2018/02/28

困る夢

 仕事の電話で目が覚める……という夢を見る。
 電話の相手は、もう何年も会っていないかなり年輩の作家だ。「出版社に原稿を送りたいのだが、今、連絡先がわからないので、とりあえず、君のところにFAXしてもいいか」といわれる。わたしはその出版社に知り合いがいない。そうこうするうちに、電話が切れて、FAXが送られてくる。手書きの原稿が何十枚も。どうしたものかと困っているうちに、目が覚めた。

2018/02/27

高円寺で

 先週、高円寺ショーボート。「今夜、高円寺で」(山田エリザベス良子、世田谷ピンポンズ、オクムラユウスケ)のライブ。ショーボート二十五周年か。三者三様のフォークを堪能する。音楽に浸りながら酒飲んで酔っぱらって楽しかった。近年のライブはほとんどそういう聴き方になっている。

 二十代のころ、高円寺北三丁目~四丁目の風呂なしアパートを転々と引っ越していた。ショーボート(地下)のあるマンションが建ったころ、「どうしたらこんなとこに住めるのだろう」とおもった。
 知り合いの編集者が高円寺で鉄筋のマンションに住んでいたのだが、その家賃が当時のわたしの月収と同じくらいだった。
 そのころ北口のごちゃごちゃした飲み屋をよくまわっていると、常連客のひとりから「さくらももこが、このへんに住んでいた」と教えてもらった。さくらももこと面識はまったくないのだが、上京して高円寺に住んで、売れっ子になった人がいるというのはとても励みになった。『ちびまるこちゃん』(集英社コミックス)の三巻の「ひとりになった日」で静岡から高円寺に引っ越してきた日の話を描いている。南口か北口かはわからないが、電信柱には「高円寺三丁目」と記されている。たぶん、北だとおもう。

 ショーボート二十五周年のあいだにわたしは南口に引っ越し、再び北口に戻り、四十八歳になった。

2018/02/24

『怠惰の美徳』発売中

 昨日、梅崎春生著『怠惰の美徳』(中公文庫)が発売になりました。詩(二篇)とエッセイと短篇を収録しています。
 梅崎本が手元に一冊しかなかったので、神保町に行き、東京堂書店と三省堂書店で一冊ずつ買う。東京堂の文庫のランキングに『吉行淳之介ベスト・エッセイ』(ちくま文庫)が入っていた。
 吉行淳之介も梅崎春生もずっと読み続けている作家なのだが、ふたりとも病弱だったという共通点がある。わたしは元気なときよりも弱っているときに読める本が好きなので、そういう本が作りたかった。

《寒くなると、蒲団が恋しくなる。一旦蒲団に入れば、そこから出るのがいやになる》(寝ぐせ)

《その頃、一日一日を、僕はやっと生きていた。夢遊病者のように一日中ぼんやり動いていた》(一時期)

 いずれも『怠惰の美徳』に収録した梅崎春生の短篇の書き出し。何をするのも億劫なときに読みたくなる。梅崎作品は最初の数行がやる気がなくて素晴らしい。寝ころんでだらだら読んでいたくなる。読み終わったあと、ちょっとだけ元気になる。

 今回の文庫には一九四二年に梅崎春生が丹尾鷹一名義で発表した「防波堤」という幻の短篇も収録した。十年ほど前に扉野良人さんが[書評]のメルマガの連載「全著解読 梅崎春生」でこの作品のことを紹介している。『梅崎春生作品集』(沖積舎)の三巻に入っているが、全集には未収録だった。

2018/02/17

寒がりと怠けたがり

《私のおやじも寒がりだったし、うちの息子も寒がりだ。寒がりの上に、なまけものだ。(寒がりと怠けたがりにも何か関連あるらしい)》

 梅崎春生の「聴診器」というエッセイの一節。来週発売予定の梅崎春生著『怠惰の美徳』(中公文庫)にも収録している。今回のアンソロジーは梅崎春生の「怠け者」の面を軸にして編集した。解説もわたし。戦争文学だけではない、梅崎春生のゆるくて、ぐだぐだした魅力を伝えられたらとおもっている。カバーの絵(平木元さん)、デザイン(細野綾子さん)もすごく気にいっている。

