2020/02/26

冬をのりきる

 このあいだ二月になったとおもったら、もう月末、十二月〜二月の冬眠期(といっても仕事はしていた)も終わる。

 毎年のことだが、冬をのりきることが目標になっている。冷えと疲れは万病のもと——からだをあたたかくしてよく寝る。
 風邪対策としては何にでもショウガをいれる。万能とはいわないが、ショウガはすごいとおもう。お酒もジンジャーハイボール、モスコミュールを飲む。
 しかし細心の注意をはらいつつも風邪をひいたり、ひかなかったりしている。風邪なんてものはどんなに気をつけていてもひくときはひくものだ。健康管理が無駄とはいわないが、それでもひくときはひく。

 ただしあくまでも個人の意見だが、やせているときと太っているときを比べると、やせていたときのほうがよく風邪をひいた。だから冬のあいだはすこし太るくらいでちょうどいいとおもっている。

 街道を歩くさい、朝から夕方までほとんど食事をとらずに歩き続けるので二泊か三泊の旅行をすると二、三キロ痩せる。
 昨年末、自分のベストと考えている体重よりも四、五キロ痩せていた。今はベストより二キロほど太っている。

 五十歳をこえたら、一年通してずっと万全でいられるわけがない。一年のうち二、三ヶ月はダメな時期があってもいい。
 週に一日か二日か、完全休養日(何もせずだらだらする日)があるのが理想なのだが、なかなかうまくいかない。

 話は変わるが、連休中に読んだ古山高麗雄著『他人の痛み』(中公文庫)のメモをしておく。

 都会の子どもは自然と触れ合う機会が少ないという話から、古山さんはこんな感想を述べている。

《勉強のためならと言って、子供の部屋にクーラーを取り付けることには出費を惜しまない親が、子供が魚釣りに行くことにはいい顔しない。考えてみると、そういう大人たちも哀れである。
 しかし、こういうことを書いても、世の中変わるわけのものではない》

「こういうことを書いても、世の中変わるわけのものではない」とわたしもしょっちゅうおもう。

 でも変わらなくてもしつこく書き続けるしかない。

 わたしは気軽に休める世の中になってほしいのでそのことだけはくりかえし書いていくつもりだ。

2020/02/22

ガガンボとカトンボ

 遅報ですが、QJWEBの「半隠居遅報」の「異世界においてなぜ男はチート、女は悪役令嬢なのか」(https://qjweb.jp/journal/8279/)を更新しました。

 文中に出てくる釣り雑誌編集者は『葛西善蔵と釣りがしたい』(フライの雑誌社)の堀内正徳さん。高円寺のペリカン時代で「異世界」の話で盛り上がり、家に帰って、そのままほろ酔い状態で書いた。

『フライの雑誌』の119号の特集「春はガガンボ」。わたしは「安吾の無頼フィッシング」という原稿を書いた。晩年の安吾は群馬県の桐生市で過ごした。蔵がいっぱいあって、川があって、いい町だ。
 この号の編集後記で「たぶん人類の釣り雑誌史上初」と謳っているのだが、雑誌評を二十年以上やっているわたしの記憶にも「ガガンボ」の特集は見たことがない。

「ガガンボ」は郷里(三重)では「カトンボ」と呼んでいた。『機動戦士Zガンダム』に「落ちろ、カトンボ!」という台詞がある。富野由悠季さんは小田原出身なので、小田原も「カトンボ」というのかもしれない(今、ネットで検索したら「落ちろ、カトンボ!」は『聖戦士ダンバイン』でもつかわれているそうです)。

 魚の名前だとオイカワもなじみのない言葉で台湾生まれ鹿児島育ちの父はシラハエ(シラハヤ)といっていた。ヤマベ、ハイジャコといった呼び方もある。
 地域で呼び名がちがう魚だとカワハギもそう。伊勢志摩ではハゲと呼んでいたが、バクチ、メイボという呼び名もあるらしい。

