2022/04/26

鹿児島の北海道

 四月下旬、ゴールデンウィーク目前。月日が経つのが早すぎる。気分はまだ三月くらいだ。先週末から部屋の掃除ばかりしている。蔵書を減らしたいのだが、「もう読み返さないかな」とおもう本でも「いや、この本を読んで、あの本を買ったんだっけ」とか「これは旅先で買った本だ」といった記憶が甦り、棚から出しては引っ込める。

 第26回手塚治虫文化賞の漫画大賞は、魚豊『チ。−地球の運動について−』(小学館、現在七巻)が選ばれた。いつだったか「星野源のオールナイトニッポン」でこの漫画の話をしていて、すぐに全巻揃えた。地動説を追い求める人々の執念を描くいっぽう、“異端”を排除しようとする真面目な狂信者たちの底知れぬ怖さを訴えかけてくる物語でもある。

 話はまったくつながらないが、子どものころ「鹿児島の北海道」という言葉を何度か耳にした。父の郷里の伊佐盆地あたりがそう呼ばれている。宮崎県と熊本県と県境が接する盆地で冬はかなり寒い。雪も降るし、氷点下になることもある。

 玉村豊男著『雑文王 玉村飯店』(文藝春秋、一九九〇年)を読んでいたら「鹿児島の“北海道”は春遠く」という紀行文があった。この本、文庫化されているが、わたしは単行本しか持っていない。

 文中、今年の秋で四十一歳とある。玉村氏は一九四五年生まれだから、一九八六年の春先の話である。
 鹿児島を訪れた玉村氏は川内市内の商店街の定食屋でこんな会話をかわす。

《「お客さん、どちらへ行きなさると」
「ん? 薩摩大口のほうへ行ってみようかと思ってね。あっちのほう、まだ行ったことがないから」
「寒かよ、大口は。鹿児島の北海道いうごつある」》

 店を出て大口行きの電車(一両編成)に乗る。駅を降りた玉村氏はこんな感慨をもらす。

《なにもない町だ》 

 玉村氏は一九八六年の春に大口を訪れているのだが、薩摩大口駅はその二年後の一九八八年二月に水俣起点の山野線と川内起点の宮之城線の廃線にともない廃駅になる。
 玉村氏は丸屋という旅館に泊り、小料理・ささ舟で飲む。店は老婆が一人。夫は亡くなったばかり。店を手伝ってくれていた若い女性は工場で手を潰してやめた。他の客が来るまで焼酎を飲み続ける。

 わたしの父は無口でほとんど郷里のことを話さなかった。父は高校時代、うどん屋で働きながら学校に通っていた話は何度か聞いた。旅館や小料理屋があったことは玉村氏の紀行文で知った。

2022/04/24

積ん読生活

 気温の変化が激しい。一昨日(二十二日)、昨日(二十三日)と都内は二日連続の夏日だった。そろそろコタツ蒲団をしまいたい。

 高円寺の出版社・有志舎のフリーペーパー『CROSS ROAD』(vol.12)ができました。わたしの連載「追分道中記」は「内藤新宿と酒折」——甲州街道と青梅街道の話を書いた。ここ数年、山梨が好きになって、酒折から石和温泉あたりはよく歩いている。

 長年、文学(主に随筆)に偏った読書をしてきたけど、四十代後半から歴史や地理の本を読むのが楽しくなった。歴史にせよ地理にせよ、本を読んでいるだけではなかなかわからない。一つ知ると三つ知らないことが浮上する。そのくりかえしである。街道の場合、きちんと調べはじめると記紀神話や古代史の時代まで遡ってしまう。「東京」なんて江戸以前は何もなかったくらいの印象(偏見)だった。でもちょっと近所を歩いているだけでも鎌倉、平安どころか、縄文の史跡がある。時間がいくらあっても足りない。キリのない世界のどこを切り取り、焦点を当てるか。そろそろその絞り込みの作業をしたほうがいいのかもしれないが、あと五年か十年は闇雲にやりたい気持もある。

 土曜午後三時ごろ、西部古書会館。寝起きで頭がぼーっとしていたが、古書案内処の棚でスイッチが入る。『井伏鱒二文学碑序幕記念 井伏鱒二郷土風物誌』(井伏鱒二在所の会、一九九五年)、『特別展示 追悼井伏鱒二』(早稲田大学、一九九四年)、『高知県立文学館開館10周年記念特別企画 清岡卓行追悼展』(高知県立文学館、二〇〇七年)など、文学展パンフを十数冊。おそらく元の持ち主は同じ人(井伏鱒二と付き合いのあった文芸誌の編集者)かもしれない(招待状のハガキもはさまっていた)。

