2012/03/29

続々・文壇高円寺以前

《古本好きのフリーターとして文章を書くようになった》

 当時(三十歳前後)、年輩の同業者からは「今はよくても将来どうするんだ」と心配された。

 わたしは十代後半からフリーライターの仕事をはじめ、三十歳のときには十年選手だった。
 さすがに十年くらいやっていれば、自分の力がだいたいどのていどなのかはわかる。
 これまでは若い書き手というだけで食ってこれたけど、このままでは通用しなくなると漠然とかんじていた。

 バブルがはじけ、不景気になって、自分の関わっていた雑誌が次々と休刊、廃刊になった。

 世の中には、あんまり儲かっているようには見えないけど、潰れない店がある。そのころの自分はそんなふうなかんじで食っていけないかなあと考えていた。

 古本が読めて、たまに友人と酒が飲めて、寝たいときに寝る。あと年に数回、旅行(国内)ができれば、それでいいかな、と。
 で、その欲求は、年収二百万円くらいで実現してしまうのである(※二十代のころの話です)。

 老後はどうする?

 病気や怪我したら?

 子どもができたら?

 半年後、一年後のこともわからない生活をしているのだから、先のことを考えてもしょうがない。そう開き直ったら、ちょっと楽になった。楽になったが、不安が解消されるわけではない。

 でもわたしが仕事をはじめたころはインターネットもなかったし、携帯電話なんかごく一部の人しか持ってなかった。
 この二十年くらいで世の中はけっこう変化した。
 将来を固定してしまうと、そうした変化に対処できなくなる。

 仕事がなくなったら、新しい仕事を作るか、別の仕事を見つけるか。そのどちらかしかない。

 自分の能力と条件に応じて、そのどちらかを考え続ける。

 できれば「ちょっと休む」という選択肢もほしいのだが、それは今後の課題である。

2012/03/20

続・文壇高円寺以前

……尾崎一雄の「退職の願い」(『暢気眼鏡』新潮文庫)に、「昭和の初め頃までの社会通念として『文学を志すとはそのまま貧窮につながることだ』というのがあった」という一文がある。

《大多数の者は中途で離脱し、頑張る者は窮死した。極く少数の才能あるものが名を成したが、それらも概ね夭折した。(中略)私は、才能が無いくせに中途離脱せず(というより、他に行きどころが無くなって)頑張った組なので、あわや窮死という状態に立ち至った》

 わたしが上京した一九八九年ごろはバブルの最盛期だったが、それでも文学で食っていけるとはおもえなかった。ただし、当時はアルバイトをすれば、生活に困らないくらいの収入になった。

 大学を中退し、就職せずに、フリーライターになったのも「いざとなったらバイトすればいい」と考えていたからだ。当時のわたしは風呂なしアパート暮らしで、食事はほぼ自炊していたから、月十万円くらいあれば、どうにか暮らせた。
 趣味も古本だから、売ったり買ったりすれば、ほとんどお金がかからない。

 しかし世の中が不況になり、自分も齢をとる。
 三十路前になって、さすがにこのままではまずいとおもいはじめた。とはいえ、これまでまともに働いたことがなく、就職はできそうにない。

 自分の条件(能力や経済事情)でもっとも持続可能な方法は何だろう。

 いろいろ考えた末、原稿料だけで生活するという目標を諦めた。
 家賃と光熱費と食費はアルバイトで稼ごう。とにかく生活の持続を最優先に考えよう。

 最低限の生活費をアルバイトで作っておけば、好きなだけ(お金にならない)文章が書ける。本末転倒かもしれないが、アルバイトに支障のない範囲で原稿を書いていこうとおもった。

 以降、古本好きのフリーターとして文章を書くようになった。ひたすら中途離脱しないことだけが目標の日々が続いた。

2012/03/18

文壇高円寺以前

「フリーライターは名刺と電話があれば、誰でもなれる」

 どんな仕事にもいえることかもしれないが、五年、十年と続けていくためにはどうすればいいのか。

 社交性があって、能力の高い人なら、それなりの努力で食っていける。
 社交性がなく、才能も未知数の場合、「人とはちがう何か」を身につけるための特別な努力が必要かもしれない。

