2022/02/14

そうとはかぎらない

 山田風太郎著『あと千回の晩飯』(朝日文庫)の「中途半端な小説」で「あるとき、ふと自分の小説は主人公が立往生するところでラストになるものが意外に多いようだと気がついた」と述懐している。

《立往生とは、自分のやった行為が果してまちがいなかったかどうか、相手の正邪を裁断したことが正しかったかどうか、判断停止の状態になる、という意味である》

 娯楽小説にもかかわらず、主人公が立往生するせいで勧善懲悪の明快さがなく、吹っ切れない。そこに自分の本性があるのではないかと考える。
 山田風太郎は主人公が立往生しがちな作品を書いてしまう理由を次のように分析する。

《つまり私の頭には、この世に存在するもの、起こったあらゆる事件についての解釈に対して「そうとはかぎらない」という疑念がしつこく揺曳(ようえい)しているのだ》

 揺曳は「ゆらゆらと漂う」「長く尾をひくこと」といった意味である。山田風太郎の随筆を読んでいると「だろう」「だろうか」という言い回しが多いことに気づく。自分の意見を強く主張しない。
『あと千回の晩飯』の冒頭の一文も「いろいろな兆候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う」である。わたしも「だろう」や「おもう」をよくつかうので、こういう文章を読むと嬉しくなる。

 コロナ禍以降にかぎっても賛否のわかれる議論は枚挙に暇がない。ワクチンを打つか打たないか自粛するかしないか。常にきっぱりとした意見をもとにした行動する人もいるが、迷い、立往生しながら、どちらかを選択した人もけっこういたのではないか。
 ある立場の人が別の立場の意見を罵倒まじりに否定する。そうした言説を目にするたびに「そうとはかぎらない」とわたしも考えてしまう。賛成にも反対にもうまくのれない。もちろん素早い決断や選択が必要な局面もある。そういうときに「そうとはかぎらない」派は足手まといになる。迷っているうちに機会を失ってしまうこともよくある。

 それでもわたしはこんなふうに迷っています、悩んでいますという意見が知りたいし、半信半疑の人の意見を知りたい。そういう言葉を参考にしながら考え、答えを出すのが自分には合っているようにおもう。