2021/02/28

休カン日

  金曜日、西荻〜荻窪の古本屋をまわる。街道関係とラジオ関係の資料を買う。荻窪の南口の住宅街のほうも歩いたが、高円寺と比べて町が大きいかんじがした。
 月末の仕事で気力がややすり減ったので、藤子不二雄Ⓐ著『Ⓐの人生』(講談社、二〇〇二年)の「休カン日をつくろう」を再読した。

《“休カン日”といっても、“休肝日”のことではない。(中略)ぼくのいう休カン日というのは、休感、つまり感覚を休める日のことである》

 気がつくと起きているあいだずっと文字を読み続けている。目が疲れる。頭も疲れる。何より精神衛生によくない。
 三十代以降、Ⓐ先生の教えにならい、ぼーっとしたり、散歩したり、とにかく言葉と離れる日を作るようにしている(よく忘れるが)。

 同書には「一人でいる時間」というエッセイもある。子どものころは人付き合いが苦手だったが、三十歳すぎてから「仕事でも遊びでも、さまざまな人たちとつきあうよう心がけた。若いころは文学青年をきどって、フザケタことを軽蔑していたぼくだが、中年になると、“遊び大好き人間”になった」という。

《たしかに人間には一人でいる時間を持つことは必要だ。一人で自分を見つめ直し、そのうえで自分にアクセルをかけたり、ブレーキを踏んだりしなければならない。冷静に自分を客観視して、ハンドルを調整しなければ、人間は暴走してしまう》

 エッセイには虚実がある。Ⓐ先生はトキワ荘時代から(若手漫画家たちの中では)社交性があり、ムードメーカーのような存在だったという話もある。いっぽう文学青年だったのは事実で、二十代の日記には尾崎一雄や梅崎春生の名前も出てくる。
 疲れがたまると感情の自制が効かなくなる。暴走しないためには休んで気力と体力を回復させるしかない。そのためにも週に一日くらいは“休カン(感)日”を作る。一日のうちにも、気持を鎮め、何も考えない時間があるのが理想だ。

 そんなこんなで二月も終わり。冬眠期終了。といっても急発進はしないつもりである。毒蛇はいそがない。

2021/02/24

集団思考

 月曜日、二月というのに日中の最高気温は二十三度。阿佐ケ谷まで散歩し、味噌と野菜を買う。町に出ると半袖の人を何人か見かけた。都内の新型コロナの感染者数も減少傾向か。

 埴谷雄高著『薄明のなかの思想 宇宙論的人間論』(筑摩書房、一九七八年)の「政治について」にこんな一節がある。

《ちょうど文学がひとりの個人が感じ、見たところのものの延長にのみ築きあげられるのとまったく対照的に、政治は自らが感じ、見たところのものではなく、他人が見て感じたところのものの上にのみ支えられている——(後略)》

 そして「他人の見て感じたところのものが真実であるか否かは、多くの場合、判定不可能であるので、その真実の基準は、彼が同一党派にあるか否かでたちまち決定されてしまう」と論じる。

 ある特定の集団のスローガンがあり、そのスローガンに自分の思考を重ねる。いつの間にか集団の思考に染まり、自らが信奉するスローガンに呼応しない人間を敵視するようになる(傾向がある)。集団思考の人は「世のため人のため」という感覚が、個人主義者よりも強い。いっぽう同じスローガンを掲げる同志(他人)が批判されたときに、まるで自分が攻撃されたかのような痛みをおぼえる。 

 なぜ戦前戦中の軍国主義者があれほど「非国民」をなじったか。「自分=国」の軍国主義者にとって「国にたいする批判=自分にたいする攻撃」と錯覚したからだ。

 他人の痛みを自分の痛みのようにおもうことは、心優しく想像力豊かでいいことのようにおもえるが、自我が拡大、拡散していくにつれ、集団思考に感染しやすくなる。文学者だって例外ではない。

 たとえば、プロ野球のファンが、自分のひいきのチームがひどい負け方をしたときに感じる心の痛みを想像してほしい。
 わたしはまるで自分のことのようにつらい気持になる。ひいきのチームの選手が死球でケガをしたら、ボールをぶつけた相手の投手にたいし、怒りをおぼえることもある。

 ライトスタンドにいるときのわたしは集団思考に感染している。応援してる球団の選手のことを(相手はこちらのことをまったく知らないにもかかわらず)家族や友人のように錯覚している。

