2021/02/04

運だらけ

 水曜日、神保町。草思社文庫の二月の刊行予定を見ていたら、古山高麗雄著『人生しょせん、運不運』と北村太郎著『センチメンタルジャーニー ある詩人の生涯』があった。どちらもわたしの愛読書である。二冊とも絶筆となった自伝風エッセイだ。

《人生とは、運だらけ、自分ではどうにもならないものだらけ、ではありませんか。選択は自分の意思であり、それが招来したものについては、当然、引き受けなければならない、なんて、えらそうなことを言ってみても、選ぶ、ということは、自分の力の及ばない“流れ”の中にあり、“運”の中にある。(中略)人は、自分が選んだのだから引き受けなければならないのではなく、選ぼうが選ぶまいが、自分にふりかかって来るものを、引き受け、付き合って行かなければならないのです》(『人生しょせん、運不運』)

 わたしも物事を考えるときに運や偶然の要素をわりと重視している。古山さんの影響もあるだろうし、もともとそういう気質があったから古山さんの作品を愛読するようになったともいえる。

 生まれた時代、場所、親などは選べないが、何かと制約はあるとはいえ、自分の進路や仕事を選べた境遇というのは幸運なことだ。一年早く、あるいは遅く生まれるかで人生は大きく変わってしまう。いっぽう年々自分の力の及ばないことをあれこれ考えたり、意見したりするのが億劫になっている。

 古山さんは「あなたは若いんだから運命論者になってはいけない」と二十代のころのわたしにいった。時々この言葉の意味を考える。「しょせん、運不運」かもしれないが、その結論に至るまでには膨大な思索と迷いがある。そもそも運の見極めはとてつもなく難解であり、おそらく一生わからない。この本自体、未完の遺作だから結論はない。おかげでその続きを想像する楽しみがある。