昨晩、古本酒場コクテイルで、中川六平さんとクレインの文弘樹さんと飲んだ。
中川さんも、文さんも『思想の科学』という雑誌の編集者だった。わたしも二十代のころ編集部にときどき遊びに行っていたのだが、文さんとは時期がズレていて、昨日はじめて会った。
共通の知り合いはいろいろいて、そのひとりが六平さん。京都の扉野良人さんもそう。
『思想の科学』は休刊しても、そのつながりは不思議と残っている。
飲んでいる途中、古書現世の向井さんからコクテイルに電話があった。「外市」に出すための本を受け渡す約束をしていたのだ。いったん家に帰り、荷物を渡して、また店に戻ると、前田君がいた。
中川さん、酔っ払って、前田君にからんでいる。
「大阪に帰って一からやり直せ」
「いやです。帰りませんよ」
中川さんが帰った後、もう一軒、文さんとあかちゃんに飲みに行った。だいぶ酔った。
そうそう、文さんは『佐藤泰志作品集』を作った編集者なのである。
佐藤泰志は一九九〇年十月九日、四十一歳のときに自ら命をたった。
一九四九年、北海道函館生まれ。「きみの鳥はうたえる」(『文藝』一九八一年九月号)、「空の青み」(『新潮』一九八二年十月号)、「水晶の腕」(『新潮』一九八三年六月号)、「黄金の服」(『文學界』一九八三年九月号)、「オーバー・フェンス」(『文學界』一九八五年五月号)が芥川賞候補、『そこのみにて光輝く』(河出書房新社、一九八九年刊)が三島賞候補になった。
「佐藤泰志作品集に寄せて」の中で、小山鉄郎さんは「文学は命がけですよ。少なくとも佐藤君にとって、文学は命をかけてのものだったじゃないですか」という江藤淳の言葉を紹介している。
江藤淳は三島賞の選考委員で、佐藤泰志の『そこのみにて光輝く』を強く推していたという。
佳作だったこともあり、生活は楽ではなかった。
《十六年ほど前というと僕は二十四歳で、格別気負いもなく、ただ小説を書くことが自分の道だと思い定めていたところがある。アルバイト生活をしながら、夜帰って食事をすますと、ろくな会話もせず、あてのない小説を書き続けていた》(エッセイ「背中ばかりなのです」)
大学卒業後、印刷会社、大学生協の調理員、梱包会社など職を転々とし、三十二歳のときに「職業訓練校の建築家に入り、大工になるための訓練を受ける」とある。
年譜のところどころに「自律神経失調症」「自殺未遂」「文芸ジャーナリズムからほされる」「アルコール中毒」といった言葉が出てくる。生きがたい人だったのだとおもう。しかし、その小説は美しい。
いわゆる少数の熱心な読者に愛される作家だった。
(……続く)