 ちょっとものを知っている。ちょっと文章が書ける。それだけではちょっと足りない。

 二十代のころ、神保町や中央線沿線の古本屋通いをしているうちに、私小説の棚が気になるようになった。
 尾崎一雄、川崎長太郎、上林暁、木山捷平……。
 最初は「なぜこの作家の本はこんなに高いんだろう」という疑問だった。

 たぶん何かあるにちがいない。
 次々と私小説作家の著作に手を出すようになった。

 当時、尾崎一雄の全集は十五万円くらいした。そのころのわたしの月収と同じくらいだ。
 さらに身の程知らずにも、全集だけでなく、単行本も集めようとしたから、出費はかさむいっぽうだった。
 今おもえば、二十代後半に生活が困窮したのは私小説への傾倒も関係している。

 貯金もなく、将来も見えない。
 生活の底が抜けそうになっていた。

 引き返そうにも、どこに戻ればいいのかすらわからない。

 しかし尾崎一雄のある小説の一行が自分の行く先を照しているようにもおもえた。

(……続く)

2012/03/13

サンデー毎日

……本日発売の『サンデー毎日』のグラビア頁(見開き)にインチキ手廻しオルガンミュージシャンのオグラさんが登場。写真は荒井眞治さん、紹介文はわたしが書きました。

 同じ号に北條一浩さんによる蟲文庫の田中さんの著者インタビューも掲載されていますよ。

2012/03/12

yumboとかえる科

……三月十一日、ボロボロの井草のラグを捨て、新しい敷物に買い替える。
 夕方、ひさしぶりに池袋往来座に行った。高円寺界隈でも話題の「名画座かんぺ」をもらい、蟲文庫の田中さんが表紙の『hb paper』を購入する。

 そのあと南池袋ミュージック・オルグでyumboとかえる科(細馬宏通、宇波拓、木下和重)のライブ(東日本大地震後延期になっていた『これが現実だ』リリース・ツアー)。

 京都で知ったかえるさんと仙台で知ったyumboを東京で見られるとは……願ってもない組合わせ。チケットも完売し、客席は超満席だった。わめぞの王子、Uさんとピアノの真裏で立って観る。

 かえる科(かえる目の三人バージョン)は、yumboの澁谷さんに合わせて(?)「街の名は渋谷」などを演奏。全体を通して音数の少なさに驚く(でもあまりそうかんじない)。WHAM!のカバーの「前のクリスマス」は笑いすぎて苦しくなった。

 yumboは同じ曲でも聴くたびに構成がちがう。音の足し引きだけでなく、ものすごく洗練された部分と不安定な部分がいりまじって、曲ごとに楽器が入れ替わり、「ケーキ」のときにかえるさんが登場したり、yumboとかえる科のセッションもあったり、見ていても聴いていても、次の展開がわからない。

 七〇年代のブラスロック風の「これが現実だ」で締め、アンコールの最後の曲は「家」(この選曲はたまらなかった)。ピアノの裏にいたおかげで音がそのままからだに響いてくる。詞もすっと入ってくる。

 四月の京都のライブも行きたくなった。

2012/03/10

忘れていたこと

……雨の中、コクテイルから酔っぱらって帰る。
 どうでもよくて心地いい会話ができる店があるのはありがたい。

 食って飲んで読んで書いて寝て一日が暮れる。
 月末に家賃を払ったとたん、来月の家賃のことを考える。
 生活は面倒くさい。

 疲れると愚痴をこぼしたくなる。

 愚痴やひとり言がいえない世の中にだけはなってほしくない。

2012/03/09

語り口

……神保町に行って、新刊書店をまわる。石牟礼道子と藤原新也の対談集『なみだふるはな』(河出書房新社)が気になった。
 石牟礼道子が東電の原発事故のことをどうおもっているのか知りたかった。
             *
 いかに正しくとも、同じ言葉をくりかえし聞いたり、見たりしていると、だんだん慣れてきて、麻痺してくる。「正常性バイアス」(という学説)の正しさを痛感している。

