2022/04/14

藤子不二雄Ⓐと吉行淳之介

 瀬戸内寂聴著『寂聴コレクション vol.1 くすりになることば』(光文社、二〇一九年)は帯に瀬戸内寂聴と藤子不二雄Ⓐの写真あり。巻頭の「寂聴さん×藤子不二雄Ⓐさんスペシャル対談」が読みたくて買った。当時、瀬戸内寂聴は九十七歳、藤子不二雄Ⓐは八十五歳。対談は三十一頁。
 七百年続いていた富山の光禅寺の住職の家の長男として生まれたが、小学五年生のときに父が急死。その後、新しい住職が来たので高岡に引っ越すことになった。その転校先で藤本弘(藤子・F・不二雄)と出会う。

《つまり、父が死ななかったら僕は絶対に漫画家になっていなかったし、藤本君もおそらく僕に会っていなかったら漫画家になっていなかったと思う》
 
 瀬戸内寂聴が「藤子さんは子どものころから漫画家になろうと決めていらっしゃたんですか」と聞くと、藤子不二雄Ⓐは「いや、どちらかというと文学少年で、志賀直哉とか正宗白鳥とか小説ばかり読んでいました」と答えている。文学だけでなく、映画も好きだった。

 吉行淳之介と知り合ったのは福地泡介の紹介だった。

《当時赤坂に「乃なみ」という3階建ての旅館があって、実はお客さんなんて一人も泊っていなくて、スターとか芸能人とか表立って雀荘に行けないような人が集まって朝から晩まで麻雀をやっていた》

 Ⓐさん(当時は我孫子素雄)が「乃なみ」で吉行淳之介、阿川弘之と麻雀をしたのはいつごろなのか。Ⓐさんは近藤啓太郎、色川武大とも出会っている。『Ⓐの人生』(講談社)では「乃なみ」を「赤坂にあるNという旅館」と綴っている。

 吉行淳之介著『やややの話』(文春文庫、単行本は一九九二年)の「藤子不二雄の1/2について」というエッセイには——。

《我孫子素雄と知り合ったのは、二十年近く前だろう。以来、じつにしばしば会っていて、それも長時間一緒にいる。つまり、マージャンと酒であって、それ以外に会うことはない》

 初出は愛蔵版の『まんが道』(中央公論社)一九八七年五月——。二十年近く前とあるから一九六〇年代後半か。Ⓐさんは三十代のころから赤坂の旅館で麻雀をしたり、銀座で飲んだりしていた。

「藤子不二雄の1/2について」には「私の白内障の右目が見えるようになったのは、我孫子の一言がキッカケになった」という一文も。
 吉行淳之介著『人工水晶体』(講談社文庫)に「我孫子の一言」のことを書いている箇所がある。五十代のはじめ、吉行淳之介は白内障になり、右目がほとんど見えなくなっていた。当時、日本では人工水晶体の手術が普及する前だったこともあり、長いあいだ、治療するかどうか迷っていた。

《その年の夏、友人の我孫子素雄がこう言った。
「ゴルフ仲間がね、といってもずっと年上の人ですが、白内障の手術を日赤でちょっと前にして、もうゴルフをしていますよ」》

 それからしばらくして吉行淳之介は我孫子氏に電話し、ゴルフ仲間の社長を通して、白内障手術の名医を紹介してもらう。一九八三年十一月、吉行淳之介は五十九歳だった。