2025/01/08

眼の馬力

 五十代以降は充実した日々を送るより、のんびり静かに暮らしたいという気持が強くなった。
 長年の経験上、体が冷えてよかったことがない。腰に貼るカイロを装着し、部屋を暖かくして、温かいものを食べる。汁物にはほぼ生姜を入れる。しかし野菜が高い。白菜はまだましか。近所のスーパーだと四分の一カットの白菜が百六十八円。すこし前まで百円以下だった。

 中野重治著『本とつきあう法』(ちくま文庫、一九八七年)の表題のエッセイはこんなふうにはじまる。

《このごろ私はなかなか読めない。からだが弱くなったうえに眼が弱くなった。からだ全体に馬力がなく、その上眼に馬力がない。そのせいでかなかなか読めないが、何かのきっかけで読むとなると、読むということはやはりほんとに楽しいことだなと思う》

 初出は一九六五年。中野重治は一九〇二年一月生まれだから、六十三歳のときのエッセイである。
 わたしも「眼が弱くなった」という実感はある。それ以上に集中力が途切れやすくなった。本を読んでいても、以前と比べると、心が動かなくなった。音楽もそう。それでも本を読むし、音楽を聴く。衰えていく過程ではじめて気がつくこともあるだろう。

 四日昼すぎ、今年初の西部古書会館。三冊縛りはやめた。岩壁義光編『横浜絵地図』(有隣堂、一九八九年)、加太こうじ、木津川計、玉川信明著『下町演芸なきわらい』(駸々堂、一九八四年)、多くの作家と画家のサイン(印刷)入りの手拭いなど。『横浜絵地図』はプラカバ付の美本。地図だけでなく、写真も多数ある。

 日頃、朝寝昼起の生活なのだが、年明けから昼寝夜起になり、そのあと夕方に寝て深夜に起きる睡眠時間ズレ周期になる。深夜一時すぎ、早稲田通りを阿佐ケ谷方面に向かって散策した。高田馬場方面に向かう空車のタクシーがけっこう走っている。

「日本の古本屋」で注文した『旅別冊 特集 地図 夢・謎・愉しみ』(日本交通公社、一九八四年)が届く。送料込みで六百円ちょっと。「自東部西国筋 旅中懐宝」(結城甘泉、一八五二年)を十七頁にわたって掲載している。現物は七メートル余もあった。

《雑誌での全巻一挙掲載は、もちろん本誌が初めてである》

 江戸から大隅諸島、永良部島まで描いた見事な鳥瞰図だ。結城甘泉は筑紫(福岡)の人らしい。東海道は四日市や鈴鹿を通る伊勢廻り。関から上野、初瀬から奈良への道も描かれている。
 鳥瞰図は、城や家も描かれているので当時の町の大きさもわかる。

 あと瀬戸内航路が細かく記されていて勉強になる。「室は瀬戸内航路の要」とある。室は播磨の港町。室の津。岡山の牛窓も金比羅航路として栄えていた。

 古地図(鳥瞰図)を見ていると、鉄道や車が普及する以前の地理の感覚がおぼろげながらわかってくる。町と町のつながりも見えてくる。

2025/01/02

新年

 新年あけましておめでとうございます。初詣はまだ(人が多かったのでやめた)。近所を散歩する。町に人が少ない。店も開いているところが少ない。西友で寿司を買う。

 紅白、年をとっても変わらない声量を維持している歌手を見ると、すごいなと感心する。曲調もあるけど、演歌勢の安定感もさすがだなと。

 年末の土曜夕方、西部古書会館。『なかの史跡ガイド』(中野区立歴史民俗資料館、一九八九年)、『たずねてみませんか 中野の名所・旧跡』(中野区企画部広報課、一九九〇年)、『旅別冊 鉄道 追憶・熱狂・冒険』(日本交通公社、一九八五年)など。

『なかの史跡ガイド』は二冊目。手持ちの冊子は書き込み有でボロボロだったので買い直した。『たずねてみませんか 中野の名所・旧跡』は二十頁ちょっとの冊子。手書きの地図がいい。ここ数年、日課の散歩で中野区の大和町、野方界隈、西武新宿線沿線の町をよく巡回している。バスにもよく乗るようになった。初夢もバスの夢を見た。

『たずねてみませんか 中野の名所・旧跡』によると、中野の地名の由来は「武蔵野の中央に位置するから中野といわれたようです。(中略)昔は一村名ではなく相当広い地域を含む総称だったようです」とある。