 放射性物質の影響は、気になるけど、なるべく気にしないようにしている(はっきりいうと、一々気にするのが面倒くさくなった)。たぶんゼロリスクを追求すれば、心労で倒れる可能性のほうが高い。
 ただし一年前よりちょっとだけ高い牛乳と卵を買うようになった。
 
 石牟礼道子と藤原新也の対談を読んで、印象に残った話がある。
 水俣にチッソの工場を作るために水力発電ができた。おかげで村にも電気が通った。裸電球に灯がともったとき、大人も子どももみんな大喜びしたという話があった。

 公害問題が発覚するまでチッソは地元の誇りだった。
 だからといって許される話ではないのだが、原発に関してもその土地の歴史ぬきに批判してはいけないと考えさせられた。

 どんなに事故(とその被害)を隠そうとしても、隠し切れない世の中になってよかったともいっていた。

 終始、石牟礼道子は静かで穏やかな語り口だった。
 言葉にまったく棘がなかった。

2012/03/07

本と酒 その三

……Theピーズの「3度目のキネマ」という曲がYouTubeにあがっていることを教えてもらい、ここ数日そればっかり聴いていた。

 ときどき自分の感情や思考と言葉がうまくつながならなくなる。
 文章を書く。現実を切り取る。不正確に切り取ると、世界がゆがみ、頭がおかしくなる。大げさにおもうかもしれないが、そういうことは一人の人間の身の上には起こりうることだ。

 そういうときはしばらく本を読むのもやめて、好きな音楽にひたる。
 Theピーズの曲は(自分にとって)特効薬になる。身につまされすぎることもあるのだが、十数年前、文章が書けなくなってしまったとき、『リハビリ中断』にはずいぶん世話になった。
            *
 一九九七年から九八年にかけて、定収入だったPR誌が月刊から隔月になり季刊になり休刊し、ほかの仕事も次々と失って、テープおこしのアルバイトでどうにか食いつないでいた。

 アパートの壁が薄く、夜中にCDを聴いていると隣の住民によく壁を蹴られた。とにかく防音のしっかりした部屋に引っ越したかった。
 夜、友人が遊びに来ると、高円寺南口のOKストアの向いの午前三時まで営業していたちびくろサンボという喫茶店によく行った。

 わたしは発表のあてがない二百枚くらいの原稿(私小説みたいなもの)を書いていたのだが、パソコンが壊れてしまった。
 修理に出したが、データはすべて消えてしまった。しばらく布団から起き上がる気力も出ないほど落ち込んだ。

 二カ月くらい文章が書けなくなった。

 あまりの虚脱ぶりを見かねた河田拓也さんが、線引き屋のホームページに「何でもいいから書いてよ」と原稿を依頼してくれた。
 それで「文壇高円寺」という連載をはじめることになった。

 当時も、私小説を読んだり、音楽を聴いたり、酒を飲んだりしながら、つながらなくなった言葉をどうにかしたいとあがいていた。

 そのころの感覚をふとおもいだした。

(……未完)

2012/03/05

本と酒 その二

……古い日記を見ていたら、パソコンを買ったのが一九九八年の一月、Theピーズのホームページを見たのは同年四月二十九日であることがわかった。

 すっかり忘れていたのだが、五月には高円寺のショーボートでペリカンオーバードライブのライブを見ている。このときは打ち上げに参加せず、ライブのあとひとりで飲んだ。

 この年の秋、学生寮の二階丸ごと借りる。
 駅から徒歩三分、四畳半三部屋と台所と風呂とトイレと物干し台が付いて七万円という破格の安さだった。ただし、当時のわたしの収入は十五万円前後だったから、借りるかどうか迷っていた。家賃は収入の三分の一以下でなければいけないとおもっていた。

