2015/01/31

久々の飲酒

 一月十五日から昨日までアルコール抜きの生活を送っていた。正月ボケその他で一月中の仕事の大半が月末にズレこんで身動きとれなくなっていた。インターネットで買った古本も封をあけずにそのまま放置していたので、何を買ったか忘れた。さっき封をあけたら常盤新平著『高説低聴』(講談社、一九八四年刊)だった。けっこう古書価が上がっている本だけど、幸いにも定価くらいで買えた。

 昨晩、二週間ぶりのウイスキーはうまかった。一杯目がからだにしみる。たまたま来ていた松田友泉さんたちの『BOOK5』の打ち上げ(?)にまざる。

 仕事がたてこんでいても二時間くらいなら飲んでも支障はない。ただし、飲みはじめて二時間で切り上げる意志がない。今年の課題にしよう。

 土曜日、午前中に起きて、西部古書会館の均一祭。初日は二百円。二日目は百円。英米文学の文芸評論の本、スポーツ関係の本などを買う。明日もたぶん行く。

 新刊本では田中小実昌の単行本未収録作品集『くりかえすけど』(幻戯書房)と福田恆存著『人間の生き方、ものの考え方 学生たちへの特別講義』(文藝春秋)が気になる。

 福田恆存の本は文春学藝ライブラリーで復刊されているが、その考え方は今も色褪せていない。均衡の精神を体現していた評論家だったとおもう。

 部屋にひきこもっていたあいだ、インターネットの言説をあれこれ見ていて「お花畑」という言葉を知った。いわゆる平和主義者やリベラリストに向けた罵倒文句のようだ(頭の中が「お花畑」で現実を何もわかっていないみたいな意味)。
 今も昔も現実と理想が折り合う着地点を見出すためのすり合わせ作業をせず、レッテル貼りで斬り捨て合うだけの議論が溢れている。
 譲歩や妥協を提案する立場の人は、たいてい板挟みにあって、対立陣営のどちらからも批判されがちだ。

 賛成反対中立……どの立場であろうと、それぞれのエゴがあって、エゴを自覚しないかぎりあらゆる議論は不毛になる……と言い切ってしまうと語弊が生じそうなので、またひまを見つけて、この話の続きを書く……予定。

2015/01/25

作家のシルエット

 高円寺駅の自動改札が改装され、きっぷとスイカが両方利用できる改札がふたつに減っていた。ふたつといっても、切符で出る人と入る人もいるので、乗降客の多い時間帯はつかえる改札はひとつしかなくなる。不便だ。

 年が明けてから電車にもあまり乗っていなかったことに気づく。

 仕事が終わらず、一週間以上外で飲んでいない。うどんと雑炊の日々。ほとんど病人のような生活である。一日の大半は頭がぼーっとしている。三月中旬くらいまで、この調子でどうにかやりくりするしかない。

 日曜日、高円寺の古書展二日目。のんびりと本を見る。八冊ほど買って、千五百円。

 J・サザーランド編『作家のシルエット 立ち話の英文学誌』(船戸英夫編訳、研究社出版、一九七九年刊)は立ち読みしてよさそうだったので買う。
 イギリスの作家のエピソード集といったかんじの本だ。軽い文学読み物は好きなのだが、海外のものは知識不足で、探すのがむずかしい。とにかくたくさん背表紙を見て、手にとるしかない。

 ロマン派の詩人、パーシー・ビッシ・シェリーの逸話——。

《シェリーは…いつも本から目を離さなかった。食事の際もテーブルの上に本が開いていた。紅茶もトーストも無視され、無視されないのは本の著者だけだった。マトンやじゃがいもは冷えきっても、本への興味は冷えることがなかった。(中略)ベッドにも本を持ち込み、ローソクが消えるまで読み、眠っている間だけはじっと我慢して、明るくなると暁方からまた読み始めるのだった》(読書気違いの居眠り)

 エドワード・フィッツジェラルドが英訳した『ルバイヤート』にまつわるエピソードもおもしろい。

 彼は訳した原稿を編集者に送ったが、出版される見込みがなく、一八五九年二月に自費出版した。

《褐色の表紙の小さな四折本で、古本屋のバーナード・クォリッツが二シリング六ペンスで売りに出した。ほとんど買い手がつかなかったので、一シリングに値引きし、ついには、店の外の「どれでも一ペンス」の箱に入れられてしまった。そこでようやく通りがかりの人に数冊買われたのであった》(ぞっき本の出世)

 その後、ある有識者の手にわたり、話題になり、あっという間に『ルバイヤート』は一ギニー(二一シリング)まで急騰したそうだ。均一本が定価の十倍以上の値段に……。

 ちなみに、このフィッツジェラルド版の『ルバイヤート』は、辻潤が邦訳(完訳ではない)している。

2015/01/18

きちんとした生き方

 毎日午後四時くらいに起きている。そろそろ生活リズム(朝寝昼起)を戻したい。
 昨日は阿佐ケ谷まで歩いた。食品や雑貨を扱っているお気にいりの店が閉店。久しぶりに航海屋で野菜ラーメンを食う。あと商店街をぶらぶらして調味料やお茶を買う。

 夜中、録画していた「夜ノヤッターマン」を観る。
 ヤッターマン側ではなく、敵役の側から描いた作品。正義(ヤッターマン)が、強大かつ豊かな帝国を築き、かつて彼らに逆らったドロンジョの末裔たちは国境の外で貧困に苦しんでいる。
 想像以上にシリアスな展開……。

