2019/03/27

ここ数日

 土・日、本のフェス。本の雑誌商店街で「古本ツアー・イン・ジャパン」の小山さんの隣で古本を売る。古本屋のことを聞くと、何でも即答してくれる。全国各地を飛び回っているせいか、街道にも詳しかった。

 お客さんは初日のほうが多かったが、二日目のほうが本がたくさん売れた。
 初日は他のイベントが目当、二日目は本を買う目的で来た人が多かったのかもしれない。睡眠時間がズレまくる周期に入ってしまい、終始、頭がぼんやりしていたが、楽しかった。
 宮田珠己さんにも会えた。宮田さんも旅メシはコンビニ派だ。わたしが旅先でコンビニのおにぎりばかり食べるのは店に入ると日没までの貴重な歩く時間が減るからだ。
『人生と道草』を刊行している旅と思索社の方とも話をすることができた。以前、このブログでも紹介したけど、『人生と道草』は街道の歩き方を模索中に読み、「自己流の歩き方でもいいんだ」と気づかせてくれた冊子だった。
 会場で西尾勝彦さんの『のほほんと暮らす』(七月堂)も購入。西尾さんの哲学(だとおもう)がすこしずつ浸透していったら、いい世の中になりそう。全頁支持したい。

 新刊の『古書古書話』も会場で販売した。
 サインを書くときに、(何度か)自分の名前を書きまちがえそうになる。
 本の刊行直後は、ふだんの一・三倍くらい神経質になる。ゲラで過去の原稿を何度も読み返し、「粗」をいっぱい見つけ、気が滅入ってしまうせいもある。
 中年のおっさんになった今は「粗」のない本を作ろうとおもったら、十年二十年かかってしまうことがわかっている。十年二十年でも足りないだろう。

 そうした開き直りがいいのかわるいのか。

 高松在住の福田賢治さんが作る「些末事研究」の最新号(特集「働き方怠け方改革」)が出ました。
 わたしも東賢次郎さんと福田さんとの座談会に参加している。わたしはプラスの意味で「怠ける」という言葉をつかい続けている。こちらもすこしずつ世の中に浸透させたい。

2019/03/22

植草甚一のことを考える

 掃除中、晶文社編集部・編『植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん』(二〇〇八年)が出てきた。十年以上前になるのか。
 わたしも執筆者のひとりで「植草ジンクスと下地作り」というエッセイを書いた。執筆時三十八歳。「好奇心の持続」がどうのこうの——といったことを書いている。そのころの自分の大きな関心事だった。今、植草甚一のことについて何か書いてほしいという注文があったとしても、また同じことを書いてしまうだろう。

 同じ本の中に北沢夏音さんの「植草さんのことをいろいろ考えていたら、ムッシュかまやつの『ゴロワーズを吸ったことがあるかい』を久しぶりに聴きたくなってきた」という文章も収録されている。北沢さんはわたしが書こうとしていたことを別の角度からものすごく深く掘り下げている。

《植草さんの原稿やインタビューを読んでいると、ときどき「落っこちる」という言葉にぶつかる。それは「情熱を失う」ことと同義であって、俗にいうドロップ・アウトとは意味がちがう》

 落っこちそうになると植草さんは「あたらしい関心事」「あたらしい情熱」によって「生まれ変わるように人生をサヴァイヴしてきた」と北沢さんは綴る。

 好きなことを仕事にする。遊ぶように仕事する。
 わたしは植草さんにフリーランスの理想像を見ていた。その理想を体現するための職人気質の部分に焦点を当て「植草ジンクスと下地作り」を書いたのだが、北沢さんのエッセイを読み返し、それだけではないことにあらためて気づかされた。

 四十代後半、五十歳を前にして、ようやく北沢さんのいう「サヴァイヴ」の意味がわかった気がした。

 三十代から四十代半ばにかけてのわたしはそれこそ「職人」の意識で仕事をしてきた。
 依頼されたテーマを決められた字数でまとめる。その技術を磨いていけば、(裕福な生活を送ることは無理だとしても)食いっぱぐれることはない。そうおもっていた。

 しかし技術に頼って仕事をしていると言葉の熱が失われていく。

 北沢さんの文章を読んで、植草甚一の『ぼくは散歩と雑学がすき』(ちくま文庫)の最初のコラムを読み返した。

《ヒップは夜の時間がすきだ。朝の九時から午後五時まではやりきれない。そのあいだの八時間というのは、つまり働いて報酬をうけ、その金を浪費しているスクエアたちの時間だから。スクエアのための時間。そんな時間でうまった世界は荒涼としているし、刺激がない。歩く気にもなれない世界だ》