 二週間前の大均一祭で買った本もそのままになっている。未読の本がたまりまくる。

2022/04/20

新刊二冊

 本日、梅崎春生著『カロや 愛猫作品集』(中公文庫)刊行。わたしは解説を担当しました。「猫の話」「カロ三代」など、梅崎春生の猫小説、猫随筆を収録(巻頭にはカロといっしょの梅崎春生の写真あり)。「カロ三代」は“猫叩き”の描写で読者からの批判が殺到した問題作でもある。文庫オリジナル。

 長年、小説や随筆を読むとき、作品の時系列を気にせず読んできた。初出の時期を調べながら読むようになったのはここ数年のことだ。
 作家によっては同じ文体で書き続ける人もいるが、梅崎春生は時期によって大きく変わる。『カロや』はその文体の変化も楽しめる作品集ではないかと……。

 中公文庫は吉行淳之介編『ネコ・ロマンチスム』も発売。青銅社版の原本に内田百閒の「ネコ・ロマンチシズム」を増補。福永信さんの解説は「編者としての吉行淳之介」に言及していて読みごたえがあった。作品の並べ方にも編者の意志がある。この着眼点の吉行論は、はじめて読んだかもしれない。

2022/04/17

自信と配慮

 吉行淳之介著『人工水晶体』(講談社文庫、一九八八年)は巻末に第二回講談社エッセイ賞の「選評」と「受賞のことば」を収録——。
 井上ひさしの選評に「『エッセイとは、つまるところ自慢話をどう語るかにあるのではないか』と気付いた。(中略)もとより読者は一般に明け透けな自慢話を好まない。そこで書き手は自慢話を別のなにものかに化けさせ、ついには文学にまで昇華させなくてはならない」とある。
 他の選評は大岡信、丸谷才一、山口瞳である。

 吉行氏の「受賞のことば」もいい。

《ひとのために役立とうとおもって、私は文章を書いたことがない。しかし、「人工水晶体」は白内障で悩んでいる人たちのために書いた。これは珍しいことだったが、そのために愚痴がすくなくなって、そこが良かったかもしれない》

『人工水晶体』(講談社文庫)の「人工水晶体」と「淳之介『養生訓』」は『淳之介養生訓』(中公文庫、二〇〇三年)でも読める(その他の収録作はちがう)。

 あらためて「人工水晶体」を読むと、冒頭は一九七六(昭和五十一)年十月からはじまる。吉行淳之介五十二歳。
 すでに眼の具合に違和感があり、病院で診察を受けたところ、両眼とも白内障といわれる。しかし本人はただの眼精疲労だとおもっていた。

《眼の医学は毎日のように進歩していて、間もなく新しい手術の噂が微かにきこえてきた。
 その新式の手術についての記事が、昭和五十二年の春に新聞に出た。今にしておもえば、丁度アメリカの政府が「人工水晶体」を許可した時期に当っている》

 吉行氏は自分の眼の様子をみながら、新しい治療法について調べはじめる。
 厚生省が日本での人工水晶体の輸入および製造を承認したのは一九八五年三月——。吉行氏が人工水晶体の移植手術をうけたのは一九八四年十二月である。

 病気に関しては早期治療がよいというのが通説だろう。ただし一年か二年の差で医学が格段に進歩する場合もある。もっとも素人にはこの判断はむずかしい。
 吉行氏の医療に関する方針はこんなかんじだ。

《私はいろいろ病気をしてきた。それぞれの病気について、シロウトの理解できる範囲のことはできる限り調べる。そして、信頼できると自分がおもった医師を見付けると、あとはなにも質問せずに身柄をあずけてしまう》

 信頼できる医師かどうかはどう判断するか。吉行氏は「医師としての自信と患者にたいする配慮とのバランスが程よく保たれている」人物を名医と考えていた。どれだけ知識や技術が優れていても、患者の不安がわからない人はよい医師とはいえない。

『人工水晶体』所収の他のエッセイや対談でもこのテーマを語っている。医学にかぎらず、信頼できる専門家を見分けるさいも参考になりそうな意見が頻出する。

2022/04/14

藤子不二雄Ⓐと吉行淳之介

 瀬戸内寂聴著『寂聴コレクション vol.1 くすりになることば』(光文社、二〇一九年)は帯に瀬戸内寂聴と藤子不二雄Ⓐの写真あり。巻頭の「寂聴さん×藤子不二雄Ⓐさんスペシャル対談」が読みたくて買った。当時、瀬戸内寂聴は九十七歳、藤子不二雄Ⓐは八十五歳。対談は三十一頁。
 七百年続いていた富山の光禅寺の住職の家の長男として生まれたが、小学五年生のときに父が急死。その後、新しい住職が来たので高岡に引っ越すことになった。その転校先で藤本弘(藤子・F・不二雄)と出会う。