 睡眠時間がズレる原因は「寒い→外出しない→疲れない→酒を飲みすぎる」のパターンが多い。
 健康に関する知識は増えているのだが、実践がともなっていない。生活が改善しない理由は、だらだら生きていけるものなら、そうしたいとおもっているからだ。

 不規則な生活を送っていると、一日二十時間くらいしかないような気がしてくる。
 規則正しく、約束を守り、人あたりよく生きていくほうがいいことはわかっている。逆にいえば、突出した才能か食うに困らないお金がないかぎり、好き勝手に、自由に生きることはむずかしいこともわかっている。

 自分でも、まだこんなことをうだうだ考えているのかとおもうこともある。四十五歳だろ、と。自分の父親がそのくらいの年齢のときには、わたしは高校生だった。

 まさかこんなにぐだぐだしたまま大人になるとはおもわなかったし、それでもなんとかなってきたことには関しては(多少の)自負もある。誰もかれもがきちんとした生き方ができるわけではない。きちんとしなければ生きていけない世の中に抗いたい——とあまり声には出さないが、ずっとおもい続けてきたわけだ。

 心身が弱ってくると、自分の考え方がまちがっているとおもえてくる。たぶん正しくはない。
 若いころは許されても、中年になると許容されないということはいくらでもある。
 自分ではわるくないとおもっていても謝らないといけないケースもある。そこで突っ張ると、自分以外の人間が食うに困る事態に陥るとか……。

 夢の中で、何時間も遅刻してきたにもかかわらず、まったく悪びれたそぶりを見せない若者に説教していた。遅刻してきた若者はかつてのわたしであり、説教しているのは今のわたしだ。

 目が覚めて、複雑な気分になる。

2015/01/05

頭の裏側が痺れる話

 音楽を聴いたり、本を読んだり、野球を観たり……それは何だっていい。昔から、自分が「いい」とおもうものに出くわすと頭の後頭部や頭蓋骨の裏側(あたりのどこか)が痺れる感覚があった。当たり前すぎて、特別な感覚とはおもったことはなく、誰にでもそういうことはあるだろうとおもっていた。

 ところが四十歳すぎたあたりから、その頭が痺れることが減ってきた。たぶん、仕事のためにいろいろな自分の感情を制御して、その結果、それまでよりはちゃんとスケジュールその他もろもろを順調こなせるようになったのだが、それと引き替えにその感覚を失ったのだとおもう。

 当たり前におもっていた感覚が磨り減らし、なくしてしまうのはまずい。なくなりかけて、はじめて大事な感覚だったことに気づく。いやなことを我慢せず、やりたいことをやっていないと頭が痺れるかんじは消えてしまうのだということがわかった。

 といっても、やりたいことばかりやって暮らしていけるわけではなく、昔だって、それなりに我慢しながら生活してきた。齢をとるにつれ、あらゆる「感動」に免疫みたいなものができて、ちょっとやそっとでは「いい」とおもわなくなる。

 そのへんのことをふまえつつも、昔のように頭がビリビリする感覚をとりもどせないかものかと試行錯誤を重ねているうちに、最近ちょっと復活してきた気がする。

 仕事や人間関係に支障をきたさない範囲で、人生を楽しもうというのは虫のいい話で、何かしらの犠牲を払う必要はある。おもしろいとおもうものがあっても、「今はそれどころではない」とブレーキをふむ。そういうことをくりかえしているうちに感覚が鈍ってくる。

 そこでブレーキをふまず、同時に仕事やら生活やらを両立させるのはむずかしい。でも、それをやらないといけないということを新年の何日間かだらだらしながらおもったので、今、酔っぱらっているのだが、自分のために記しておく。

2015/01/03

新年

 新年あけましておめでとうございます。

 年末年始、高円寺でのんびりすごす。町もいつもより人が少ない。大晦日は、スーパーと百円ショップが盛況だった。サイゼリアが一月中旬オープンすることを知る。
 紅白を見て、日付がかわってからペリカン時代で飲んで家に帰る。

 元旦は氷川神社で初詣。あとは家でTVを見たり、もらいものの日本酒を熱燗にして飲んだり、漫画を読んだりする。大石まさるの『水惑星年代記』シリーズ(少年画報社)などを電子書籍で読んだ。
 翌日もごろごろ、年末に買っていたメイソン・カリー著『天才たちの日課』(金原瑞人、石田文子訳、フィルムアート社)をぱらぱら読む。この本、素晴らしい。詩人、作家、音楽家、画家といった人たちの日々の習慣を短文で紹介しているのだが、まったく知らない人でもその習慣によって興味が出てくる。
 イギリスの詩人フィリップ・ラーキンが気になった。

《生活は可能なかぎりシンプルにしている。一日じゅう仕事をして、料理をして、食べて、後片づけして、電話をして、書いたものをめちゃくちゃに書き直して、酒を飲んで、夜はテレビをみる。外出はほとんどしない》

 ラーキンは図書館の司書をしながら、詩を書いていたらしい。ついラーキンの詩集を買ってしまう。

 三日の西部古書会館——今年の古本はじめ。といっても、行ったのは夕方。昔の原稿の整理、スクラップをしたのち、年明けのしめきり用の本を読みはじめる。