火曜、東京都心、最高気温三十五度。夏の空気と陽差し。夕方水筒にお茶を入れて散歩する。今月の新刊、行方昭夫編訳『お許しいただければ 続イギリス・コラム傑作選』(岩波文庫)が気になる。行方昭夫編訳『たいした問題じゃないが イギリス・コラム傑作選』(岩波文庫)の刊行が二〇〇九年四月。十六年ぶりの続編である。
情報の過多と加速化。世の中への関心がないわけではないが、日々のニュースの移り変わりに追いつけないし、追いかけようという気持がどんどん薄れている。といって、一つのテーマをじっくり探究することもできない。「老い」について考えているが、考えれば考えるほど、何をやっても無駄におもえてきて、やる気が失せる。考えすぎないようにしたい。
すこし前に買った辰野隆対談集『忘れ得ぬことども』(朝日新聞社、一九四八年)を読む。装丁は熊谷守一、似顔絵は清水崑。隆は「ゆたか」と読む。武林無想庵、新居格とも対談している。
辰野隆も新居格も一八八八年三月生まれ。二人の対談は還暦あたり。
《辰野 区長さんはどう。忙しい?
新居 そりや大変なもんだ。ぼくは村長のつもりだけどネ。ルナールは何年くらい村長をやってたかなア。
辰野 ズッとやつて、村長で死んだでしよう。四十代で死んでるからね》
アナキストの新居格は戦後初の杉並区長だった。辰野隆は仏文学者、父・辰野金吾は東京駅の設計などで知られる建築家である。
先週の土曜日夕方、西部古書会館。昨年末から続く仕事部屋の片付けが終わらず、本を増やしている場合ではないのだが、買う。わかっていてもやめられない。『シーボルト・日本を旅する 一外国人の見た日本の原風景 中核市移行記念・シーボルト生誕200年記念特別展』(堺市博物館、一九九六年)。シーボルトの長崎から江戸への旅。東海道は佐屋街道を通る。以前、佐屋街道を歩いたとき、案内板にシーボルトの名前を見た。同図録、江戸期の地図もたくさん収録されている。人の本能には何かを「記録」したいという欲があるのかもしれない。
バラで集めていた『福原麟太郎随想全集』(福武書店、一九八二年)の抜けていた巻を二冊買う。ようやく全巻揃った。
『福原麟太郎随想全集』一巻は「人生の知恵」。同書の「虚栄について」の書き出し——。
《この間じゅう道を歩きながら、虚栄というのはどういう事であろうかと、毎日考えていたのだが、だんだんわからなくなって来た》
同エッセイは「虚栄」の意味をああでもないこうでもないと考える。散歩中、何か考えている。考えて何がどうわからないのかを知る。読む調べる歩く考える。長年にわたる積み重ねが福原麟太郎の随筆の味になっている。
随想全集二巻は「本棚の前の椅子」。読書論が面白い。たとえば「わが読書」——。
一八九四年広島県沼隈郡神村赤壁(現・福山市)生まれ。後、隣町の松永町に転居。田舎育ちのせいか、子どものころの読書の量が少ないと福原麟太郎はいう。
《何かしらスタートが悪いから、今日まで、読書においては、ひとに敗けているような気がしてならない》
《二十歳から三十歳までの間の読書が、大体その人の思想と、文学的嗜好とを決定するものである。私は不幸にして、二十歳から三十歳までの間に読んだ本の記憶がはなはだ薄い》
二十代の福原麟太郎は思想や哲学の本を好まなかったと書いている。日本の作家では、久米、芥川、菊池、谷崎、武者小路、志賀、宇野浩二が「大震災までに出した本は、恐らく全部読んでいた」。大正期の文芸に傾倒したせいか、長篇に不慣れだという。
《三十歳以降、何を読んだか、これは、その前の十年以上に忘れている。多分、いわゆる読書をしないで、職業上必要な本ばかり読んでいたのであろう》
この時期、福原麟太郎は日本、中国の古典を濫読している。
《四十歳を過ぎると、じきイタリアがエチオピアと戦争をはじめ、日本もまた似たようなことになって、落ちつくひまも無い間に、時々徹夜をして学校の講義を書いたりしていたから、ますます読書しなくなったように思う。それから五十歳になって、ことしで六年目だが、どうも何を読んだと訊ねられれば、ただ頭をかくよりほかない。要するに雑読をして来たのである》
福原麟太郎、五十六歳。わたしも今年の秋に五十六歳になる。ずっと雑読人生だったなと……。
福原麟太郎は「ただ頭をかくよりほかない」といいつつ、その読書量は膨大である。ただ、職業と関係ない本を読むことがなかなかできなくてぼやいている。
わたしもそのときどきは職業と関係ない本を読んでいたつもりが、いつの間にか仕事と趣味の境界があやふやになっている。
今読んでいる本のこともいつか忘れる。忘れて思い出す。思い出すために読む。そのくりかえしが雑読の醍醐味なのではないか。