月曜日、二月というのに日中の最高気温は二十三度。阿佐ケ谷まで散歩し、味噌と野菜を買う。町に出ると半袖の人を何人か見かけた。都内の新型コロナの感染者数も減少傾向か。
埴谷雄高著『薄明のなかの思想 宇宙論的人間論』(筑摩書房、一九七八年)の「政治について」にこんな一節がある。
《ちょうど文学がひとりの個人が感じ、見たところのものの延長にのみ築きあげられるのとまったく対照的に、政治は自らが感じ、見たところのものではなく、他人が見て感じたところのものの上にのみ支えられている——(後略)》
そして「他人の見て感じたところのものが真実であるか否かは、多くの場合、判定不可能であるので、その真実の基準は、彼が同一党派にあるか否かでたちまち決定されてしまう」と論じる。
ある特定の集団のスローガンがあり、そのスローガンに自分の思考を重ねる。いつの間にか集団の思考に染まり、自らが信奉するスローガンに呼応しない人間を敵視するようになる(傾向がある)。集団思考の人は「世のため人のため」という感覚が、個人主義者よりも強い。いっぽう同じスローガンを掲げる同志(他人)が批判されたときに、まるで自分が攻撃されたかのような痛みをおぼえる。
なぜ戦前戦中の軍国主義者があれほど「非国民」をなじったか。「自分=国」の軍国主義者にとって「国にたいする批判=自分にたいする攻撃」と錯覚したからだ。
他人の痛みを自分の痛みのようにおもうことは、心優しく想像力豊かでいいことのようにおもえるが、自我が拡大、拡散していくにつれ、集団思考に感染しやすくなる。文学者だって例外ではない。
たとえば、プロ野球のファンが、自分のひいきのチームがひどい負け方をしたときに感じる心の痛みを想像してほしい。
わたしはまるで自分のことのようにつらい気持になる。ひいきのチームの選手が死球でケガをしたら、ボールをぶつけた相手の投手にたいし、怒りをおぼえることもある。
ライトスタンドにいるときのわたしは集団思考に感染している。応援してる球団の選手のことを(相手はこちらのことをまったく知らないにもかかわらず)家族や友人のように錯覚している。
ただし、しょせん野球である。片方が勝てば、もう片方が負けるゲームだ。負けるたびに絶望していたら身が持たない。だから明日のために気持を切り替える。自分の仕事は野球ではない——と我に返る。
政治の場合、自分の日常と地続きになっている分、そうした気持の切り替えがむずかしい。今はSNSが普及し、ひとりの時間でさえ、他人とつながってしまう。どんなに警戒してもしすぎることはない。