 物件を見つけた友人は、「おもしろい部屋だから借りろ」と強くすすめた。さらに「家賃が上がったら、その分、仕事しようって気になるよ」ともいった。

 その言葉を信じてみることにした。

 当時は、遊んでばかりいた気もするが、落ち込んでいる時間も長かった。

 単発の仕事ばかりで定収入がない。定収入がないから生活が安定しない。体調も崩しやすい。
 自分のやっている仕事が将来につながる気がしない。

 決まった仕事がないから生活が荒むのか。生活が荒んでいるから決まった仕事が入らないのか。

 レギュラーの仕事が入ると、それなりに健康管理もするようになる。連日、酒を飲んだり徹夜したりしていたら身がもたない。

 二十代後半、本を売って酒を飲む生活が続いた。それはそれで、いい経験になった……とはあまりおもっていない。そうならないほうがいいに決まっている。
 ただし、不安定で不規則な境遇に陥ったおかげで、今まで知らなかった世界を知ることができた。

 朝まで飲める店、朝から飲める店、昼まで飲める店、昼から飲める店。

 そういう店に出入りしている人々。

 当時、高円寺に引っ越して八年目くらいで、多少はおもしろい飲み屋を知っているつもりだったが、自分の知っている世界の狭さと浅さを痛感した。

 迷惑をかけたりかけられたり、ケンカしたり仲直りしたり、そういう人間関係を二十代後半になるまでほとんど経験してこなかった。
 どちらかといえば、そういう関係は面倒くさいとおもっていた。
 そんなひまがあったら、古本屋をまわって、ひたすら本を読んでいたかった。

(……続く)

2012/03/03

本と酒 その一

……気がつけば、三月。季節の変わり目は腰痛になりやすく、ふだんより慎重に生活している。あと飲んで寝てばかりいる。

 上京して二十三年になる。わたしの学生時代、中央線沿線は貧乏学生の町だった。他の路線より風呂なしアパートが多く、銭湯も夜遅くまで営業していた。家賃はともかく、物価は安いというのが、当時の印象だった(これは今もそう)。

 高円寺には、西部古書会館があり、古本屋も多い。飲み屋も多い。
 昔も今もわたしの生活は、家賃や光熱費をのぞくと、本と酒が消費の大半を占める。

 二十歳のころはアルバイトをかけもちしながら、映画館、ライブハウス、野球場、古本屋、中古レコード屋、飲み屋に通っていた。
 二十代後半には、映画を観なくなり、ライブハウスからも足を遠のいていた。

 一九九七年にTheピーズが『リハビリ中断』というアルバムを出した後、活動停止した。もともとアルバムをコンスタントに出すバンドではなかったが、どんどん表現が深化していた時期だったから残念でならなかった。

 それからしばらくしてパソコンを買った。でもインターネットには接続していなかった。
 あるときおもいたってダイヤルQ2のインターネットのプロバイダに登録した(一九九八年の春くらいだとおもう)。最初に検索した言葉が「Theピーズ」である。
 すると、活動停止する前のライブを記録したホームページが目に飛び込んできた。

 ホームページを作っていたSさんは会社をやめて、Theピーズの追っかけをやっていた。
 Sさんに連絡をとると、高円寺に知り合いがいるから、いっしょに飲もうという話になった。
 その知り合いが、ペリカンオーバードライブ(元ポテトチップス他)のギターの小島史郎さんだった。会うなり四軒くらいハシゴして、小島さんの家に行って、昼すぎまでレコードを聴いたり、音楽のビデオを観たりした。

 その後、高円寺界隈のミュージシャンとガード下の居酒屋や公園で飲むようになった。
 ペリカンオーバドライブの増岡さん、800ランプ(その前は青ジャージ)のオグラさんや原さんと知り合った。その前に、ペリカンのライブを観に行って打ち上げにまざったときに、いっしょに飲んでいたかもしれない。

 あまりにも飲んでばかりいたから、このころの記憶はあちこち抜けている。

(……続く)