2019/03/18

戦前の高円寺

 朝寝昼起。洗濯して荻窪へ。ささま書店、はなやでラーメン、タウンセブンで調味料などを買い、北口の住宅街を通って高円寺に帰る。
 JR中央線の線路と青梅街道が交差するあたりの道を北に向い、天沼二丁目の道(区立天沼児童館などがある道)を東に行くと、ほぼ一本道で阿佐ケ谷駅の北口あたり(世尊院前の信号)に出ることができる。

 先週、台湾で映像関係の仕事をしている人が高円寺に来ていて、高円寺の出版社・有志舎の永滝さんとわたしで戦前の高円寺の話、台湾人作家・翁鬧(おんどう……と読むのかな?)と交遊のあった新居格、辻潤の話などをした。
 翁鬧は昭和十年代に高円寺に暮らし、モダニズム小説を発表していた。
 たまたまなのだが、わたしも永滝さんも父親が台湾生まれ。

 翁鬧は「東京郊外浪人街 高圓寺界隈」という作品があり、戦前の高円寺の文士や喫茶店の話などを詳細に綴っている。「レーンボー」という喫茶店に行けば、三度に一度は新居格と会えた。あと辻潤の俳句(?)の話もあった。

 一九三〇年代、落合(東中野)、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪界隈は、モダニズム系、ダダイズム系、アナキズム系、プロレタリア文学の作家や芸術家がいた。
 翁鬧が新居格と知り合いなら、同じく高円寺にいた龍膽寺雄とも接点があったかもしれない。

 戦前の中央線沿線に住んでいた作家たちは、よく歩いている。といっても、東京メトロの東西線の落合駅と高円寺駅はたった二駅、高円寺駅と荻窪駅も二駅だ。
 落合も高円寺も戦前の一九三〇年ごろは豊多摩郡(一九三二年に東京市に編入)。
 豊多摩郡は新宿や渋谷の一部も含まれていた。西早稲田、歌舞伎町、千駄ケ谷、渋谷も同じ郡だった。