2007/11/28

薄花葉っぱと…

 二十八日、下北沢の「ぐ」で薄花葉っぱのライブ。
 京都から来た扉野良人さん、あとオグラさん、東京ローカル・ホンクのアラケンさん、以前、京都のまほろばに出演したというオオノシンヤさん(山村暮鳥の詩に曲をつけて歌っているミュージシャン)たちと同じテーブル、こういう場所でライブが見られるのはほんとうに幸せだ。
 歌、演奏がいいだけでなく、それ以上のものがあって、とくに場の空気を音で変えていく力にのまれて、楽しくなって、どんどん酒がすすむ。

 ライブのあと、深夜一時くらいに薄花葉っぱ一同がやってきて、わが家で宴会がはじまる。
 気がつくと、年齢不詳のただ者ではない雰囲気の人がいて、「誰だろう」とおもいながら話(おもしろいんだ、これが)を聞いていたら、ドラムの小関純匡さんだった。

 オグラさんと小関さんは共通の知人がたくさんいて、お互い、二十年以上音楽を続けていて、この日が初対面というのも不思議だった。
 ライブを見て、そのあとミュージシャンと飲むと、いつもいろいろ刺激を受けるのだが、これが自分の中でどう作用するのかさっぱりわからないところも楽しい。感覚の鋭い人が多いから、緊張する。
           *
 数日前、扉野良人さんと中川六平さんと吉祥寺のいせやで昼ごろから飲み、そのまま古本屋めぐりをした。トムズボックスに行って、土井さんからいろいろ貴重な話をうかがい、そのまま吉祥寺をぶらぶらしていたら、ギターケースを背負った前野健太さんがむこうから歩いてくる。吉祥寺に行く前うちで扉野さんと先日発売された1stアルバム『ロマンスカー』をいっしょに聴いたばかりだった。

 来月、京都でライブがあるそうなのでお近くの方はぜひ。

「KOIしにKOI 番外編」12月22日(土)18:30 OPEN/19:00 START

出演 有馬和樹(おとぎ話)、前野健太

前売 ¥1500 当日 ¥2000(共に1ドリンク別)
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 さて今日から日常。頭を切りかえて、仕事だ。
 まもなく連載が二本はじまる。
『小説すばる』とPR誌『ちくま』(三ヶ月に一回)です。たぶん新年号から……かな?

 今までのやり方(気がむいたときに好きなことを書く)では続けられそうにないから、いろいろ試行錯誤するしかないとおもっている。

2007/11/18

大阪、京都

 十五日(木)、昼からアルバイト……をそうそうに切り上げて、夕方、のぞみで大阪に行く。梅田に着いのは午後六時前、大急ぎで梅田第三ビルの古本屋に行って、第四ビルのめん次郎できつねうどんを食う。
 かっぱ横丁の古本街をかけぬけ、萬字屋書店で大宅壮一の『青春日記』(上・下巻、中公文庫)を買う。あるところにはあるのだろうが、なぜかわたしの前にはあらわれてくれない本だった。
 最近、そういう本が見つかると、うれしいような、さみしいような気分になる。
 二十代のころから探している本が何冊かある。当り前だけどそういう本は年々すくなくなってきている。十年も古本屋をまわっていれば、自然とそうなる。

 大宅壮一の日記は、古本屋の話からはじまる。

 大正四年、七月二十七日の大宅少年が、空掘の古本屋で本を見ていて、棚の上の本をとるために、風呂敷包をおいた。
 夢中になって本を見ていたら、いつの間にか包がなくなっている。
 盗まれてしまったのだ。

《ああ大変な事が出来た。この中には幾程金銭を出しても求める事の出来ないこの四月から一日もかかさず書いた僕の努力の結晶ともいうべき『生徒日誌』が入っているのだ。その他学校で借った『少年』も昨夜、夜店の古本屋をあさって買求めた四五冊の本もすっかり取られてしまった。ああどうしよう、どうしたらよかろうか。今更ながら自分の不注意がうらめしかった》(大正四年七月二十七日の日記)

 こういう日記は、寝る前に四、五頁ずつゆっくり読みたい。

 阪急古書のまちから歩いて中崎の珈琲舎書肆アラビクに行く。BOOKONNの中嶋大介さんと待ち合わせ。ウイスキーを飲んで、そのあとコーヒーも頼んでみる。店長さんに芦屋古書即売会の目録を見せてもらう。十一月二十三日(金、祝日)か。行きたいけど、無理。

