、ご無事でしたか」を読む。
熊本の大地震のあと、熊本市内に暮らす石牟礼道子、渡辺京二を訪ねたレポートだ。この記事の終わりのほうで石牟礼道子が鹿児島の大口のことを語っていた。
《石牟礼さんは、鹿児島県大口市まで水俣駅から山野線に乗って行き、自分でつくった鯵や鰯の一夜干しを米と交換してもらっていた戦後の話に移る》
石牟礼さんは「大口にも水俣病が出とっとです」という。知らなった。
鹿児島県大口市は、わたしの父が育った町だ。熊本の県境にある。今は伊佐市と名称が変っている。
父方の祖父は、戦前戦中に台湾の新竹の製糖工場で働いていた。戦後、鹿児島に引きあげ、大口市で小さな商店を営んでいた。アイスクリームやお菓子、インスタントラーメン、生活雑貨などを扱うコンビニエンスストアみたいなかんじの店だった。二十四時間営業ではなかったが。
中学の卒業後、高校入学前——一九八五年の春、かれこれ三十年以上前の話だが、わたしは父といっしょに祖母の葬儀に出席するため、大口に行った。近鉄で三重から大阪に出て、そこから熊本の水俣駅まではブルートレイン、水俣から山野線に乗った。山野線は鉄道好きにはループ線としても有名だった。すでに廃線になっている。
伊佐美の甲斐商店も大口にある。年に一回、伊佐美は三重の家に送られてきた。父は大口酒造の黒伊佐錦が好きだった。
父は四人兄弟の三番目、姉と兄、弟がいる。父の弟は岐阜で板前をしていて何度か三重の家に来たことがある。親戚付き合いはほとんどなく、父方の従兄弟たちと会ったのもこのときがはじめてだった(名前しか覚えていない)。
祖母の葬儀のあと、曽木の滝を見に行った。行ったのはおぼえているが、景色は忘れてしまった。
父とふたりで旅行したのは後にも先にもこのときだけだ。鹿児島弁が、まったく聞き取れず、外国にいる気分だった。
「何いっているかわからんやろ」と父がいった。
家にいるときの父は鹿児島弁を喋らなかった。父が無口だったのは方言のせいもあったかもしれない。
(追記)
父は四人兄弟と書いたが、父が生まれる前に姉がひとり亡くなっている。父が生まれたのは台湾の新竹だが、そのすこし前まで祖父は台南にいたこともあった。