2022/04/03

化物

 四月、新生活をはじめた人におすすめしたいのは、自分の住んでいる町で何かひとつだけでもいいから定点観測(記録)をすることだ。惰性だろうが何だろうがとにかく続ける。引っ越したら引っ越し先でも続ける。
 わたしは高円寺駅が自動改札になる前の写真やエスカレーターがなかったころの写真を撮っておけばと悔いている。「あの店はいつまであったっけ」みたいなことをしょっちゅう考える。

 金曜日午後三時すぎ西部古書会館。今週は木曜日が初日だった。忘れていた。西部古書会館は三十三年通っている。わたしの数少ない定点行動のひとつ。でも写真は撮っていない。
 この日、高田保対談集『二つの椅子』(朝日新聞社、一九五〇年)のカバー付を買った。五百円。カバーなしは二十代のころ買っていたのだが、清水崑装丁のカバーははじめて見た。清水は本文中の挿絵も担当している。黄桜のカッパの絵の人ですね。

 高田保と宇野浩二との対談——。

《高田 昔ばなしになるが、あの頃の青年つてみんな傍若無人に生意気でしたね。山高帽をかぶつた佐藤春夫の姿なんぞ、今でもありあり目に浮ぶんだが、生意気の骨頂みたいだつた。あの人なんぞ、当時いくつだつたでしよう。
 宇野 二十三、四……。
 高田 前世代クソ食らえで、みんな大した心臓だつた。
 宇野 文学だけでなしに、演劇だつて、美術だつて、みんな前代クソ食らえ、心臓もクソもなしに暴れてたから、例えば新劇団だつて雨後の筍よりも、カビみたいにぞくぞく出ていた》

 高田保は一八九五(明治二十八)年、宇野浩二は一八九一(明治二十四)年生まれ、佐藤春夫は一八九二(明治二十五)年生まれ。
 宇野と佐藤はほぼ同世代である。

 高田保、宇野浩二は文士のたまり場だった本郷の菊富士ホテルにいた時期もあった。一九二三年(大正十二)年ごろか。そのすこし前に尾崎士郎と藤村千代(後の宇野千代)がいた。多くの文士は勘定を支払わず逃げた(高田保は払ったようだ)。

《高田 とにかくあそこは化物ばかりいましたね。文壇人ばかりでなく、政治家とか、弁護士とか、ほかの世界の連中にしても、みんな化物だった。
 宇野 あの頃、一番若かつたが石川淳。あれも化物でしたね。
 高田 こないだ当人から初めて聞いたんだが、ぼくのいたてつぺんの部屋に坂口安吾が入つていたんだそうです。これだつてやつぱり化物。しかし人間は妖気があるほうが面白い。
 宇野 化物だつただけに、みんな根気がよくつて勉強していた》

 石川淳は一八九九(明治三十二)年、坂口安吾は一九〇六(明治三十九)年生まれ。安吾が菊富士ホテルに入るのは昭和十年代前半である。
 高田、宇野の世代からすると、戦後の作家たちは一様におとなしく見えたようだ。「化物」のままでは生きにくい時代になったともいえる。

 文芸創作誌『ウィッチンケア』(vol.12)に「将棋とわたし」を書いた。「創作」と「実話」の部分が半々の構成。「実話」といっても記憶はどんどん脚色され、あやふやになっていく。何度も同じ話を書いているとあくが抜けてだんだんすっきりしてくる。そうなると実体験とは別の感じになる。

 かつては将棋界も「化物」——妖気の漂う人物がけっこういた。将棋の勉強だけでなく、修羅場を体験し、人生修業を積むことが勝負の決め手になると信じられていた時代もあった。ところが昭和の終わりごろから放蕩無頼の棋士はストイックな棋士に勝てなくなる。羽生善治さんらが登場しはじめた昭和末——一九八〇年代後半あたりから日々の体調管理に気をつかい、研究熱心な棋士が主流になった。

 こうした流れは碁将棋の世界だけではなく、スポーツ界にもいえる。長く活躍する選手はほぼ例外なく練習熱心だし、節制している。

「将棋とわたし」では一九九〇年代半ば、失業して荒んだ日々を送っていた「わたし」が将棋に熱中したことをきっかけに生活を立て直していく話である。

 実話といえば実話なのだが、生活の軌道修正を試みようとおもったきっかけは将棋の影響以外にもいろいろある。すこし書いたけど、削った。