 寒がりと怠けたがりは関連あるのかどうか。わたしも寒さが苦手で横になってごろごろしているのが好きだ。
 今日も起きてから、ずっと頭がぼんやりしている。毎日やろうとおもっていることの三分の一くらいのことしかできない。「それが自分なんだ」と開きなおる気力もわいてこない。

 昨年秋、福岡を訪れたとき、梅崎春生の生家付近をメモをとりながら散策したのだが、いざ書いてみると取材した文章の部分が妙にゴツゴツしていているような気がして(よくあることだ)、全部カットした。
 昔の自分だったら、他の部分を削って取材した部分を残していたかもしれない。齢とともに、文章における取捨選択の感覚が変わった。

 できない三分の二より、できる三分の一を大事にする。しかし、できる三分の一も年々摩耗していく。だから、できない三分の二に取り組む必要がある。わかっているのだけれど、その気になれなくて困っている。

2018/02/14

私の好きな中公新書

 WEB中公新書の「私の好きな中公新書3冊」というコーナーに「文学から都市を愉しむ」という原稿を書きました。

 http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/105596.html

 なるべく新刊書店で買える本……とのことだったですが、菊盛英夫『文学カフェ ブルジョワ文化の社交場』と上岡伸雄『ニューヨークを読む 作家たちと歩く歴史と文化』は品切れ。『ニューヨークを読む』は電子化されています。『ニューヨークを読む』は、アメリカ文学好きにおすすめしたい本。読後、小説の読み方が変わった。
 川本三郎『銀幕の東京 映画でよみがえる昭和』は、東京を舞台にした文芸映画もたくさん取り上げている。わたしはあまり映画を観ないのですが、それでもおもしろかった。
 菊盛英夫の『文学カフェ』は、あとがきに新居格や高田保の名前が出てくる。若き日の菊盛英夫は新居格に東京のカフェに連れ回されていたらしい。以上、補足。

2018/02/10

三好十郎「歩くこと」

 二十年、三十年と古本屋通いをしていると、たとえ未読であっても、作家の名前くらいは何度も目にしているから知っている……つもりになっていることがよくある。
 でもたまになんで知らなかったのかとおもう作家が出てくる。まったく知らなかった昔の作家に興味を持ち、インターネットで検索してみたら、おもっていたよりも著作がいっぱいあって驚く。

 わたしは三好十郎を知らなかった。自分のアンテナに引っかからなかった。名前を見ても、何を書いた人なのかさっぱりわからない。
 青空文庫に作品がいろいろ入っていたので、その中から「歩くこと」というエッセイを読んだ。
 長年、自分が散歩をしたり、旅行をしたりしているときに意識していたことが書いてある。嬉しくなった。もちろん、エッセイを一、二篇読んだくらいでは三好十郎がどんな人物なのかはわからない。だけど、「歩くこと」の一篇で好きになった。一行一行、すべての言葉に魅了された。
 たぶん、自分とは性格や資質はちがうような気がするが、「考えようとしていること」が重なっている。そんなふうおもえる人はひさしぶりだ。

 最初、「歩くこと」はキンドルで読んだのだが、本の形で読みたいとおもい、『三好十郎の仕事』(全三巻+別巻、學藝書林)を日本の古本屋で注文した。

2018/02/06

吉行淳之介ベスト・エッセイ

 昨年は二月三日に「冬の底」と書いている。今年は五日。眠くて眠くてしかたがない。寝る時間と起きる時間がズレる。その時期を抜けると、だんだん春が近づいてくる感覚がある。

 明日というか、もう今日か。ちくま文庫から『吉行淳之介ベスト・エッセイ』が発売になります。
 二〇〇四年に編んだ『吉行淳之介エッセイ・コレクション』(全四巻)をもとに、新たなエッセイをくわえて編集した本です。解説は大竹聡さん(素晴らしい解説です!)。