 ただし、しょせん野球である。片方が勝てば、もう片方が負けるゲームだ。負けるたびに絶望していたら身が持たない。だから明日のために気持を切り替える。自分の仕事は野球ではない——と我に返る。

 政治の場合、自分の日常と地続きになっている分、そうした気持の切り替えがむずかしい。今はSNSが普及し、ひとりの時間でさえ、他人とつながってしまう。どんなに警戒してもしすぎることはない。

2021/02/20

ワインかブドウ酒か

 円地文子、吉行淳之介、小田島雄志『おしゃべり・えっせい』の「シリーズⅠ」(朝日新聞社、一九八四年)所収の田中小実昌がゲストの「まじめになるとき」を読む。先日、「シリーズⅡ」を古本屋で見つけ、「シリーズⅠ」も読みたくなり、ネットの古書店で注文していたのだ。
 何を飲むかという話からはじまって、田中小実昌は「白ワインね。できればドライなヤツを」と注文する。すると——。

《円地 このごろみんな「ワイン」って言うのね。わたしなんかブドウ酒って覚えているんだけど。
 吉行 体にこもりますね。でもどうしてワインなんて言い出したの?
 田中 いや、強いの飲むと、すぐ酔っぱらっちゃうんですよ》

 田中小実昌は家で飲むブドウ酒を一度に百本(一升瓶)買うという。

《田中 もう何年も前からですよ。十年ぐらいになりますよ。
 小田島 それはどこのものですか
 田中 山梨県です。甲府市ではないんです。
 小田島 茶色いようなやつですか。
 田中 そうそう、茶色です。赤でもなきゃ白でもない。茶色です。絞りかすです》

《田中 だからデパートなんかでも売れないブドウ酒なんですよ。今は密造酒はほとんどないみたい。あれはね、刑が重いらしいんですよ。だから、ばからしくて作れないんですって》

 この座談会を読んでしばらくして田中小実昌著『ほろよい味の旅』(中公文庫)が刊行された。
「酔虎伝」の章は山梨のブドウ酒の話がけっこう出てくる。

《山梨県からブドウ酒を送ってもらうようになって、もう十年以上たつ。(中略)一升壜にはいったそのブドウ酒は赤でもなく白でもなく、またローゼのようでもなく渋茶色、おまけに壜の底に澱がたくさんたまっていた。こんなブドウ酒はデパートの食品売り場あたりでは売れない》(ノンベエむきのブドウ酒)

「ノンベエむきのブドウ酒」は『おしゃべり・えっせい』の座談会と重なるところが多い。
「甲州産ブドウ酒」というエッセイでは甲州のブドウ酒を「一升壜で四十本ぐらい」送ってもらうと書いている。

《ブドウ酒の前は日本酒を飲んでいた。「千福」の二級酒だ。ぼくは、もとは軍港だった広島県の呉市でそだった。「千福」は呉の酒で、そっけない味がいい》

 田中小実昌が飲んでいた一升壜のブドウ酒は山梨県勝沼産だった。
 エッセイではブドウ酒と書いたり、ワインと書いたりしている。

「喉とおりのいいブドウ酒」では、シアトル、サンフランシスコ、オーストラリアで飲んだときはワイン、うちに帰って飲むのは山梨のブドウ酒といったかんじだ。 外国産はワイン、国産はブドウ酒と書き分けている……のかもしれない。

 『おしゃべり・えっせい』の「まじめになるとき」では、吉行淳之介と田中小実昌とのあいだでこんなやりとりがある。

《吉行 この人ね、何のときにまじめになるかというと、英語のとき。
 田中 ハハハハ。
 吉行 ぜったいまじめなことを言わない人なんだけど、ぼくが英語のことを質問すると、必ずちゃんと電話がかかってきてね。それはふしぎな男よ。英語以外はまじめにならない人なんだ》

2021/02/14

心理の深所

 昨夜二十三時すぎ、福島と宮城で震度六強の地震。東京は震度四だが、長い揺れだった。積んでいた本が崩れた。

 二月というのに暖かい。日中の最高気温の予想は十八度。貼るカイロなしの日が続いている。
 日曜日、西部古書会館、ようやく今年の催事の予定表を入手。後藤裕文著『伊勢・志摩路』(有峰書店、一九七三年)、山本偦著『歴史再発見の旅 峠の旧街道テクテク歩き』(講談社、一九九二年)、酒井淳著『会津の街道』(歴史春秋社、一九九三年)など。

