2019/03/22

植草甚一のことを考える

 掃除中、晶文社編集部・編『植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん』(二〇〇八年)が出てきた。十年以上前になるのか。
 わたしも執筆者のひとりで「植草ジンクスと下地作り」というエッセイを書いた。執筆時三十八歳。「好奇心の持続」がどうのこうの——といったことを書いている。そのころの自分の大きな関心事だった。今、植草甚一のことについて何か書いてほしいという注文があったとしても、また同じことを書いてしまうだろう。

 同じ本の中に北沢夏音さんの「植草さんのことをいろいろ考えていたら、ムッシュかまやつの『ゴロワーズを吸ったことがあるかい』を久しぶりに聴きたくなってきた」という文章も収録されている。北沢さんはわたしが書こうとしていたことを別の角度からものすごく深く掘り下げている。

《植草さんの原稿やインタビューを読んでいると、ときどき「落っこちる」という言葉にぶつかる。それは「情熱を失う」ことと同義であって、俗にいうドロップ・アウトとは意味がちがう》

 落っこちそうになると植草さんは「あたらしい関心事」「あたらしい情熱」によって「生まれ変わるように人生をサヴァイヴしてきた」と北沢さんは綴る。

 好きなことを仕事にする。遊ぶように仕事する。
 わたしは植草さんにフリーランスの理想像を見ていた。その理想を体現するための職人気質の部分に焦点を当て「植草ジンクスと下地作り」を書いたのだが、北沢さんのエッセイを読み返し、それだけではないことにあらためて気づかされた。

 四十代後半、五十歳を前にして、ようやく北沢さんのいう「サヴァイヴ」の意味がわかった気がした。

 三十代から四十代半ばにかけてのわたしはそれこそ「職人」の意識で仕事をしてきた。
 依頼されたテーマを決められた字数でまとめる。その技術を磨いていけば、(裕福な生活を送ることは無理だとしても)食いっぱぐれることはない。そうおもっていた。

 しかし技術に頼って仕事をしていると言葉の熱が失われていく。

 北沢さんの文章を読んで、植草甚一の『ぼくは散歩と雑学がすき』(ちくま文庫)の最初のコラムを読み返した。

《ヒップは夜の時間がすきだ。朝の九時から午後五時まではやりきれない。そのあいだの八時間というのは、つまり働いて報酬をうけ、その金を浪費しているスクエアたちの時間だから。スクエアのための時間。そんな時間でうまった世界は荒涼としているし、刺激がない。歩く気にもなれない世界だ》

 ヒップとは何か。スクエアとは何か。
 そのことについて考えないといけないのだが、これから新宿に行く用事がある。この続きはいつかまた。