2020/02/18

近況

『本の雑誌』三月号の特集「文学館に行こう!」で、中部地方の文学館を紹介した(内容としては「街道文学館」の番外編になっている)。
 わたしは二十五年くらい文学館のパンフレット(文学展パンフ)を収集していて、本の雑誌の編集者にその話をしたことが「街道文学館」の連載につながった。

『小説すばる』三月号の連載「自伝の事典」はこの号が最終回。『小説すばる』は、二〇〇八年一月号から十二年もお世話になった(『古書古書話』本の雑誌社)。
『scripta』の「中年の本棚」の連載も終わった。五十歳はいろいろ区切りの年か。五十代は仕事と関係ない本を読む時間を増したい。地理や風土を意識して本を読むようになって、一冊の本を読むのに時間がかかるようになった。楽しいけど、時間がいくらあっても足りない。

 二つの連載が終わるタイミングでQJWEBの「半隠居遅報」の連載がはじまった。あくまでも「遅報」であって「時評」ではないのだが、二十代のころから「今」をすこし広い幅、長い時間の中で考えたいとおもっていた。それをどう形にするかは、まだ手探りの状態。早い段階で型を作ってしまうと楽なのだが、それはしたくない。

 仕事のペース、生活のリズムをいろいろ再構築しないといけない。

 週末、街道歩きをした。雨の水戸街道を歩いた。雨の日はダメだ。足が止まると、からだが冷える。春先の街道歩きは昨年も苦労した。天候に左右されることも含めて楽しもうと前向きに考えることにする。

2020/02/04

二月になったが

 いつの間にか二月。昨年暮れあたりに部屋の天井がはがれてきて、大家さんに修理を頼んでいた。今日朝九時に工事の人が来て昼には終わった。
 テレビやステレオを動かし、もういちどコードやら何やらをつなぎなおす。ラジオをつけたらジェーン・スーさんの番組だった。飲み友だちのあいだで愛聴者が多い。本は全部読んでいるが、ラジオははじめて聴いた。面白い。
 そのあとレコードを何枚か聴く。CDは楽だけど、わたしはレコードが回っている光景が好きなのだ。見ていて飽きない。アンプをきれいに磨いたせいか、音がすこしよくなっている。

 西部古書会館で買ったまま積ん読になっていた福原麟太郎の『変奏曲』(三月書房、一九六一年)を読む。「野方の里」という随筆の初出は一九五九年四月の日本経済新聞なのだが、いきなり「野方の里といっても、東京都中野区野方町一丁目のことで、その五七六番地に、この筆者が住まわっているのである」と書いてある。おおらかな時代だ。

《昭和二十三年の夏、暑いさかりに、この町へ越して来たとき、書斎にした六畳の窓をあけると、生けがきの外にはすぐ麦畑が見渡すかぎり海のように続いており、涼風がそよそよと吹き込んで、実に快適であった》

 七十年ちょっと前の野方の話。高円寺からほぼ北にまっすぐ歩くと野方だ。昔はなかったけど、今、高円寺と野方のあいだに案内板みたいなものがあって、高円寺駅まで一・何キロ、野方駅まで一・何キロと駅までの距離が記されている。高円寺から野方は余裕で徒歩圏内である。
 高円寺駅と野方駅のちょうど中間地点は中野区の大和町なのだが、このあたりも好きな場所だ。近くに川があるのもいい。

 五十歳になって、気持の区切りというか、諦めというか、吹っ切れたことがいくつかある。
 ひとつは自分の能力にたいし、過度な期待をしなくなった。たぶんこの先万全といえる体調はない。やや不調くらいでよしとする。
 肩凝りや腰痛も簡単には治らない。今、腰の調子がよろしくないのだが、動くのに苦労するほどの痛みはないので休み休み仕事している。
 のんびり仕事しているが、しめきりまでには何とか仕上がるようになったのは年の功といえるかもしれない。
 焦ってもしょうがない。掃除したり散歩したり、適度に息ぬきをしながら、ひとつひとつ片づけていくのが自分には合っている。

 そのことはわかっていてもすぐ忘れてしまうので自分のためのメモとして書いた。