 自分の地理と歴史の知識は穴ぼこだらけだ。郷里のことも知らないことばかり。旅をしてもその土地の歴史を知ろうとしなかった。何をするにも時間が足りないとよくおもう。いっぽう今さら急いでもしゃーないという気持もある。

 枕元の近くに積んでいて崩れた本の一冊、中村光夫著『自分で考える』(新潮社、一九五七年)をパラパラ読む。「現代の表情」は新聞に週一回連載していた断想である。

《旅行者の感想は、それがどんな一般的真実の形でのべられていようと(あるいはそうであればあるほど)実は彼個人の印象にすぎないことを忘れて読むと、とんだ喜劇や不幸を生みかねません》

 これは一九五〇年代にソ連や中国を旅行した人たちの土産話、ジャーナリズムにたいする中村光夫らしい皮肉だ。

 ある国の人たちの「心理の深所」を外国からの旅行者がどれだけ探れるのか。何年その国にいようが、わからないことがわかるだけ——。

《南千島をソ連にゆずれば、アメリカは沖縄を領有する権利があるといったダレスの言明は、政界にも大きな衝撃をあたえたようですが、考えて見ればこれはいかにも戦争中ソ連の同盟国であったアメリカの言いそうな理屈で、なぜそれを予想できなかったかということの方がむしろ問題でしょう》

 ダレスはアイゼンハワー大統領時代の国務長官ジョン・フォスター・ダレス。日米安保や北方領土問題が語られるさい、よく目にする名前だ。わたしは一九五〇年代の国際政治について、というか、東西冷戦期に関して今の感覚でとらえてしまっているところがある。敗戦国の現実がピンとこないのは平和ボケの一種だろう。漠然と、茫洋としか時代状況を把握できていない。

《国家が存在する限り、その行動の基本は何時の時代にも集団としてのエゴイズムでしょう》

《僕等にはとかく個人のつきあいと同じ気持で外国との関係を考える癖があり、自分の方で親愛感を持てば、相手もそれに応じてこちらのために計ってくれるように思いがちです》

《今日の国論を二分している「親米」「親ソ」の動きも、戦時中の「親独」「親英」と同じように感情的なものだとしたら、僕等は敗戦の経験から、何も学ばなかったことになります》

《資本主義でも共産主義でも、国家間の関係を決定するものは各自の利害と力であり、その間に処して、自分の利害を見失った国民はやがて独立の看板も外されるほかないのです》

 利害と力、エゴイズム——「親米」「親ソ」は、今は「親米」「親中」か。アメリカにたいしても中国にたいしても、甘い幻想を持てば、痛い目を見る。

2021/02/06

汽車に乗り遅れて

 金曜日、荻窪の古書ワルツので円地文子、吉行淳之介、小田島雄志『おしゃべり・えっせいⅡ』(朝日新聞社、一九八四年)を買う。『銀座百点』のホストが三人の座談集。シリーズ「Ⅰ」のほうは尾崎一雄や田中小実昌もゲストだった。

 シリーズ「Ⅱ」のゲストは服部良一(作曲家)、大庭みな子(小説家)、小沢昭一(俳優)、田代素魁(画家)、木の実ナナ(俳優)、和田誠(イラストレーター)、江國滋(随筆家)、山口瞳(小説家)、暉峻康隆(国文学者)、太地喜和子(俳優)、加藤芳郎(漫画家)、佐多稲子(小説家)、佐野洋(小説家)、山本紫朗(プロデューサー)、宮尾登美子(小説家)、丸谷才一(小説家)、奈良岡朋子(俳優)、飯沢匡(劇作家)、吉村昭(小説家)、斎藤茂太(医者)、東海林さだお(漫画家)——。

 日劇のプロデューサー、山本紫朗がゲストの「レビューの華やかなりし頃」は興味深い話がいろいろあった。

 戦争末期、山本は新潟で長谷川一夫、笠置シズ子、芳村伊十郎らといっしょにいた。

《小田島 豪華メンバーですね。
 山本 どうしてそこへ行ってたかというと、はじめ北海道へ渡るはずだったんです。それが笠置がちょっと汽車に遅れたんです。
 小田島 ああ、それで助かったという》