 ヒップとは何か。スクエアとは何か。
 そのことについて考えないといけないのだが、これから新宿に行く用事がある。この続きはいつかまた。

2019/03/21

本のフェス

 新刊『古書古書話』(本の雑誌社)が本日発売。四百六十四頁。二千二百円(+税)。十年ちょっと続いた『小説すばる』の連載をまとめた本です。横井庄一、竹中労、辻潤、平野威馬雄、トキワ荘、野球、実用書……。そのときどきの雑誌の特集に合わせた回もあるので、けっこう幅広い内容の本になっているのではないかと……。
 恋愛小説とミステリー特集に合わせた回が苦戦した記憶がある。

◎三月二十三日(土)、二十四日(日)に「第四回 本のフェス」が開催。わたしも「本の雑誌商店街」に参加(二日間)、『古書古書話』(本の雑誌社)も発売します。

 二十三日(土)は10:00〜19:00
 二十四日(日)は10:00〜17:00

◎会場 DNP市谷左内町ビル(新宿区市谷左内町31-2)
■本の雑誌が今年も本のフェスに!
3/23(土)・24(日) 全日
今年もやって来ました、本のフェス名物「本の雑誌商店街」!本の雑誌執筆陣や古書店、出版社が本を並べて、わいわいがやがや本や雑誌を販売。今夜のおかずに商店街で美味しい本などいかがですか?
◎出展者 
140B、岡崎武志、荻原魚雷、カンゼン、北原尚彦、キリンストア、国書刊行会、古書いろどり、古書ますく堂、コトノハ、小山力也(3月23日のみ)、
酒とつまみ社、星羊社、盛林堂書房、旅と思索社、八画文化会館、ホシガラス山岳会、本の雑誌社、森英俊、山と渓谷社

◎詳しくは「本のフェス」ホームページにて
https://honnofes.com

2019/03/18

戦前の高円寺

 朝寝昼起。洗濯して荻窪へ。ささま書店、はなやでラーメン、タウンセブンで調味料などを買い、北口の住宅街を通って高円寺に帰る。
 JR中央線の線路と青梅街道が交差するあたりの道を北に向い、天沼二丁目の道(区立天沼児童館などがある道)を東に行くと、ほぼ一本道で阿佐ケ谷駅の北口あたり(世尊院前の信号)に出ることができる。

 先週、台湾で映像関係の仕事をしている人が高円寺に来ていて、高円寺の出版社・有志舎の永滝さんとわたしで戦前の高円寺の話、台湾人作家・翁鬧(おんどう……と読むのかな?)と交遊のあった新居格、辻潤の話などをした。
 翁鬧は昭和十年代に高円寺に暮らし、モダニズム小説を発表していた。
 たまたまなのだが、わたしも永滝さんも父親が台湾生まれ。

 翁鬧は「東京郊外浪人街 高圓寺界隈」という作品があり、戦前の高円寺の文士や喫茶店の話などを詳細に綴っている。「レーンボー」という喫茶店に行けば、三度に一度は新居格と会えた。あと辻潤の俳句(?)の話もあった。

 一九三〇年代、落合(東中野)、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪界隈は、モダニズム系、ダダイズム系、アナキズム系、プロレタリア文学の作家や芸術家がいた。
 翁鬧が新居格と知り合いなら、同じく高円寺にいた龍膽寺雄とも接点があったかもしれない。

 戦前の中央線沿線に住んでいた作家たちは、よく歩いている。といっても、東京メトロの東西線の落合駅と高円寺駅はたった二駅、高円寺駅と荻窪駅も二駅だ。
 落合も高円寺も戦前の一九三〇年ごろは豊多摩郡(一九三二年に東京市に編入)。
 豊多摩郡は新宿や渋谷の一部も含まれていた。西早稲田、歌舞伎町、千駄ケ谷、渋谷も同じ郡だった。

2019/03/17

近所の散歩

 土曜日、昼。中野郵便局へ。中野に行くときはガード沿いか桃園川遊歩道を歩くことが多いのだが、環七を渡ってあみだくじのように住宅街を歩いてみた。はじめて通った道もあったかもしれない。
 中野五差路に出るくねくねした坂がいい(この道はよく通る)。下り坂で歩幅を小さくする歩き方にもすこしずつ慣れてきた。

