2022/03/03

これだけの者

 三月。水曜日夕方神保町。小諸そばで天ぷらうどん、神田伯剌西爾。東京堂書店の週間ベストセラーの文庫、尾崎一雄著『新編 閑な老人』(中公文庫)が二位だった。

 先月、荻窪の古書ワルツの新書の棚で尾崎一雄著『末っ子物語』(講談社ロマン・ブックス、一九六四年)を見つける。新書版は持ってなかった。

 この作品でも尾崎一雄おなじみの壮大な自問自答が見られる。

《広大無辺な宇宙のどこかに、地球という微細な星屑が生れたのはいつのことなのか》

《一方、原初以来、いつまでとも知れぬ無限の時の流れの、現在というこの瞬間に、どうして俺は生きているのか。なに故、今生きるべく俺という生命は決められたのか——》

 たまたまこの時代のこの場所に生まれ、暮らし、いつの日かこの世を去る。そんな貴重な時間を生きているとおもいつつ、無為な時間を過ごすことも楽しい。人生とは何だろう。

 尾崎一雄といえば、インターネット上に次のような“名言”がよく出回っている。

《一切の気取りと、背のびと、山気を捨て、自分はこれだけの者、という気持でやろう》

 この言葉は「暢気眼鏡」や「虫のいろいろ」ではなく「なめくぢ横丁」(『芳兵衛物語』旺文社文庫などに収録)に出てくる。志賀直哉に憧れ、真似ばかりしていたが、自分流になりふりかまわず小説を書こうと決意したときの気持だ。

 尾崎一雄には「なめくぢ横丁」「もぐら横丁」「ぼうふら横丁」の“横丁三部作”がある。