 今回の再編集では、冒頭に「文学を志す」「私はなぜ書くか」の二篇を並べた。

《詩人とか作家は、やはり追い詰められ追い込まれて、そういうものになってしまうのが本筋ではあるまいか、と私はおもう。人生が仕立おろしのセビロのように、しっかり身に合う人間にとっては、文学は必要ではないし、必要でないことは、むしろ自慢してよいことだ》(文学を志す)

《この世の中に置かれた一人の人間が、周囲の理解を容易に得ることができなくて、狭い場所に追い込まれてゆき、それに蹲(うずく)まってようやく摑み取ったものをもとでにして、文学というものはつくられはじまる》(私はなぜ書くか)

 二十代のはじめから、四十代の後半の今に至るまで、何度読み返してきたかわからないエッセイだ。
「劣等感」と「自己嫌悪」に苦しんでいた若き日の吉行淳之介が、萩原朔太郎の『詩の原理』を読み、自分は詩や文学を必要とする人間だと自覚した。そのときの感動をあらわした言葉がすごくいいんですよ。

 世の中、あるいは自分にたいして何かしらの違和感(“強弱”はあれど)をおぼえ、狭い場所に追い込まれる。エッセイの中では「文学」という言葉をつかっているが、表現全般に通じることかもしれない。

2018/02/01

紀伊半島(三)

 新宮駅から十五時三十分の在来線で尾鷲駅に向かう。尾鷲行きも今回の旅の目的のひとつ。尾鷲市は「年間降雨量日本一」で有名な町である。

 尾鷲までは特急ではなく、鈍行に乗った。特急くろしおの車窓に負けず劣らず、新宮〜尾鷲間は絶景が続く。海も山もすごくきれいだ。
 電車で新宮〜尾鷲間を移動したことはないのだが、大泊駅(鬼ヶ城があるところ)近くの湾は「ここ、知ってる」という既視感があった。ここも小学生のときの旅行で寄ったのだろうか。なんとなく浜辺を歩いた記憶があるし、たまに夢に出てくることもある。

 志摩生まれの母からは尾鷲の話はよく聞いていた。昔、伊勢のほうで働いていたとき、ときどき遊びに行ったらしい。宿に千円くらいで泊れて、映画館もあって、とくに夜はにぎやかだったそうな(五十年くらい前の話)。

 尾鷲駅に着いたのは十六時五十四分。余裕をもって鈴鹿に帰るには十八時十八分のワイドビュー南紀八号に乗りたい。尾鷲の滞在時間は、一時間二十分ちょっと。早歩きで尾鷲港に行って、帰り道に主婦の店サンバーストでお茶とアラレを買い、観光らしい観光もできないまま駅に戻る。せっかく尾鷲に行ったのに魚を食いそびれる。反省。歩いている途中、「津波は逃げるが勝ち」という標語を見た。

 新宮〜尾鷲間の車窓で絶景とおもった場所は、ことごとく津波の危険地帯でもある。心配だ。

 十八時台の電車だと、暗くて窓の外が見えない。尾鷲から鈴鹿まで、特急で二時間くらい行けることがわかった。いつでも行ける。鈴鹿からは日帰りも可。
 ワイドビュー南紀の停車駅(名古屋駅〜紀伊勝浦駅間)では、多気駅、三瀬谷駅、熊野市駅で降りたことがない。紀伊長島駅は、学生時代にいちど降りているはず(……なのだが、記憶がない)。
 三重県内にも行ったことがない場所がたくさん残っている。

 JR鈴鹿駅に着いたのは二十時十分。この駅で降りたのはわたしひとりだけだった。駅のまわりが真っ暗。淋しい。そこから近鉄の鈴鹿市駅まで歩く。約七百メートルある。
 父が元気だったころは、JR鈴鹿駅を利用するときは車で送ってもらっていた。今さら車の免許をとる気がない。この先も基本は徒歩と電車(ときどきバスと船と飛行機)で生きていくしかない。