 先月、東京から大阪に引っ越した学生時代にいっしょにミニコミを作ったり、玉川信明さんの読書会に参加していた友人もアラビクの近所に住んでいる。その日は「大人の接待」で何時に仕事が終わるかわからないとのことだった。
 中嶋さんから最近の大阪の古本屋事情を教わる。
 店をかえて、午後十一時くらいに、友人がかけつけ、三人で軽く飲んだあと、ファミレスで深夜二時ごろまでしゃべる。
 学生時代に戻った気分だった。

 十六日(金)、京都に向う。とりあえず、河原町のサウナ・オーロラに行って、仮眠室で一時間ほど寝る。新しくできたブックファーストに寄ってみた。はじめて入った記念に喜国雅彦の『本棚探偵の回想』(双葉文庫)を買う。蒐集の対象(喜国氏はミステリ専門)はちがえど、共感するところ多し。

 阪急百貨店の八階のうどん屋で五目あんかけうどんを食う。
 昼の三時に六曜社で、扉野良人さん、北村知之さんと待ち合わせ。北村さんはほんのちょっと前にスマートで「sumus」同人の山本善行さんと林哲夫さんと会っていたという。六曜社に行く前に、スマートのちかくを通ったのだが、気づかなかった。残念。
 しばらくして扉野さんが来て、お寺に行って、大阪から来る中嶋さんを待つ。
 講談社文芸文庫の品切本の話で盛りあがる。
 夕方六時、中嶋さんと合流してタクシーで「拾得」に向う。
 東京ローカル・ホンクと薄花葉っぱ(女子部)のライブ。店にはいると、近代ナリコさんもいた。
 北京在住のアメリカ人のホンクのファンが観光をかねてこのライブに合わせてわざわざ京都に来ていた。もともとくるりのファンで、喫茶ロックを聴いて、ホンクの曲を知ったそうだ。

 ライブは無事終了。旅先で聴く「ハイウェイソング」は格別だ。打ち上げもたのしかった。
 そのあとホンクのメンバー、スタッフといっしょに扉野さん家のお寺に行く。
 夜中の一時すぎにみんなで風呂に行こうということになったが、夜遅くまでやっているという銭湯は閉まっていて、結局、サウナ・オーロラに行くことになった。十二時間以内に二回も同じサウナに行くことになるとは……。
 さっぱりして、また寺に戻り、布団をひいて、ザコ寝。合宿みたいだ。京都だから修学旅行かな。扉野さん、さまさまだ。
 ふと、こんな楽しいことって、あと何回くらいあるんだろうとおもう。
 楽しい時間はあっという間にすぎてしまう。

 旅先では、目や耳、全身の感度があがっているような気がする。
 東京にいるときも、この感覚を忘れないようにしたいとおもうのだが、これがなかなかむずかしい。
 ホンクのメンバーは、みんなわたしより齢上なのだけど、小学生がそのまんま大人になったみたいなところがある。
 とりあえず、バカなところをいきなり全開で見せて、あっという間に場にうちとけてしまう。
 十年くらい飲んでいて、ようやくそのすごさがわかってきた気がする。彼らなりにいろいろな場数をふんできて、そうなったのだろう。

《すてきな思い出のすべて
    すてきな持ち物のすべて
 はぎ取られてもそこに 残る小さな光
 それが僕らさ それが僕らさ そうだろ
    それが僕らさ 僕らは光さ
 それが僕らさ すべてを失くしたとしても
    そこに残る光さ 僕らは光さ》
   (「生きものについて Beautiful No Name」)

 あるときは「光」は、「音」だったり、「命」だったり、あるいは言葉にはならない「何か」だったりするのかもしれない。
 ここまで書いて、ふと耕治人の「一条の光」という小説のことをおもいだした。

《小指の先ほどの鼠色のそのゴミは、生まれたような気がした。見つめていると、生きているように感じられた。不思議なことが起きた。そのゴミを起点として、一条の光が闇のなかを走った。私は闇のなかに、いつのまにか、いた。一条の光は私の過去であり、現在だ。それは父母であり、兄妹であり、私の出身校であり、勤め先だった。結婚でもあった。要するに私の生涯だった。生涯を一条の光が貫いたのだ。それは太くもあれも細くもあった。私はワナワナ震えた。身動きができなかった。コレダ! と思ったのだ》

 きっと人生には「コレダ!」とおもう瞬間があるのだとおもう。
 わたしはまだ「光」を見ていないけど、あっちこっちふらふらして、友人と付き合ったり別れたり、学校や仕事をやめたり、いろいろな偶然や必然が積み重なりながら、行き当たりばったりに生きていて、なんでこんなふうになってしまったのかわからなくなることもある。でも「これまでのこと、いいこともいやなこともなにもかも、そういうことがあったから、今があるんだ」とおもえる瞬間がある。

