2012/07/02

節度の時代(一)

……まとまらないかもしれないが、今、考えていることをだらだらと書いていこうとおもう。

 一九四五年八月、日本は戦争に負けた。戦争だけでなく、科学技術、あるいは人々の自由さといった社会の成熟度でもアメリカに大敗した。
 その反省が、戦後の社会を築いていく上での軸になり、現在に至っている。ものすごく端折ったけど、だいたい当たっているとおもう。

 いっぽうである種の節度、つまり「足るを知る」「あるもので間に合わせる」といったような美徳に関しては、かつての日本は、西欧列強と呼ばれた諸国よりも優れていた気がする。

 冷戦期の軍拡競争もそうだが、競争というものは、どこかで歯止めをかけないと疲弊し、破綻してしまう。
 大量生産・大量消費という社会のあり方も、とっくに行き詰まっているとおもうのだが、今の日本の社会はそのやめ方がわからなくなっている。

 原発をやめたら、電気が足りなくなる——。
 もしそれが事実だとしても、「じゃあ、不要なものを作るのを減らしたら」という発想にはならない。
 夏場、電気が不足してエアコンが使えなくなれば、熱中症で命を落とす人が出るかもしれない。別にそういう電気までいらないとはいっていない。
 原発を動かさないと経済が停滞する。そうかなあ、工夫次第だとおもうけどなあ。
 すくなくとも今より電気がなかったころ、会社では昼休みの時間を長くとったりしていた。仕事の時間を短くして、早く家に帰るようにすれば、それだけでずいぶん節電効果はあるだろう。

 震災後、わたしは仕事が減って不安になった。それでもやりくりすればどうにかなることがわかったし、ひまが増えれば、あまりお金をつかわなくてすむこともわかった。
 モノを減らして身軽になれば、それだけでずいぶん暮らしは楽になる。
 でもそういうことをいうと、「あなたは経済のことがわかっていない」云々の批判を受ける。

 経済の発展の行く先はどこなのか。一度立ち止まって考える必要もあるとおもう。

(……続く)