2016/06/14

金は時なり

 ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの私記』の中に「時は金なり」の格言を「金は時なり」と言い換える文章がある。冬の章——けっこう最後のほうだ。

 岩波文庫の平井正穂訳では次のように綴られている。

《金こそが時間なのだと思う。金があれば、私は時間を好きなように買うこともできる。もし金がなければ、その時間もいかなる意味においても私のものとはならないだろう。いや、むしろ私はその憐れな奴隷とならざるえないだろう》

 光文社古典新訳文庫の池央耿訳は以下の通りだ。

《金は時なり。金さえあれば自由に使える楽しい時間を買うことができる。貧しくてはとうてい買えないどころか、その自由にならない時間の惨めな奴隷に成り下がるだろうではないか》

 冬の章の「金は時なり」の話にかぎっていえば、平井正穂訳のほうがしっくりくる。
 さらにこのあと「われわれが生涯を通じてやっていることも、要するに時間を買う、もしくは買おうとする努力にほかならないといえないだろうか」(平井訳)というライクロフトの問いかけがある。

 古典新訳文庫は「ただ時間を買うことに、あるいは時間を買おうと齷齪することに生涯を費やして何になろう」となっている。

 ちなみに、原文は《What are we doing all our lives but purchasing,or trying to purchase,time?》——である。

 冬の章を読むかぎり、ギッシングおよびライクロフトは「(お金で)時間を買うこと」を肯定しているような気がする。「金は時なり」は、貴重な真理なのだから。
 お金で自分の時間を買う。自分の時間はわずかなお金で買うことができる。逆にいえば、必要以上の金を稼ぐために自分の時間を失い続けるのは愚かなことなのではないか。

 定年まで働き続け、年金がもらえる齢になれば、自由な時間が得られる。しかし、齢をとって自由な時間を得たとしても、たぶん若いころと同じような時間の使い方はできない。
 わたしは二十代のころ、あまり仕事をしていなかった。もったいない時間の使い方をしたとおもっている。もっと働けばよかったとはおもっていない。もっと読んでおけばよかったとおもう本がたくさんある。
 金をとるか時間をとるかでいえば、できるかぎり時間をとりたい。やりたくないこと、したくないことをする時間を減らしたい。仕事そのものが好きでやりたいことであれば申し分ない。それはそれで容易なことではない。

 時間を買うことに生涯を費やして何になるか。時間を買うことで、憐れ、そして惨めな奴隷にならないですむ。