 十七日(土)、午前十一時、のぞみで東京に帰る。そのままアルバイト先に直行し、夜七時まで働く。
 自分にこんなに体力があったことに驚くが家に帰って、十二時間くらい寝て、十時すぎに起きた。NHKの将棋を見て、また寝ると、午後四時半になっていた。

 西荻窪の「昼本市」に行きそびれた。皆勤賞だったのに。不覚。

2007/11/13

荻窪あたりで

 月曜日、起きたら昼の三時半。体内時計がおかしくなっている。
 昼間は原稿が書けないので、洗濯して、夕方から荻窪のささま書店に行く。

 秋山清『近代の漂泊』(現代思潮社、一九七〇年刊)、小野十三郎『詩集 大阪』(創元社、一九五三年)、『砂上の会話 田村隆一対談』(実業之日本社、一九七八年)、『耕治人全詩集 昭和五年〜昭和五十五年』(武蔵野書房、一九八〇年)を買う。
 ひさしぶりに行ったら店内の棚がずいぶん入れ替わっていた。ほかにもほしい本が五、六冊あったけどガマンする。
 野呂邦暢のあの本もあった。相場より安かったからすぐ売れるとおもう。

 荻窪のco−op(高円寺にはない)で、インスタントの「北海道醤油らーめん」(常備品)を買い、そのあとタウンセブンの地下の食品売り場で東信水産の焼きさば棒寿司を買う。一パック三百九十円。しかも二割引。ここの焼きさば寿司、絶品だとおもう。

 家に帰ってから、昨日の鍋の残りを使いきるために豚汁を作る。

 秋山清の『近代の漂泊』を読んでいたら、植村諦のことが気になり、夜中「日本の古本屋」で植村諦の『鎮魂歌』(青磁社、一九八〇年)を注文した。

 この本、小野十三郎、向井孝、秋山清があとがきを書いている。

2007/11/12

植草甚一展雑感

 ここ数日、漫画を読んで、寝てばかりいた。急に冷えてきたので、からだもあたまもちゃんと働いてくれない。 季節の変わり目は寝ても寝ても眠い。休むときは休む。ちょっとなまけて、体力と気力を充填し、すこしずつ調子をとりもどす。

 長年の自分研究によって無理して調子を崩すよりも、わざとだらけて調子を落としたほうが、疲れていない分、回復が早いことがわかってきた。休んでばかりいると、どんどん衰えていくのではないかという心配もある。

 日曜日、小雨ふる中、世田谷文学館で開催中の「植草甚一 マイ・フェイヴァリット・シングス」展を見に行った。世田谷文学館はひさしぶりだ。前に行ったのはいつだろう。二〇〇二年の山田風太郎展以来か。その前が吉行淳之介展だったからこれが三回目である。

 わたしは植草甚一の本をあまり読んでいない。ミステリ、ジャズに興味がなく、洋書は読めず、映画もそんなに見ない。学生時代に古本屋をまわりだしたころには、すでに植草甚一の本には古書価がついていて、著作数が多いから敬遠していたというところもある。アメリカから日本に本とレコードを送ったら、その送料が五十万円くらいかかったというコラムを読んで「住む世界がちがうなあ」とおもった記憶がある。ただその日、最初に入った古本屋でかならず一冊は買うとそのあといい本が買えるという植草甚一のジンクスはけっこう実践している。一冊は買おうとおもって棚を見ると、それなりに集中するし、目つきが変わってくる。そういった効果があるのかもしれない。

 世田谷文学館の帰り、京王線の芦花公園駅の北口のほうを散歩する。昭和というか、うらさびしい町という印象だった。新宿の京王百貨店のデパ地下で天むすを買って、高円寺に帰る。夜は豚肉の鍋を作る。

2007/11/09

東京ローカル・ホンク

 来週また関西へ。今年の秋に二枚目のアルバム「生きものについて」MINE'S RECORDS(MR-001 / ¥2,415 税込)が出た東京ローカル・ホンクのツアーに同行……ではなく現地で合流する。

 十一月十六日(金)の京都「拾得」で、薄花葉っぱと共演と聞いて、これはもう行くしかないと。今回は久々に大阪の古本屋もまわりたいとおもっている。

 東京ローカル・ホンクは高円寺の公園で飲んでいるときにペリカンオーバドライブのメンバーから、ドラムのクニさんを紹介してもらい、ライブを見にいったら、C・S・N&Yみたいなコーラスで演奏がめちゃくちゃうまくてビックリした。当時は「うずまき」という名前だった。十年くらい前の話だ。とにかく、生で見てほしい。