《つまり、父が死ななかったら僕は絶対に漫画家になっていなかったし、藤本君もおそらく僕に会っていなかったら漫画家になっていなかったと思う》
 
 瀬戸内寂聴が「藤子さんは子どものころから漫画家になろうと決めていらっしゃたんですか」と聞くと、藤子不二雄Ⓐは「いや、どちらかというと文学少年で、志賀直哉とか正宗白鳥とか小説ばかり読んでいました」と答えている。文学だけでなく、映画も好きだった。

 吉行淳之介と知り合ったのは福地泡介の紹介だった。

《当時赤坂に「乃なみ」という3階建ての旅館があって、実はお客さんなんて一人も泊っていなくて、スターとか芸能人とか表立って雀荘に行けないような人が集まって朝から晩まで麻雀をやっていた》

 Ⓐさん(当時は我孫子素雄)が「乃なみ」で吉行淳之介、阿川弘之と麻雀をしたのはいつごろなのか。Ⓐさんは近藤啓太郎、色川武大とも出会っている。『Ⓐの人生』(講談社)では「乃なみ」を「赤坂にあるNという旅館」と綴っている。

 吉行淳之介著『やややの話』(文春文庫、単行本は一九九二年)の「藤子不二雄の1/2について」というエッセイには——。

《我孫子素雄と知り合ったのは、二十年近く前だろう。以来、じつにしばしば会っていて、それも長時間一緒にいる。つまり、マージャンと酒であって、それ以外に会うことはない》

 初出は愛蔵版の『まんが道』(中央公論社)一九八七年五月——。二十年近く前とあるから一九六〇年代後半か。Ⓐさんは三十代のころから赤坂の旅館で麻雀をしたり、銀座で飲んだりしていた。

「藤子不二雄の1/2について」には「私の白内障の右目が見えるようになったのは、我孫子の一言がキッカケになった」という一文も。
 吉行淳之介著『人工水晶体』(講談社文庫)に「我孫子の一言」のことを書いている箇所がある。五十代のはじめ、吉行淳之介は白内障になり、右目がほとんど見えなくなっていた。当時、日本では人工水晶体の手術が普及する前だったこともあり、長いあいだ、治療するかどうか迷っていた。

《その年の夏、友人の我孫子素雄がこう言った。
「ゴルフ仲間がね、といってもずっと年上の人ですが、白内障の手術を日赤でちょっと前にして、もうゴルフをしていますよ」》

 それからしばらくして吉行淳之介は我孫子氏に電話し、ゴルフ仲間の社長を通して、白内障手術の名医を紹介してもらう。一九八三年十一月、吉行淳之介は五十九歳だった。

2022/04/10

Ⓐさんのこと

 木曜日午後三時すぎ、神保町の古本屋をまわって新聞社に寄った。そこで藤子不二雄Ⓐさんの訃報を知った。八十八歳。悲しい気持よりも見事な人生だなと……。

 二〇〇四年に編集した『吉行淳之介エッセイ・コレクション』(ちくま文庫)の一巻「紳士」の解説を藤子不二雄Ⓐさんにお願いした。十八年前。わたしがはじめて作ったアンソロジーである。

『Ⓐの人生』(講談社、二〇〇二年)の「ニンゲン大好き!」に「ぼくは昔文学青年で吉行淳之介サンのファンだった」とある。第三の新人の交遊とトキワ荘の雰囲気はどことなく通じる——とⒶさんは考えていた。ちなみに『まんが道』(中央公論社、一九八七年)の愛蔵版の解説を吉行淳之介が書いている。Ⓐさんの日記には尾崎一雄や梅崎春生の名前も出てくる。

 わたしはⒶさんのエッセイが好きで、一時期、その文章の書き方を勉強した。でもどんなに真似しようとしてもⒶさんのような軽やかな文章は書けないと悟り、諦めた。ふわっとしているが達観している。『まんが道』で過去の自分(たち)を描き切り、ほどよく力が抜けたのか。もともとそういう資質だったのか。

『Ⓐの人生』の「禍福はあざなえる……」というエッセイでは——。

《世の中、良いことがあればわるいこともある。良いことは長くつづかないし、わるいこともそう長くつづかない。
 良いことがあった時は、モチロンその状態にひたりきればいいが、わるいことがあった時はどうするか?
 ぼくはそんな時、なんにも抵抗しない。ただジーッと頭をふせて、わるい風がとおりすぎるのを待つだけだ》

 同書の「休カン日をつくろう」は過去にもこのブログその他で紹介した。休カン日は「休感日」。感覚や神経を休めるため、“なーんにもしない”、“なーんにも考えない”で過ごす日を作ろうという提案である。

