2023/06/04

どつこい

 もう六月か……と書きかけ、「もうろく」という言葉が入っていることに気づく。最近、昔、読んだ本や漫画の記憶がどんどんあやふやになっている。

 木曜の昼、JR中央線快速で御茶ノ水駅へ。今、蔵書整理中なので神保町で一軒だけ古本屋をのぞき、『生誕100年記念展 歌びと 吉野秀雄』(神奈川近代文学館、一九九二年)を買って、神田伯剌西爾へ。神奈川近代文学館の文学展パンフは面白いものが多い。吉野秀雄のパンフは「旅と酒」の頁がよかった。酔っぱらって地べたで寝ている写真や日本歌人クラブの集まりで酔っぱらって上半身裸になっている写真なども収録されている。

《酔い疲れたあとの吉野さんの駄々には、誰もが手古摺つた》(上村占魚)

 吉野秀雄は酔っぱらうと「どつこい、おれは生きてゐる」などとがなりたてた。
 もともと体が弱く、ずっと病と戦ってきた歌人でもあるが、酒を飲むとかなり奔放な酔っ払いになる。
 体力の限界まで飲むのだろう。酔っぱらって満員電車の床で寝たという逸話も残っている。

 年譜を見ると、二十一歳で肺尖カタル、二十三歳で気管支喘息となどの病歴が記され、「神経痛悪化」「リウマチ悪化」といった言葉も出てくる。
 五十三歳、「一月、喀血して半年療養。三月、糖尿病(以後持病となる)。四月、入院」。

 わたしは体が丈夫なほうではないが、(今のところ)「半年療養」みたいな大病はしたことがない。
 ただ、五十代になって、あちこち体にガタがきていて「こんなにいろいろなことができなくなるのか」と……。ひまさえあれば、作家の年譜を眺めているのだが、人はいつまで生きるかわからない。生きていても衰える。どんなに衰えても「どつこい、おれは生きてゐる」くらいの気持があったほうがいい。

2023/05/31

老荘風

 土曜日昼、西部古書会館。すこし前に読書欲が減退していると書いた気がするが、カゴ一杯買う。
 杉浦明平著『桃源郷の夢』(冬樹社、一九七三年)は署名本だった。宛先は寺田博——『海燕』の編集長。三百円。ビニカバがけっこう汚れていたが、手にとってよかった。家に帰って激落ちくんできれいにする(激落ちくんが真っ黒になる)。

 古書会館に行くと買うつもりのない、読むつもりのなかった本や雑誌を大量に購入してしまう。週末、家でごろごろしながら、昔の雑本、雑誌を読むのは至福の時間だ。

 山本善行著『古本のことしか頭になかった』(大散歩通信社、二〇一〇年)を読み返していたら、「あとがき」に「何も心配しないで(働かないで)一日じゅう本が読めたらいいのにな、などと呑気なことを考えているうち、五十四歳になってしまった」という一文があった。
 わたしは今年の秋五十四歳になるのだが、何にも成長しないまま年だけとってしまったなと……。書評や随筆を書いて、あとは散歩と昼寝と読書ができれば——それがわたしの夢なのだが、現実は甘くなく、仕事の合間にいろいろな煩雑な手続きが必要な雑用が押し寄せてくる。

 杉浦明平の「桃源郷の夢」は西洋人の考えたユートピアではなく、老荘風の桃源郷に暮らしたい——そんな夢想を語った短い随筆である。

《さいわい、わたしの家には桃の木が数本あって、三月下旬にはうらうらと桃の花ざかり、その花の下にねむるのは、すっかりなまけぐせのついたわたしには、何よりもたのしい》

 世の中にはビッグになりたい、裕福な生活がしたいといった夢を抱く人もいるらしいのだが、わたしは怠けたい、のんびりしたい派である。社会の片隅でひっそり暮らしたい。その気持は年とともに強まっている。

2023/05/25

下落合

 最近といってもこの二週間くらいのことだが、電車で高円寺と神保町を行き来する日(週一回くらい)に小野寺史宜著『銀座に住むのはまだ早い』(柏書房)をすこしずつ読み続けている。今年二月刊行の二十三区(二十三回分)の町歩きエッセイで電車の中と喫茶店で一区ずつ読んでいて面白い。著者は一九六八年生まれ。世代も近いし、最初の本が出た年齢も近い(三十代後半)。単行本の元になった文章はリクルートの「SUUMOタウン」の連載だった。
 昨日は新宿区の下落合のところまで読んだ。読み終えるのが惜しくてゆっくり頁をめくる。

《降り立った下落合駅は、それ自体が神田川と妙正寺川に挟まれている。そもそも、二つの川が落ち合う場所ということで、落合、となったらしいのだ》

 わたしは高円寺から野方に向う途中、妙正寺川沿いをよく歩く。落合あたりから東中野までの神田川の遊歩道も好きだ。

 東京の小さな川沿いの道を歩くのは楽しい。そんなに自然豊かな感じではなく、コンクリートで護岸された川なのだが、緑に囲まれていて、ゆっくり歩ける。いい気分転換になる。
 下落合の回では七曲坂も出てくる(昔、わたしは迷った)。小野寺さんは(たぶん)事前にそんなに下調べせず、にぎやかなエリアよりも、ちょっと人の少ない寂しそうなほうを歩きがちで、そのあたりの感覚が読んでいて心地いい。このエッセイに出てくる喫茶店にすごく行きたくなる。

 いちおう部屋探しが目的の二十三区歩きなのだが、途中から関係なくなる。歩きたいように歩く。

 四十代半ばくらいから、人生の一回性についてよく考えるようになった。若いころのような「人生一度きりだから(好きなことをしよう)」といった感覚ではなくて、季節の移り変わりや知らない町の風景、あるいは飲み屋や喫茶店で何てことのない雑談をした後の余韻みたいなものが、妙に胸に迫ってくる。
 七年前の五月に父が亡くなったことも関係しているかもしれない。時間は有限であり、自分の体も今まで通りに動くとはかぎらないんだなと……。自分の足で歩くこと、酒が飲めることも健康だからできるのだ。
 長年、本に埋もれる生活をしてきたが、町のこと、自然のこと、そして人間のこと、わからないことだらけである。現実の一日一日を大切に生きてこなかった。

 小野寺さんのエッセイに出てきた妙正寺川は、うちからだと徒歩十分ちょっとなのだが、どこからどこまで流れているのか知ったのはわりと最近である。荻窪から落合まで。十キロもない。そんな小さな川のそばに井伏鱒二、阪田寛夫、古木鐵太郎、耕治人、福原麟太郎、さらに尾崎一雄や林芙美子が暮らしていた。

『銀座に住むのはまだ早い』の杉並区の回では善福寺川を歩いている。