 鈴鹿駅と鈴鹿市駅は、おもっていたより遠かった。鈴鹿市駅のコンビニで明太子のパスタを買って、郷里の家に帰る。
 昼間、新宮にいたせいか、鈴鹿が寒く感じる。
 特急に乗っている時間が長かったので、それほど疲れはない。

 家で母から安乗の灯台の話を聞いた(登ったこともあるそうだ)。わたしが木下惠介監督の『喜びも悲しみも幾歳月』に安乗の灯台が出てくるという話をしたら、一九六〇年前後、伊勢志摩を舞台にした映画に姉と弟といっしょにエキストラで出た(台詞あり)という話も聞いた。その映画のタイトルも教えてもらったが、インターネットで検索しても出てこなかった。謎。

(……完)

紀伊半島(二)

 午前八時五十三分に和歌山駅を出て、新宮駅には午前十一時四十九分に着いた。
 新宮駅から鈴鹿駅には直通のワイドビュー南紀という特急がある。だいたい三時間。おもっていたよりも近い。昔、車で南紀勝浦に行ったときは、片道八、九時間くらいかかった記憶がある(途中で休憩や寄り道もしたけど)。四十年くらい前、三重から和歌山にかけての道路事情はひどかった。道が細くて崖だらけで雨が降るとすぐ通行止めになった。

 はじめて新宮駅に降りた……のだけど、見たことがあるような気がしてしょうがない。わたしはこの風景知っている。よくある町だからではない。新宮のような町は日本中探しても滅多にないはずである。

 新宮駅を出て、徐福公園、阿須賀神社、新宮城跡、佐藤春夫記念館、熊野速玉大社、浮島の森を歩いて回る。
 レンタサイクルを借りるかどうか迷ったのだが、今回の旅は歩くことにした。町は歩いてみないとわからないことが多い。

 新宮川(熊野川)の向こう側は三重県である。「この川の水、半分は三重のものなんだな」という感慨に耽る。

 新宮に行きたかったいちばんの理由は、佐藤春夫記念館を見たかったからだ。記念館は、西村伊作の弟の大石七分が設計した佐藤春夫の家を移築復元したもの。造りがかっこいい。佐藤春夫については、いずれ雑誌に書く予定なので、ここでは詳しく書かない。

 佐藤春夫記念館を出た後、浮島の森に行こうと歩いている途中、まさ家といううどん屋に入った。ここがめちゃくちゃうまかった。味にかんしては、好みもいろいろあるし、体調に左右されることもあるが、わたしが理想とするうどんのだしだった(ほんのりとだしの酸味がきいていて、さっぱりした味だった)。

 浮島の森は泥炭の上に森があり、昔は風が吹くと池の中を動いた。受付で「時間はある」と聞かれたので「はい」と答えたら、係の人が、浮島の植物や浮島の歴史を解説してくれた。北や南のシダやコケが混在している珍しい森なのだそうだ。

「はじめて来たのに、この町、知っている気がするぞ」問題は……おそらく、子どものころ、南紀勝浦に行ったとき、行きか帰りのどちらかに新宮に寄ったのではないか。ただし、その記憶がまったくない。さらに新宮から鈴鹿に帰る途中、「憶えていないけど、なんとなく知っているような気がする景色」を何度も見ることになる。

 わたしの母校の先輩で『群像』の編集長だった大久保房男は、プロフィールに「紀州熊野に生る」と書いている。熊野と呼ばれる地域は和歌山と三重にまたがっている。
 佐藤春夫は新宮の生まれで、大久保房男にとって「熊野訛り」で話ができる唯一の文士だった。

 佐藤春夫の父は医師。大逆事件で処刑された医師でクリスチャンの大石誠之助も新宮の人だ。大石誠之助は、文化学院を作った西村伊作のおじでもある。西村伊作と佐藤春夫は、大石誠之助に多大な影響を受けている。

 今年一月、新宮市は大石誠之助を「名誉市民」に決めた。新宮市、すごい。たぶん、新宮はまた行くことになるとおもう。まき家のうどんもまた食べたい。

(……続く)