「生きものについて」も聴いてほしいです。詳しくは東京ローカル・ホンクHP

2007/11/07

買物

 物価上昇がニュースになっているが、今のところ高円寺の商店街で買物をしている分にはその影響はさほどかんじられない。車に乗ってないせいかもしれない。
 夕方「外市」の売り上げ金を握りしめて、近所の古着屋に行く。スティーリー・ダンの眼鏡の人(もしくはアメリカ人のオタク)が着たら似合いそうなかんじのネルシャツが買えた。八百四十円。

 そのまま鳥のもも肉と切り落としベーコンを買ったあと、ららマート、西友、OKストア、東急ストアと高円寺駅周辺の主要スーパーをまわる。火曜日は冷凍食品その他が安い日なのだ。
 その冷凍食品売り場で冷凍うどんの三個入りを買うか五個入りを買うかで迷っているところを大家さんに見られる。そのあとレジで先日知りあったばかりの編集者とばったり会う。

 金がはいると、まず食料を買ってしまうのは、貧乏な家に生まれたせいだとおもう。

 夜、ほうれん草とベーコンの塩にんにく味のスパゲティを作る。

 ベーコンとほうれん草とにんにくをオリーブオイルでいためて、適当に塩コショウで味つけてして、パスタをいれてかきまぜたら出来上がり。ベーコンのかわりに豚バラ肉をつかうこともある。

2007/11/06

外市を終えて

 第5回往来座「外市」も無事終了。
 アクリルたわし十個完売。

 自信を持って出品したシングルレコードの東京ぼん太「あんたしっかりしてンね」(コロムビア)は売れず、梓みちよの「売れ残ってます」(キングレコード)も当然のように売れ残った。

 打ち上げ会場は池袋の世界の山ちゃん。
 オグラさんも参加。ラジカセで豆太郎のテーマ曲を聞かせてもらう。
 その後、無謀な企画(オグラさんと浅生ハルミンさんといっしょにバンド結成など)で盛りあがるも、酔いさめたとたん完全に自信喪失。
 すこし酒をひかえよう。だめだ。

 家に帰っていったん寝て、朝七時ごろから月曜日しめきりの原稿にとりかかり、昼前になんとか書き終える。

 また寝る。気がついたら、夕方の五時、外はもう暗い。
 風呂にも入らず、ひげもそらず、ひたすらだらけているうちに深夜になる。
 漫画を三冊(※1)読んだ。
 コタツとストーブを出した。

 こんな日ばかりだとそれはそれでつらいのだけど、こういう日がまったくないのもつらい。

※1 稲垣理一郎原作、村田雄介漫画『アイシルード21』二十七巻(集英社)、谷川流原作、ツガノガク漫画『涼宮ハルヒの憂鬱』五巻(角川書店)、幸村誠『ヴィンランド・サガ』五巻(講談社)……。

2007/11/03

函館の朝市

 函館に行ったのはいつだったか。こういうとき日記をつけていればよかったなとおもう。
 青春18きっぷで仙台、盛岡、秋田、弘前の古本屋をまわりながら、電車で函館に行った。仙台は東北大学の寮、盛岡は二十四時間営業の漫画喫茶、秋田は駅前旅館、弘前は駅で野宿している。

 目的地は札幌だったのだが、時刻表をみると、函館から札幌まで鈍行ではかなり時間がかかることがわかった。
 当時は函館から札幌までの夜行電車(夜行ミッドナイト。現在は廃止)があったのだが、全席指定で切符が買えず、結局、その日は函館駅の待合室のようなところに泊ることになった。
 駅の待合室には四十、五十人いた。明け方、駅のまわりを散歩した。駅からすぐ函館港があって、朝までやっている飲み屋があってそこで飲んだ。座敷があって、うとうとしていたら「疲れているんだったら寝ていきなよ」と店の人が布団を貸してくれた記憶がある(あやふやな記憶だが)。
 どうにか特急で札幌まで行き、古本屋をまわり、北海道の大学で尿の研究をしていた友人(今は愛知県で薬局を営んでいる)の家に泊めてもらい、それから苫小牧まで行って、東京まで船で帰った。

 二十代のころは滞在時間よりも移動時間のほうが長い旅ばかりしていて、これといった観光もせず、古本屋をまわり、電車の中で本を読んだり、寝たりしていた。
 だから函館のことをおもいだそうにも、前述の居酒屋に泊めてもらったことしかおぼえていない。
 そういえば、函館市電(路面電車)に乗って、五稜郭公園に行った。ちかくにいせや書房という古本屋があって、文庫本を買った気がする。

