2020/07/07

不参加の思想

《文化大革命がはじまった時、わたしは一向にわけが判らなかったが、郭沫若の自己批判におどろきと共に、こいつめといった嫌悪感を抱いた》(富士正晴著『心せかるる』中央公論社、一九七九年)

 文革のころから富士正晴は新聞の購読を四紙に増やし、その関係の記事を切り抜きをはじめた。もともと中国びいきで毛沢東のことも好きだった(漢詩や『世説新語』などの古典を愛読していた)。
 ところが富士正晴は中国の文革の学生が「金瓶梅」などの古典の抹殺を唱えていることを知り、「いささか以上の憮然たる感情」をいだくようになった。さらに江青には「深い反感憎悪」を感じたという。

 文化大革命の情報にたいする富士正晴の心境は「嫌悪感」「憮然たる感情」「反感憎悪」と理屈ではない。

 理屈よりまず違和感がある。感覚をもとに判断する。まちがえることもあるだろう。
 富士正晴は文革の切り抜きを時間を置いて読み返すつもりだったのだが……。

《年老いて面倒になったということかも知れんし、革命ちゅうもんは阿呆らしいみたいなもんやなという気になって来たのかもしれん。とにかく、この世に気が失せて来たみたいや》(『心せかるる』)

 富士正晴著『不参加ぐらし』(六興出版、一九八〇年)の表題の「不参加ぐらし」でも文化大革命について綴っている。

《政治とか経済とかの実力世界、闘争世界に、定年がない(つくれない)ということは実に気味悪い恐ろしいことだが、これは仕方がない。しかも、傑物、大物、切れ者、英雄であっても、年老いてモウロクすると、変な実力行使をはじめることが屡々あるので、理に合わぬ世界が、理に大いに合った外貌で、展開し渦巻くのではなはだ厄介な無意味な影響を後に残すということになる》

 富士正晴は会合その他に「不参加」を決める。
「私流・中国遠望」ではこんなことを書いている。

《五十歳をすぎてから、わたしはひどく精神の皮膚が弱くなった感じで、行動的にははなはだ冷淡で、デモ、集会、そうしたもののために一歩も足を動かしたことがなく、やたらにはやる宣言、カンパ、署名運動、政治運動、文学運動にも参加する気がない》

 わたしも五十歳になって、いや、もっと前から「社会不参加」を心がけている。理念や思想ではなく、体力がないというのがその理由だ。平行線になりがちな議論に参戦するには体力がいる。自分の考えが正しいとおもっているわけではない。でも考えを変えるにしても自分のタイミングで変えたい。

 自分のことしか考えてないのかといわれたら、そのとおりなので申し訳なくおもう。

2020/07/04

荷風と白鳥

 金曜日、三ヶ月ぶりに西部古書会館。入口で検温。ふだんより棚の本数が少ない。大岡昇平、坂口安吾の文学展パンフなどを買う。ここ数年、古書英二の棚が面白い。

 中村光夫の『《評論》漱石と白鳥』(筑摩書房)を読みながら、正宗白鳥の思想について考えた。
 白鳥は一八七九年岡山県和気郡(現・備前市)の生まれ。幼少のころ、よく西南戦争(一八七七年)の話を聞かされていた。

《白鳥氏の心に深く印象された最初の偉人が、西郷隆盛であったことは、今日多くの人々に意外の感を与えるでしょうが、同様に氏の文学趣味を最初にみたしたのが、江戸伝来の戯作であったことも、人々は意外に思う事実かも知れません》

 わたしは白鳥の反戦もしくは厭戦の思想は、キリスト教からきているとおもっていた(それもあるだろう)。
 しかし江戸文化や西郷隆盛におもいいれのある人物と考えると、明治以降の日本にたいし不信感をいだいていたとしてもおかしくない。
 昔も今も日本は一枚岩ではない。愛国心やナショナリズムは西南戦争以降の新しい文化なのである。
 白鳥と同い年の文士に永井荷風がいる。荷風も時勢にまったく乗らない作家だった。

 鮎川信夫著『歴史におけるイロニー』(筑摩書房、一九七一年)に「戦中『荷風日記』私観」という評論がある。
 昭和十五年ごろ、軍人に演説の依頼された荷風は「筆を焚き沈黙する」決意を固める。

《震災以後、東京の良風美俗が亡び、純粋の東京人が年とともに減少していくことを嘆くのは、ほとんど荷風の口癖といっていい》

《荷風は金があったから戦争中沈黙してすごせたのだという人がある。荷風自身も蓄えがあったから云々というようなことを言ったと思うが、自分を「他国人」と感じながら、あの時期にものなど書いていけるはずなかったろう》

 正宗白鳥が永井荷風をどうおもっていたのか知りたくなる。

2020/07/01

安保と白鳥

 戦中を回想する正宗白鳥の随筆を読むと、そのころ白鳥は文壇生活にも見切りをつけ、残生をどう過ごそうか——といった心境だったようだ。
 一八七九年生まれの白鳥は、終戦時、六十六歳だった。

 かつて中村光夫は白鳥について「理科系統の学者に通じる鋭さと冷たさがある」と批評した(『《評論》白鳥と漱石』筑摩書房、一九七九年)。

 わたしは三十歳すぎたあたりから白鳥の随筆をくりかえし読むようになった。この世のあらゆることを懐疑しつつ、とぼけた味わいのある文章を書く。

 一九六〇年——日米安保の議論が巻き起こったときも正宗白鳥は「賛成の方にも、反対の方にも、一理屈あって、私には簡単に一方ぎめにする気になれないのである。それに、言論自由の世の中だから、しいて一方にきめなくてもいいはずである」(「恐怖と利益」/『白鳥随筆』講談社文芸文庫)といっている。

 沈黙せず、しかも自分は賛成でも反対でもないことをのらりくらりと表明する。これも文学者としてのひとつの筋の通し方だろう。
 さらにこの随筆には続きがある。

《戦争拒否には、政府案がいいか、反対案がいいか、両者の新説を読んで、私には決定しがたいのである。どちらにしたって、戦争は起る時には起るだろうと、私には思われるだけだ》

 賛成か反対かという問いにたいし、どちらでもないという立場もある。その立場にも理屈はある。
 白鳥の場合、日露戦争のころから一貫して反戦の立場なのだが、そこには厭世観も含まれる。