紀伊半島(一)

 月曜日、朝七時に家を出て新幹線で大阪に(三日くらい前から朝型生活を送っていた)。大阪は仕事の打ち合わせ。
 今回、大阪行きに合わせて、紀伊半島をぐるっと回って三重に帰るという計画を立てた。

 和歌山は、小学生のころ、家族旅行で南紀勝浦の温泉や瀞八丁(どろはっちょう)に行っている。四十七都道府県で、唯一、自分のお金で行ったことがない県が和歌山県なのである。それから四十七都道府県で一度も行ったことがない県庁所在地は和歌山市だけだ。

 三重県と和歌山県は隣同士だが、名古屋寄りの三重県民(+近鉄沿線民)にとっては和歌山は遠い(和歌山の人も三重県の北勢部は、遠く感じているのではないか)。

 翌日、三重への移動を考えると、紀伊田辺あたりに泊りたかったのだが(和歌山出身の知り合いの新聞記者からは「白浜がいいよ」とすすめられていた)、仕事の打ち合わせが何時に終わるかわからないので、事前に和歌山市内のホテルを予約した。

 打ち合わせは、夕方四時ごろに終わった。「白浜くらいまで行けた」とおもったが、しかたがない。和歌山市内も行ったことはない場所だし、(乗る機会がほとんどない)南海電鉄にも乗ってみたかった。

 どういうわけか、わたしは和歌山市駅と和歌山駅といった私鉄とJRの似たような名前の駅があるところが好きだ(先月行った、栃木県の足利駅と足利市駅もそう)。
 なんば駅から南海本線の特急サザンで和歌山市駅へ。あと昔から私鉄と在来線の特急も好きである。知らないうちに、なくなってしまうので、機会があったら乗ることにしている。
 大阪から和歌山市駅はだいたい一時間。東京と同じくらい寒い。飲み屋街がありそうなところまでホテルから歩いて二十分くらいかかることが判明(和歌山市に行くことがあったら寄りたいとおもっていたバーは月曜日が定休日だった)。翌日のことを考えると、ここは無理するべきではないという結論に至り、宿のちかくのラーメン屋で食事をすませ、コンビニで酒と焼き鳥を買って帰る。缶ウイスキー一本で飲んで熟睡した。

 翌日は宿からJR和歌山駅まで歩いて(途中、和歌山城のまわりを散策)、朝八時五十三分の紀勢本線(きのくに線)の特急くろしお1号で新宮へ。
 特急くろしおは、ずっと乗りたかった電車である。進行方向右(海側)の指定席を取る。なぜか昔から電車の窓から海を見るのが好きだ。今回の旅行では、行き帰りの新幹線以外は、本を読まないと決めていた。

 車内で駅の売店で買った鯛の押し寿司を食い、昨日買った残りの缶ウイスキーを飲む。入り江や湾がきれいだ。
 トンネルを抜けると海、トンネル、海、トンネル、海。きのくに線、素晴らしい。途中下車したい駅がたくさんある。
 次に帰省することがあったら、南紀白浜空港で白浜に行って、どこかで一泊してから、三重に帰るのもよさそうだ。あと南海フェリーで和歌山港から徳島港(もしくはその逆)にも行ってみたい。

 周参見(すさみ)駅も気になる。インターネットで調べたら、町名(村名)の由来は「海を波風が激しく吹きすさんでいたことより」とある。見老津(みろづ)駅も音で字がおもいうかばなかった。すさみ町の見老津沖に「ソビエト」という島名の無人島があることを知った。なぜ、ソビエトなのか。「島や岩がそびえたつ様子から名付けられた」という説もあるみたいだが、真相はわからない。
 旅の途中で通り過ぎてしまった場所というのは、なかなか行けないことが多い。
 そうこうするうちに、新宮駅に着いた。和歌山駅から約三時間。特急でも三時間。鈍行だと五〜六時間くらいかかる。

 生まれてはじめて紀伊半島の大きさを実感した。

(……続く)