『佐藤泰志作品集』の中に「函館の朝市」というエッセイがある。

《今私が父の仕事を手伝っているこの函館の朝市にも、夏のシーズン中はもちろん、四季を問わず観光客はおとずれるし、中には石川啄木ゆかりの地などを思いいれて、はるばるやってくる文学青年などもいるのだろうと思われる。(中略)私の父などは三〇年このかた朝市の地べたで、野菜売りのおばさんや海草や昆布を売るおばさんに混じって商売を続けてきた。わずか畳一畳分ほどの地べたでの商いであって、しかしそれを三〇年と考えると、実にしぶといと思ってしまう》

 この文章を読んで、わたしも朝市に行ったこともおもいだした。駅の待合室から、朝市に出かけ、せっかく函館に来たのだから、うまいものを食おうと、いくら丼を食った。それについてきたみそ汁がうまくて、おかわりした。
 もし佐藤泰志の『海炭市叙景』を読んでいたら、函館ロープウェイにも乗っただろう。残念ながらわたしは乗らなかった。市電の窓からロープウェイの看板を見た気がする。
 そんなことをおもいだしているうちに、函館に行ったのは、一九九四年八月だったような気がしてきた。
 なぜそうおもったかというと、北海道の友人と「吉行淳之介さんが亡くなったねえ」という話をしたおぼえがあるのだ。その友人も吉行ファンだった。

(追記)
 いろいろ記憶がごちゃごちゃになっている。たしか大学時代(一九九〇年ごろ)にも北海道に行っているはず。

2007/11/02

佐藤泰志作品集

 昨晩、古本酒場コクテイルで、中川六平さんとクレインの文弘樹さんと飲んだ。
 中川さんも、文さんも『思想の科学』という雑誌の編集者だった。わたしも二十代のころ編集部にときどき遊びに行っていたのだが、文さんとは時期がズレていて、昨日はじめて会った。

 共通の知り合いはいろいろいて、そのひとりが六平さん。京都の扉野良人さんもそう。
『思想の科学』は休刊しても、そのつながりは不思議と残っている。

 飲んでいる途中、古書現世の向井さんからコクテイルに電話があった。「外市」に出すための本を受け渡す約束をしていたのだ。いったん家に帰り、荷物を渡して、また店に戻ると、前田君がいた。
 中川さん、酔っ払って、前田君にからんでいる。
「大阪に帰って一からやり直せ」
「いやです。帰りませんよ」

 中川さんが帰った後、もう一軒、文さんとあかちゃんに飲みに行った。だいぶ酔った。

 そうそう、文さんは『佐藤泰志作品集』を作った編集者なのである。

 佐藤泰志は一九九〇年十月九日、四十一歳のときに自ら命をたった。
 一九四九年、北海道函館生まれ。「きみの鳥はうたえる」(『文藝』一九八一年九月号)、「空の青み」(『新潮』一九八二年十月号)、「水晶の腕」(『新潮』一九八三年六月号)、「黄金の服」(『文學界』一九八三年九月号)、「オーバー・フェンス」(『文學界』一九八五年五月号)が芥川賞候補、『そこのみにて光輝く』(河出書房新社、一九八九年刊)が三島賞候補になった。

「佐藤泰志作品集に寄せて」の中で、小山鉄郎さんは「文学は命がけですよ。少なくとも佐藤君にとって、文学は命をかけてのものだったじゃないですか」という江藤淳の言葉を紹介している。
 江藤淳は三島賞の選考委員で、佐藤泰志の『そこのみにて光輝く』を強く推していたという。

 佳作だったこともあり、生活は楽ではなかった。

《十六年ほど前というと僕は二十四歳で、格別気負いもなく、ただ小説を書くことが自分の道だと思い定めていたところがある。アルバイト生活をしながら、夜帰って食事をすますと、ろくな会話もせず、あてのない小説を書き続けていた》(エッセイ「背中ばかりなのです」)

 大学卒業後、印刷会社、大学生協の調理員、梱包会社など職を転々とし、三十二歳のときに「職業訓練校の建築家に入り、大工になるための訓練を受ける」とある。
 年譜のところどころに「自律神経失調症」「自殺未遂」「文芸ジャーナリズムからほされる」「アルコール中毒」といった言葉が出てくる。生きがたい人だったのだとおもう。しかし、その小説は美しい。

 いわゆる少数の熱心な読者に愛される作家だった。

(……続く)