 しかしこの“なーんにもしない”がむずかしい。体の疲れよりも神経の疲れは気づきにくい。だから用心しすぎるくらいでちょうどいいのだろう。

 今日はなーんにもしない日にしようとおもう。

2022/04/03

化物

 四月、新生活をはじめた人におすすめしたいのは、自分の住んでいる町で何かひとつだけでもいいから定点観測(記録)をすることだ。惰性だろうが何だろうがとにかく続ける。引っ越したら引っ越し先でも続ける。
 わたしは高円寺駅が自動改札になる前の写真やエスカレーターがなかったころの写真を撮っておけばと悔いている。「あの店はいつまであったっけ」みたいなことをしょっちゅう考える。

 金曜日午後三時すぎ西部古書会館。今週は木曜日が初日だった。忘れていた。西部古書会館は三十三年通っている。わたしの数少ない定点行動のひとつ。でも写真は撮っていない。
 この日、高田保対談集『二つの椅子』(朝日新聞社、一九五〇年)のカバー付を買った。五百円。カバーなしは二十代のころ買っていたのだが、清水崑装丁のカバーははじめて見た。清水は本文中の挿絵も担当している。黄桜のカッパの絵の人ですね。

 高田保と宇野浩二との対談——。

《高田 昔ばなしになるが、あの頃の青年つてみんな傍若無人に生意気でしたね。山高帽をかぶつた佐藤春夫の姿なんぞ、今でもありあり目に浮ぶんだが、生意気の骨頂みたいだつた。あの人なんぞ、当時いくつだつたでしよう。
 宇野 二十三、四……。
 高田 前世代クソ食らえで、みんな大した心臓だつた。
 宇野 文学だけでなしに、演劇だつて、美術だつて、みんな前代クソ食らえ、心臓もクソもなしに暴れてたから、例えば新劇団だつて雨後の筍よりも、カビみたいにぞくぞく出ていた》

 高田保は一八九五(明治二十八)年、宇野浩二は一八九一(明治二十四)年生まれ、佐藤春夫は一八九二(明治二十五)年生まれ。
 宇野と佐藤はほぼ同世代である。

 高田保、宇野浩二は文士のたまり場だった本郷の菊富士ホテルにいた時期もあった。一九二三年(大正十二)年ごろか。そのすこし前に尾崎士郎と藤村千代(後の宇野千代)がいた。多くの文士は勘定を支払わず逃げた(高田保は払ったようだ)。

《高田 とにかくあそこは化物ばかりいましたね。文壇人ばかりでなく、政治家とか、弁護士とか、ほかの世界の連中にしても、みんな化物だった。
 宇野 あの頃、一番若かつたが石川淳。あれも化物でしたね。
 高田 こないだ当人から初めて聞いたんだが、ぼくのいたてつぺんの部屋に坂口安吾が入つていたんだそうです。これだつてやつぱり化物。しかし人間は妖気があるほうが面白い。
 宇野 化物だつただけに、みんな根気がよくつて勉強していた》

 石川淳は一八九九(明治三十二)年、坂口安吾は一九〇六(明治三十九)年生まれ。安吾が菊富士ホテルに入るのは昭和十年代前半である。
 高田、宇野の世代からすると、戦後の作家たちは一様におとなしく見えたようだ。「化物」のままでは生きにくい時代になったともいえる。

 文芸創作誌『ウィッチンケア』(vol.12)に「将棋とわたし」を書いた。「創作」と「実話」の部分が半々の構成。「実話」といっても記憶はどんどん脚色され、あやふやになっていく。何度も同じ話を書いているとあくが抜けてだんだんすっきりしてくる。そうなると実体験とは別の感じになる。

 かつては将棋界も「化物」——妖気の漂う人物がけっこういた。将棋の勉強だけでなく、修羅場を体験し、人生修業を積むことが勝負の決め手になると信じられていた時代もあった。ところが昭和の終わりごろから放蕩無頼の棋士はストイックな棋士に勝てなくなる。羽生善治さんらが登場しはじめた昭和末——一九八〇年代後半あたりから日々の体調管理に気をつかい、研究熱心な棋士が主流になった。

 こうした流れは碁将棋の世界だけではなく、スポーツ界にもいえる。長く活躍する選手はほぼ例外なく練習熱心だし、節制している。

「将棋とわたし」では一九九〇年代半ば、失業して荒んだ日々を送っていた「わたし」が将棋に熱中したことをきっかけに生活を立て直していく話である。

 実話といえば実話なのだが、生活の軌道修正を試みようとおもったきっかけは将棋の影響以外にもいろいろある。すこし書いたけど、削った。