 中野区は一九三二(昭和七)年に中野町と野方町が合併してできた区である。中野区の「野」は野方の「野」も含んでいる(という説もある)。

 中野区の「地名の由来」はいくつか囲み記事があり、野方は「江戸時代、多摩郡には、幕府直轄領と旗本の知行地が入り混じっていましたが、その広い範囲を『野方領』と呼んでいたといわれます」とのこと。

 以前、近所の飲み屋で杉並区方南町の「方南」の由来の話になった。
 もともと方南町は和田村で、字で「方南」という地名がついていた。和田村の南説、杉並村の南説などもあるようだが、野方の南説も候補のひとつらしい。
 地図で見ると、西武新宿線の野方駅から環七をほぼまっすぐ南に向かうと、東京メトロ丸の内線の方南町駅である。

『旅別冊 鉄道』は、カラー頁が多くてきれい。鈴木一誌のデザイン。冒頭に小野十三郎の詩「機関車に」(『古き世界の上』より)が載っている。ほぼ原型を復元した機関車「パシナ」の写真(潘陽)を見る。パシナ、水色だったのか。二十代のころ、お世話になった人が『パシナ』という同人誌を作っていて、その雑誌名の由来はパシナ号からとったと聞いた。

 古本好きは変わらないけど、そのときどきの関心で読むものが変わる。今は地理や歴史に興味が移っているが、今年はどうなるか。その日、自分が何を読んでいるのか予想がつかないところも古本趣味の面白さである。

2024/12/29

絶対睡眠術

 年内の仕事も一段落。いろいろ疲れがたまっていたのか、ここ数日、日課の散歩は目標の歩数未満の日が続いた(それまではこの一年、晴れの日はだいたい一万歩以上歩いていた)。数字はあくまでも目標で、その日の体調によっては少なくてもいいという考えだ。怠けるときは柔軟に。「上に行くより、横になりたい」が、わがモットーである。

 やなせたかし著『天命つきるその日まで アンパンマン生みの親の老い案内』(アスキー新書、二〇一二年)を読む。同書の「最後の言葉」に「漫画家の手塚治虫氏は『仕事させてくれ』というのが最後の言葉だったと聞いている」とある。

《生前「ぼくはまだ描きたいことが山のようにある。作品のアイディアは分けてあげたいくらいあるが、体力が落ちてきて描けない」とぼくに嘆いた。そして「この頃マルが描けなくなった」と言った。手塚氏の言うマルはコンパスを使わず完全な円を描くことだ》

 さらっとすごい話が書いてある。手塚治虫のマルを描くではないが、読書にせよ、文章を書くことにせよ、自分の調子を測るバロメーターみたいなものがあるといいなとおもった。わたしの場合、体調に関してはコーヒーがうまいかどうかは判断材料のひとつにしている(ふだんは毎日何杯か飲むが、調子がよくないと飲めなくなる)。

 手塚治虫の話のすこしあと、やなせたかし自身の話になる。

《小心で怠け者で才能が薄いから人よりも長く生きるしかない。この世界でなんとかなったのは七十歳過ぎてからで、気がついてみれば先輩も後輩もほとんど姿を消していつの間にやら先頭集団の中にいた》

《小心だからギャンブルもしないし浪費することもない。質素な生活で十円には十円の幸福があると思っている。我ながら面白くない。しかしこのほうが気楽でぼくには暮らしやすかった》

「絶対睡眠術」というエッセイには「生まれついての怠け者で、朝寝して昼寝して夜も寝て、時々起きていねむりをするというくらい寝てばかりいる」と書いている。

《漫画家の水木しげる氏にもややその傾向がある》

 水木しげるは小学生のころ毎日朝寝坊し、一時間目の授業を休んでいた。

 やなせたかしの睡眠術は数字を数えることだった。「1・2・3」と数えていって、つっかえたり、間違えたりしたら、また「1」から数え直す。余計なことを考えず、頭を数字を数えることだけに専念する。それが眠るためのコツのようだ。瞑想(様々な方法があるが)と似ている。

 やなせたかしが亡くなったのは二〇一三年十月だから最晩年の本である。『アンパンマン』を描きはじめたのは五十代、アニメ化は一九八八年だから七十歳手前だ。詩人、童話作家、作詞家としては活躍していたから「才能が薄い」というのは謙遜だとおもうが、晩成型の人といっていいだろう。

 表題のエッセイでは、こんな希望を述べている。

《天命つきるその日まで、なるべく楽しくおだやかに過ごしたい》