2012/07/30

節度の時代(五)

《息切れしながら猛進し、取引交渉でゼーゼー荒い呼吸をするぐらいなら、没落する方をとろう。超モダンで騒々しい繁華街に住むよりは、閑静でいくぶん崩壊した大邸宅に暮らすのが、英国流というもの。都会でストレスをいっぱいためて心臓発作にやられるよりは、庭園を散策して健康でいる方が、英国流にかなった生き方。(中略)空虚な進歩よりは建設的没落をとりたい。ただ、いかにして没落するかを学ばねばならない。退廃への道を学びとらねばならぬのだ》(G・ミケシュ著『没落のすすめ』倉谷直臣編訳、講談社現代新書、一九七八年刊)

 数年前から、わたしはジョージ・ミケシュが提唱した「エレガントな没落」について思索している。
 失われた十年とか二十年とかいわれる日本の現状を考えると、成長や発展という従来の前提は通用しなくなっている。

『本と怠け者』でも「ミケシュが見た日本」というエッセイを収録した。その中で「私たちは日本人に、まっとうな親父らしい忠告を一つ与えた。軍国主義を捨て経済に全力を投じるようにと。彼らは言われた通りにしてきた。そのことで今私たちは、日本人を許し難く思っている」(『円出づる国ニッポン』倉谷直臣訳、南雲堂、一九七二年刊)という文章を引用している。

 行きすぎた軍国主義から行きすぎた経済主義へ。
 軍国化も経済化も避けては通れない道だったにせよ、あまりにもやりすぎてしまった。歴史をふりかえれば、もうすこし「ほどよさ」を追求する道もあったとおもう。

 没落といっても、いきなり江戸時代のような生活水準に戻るわけではない。それなりに快適な後退の仕方はきっとあるはずだ。

 といいつつも、この十年くらいのあいだに、わたしも暑さや寒さ、不便さにたいする耐性がずいぶん落ちた。

 よくよく考えてみれば、田舎にいたころ、台風が来たり、雷が落ちたりすると、すぐ停電になった。一九八〇年代のはじめごろまでそんなかんじだった気がする。子どものころのわたしは停電になっても、それほど不便とはおもわなかった。むしろ非日常のかんじが楽しかったくらいだ。

 都会と地方で多少の差はあったかもしれないが、あるていど不便さを知っている世代であれば、「停電や貧乏なんてたいしたことはないよ。原発の事故よりはるかにマシだよ」といってもいいとおもうのだが……。

 今日は暑くて頭がまわりそうにない。
 続きはまた。

2012/07/26

節度の時代(四)

……節度とは、「度を越さない、適当なほどあい」(『岩波国語辞典』第四版)という意味。

 曖昧といえば曖昧だ。いかようにも解釈できる。だからわたしも適当に書き継いでいこうとおもう。
「節度の時代」というのは「ほどほどの時代」といいかえてもいい。ほどほどの国でほどほどの暮らしができればよしとする。けっこうそれって幸せかもよ。一番とか二番とかじゃなくてもいいんじゃね。ちょっとくらい収入が減っても、休みが多いほうがよくね。別に、そんなにほしいものとかもないし。

 わりとそういう気分の人はめずらしくないとおもう。中国やインドに経済で抜かれても「当り前だよな」と受け流せばいいだけ。

 どんどん道路を作る、エネルギーの消費量を増やす。それを発展と考えるのは、ちがうんじゃないか。
 わたしはしょっちゅう新しいものに買い替えたり、使い捨てにしたりせず、古いものを大事に使う生活のほうがいい。多少の不便を楽しむ余裕のある世の中のほうが暮らしやすいのではないかとおもっている。

 上京以来、わたしはテレビを買い、ビデオを買い、パソコンを買い、電子レンジを買いといったかんじで、ずっとものが増える方向でやってきた。そろそろ足し算ではなく、引き算も考えたほうがいい気がしている。

 国力は衰退するかもしれない。でも、ゆるやかな衰退であれば別にいいかな。今はちょっと下り坂だけど、いつか上向きになる日もくるかもしれないという希望を残した後退、多少収入は減っても、「散歩する時間も増えたし、毎日楽しいし、楽だ」というような没落だってあるだろう。

 国や社会全体がひとつの方向を目指すようなあり方には、違和感しかおぼえない。

(……続く)

2012/07/25

Theピーズとペリカン

……先週土曜日、高円寺SHOW BOATで、Theピーズ×ペリカンオーバードライブを見る。いいライブだった。でも四十歳すぎて、超満員のライブハウスで音楽を聴くとはおもわなかった。

