橋本治の『たとえ世界が終わっても』(集英社新書)の刊行は五年前。
今回読み返して「まえがき」の「人は、若いと『未来』を考えます」という言葉が印象に残った。
自分のため、社会のため、あるいは家族のため——その比率は人によってちがうだろう。
わたしは「自分のため」ばかり考えて生きてきた。子どものころから社会に適応しづらい気質で、いつも周囲とズレていた。そのズレから生じる摩擦をどう避けるかということが、大きな関心事だった。大人になって以降も「社会のため」という発想が欠落していた。
わたしの親は「社会のため」「家族のため」の比率が高い。基本、自分のことは後まわしだったのではないか。
《二十世紀が終わる二〇〇〇年に、私は五二歳でしたが、「二十一世紀になると同時に出そう」と思って、一九〇〇年から二〇〇〇年までの百年を一年刻みで語っていく『二十世紀』(ちくま文庫)という本をまとめました。説明抜きで言ってしまえば、この『たとえ世界が終わっても』という本は、その『二十世紀』の完結篇みたいなものですが、なんであれ、四十一歳や五十二歳の私はまだ若くて、「これから自分の進むべき方向」を考えていたのです》
橋本治が四十一歳のときに書いたのは『'89』(マドラ出版)である。
『たとえ世界が終わっても』が刊行されたころ、イギリスのEU離脱、アメリカではドナルド・トランプが大統領になった。
その二つの衝撃にたいし、橋本治は「今までの世界のあり方はもうおかしくなっていたのかもしれない」と語る。
未来は若い人にまかせよう、世界のことはそれぞれの専門家にまかせよう——とわたしは考えがちである。中途半端な知識で余計なことをいうのはやめようと書いては消してをくりかえしている(わたしは書かないと考えられないのだ)。
かつてのソ連は「社会建設」に失敗した国である。人民は「社会のため」に生きることを強制されたが、ソ連は“赤い貴族”と呼ばれる人たち以外は貧しい国のままだった。
物資その他を運搬すると、途中でどこかへ消えてしまう。ソ連が崩壊し、ロシアになっても変わらない。
今回のウクライナ侵攻でロシア兵による“略奪”のニュースを見て「ひどい」とおもう(いうまでもないが“武力侵攻”もひどい)。いっぽう自分はロシアを「ひどい」とおもえるような恵まれた国に生まれ育ったことについても考えてしまう。
命がけの戦場から家電や農機具を持ち去ろうとする。バカげている。
世界には“略奪”を「バカげている」とおもう国とおもわない国がある。独裁体制の国がある。民主主義が根づいていない国はいくらでもある。
民主主義は、現状に不満をおぼえる国民が多数を占めると為政者が変わるシステムである。
貧しい国では教育や医療やインフラの不備があるのが当たり前で、どんなに優秀な為政者であっても、その不満を解消することはむずかしい。
「社会建設」の前に国民の不満を抑え込まないと為政者は自分たちの安全を確保できない。クーデターその他で独裁者を引きずり下ろしたとしても、一足飛びに民主主義の社会にはならない。
(……続く)