《吉行 さっきの、船に乗れなかったという話、もうちょっと詳しく話してください。
 山本 いや、長谷川さんたちの一行が、北海道に渡るために青森で青函連絡船に乗るはずだったが、笠置シズ子が汽車に乗り遅れたために、それを待っていたのです。その船が爆撃されて沈んじゃった》

《円地 でも、運がいいですねえ。
 吉行 笠置さんがブギウギで大スターのころ、日劇の楽屋でインタビューしたことがあるんです。
 小田島 「モダン日本」のころ。
 吉行 そう。きちんとした、遅れそうにない人だったですよ(笑い)。
 山本 それが上野へ遅れてきた。それで結局、待っていたために爆撃に遇わずにすんだ、と》

 ちょっとしたことで助かったり、助からなかったり。ふだん遅刻しない人が遅刻したおかげで沈む船に乗らずにすんだ。でも逆に遅刻したせいで沈む船に乗ってしまうこともある。戦時中ではないが、今だって人はこうした運不運の分れ道を歩んでいる。人間万事塞翁が馬。だから遅刻に寛容になろうという話ではなく、いやまあそういう話だ。

 あと昔の日劇の話で山本紫朗が踊り子にヘソが出る衣装を着せようとしたら、みんな泣いて怒ったという話も時代のちがいを感じた。ところが、ミニスカートが流行したときは平気ではいた。そのあとヘソを出すことに抵抗がなくなったと……。

2021/02/04

運だらけ

 水曜日、神保町。草思社文庫の二月の刊行予定を見ていたら、古山高麗雄著『人生しょせん、運不運』と北村太郎著『センチメンタルジャーニー ある詩人の生涯』があった。どちらもわたしの愛読書である。二冊とも絶筆となった自伝風エッセイだ。

《人生とは、運だらけ、自分ではどうにもならないものだらけ、ではありませんか。選択は自分の意思であり、それが招来したものについては、当然、引き受けなければならない、なんて、えらそうなことを言ってみても、選ぶ、ということは、自分の力の及ばない“流れ”の中にあり、“運”の中にある。(中略)人は、自分が選んだのだから引き受けなければならないのではなく、選ぼうが選ぶまいが、自分にふりかかって来るものを、引き受け、付き合って行かなければならないのです》(『人生しょせん、運不運』)

 わたしも物事を考えるときに運や偶然の要素をわりと重視している。古山さんの影響もあるだろうし、もともとそういう気質があったから古山さんの作品を愛読するようになったともいえる。

 生まれた時代、場所、親などは選べないが、何かと制約はあるとはいえ、自分の進路や仕事を選べた境遇というのは幸運なことだ。一年早く、あるいは遅く生まれるかで人生は大きく変わってしまう。いっぽう年々自分の力の及ばないことをあれこれ考えたり、意見したりするのが億劫になっている。

 古山さんは「あなたは若いんだから運命論者になってはいけない」と二十代のころのわたしにいった。時々この言葉の意味を考える。「しょせん、運不運」かもしれないが、その結論に至るまでには膨大な思索と迷いがある。そもそも運の見極めはとてつもなく難解であり、おそらく一生わからない。この本自体、未完の遺作だから結論はない。おかげでその続きを想像する楽しみがある。

2021/02/02

元気です

 一月三十日(土)、ひさしぶりに北品川のKAIDO book&coffeeへ。いつ来ても街道本が充実している。北から南まで地域ごとに本が並んでいるのもいい。この日は雑誌『つくづく』の取材で品川宿の旧街道を歩きながら雑談した。どんな記事になるのか、いつ雑誌が出るのかわからないが、楽しかったからよしとする。

 日曜日、西部古書会館。けっこういい本が百円、百五十円で売っている。安すぎて心配になる。

 先週、部屋の水まわりの工事があって、他にも調子のよくないところをいろいろ直してもらっている。午前中から工事の人が出入りしている状況で、本の移動やらなんやらで腰痛の兆候もすこしあったりして、そのせいでブログの更新が滞ってしまった。とりあえず元気です。仕事もやってますが、終わりません。今頑張っているところです。仕事をしながらカレーを作っていたら鍋をこがした。何とかリカバリーした。

 昨年の春に五十肩になったときもおもったのだが、とくに面白いことや楽しいことがなくても、これといった問題のない日々を送れることは幸せなのだな。やっぱり無事がいちばんです。

 都内の新型コロナの感染者も減少傾向——やはり二月が正念場か。こんなに春が待ち遠しいとおもったことはちょっと記憶にない。