 ペリカンは三十代で結成して十五年。
 途中から息が合ってきて、最後、完璧に仕上がる(たまにバテる)といういいかげんさは、すでにこのバントの持ち味になっている。

 Theピーズは別格。音楽とかロックとか、ジャンルがどうでもよくなるくらいすごいものを見たという気分だ。
 バーカウンターの近くで飲みながら見ていたのだけど、カウンターの中まですごく盛り上がっていた。
 MCでは「バカロック」とか「ポコチンロック」といった言葉も出てきた。「バカロック」ファンにとっては、この日のライブは奇跡の組合わせとしかいいようがない。
 人生の一日に立ち合うことができた気分だ。
 バンドをやめないでくれてありがとうといいたい。

 それからペリカンオーバドライブ、初CD『ロンドン高円寺』おめでとう。全十二曲。ギターの小島史郎さんがいたころのペリカンと今のペリカン、六曲ずつ入っているのもうれしい。

《打ち上げのような毎日の中で生まれたロックンロールナンバー》

2012/07/21

節度の時代(三)

……社会の片隅でひっそりと好きなことをして暮らすというのが基本方針だった。収入に応じた生活をするとか、あるもので間に合わせるとか、疲れたら休むとか、無理をせず、のんびり、ほそぼそとやっていくことを志向してきた。
 こうした考え方は「節度」や「均衡の感覚」に基づいているつもりなのだが、周囲からは「やる気がない」といわれることが多かった。「後ろ向き」とも。

 二、三年前に「嫌消費(賢消費)」という言葉を知った。あまりものを買わない、持ちたくないという若者が増えている現象を意味する言葉だけど、わたしもそうだった。
 古本以外にお金をつかわない。古本も買った分だけ売るをくりかえしてきた。
 二十代のころは引っ越しばかりしていたせいもあるのだが、とにかく身軽でいたかった。

 ある本の中で論じられていた「縮小都市」という考え方にもけっこう共感した。
 ようするに、少子高齢化の時代がすすめば、この先、機能しなくなる自治体も増えてくる。それなら学校や病院、商業施設などが整った場所に移住し、こじんまりと暮らしたらどうかという発想である(大雑把な説明だけど、だいたいそんなかんじだとおもう)。

 たとえ世の中が拡大から縮小に向ったとしても、わるいことではない。「縮小=貧しくなる」ではなく、やりようによっては気楽で快適なものにもなりうる。

 これは楽観論だろうか。
 わたしはそうおもわない。「縮小」の方向で暮らしていきたい。「不便」の楽しみ方も考えていきたい。
 隠居への憧れもそれに通じるかもしれない。

(……続く)

2012/07/17

好不調の波

 すこし調子が戻りつつある。調子といっても、あくまでも主観でしかないのだが、自分のためのメモのつもりでそのあたりのことを書いておく。

 なんとなく調子がいいなとおもうとき、仕事が終わって、そのまま晴れやかな気分で遊びに行ける。ようするに、散歩して、そのまま飲みに行って、明日のことを気にせずに好きなだけ飲んで、ぐっすり寝る。

 調子を崩すとそれができなくなる。
 次の仕事に移るときに気が重い。気持の切り替えがうまくいかない。

 疲れがたまっているとか、体調がよくないとか、いろいろな原因はあるのかもしれないが、むずかしく考えないほうがいいのかもしれない。ただし、むずかしく考えないことが簡単ではない。

《たとえば高校野球のようにね。甲子園で全力を投入しなければ、明日も明後日も投げるわけにはいかないんだからね。一発全力主義、これはアマチュア方式なんだ。
 プロは、フォームの世界。つまり持続を軸にする方式なんだね。一生に近い間、落伍するわけにはいかないから。
 もし、明日のことを考えないで、一回こっきりの勝負だったら、プロより強いアマチュアはたくさんいるだろうよ》(「一一三の法則——の章」色川武大著『うらおもて人生録』新潮文庫)

 色川武大は「フォーム」を重視していた。目先の結果よりも、通算打率。しかし同時に「何かを創っていく仕事は、一作に全力を投入しなければならない」から、「プロ式とアマチュア式と両方必要なんだな」とも述べている。

 メジャーリーグの本を読んでいたら、この「フォーム」を「メカニック」ともいうことを知った(厳密にはちがうかもしれない)。「投球のメカニック」とか、そういったかんじで使う。

 問題は、時とともにこれまでの「フォーム(メカニック)」が通用しなくなることだ。
 そして「フォーム」の改良は、調子のいいときにやる必要がある。
 不調のときは思考そのものがアテにならない。

 とりあえず、答えは先送り。

2012/07/08

サーバー短篇集

……光文社古典新訳文庫の続刊案内を見ていたら、『傍迷惑な人々 サーバー短篇集』(芹澤恵訳)が八月刊行予定になっていた。これは読みたい。

《幼い頃から不器用で、工作は苦手、車もエンストばかり……「なんでも壊す男」。思わず笑ってしまう自作イラストを大真面目に分析する「本棚のうえの女」。個性豊かでおかしな家族に鍛えられた作家本人のもとになぜか集まる“ちょっと変わった人たち”を描いた「傍迷惑な人々」。夢の中でだけ名外科医、空軍の勇士、賭博師、西部劇のヒーローなど、さまざまな英雄になる出版社勤務の気の弱い青年が主人公で、ダニー・ケイが主演した『虹を掴む男』の原作など、味のあるイラストとユーモアたっぷりな絶品短篇集》

