2012/07/03

節度の時代(二)

……今回も行き当たりばったりで。

 悲観しているわけではないが、この先、日本の社会が高度成長のような局面を迎える可能性は低いとおもっている。
 ただ、だからといって、即「停滞」や「低迷」や「衰退」に向うとはかぎらない。そうじゃないんだよなあ、でも、どういえばいいのだろう。

 わたしは世の中が下り坂でもかまわない派なのだが、それでは多くの人の共感は得られない。

 たとえば、「どうすれば低成長の時代をよりよく生きていくことができるか」といっても、「成長しなければいけないのだ」と返されると話が平行線になる。
 書店で自己啓発書を読むと、かならずといっていいくらい「ネガティブな言葉を使わないこと」というような項目がある。

 それで誰に頼まれたわけでもないけど、「低成長の時代」に変わる前向きな言葉を考えた。仮に「節度の時代」としておく。
 当り前のことだけど、車を走らせるにしてもアクセルだけでなく、ブレーキが必要というのと同じで、世の中も競争して、成長の方向に突き進めば、いつかは行き詰まる。

 成長とか繁栄とかいっている、その先に何があるのか。

 よく「原発をなくすと産業が空洞化する」「停電になっても、命を落とす人がいる」という意見にしても、どこまで電力供給量が減少すればそうなるのかという話にはならない。
 そのことに疑問を投げかけると「経済のことがわかっていない」といわれる。

 たしかに、わたしは経済のことだけでなく、原発事故の収束方法も、廃炉にするためのコストやその後の管理費のこともわかっていない。
 安全と経済を天秤にかける。そのことがいいのかどうかもわからない。
 それでも無意味な曲解や拡大解釈、極論に走ることは控えたいと心がけているつもりだ。

 安全にもいろいろな安全があり、経済にもいろいろな経済がある。
 おそらく、万人が納得する答えは出ない。
 バランスをとろうとしても、損をする人と得をする人が生じる。
 すべての人にとってプラスになることなんて、なかなかない。

 賛否のわかれる様々な問題によって生じる損(リスク)をどのていど引き受けていくか。
 そのことを考えることも「節度」といえるかもしれない。

(……続く)