 郵便局の用事をすませ、中野駅の北口へ。中野ブロードーウェイを通って古本案内処(また街道本を買ってしまう)。中野ブロードーウェイの中におっさん服(安くて丈夫で派手じゃないシャツ)を売っている店があったのだが、もうない。阿佐ヶ谷のおっさん服の店もなくなった。ここ数年、ズボン以外の衣類は郷里の三重に帰省したときに買っている。
 久しぶりに薬師あいロード商店街(新井薬師参道)を歩く。道幅が旧街道っぽい。道がカーブしている。そのまま歩いていると、新井五差路に出る。
 以前は何ともおもわなかったが、五差路はおもしろい。
 このあたりも西武新宿線の沼袋駅も近い。住宅街を通ってあみだくじ方式で早稲田通りを目指す。はじめて歩く道だが、さすがに中野高円寺界隈では道に迷う心配はない。東京警察病院の前に出る。
 早稲田通りを高円寺に向かって歩く。前から行ってみたかった喫茶に寄る。靴を脱いで店に入る。アイスコーヒー、三百八十円。すべてのメニューが良心価格だ。
 津村記久子著『二度寝とは、遠くにありて想うもの』(講談社文庫)をゆっくり読む。

 そのあと高円寺の庚申通りで買物して家に帰る。

2019/03/14

まず休む

 四十代最後の確定申告。学生時代からずっとやってきたことだが、慣れない。
 昼前に行ったが、あまり並ばずにすんだ。昨年も同じ日の午前中に行ったが、けっこう並んだ記憶がある。
 さすがに杉並税務署(阿佐ヶ谷)からの帰り道は迷わなくなった。北に向かって青梅街道を目指せばいいのだが、なぜか途中で南の方向に歩いてしまうことがよくあった。阿佐ヶ谷は方向感覚がおかしくなる道がところどころある。

 四十代の十年(あとすこし残っているが)——早かった気がする。老眼が進むのも早い。高校時代から近眼だったが、本を読んだり字を書いたりするのに眼鏡が邪魔になる日が来るとはおもわなかった。いっぽう疲労の回復は遅くなった。

 五十歳を前にしておもうのは、お金より時間のほうが大事だということだ。生活苦に陥るのは困るが、時間があれば、そんなにお金をかけずにのんびりすることができる。急ぎ足だと楽しいこと(読書や旅行)ですら、つらくなることもある。
 中年になると、疲れをとるのに時間がかかる。わたしは暇がなくなると気持が荒んでくる。疲れがたまると、ちょっとしたことで苛々してしまう。
 そうならないためにはぐだぐだ、だらだらする時間が必要なのである。

 仕事にしても生活にしても、あんまり先のことは考えず、一日一日楽しくすごせればそれでいいやとおもっているのだが、疲れてくると、将来を悲観しがちになる。そういうときにあれこれ考えてもすぐ行き詰まる。
 まず休んで、ゆっくり寝て、これからどうするか考えることにする。

2019/03/06

三月になって

 三月になった――と書いてから五日経った。

 三日(日)、ペリカン時代。ミュージシャンで作家で最近はラテン音楽やアフリカ音楽のDJもしている東賢次郎さんのライブ。大盛況。話もおもしろい。
 いいライブだった。東京に来たのは四年ちょっとぶりらしい。年に一、二回、高松や京都で会っていたのでそんなかんじがしなかった。

 今月末あたりに発売予定の新刊の作業中だ。『小説すばる』の「古書古書話」という連載をまとめた本。
 単行本になる前の原稿を読んでいると、自分の変遷みたいなものが見える。ある時期から本の選び方、読み方が変わり、その消化の仕方も変わった。
 本を読んでいるときに気にするポイントが年々変わっている。
 今は十年前みたいな原稿は書けないし、五年前みたいな原稿も書けない。校正しながら「こういう本はもう二度と出せないだろうな」と何度となくおもった。

 原稿に関しては十年分だが、古本屋通いは三十年以上続いている。
 スポーツ関係の本ばかり読んでいた時期もあれば、釣りの本しか読んでない時期もあり、今は「街道本」の底なし沼にはまっている。

 古本屋に行くと、たいてい自分が探している本ではない本を買う。
 明日、自分がどんな本を買うかわからない。
 そうした日々が積み重なって、今に至っている。

 五日くらい前にそういうことを書こうとしていた。

 今は酒を飲みたい気分だ。