 ジェイムズ・サーバーもそうだけど、海外のユーモア短篇をもっと翻訳してほしい。
 E・B・ホワイトは無理かなあ。出たらぜったい買うけど。

2012/07/03

節度の時代(二)

……今回も行き当たりばったりで。

 悲観しているわけではないが、この先、日本の社会が高度成長のような局面を迎える可能性は低いとおもっている。
 ただ、だからといって、即「停滞」や「低迷」や「衰退」に向うとはかぎらない。そうじゃないんだよなあ、でも、どういえばいいのだろう。

 わたしは世の中が下り坂でもかまわない派なのだが、それでは多くの人の共感は得られない。

 たとえば、「どうすれば低成長の時代をよりよく生きていくことができるか」といっても、「成長しなければいけないのだ」と返されると話が平行線になる。
 書店で自己啓発書を読むと、かならずといっていいくらい「ネガティブな言葉を使わないこと」というような項目がある。

 それで誰に頼まれたわけでもないけど、「低成長の時代」に変わる前向きな言葉を考えた。仮に「節度の時代」としておく。
 当り前のことだけど、車を走らせるにしてもアクセルだけでなく、ブレーキが必要というのと同じで、世の中も競争して、成長の方向に突き進めば、いつかは行き詰まる。

 成長とか繁栄とかいっている、その先に何があるのか。

 よく「原発をなくすと産業が空洞化する」「停電になっても、命を落とす人がいる」という意見にしても、どこまで電力供給量が減少すればそうなるのかという話にはならない。
 そのことに疑問を投げかけると「経済のことがわかっていない」といわれる。

 たしかに、わたしは経済のことだけでなく、原発事故の収束方法も、廃炉にするためのコストやその後の管理費のこともわかっていない。
 安全と経済を天秤にかける。そのことがいいのかどうかもわからない。
 それでも無意味な曲解や拡大解釈、極論に走ることは控えたいと心がけているつもりだ。

 安全にもいろいろな安全があり、経済にもいろいろな経済がある。
 おそらく、万人が納得する答えは出ない。
 バランスをとろうとしても、損をする人と得をする人が生じる。
 すべての人にとってプラスになることなんて、なかなかない。

 賛否のわかれる様々な問題によって生じる損(リスク)をどのていど引き受けていくか。
 そのことを考えることも「節度」といえるかもしれない。

(……続く)

2012/07/02

節度の時代(一)

……まとまらないかもしれないが、今、考えていることをだらだらと書いていこうとおもう。

 一九四五年八月、日本は戦争に負けた。戦争だけでなく、科学技術、あるいは人々の自由さといった社会の成熟度でもアメリカに大敗した。
 その反省が、戦後の社会を築いていく上での軸になり、現在に至っている。ものすごく端折ったけど、だいたい当たっているとおもう。

 いっぽうである種の節度、つまり「足るを知る」「あるもので間に合わせる」といったような美徳に関しては、かつての日本は、西欧列強と呼ばれた諸国よりも優れていた気がする。

 冷戦期の軍拡競争もそうだが、競争というものは、どこかで歯止めをかけないと疲弊し、破綻してしまう。
 大量生産・大量消費という社会のあり方も、とっくに行き詰まっているとおもうのだが、今の日本の社会はそのやめ方がわからなくなっている。

 原発をやめたら、電気が足りなくなる——。
 もしそれが事実だとしても、「じゃあ、不要なものを作るのを減らしたら」という発想にはならない。
 夏場、電気が不足してエアコンが使えなくなれば、熱中症で命を落とす人が出るかもしれない。別にそういう電気までいらないとはいっていない。
 原発を動かさないと経済が停滞する。そうかなあ、工夫次第だとおもうけどなあ。
 すくなくとも今より電気がなかったころ、会社では昼休みの時間を長くとったりしていた。仕事の時間を短くして、早く家に帰るようにすれば、それだけでずいぶん節電効果はあるだろう。

 震災後、わたしは仕事が減って不安になった。それでもやりくりすればどうにかなることがわかったし、ひまが増えれば、あまりお金をつかわなくてすむこともわかった。
 モノを減らして身軽になれば、それだけでずいぶん暮らしは楽になる。
 でもそういうことをいうと、「あなたは経済のことがわかっていない」云々の批判を受ける。

 経済の発展の行く先はどこなのか。一度立ち止まって考える必要もあるとおもう。

(……続く)